「うん。良い写真がいっぱい撮れたぁー」
自分の撮影した怪物の画像データを眺めながら、レイナは悦に浸った声を漏らす。口から涎が零れそうになり、画面が汚れぬよう素早く拭う。
十五分間の観察で撮影した画像データは約五十枚。基本的には球体が高速回転しているだけの、ワンパターンな画像ばかり。見た目の上では、どの画像も大差ない。
しかしレイナからすれば異なる。回転の向き、動き、木の飛ばし方、そこから予測される力強さ……全てが好奇心を刺激した。出来る事ならこの回転する身体に跳び付き、弾き飛ばされてその破壊力の強さを探りたいところだ。無論それをすると更なる秘密と触れ合えないので脳内シミュレーションを行う。無数の自身が粉微塵に吹き飛ばされたが、それはレイナに恐怖ではなくワクワクを与える。
「うへ、うへへへへ……」
「「うわぁ……」」
結果笑い声が漏れ続けていると、それを見ていた道子と平治が軽蔑した声を上げる。声に気付いてレイナが振り向けば、二人は随分とレイナから距離を開けていた。
丘から降りるほど離れてはいないので『逃亡』の心配は必要ないが、だからといって距離を取られて嬉しくもならない。レイナはむすりと唇を尖らせる。
「ちょっとー、なんでそんな退いてるんですか」
「いや、だって、あんな化け物の写真見ながら笑っていたら……」
「誰だって退く。というか、あんた楽しんでないか?」
「勿論楽しんでいます!」
「即答っ!? 人類文明の危機はどうした!?」
「そっちはお仕事です! 怪物研究もお仕事ですけど私の心を満たすものです!」
「開き直った……」
「マッドサイエンティストじゃないですかぁ……」
散々な言われように、レイナはますます唇を尖らせる。一応彼等とは上司と部下の関係だが、レイナ的にはまだまだ自分も新人のