フォルカー・アクセル・フォン・ビューローは、遅い昼食をとるためにハイネセンの裏通りを歩いていた。
銀河の統一を成し遂げた偉大な皇帝の死去からちょうど一年という、夏の日のことだった。
過ぎた時間を振り返れば、この一年は息もつけぬというような忙しさであったと思う。
先帝の遺児であるアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが二代目皇帝として即位し、幼帝を支える摂政皇太后としてヒルデガルドが新たな地位に昇った。
王朝の誕生を支えた軍人たちは皆それぞれ高い地位に就いたが、中でも国務尚書という臣下の最高位をもって処遇されたのが、ビューローの上官のミッターマイヤーである。
ビューローが、新領土ハイネセンで軍事査閲監という責務に就いているのは、ミッターマイヤーから直々に請われたからというのが大きい。
銀河帝国の領土の一部となったとはいえ、長く「自由惑星同盟」と称して対立関係にあった土地である。
信頼できる自身の元幕僚であり、調整力に長けた部下に軍事方面の責任者を任せたいと言われては、まさか断るという選択肢はない。
重責であり、難しい任務だということは十分に理解している。
受諾というよりは殆ど覚悟のような思いで、ビューローはその任を受けた。
情勢は、未だ落ち着いたとは言い難い。
銀河帝国ゴールデンバウム王朝の崩壊と前後して帝国軍との本格交戦に至った結果、旧自由惑星同盟の首都星であるハイネセンは相次ぐ災難に見舞われた。
軍事的中枢である統合作戦本部の爆撃、主権の剥奪、相次ぐテロと暴動。
ロイエンタールの叛乱による帝国軍同士の争いに巻き込まれることは辛うじて避けられたものの、その後もルビンスキーによる大規模テロ事件や政治弾圧など、数年に渡って暴力と抑圧の渦中にあった。
そのような土地に、戦争はもう終わったのだからただ静かに日常を送れとは、期待するほうに無理がある。
デモや集会は日常茶飯事で、各所から上がってくるテロに関する情報は、真偽の怪しいものまで含めれば、無数といっていいほどあるのだ。
情報を整理して見極め、必要な人員を送って対処する、それを繰り返して毎日が慌ただしく過ぎていき、気が付けば赴任して半年になるというのに、普段の街の様子はまるで知らないという有様だった。
ビューローの勤務先である総督府は、ハイネセンの中心部にあるホテル・ユーフォニアに置かれている。
より相応しい場所に移転するという話は何度も出ているのだが、未だに計画がまとまる気配はない。
幸いなことに、元がホテルということで寝る場所と食べる場所には不自由がない。
食事に関しては、ホテルのレストランを改装した士官用の食堂で済ませることが多かった。
総督府の外で昼食をとろうなどと思ったのは、いつぶりかわからない。
あまりに街の様子を知らないのは如何なものかという思いもあり、いつの間にやら新領土に詳しくなったらしい部下に勧められた店にとりあえず向かうことにした。
レストラン等は昼の営業を終えている時間なのだが、部下が推奨するその店は、持ち帰り用のサンドウィッチを商っている。
味に加えて種類の豊富さで大層人気を得ており、昼時には行列ができていると聞いた。
もっとも、兵士連中の目当てはサンドウィッチだけでなく店員の女性らしい。
フェザーンやハイネセンのような都会でもなかなかいない美人が接客してくれるのだと熱心に語る部下の様子から察するに、どうも当の本人も店員目当てで通っているようだった。
「コゼット」という店の看板は、通りを一角行ったところで容易に見つけることができた。
見れば、背の高いビルとビルの間に肩身を狭くして入り込んでいるようなほんの小さな一軒である。
昼には遅すぎる時間とあって、店の外に並ぶ者はいない。
入り口の硝子戸を押して中に入ると、どうやら客は自分だけのようだった。
「いらっしゃいませ!」
明るく呼びかける声の主が、どうやら噂の女店員らしい。
なるほど、兵士たちが夢中になるのも頷けると率直に思った。
袖の短いシャツにエプロンをかけた様子は、カウンター越しにも溌剌としたスタイルの良さが窺い知れる。
本土にはいない開明的な雰囲気の女性にのめり込む帝国兵はこのところ多いと聞くが、その見本のようだと思う。
もっと華やかな職業についていてもおかしくないと思える美女だが、その仕草や表情はいかにも自然だ。
異国の兵士相手に物怖じもしなければ、もったいつけるような態度でもない。
「ご注文はお決まりですか」
「どうしようか。実は初めてでね……部下に勧められて来てみたんだが、どうやって注文したら良いのかな」
ああ、と合点したように頷いて、彼女はメニュー表を手に取った。
「具を挟むパンは、三種類の中からお選びください。一番人気はブラウンブレッド、全粒粉のパンでカリカリに焼くと美味しいですよ。具はお好みですが……肉に野菜にフライ、お好きなものはありますか」
手際よく寄越される説明が、耳に心地良い。
つい、お勧めは何か、組み合わせるならどれとどれが良いかとあれこれ聞きたくなる。
遅い昼食の幸運とでも言うべきかもしれない。
焼いたベーコンとアボカドのタルタルに、レタスを添えてもらうことにした。
店で人気のメニューで、タルタルがまだ残っているのは「ラッキーですよ」と彼女が言う。
そんな言い回しが気に入って、年若い女の顔をついまじまじと見た。
視線がぶつかった先で、明るい色をした女の瞳がぱっと見開かれた。
「あの、」
「いや、失礼。若い連中が君に夢中になるのも頷けると思ってね。君はとても親切だし、何より料理の説明が上手だよ」
砕けた口調を作って言うと、それが可笑しかったのか視線の中の女が笑った。
「ありがとうございます。お客様の前に立つのは好きだから、そう言っていただけて嬉しいです」
人好きのする笑顔で言いながら、包み紙の上に並べたパンに器用に具材を載せていく。
「飲み物はどうしますか」
「コーヒーをもらうよ」
「アイスコーヒーでよろしいですか」
「ああ、それでよろしく。故郷では冷たいコーヒーを飲む習慣はないんだが、この頃は毎日だよ」
焼けたパンの匂いが鼻孔をくすぐって、途端に腹が空いてくる。
良い店を知ることができたし、街の様子も眺められた。
この後も悪くない一日になりそうだと華やいだ気分になった、その時だった。
「あの、もしよろしければ……一つお伺いしても?」
美女からの質問を歓迎しない理由はない。
妻子持ちの身だからといって、会話を楽しむ権利まで返上する必要はないだろう。
「私にわかることであれば」と微笑んで答えた視線の先で、美しい睫毛を伏せて女が押し黙った。
気まずいことを聞かれるのか、もしも職務に係ることであればもっと良くない。
いくらか身構えたビューローであったが、彼女が寄越した問いかけは彼の想像とはまったく違う種類のものだった。
「以前によくいらしていた方で、お客様と似た制服の方がいたんです。年齢もきっと……同じくらいだと思います」
指先で心臓を摘ままれたような、鋭い痛みが胸に走る。
まさかと思った。
けれど、頭に浮かんだ一人の顔を否定できずにいる。
「ちょうどこのくらいの時間に……二年前の夏は、本当によくいらしていて」
心の内側が小さく波打ち、揺らめくようにして広がっていく。
「私と似た軍服。ならば、総督府勤めの軍人かもしれないな」
努めて平静を装うのだが、今や荒れ狂う波となった心の騒めきを鎮めることは難しい。
「そうだと思います。お客様が着ているものとよく似た制服で、お顔には髭を生やしてらっしゃいました」
想像は、殆ど確信に近いものに変わっている。
あの男もこの店に来たのだと、稲妻に打たれる衝撃のごとく突きつけられていた。
「君は、その男と親しかったのかな」
「いいえ。名前も聞けずじまいで……」
胸の内側で、感情という嵐が荒れ狂っている。
名づけようもないそれらは当てもなく彷徨い、風雨のように吹き付け、そして神経をざわめかせて暴れる。
この店に来たのだ、わが友が。
偏屈で、不器用で、その癖して情に厚い愚か者が、この場所に。
「だけど、その……でも、私……」
突き動かされるままに慟哭し、男の名を叫びたかった。
今すぐ戻って来いと、声に出して呼びたかった。
「ああ。もしかしたら、私の古い僚友かもしれないな。その男はいかにも堅物の髭面ではなかったかい」
心の叫びを押し殺して確かめれば、確かに二年前にこの場所に来たのだと、友の足跡を知ることができた。
パストラミビーフのサンドウィッチが気に入りで、夏の間決まって冷たいコーヒーを頼んだと、長い睫毛を伏せた美女が教えてくれた。
「その方が今どうしているのか、ご友人ならご存じですか」
「……そうだな」
どう答えるべきか迷い、彼女の瞳の中にある感情に相応しいと思う一つを選び出した。
「彼は軍を辞めたんだ。もう随分前になる。それから故郷に帰ってね、銀河のずっと先で暮らしていると聞いているよ」
「えっ……」
美しい口唇から零れ落ちた旋律は、悲しみを奏でていた。
「そう、なのですね……私、全然知らなくて……」
面白味らしい部分は少しもない男だが、慕われていたというのだろうか。
気難しげな顔をして余計な荷物をいくつも背負い込んで、それを下す方法など考えもしない、そういう男だった。
「それじゃあ、今はご家族と……?」
結婚しているのかと、言外に聞いているのだとわかった。
わかっていたからこそ、「そうだ」とビューローは答えた。
もう戻ることのない相手を、この清らかな女性が待つことをせずに済むようにと。
氷の解けてしまったコーヒーは、大丈夫というのに彼女が作り直してくれた。
アボカド以外にもお勧めがあるからと熱心に話す口唇は瑞々しさが消えて、青ざめてすら見えた。
「またいらしてくださいね」
見送る声に頷いてから店を出て、空を見上げる。
青磁の空に白い雲がたなびいて、今はもう見慣れたはずのハイネセンの夏空を曖昧に輝かせていた。
しばらく経った後でもう一度店を訪れた時、彼女はもう店先に立ってはいなかった。
カウンターにいるのは店のオーナーだという壮年の男で、「看板娘は目下募集中です」と入り口に貼られた紙を指差して言った。
「街でポスターを見ませんでしたか。彼女、元は劇場の役者でね。先週から始まった演目じゃあ、主役を演じていますよ」
聞けば、彼女はミュージカルなる歌劇を演じる劇団の役者で、戦線の拡大で職場の劇場が閉鎖されたことでこの店でアルバイトを始めたのだという。
「劇場は半年前から元に戻ったんですがね、もう少し働きたいって言うもんで、ありがたく居てもらったんですよ。コゼットなんて店の名前で男が接客じゃあ、お客さんも残念がるでしょう」
彼女が辞めて客が減ったとぼやくように言いながら、そのくせ男の顔は嬉しそうに笑っている。
ハイネセンの街に日常が戻りつつあることを、喜んでいるのかもしれなかった。
「お客さんも、アンが目当てですかい」
「いや、私の目当てはこれだよ。パストラミビーフにレタスとマヨネーズ、パンはブラウンブレッドで頼む」
「ああ、美味しいですよね。それにアンの一推しのサンドウィッチだ」
美女が目当ての客だと混ぜ返されているのだとわかったが、腹を立てる気にはなれなかった。
生憎と、自分の目当ては看板娘の笑顔ではなく髭の友の思い出なのだが、堅物の僚友の代わりにからかわれてやるのも悪くはないだろう。
「アイスコーヒーも頼むよ」
「まだ暑いですからね。お任せください、最高の一杯を淹れますよ」
店を出た先で、ふと土のような匂いが鼻をくすぐった。
土など探すほうが難しいというような大都会なのだが、そんな気がしたのだ。
雨が降るのかもしれないと感じている。
秋をすぐそこに控えた空はいかにも移り気で、思いがけない時に雨に降られるようなことがままあるのだ。
総督府に帰り着くまではもってくれよと願いながら、白くカーテンを引いた空を見る。
「惚れ込む相手を間違えたんじゃあないか。なあ……ベルゲングリューン」
ずっと胸の奥に押し込めていた名前を呼んだ。
自分にとって、無二の友と呼べる相手だった。
「あんな美人を口説き損ねるなんて、惜しいことをしたじゃあないか」と酒でも飲んで、友と笑い合いたい。
今は叶わぬ願いではあるが、いつかきっとそうしようと思うのだ。
人気の演目だという話だが、新領土の暮らしが長い民政長官に頼めば一枚くらいはチケットも手に入るだろう。
彼女の歌う声がどんなに素晴らしいか、友の代わりに聴いてやらねばと思うのだ。
そうすれば、思い出話の肴にもなるだろう。
悔しい素振りを見せぬようにと意地を張るであろう僚友の顔を思い浮かべて、ビューローはそっと口唇を緩めた。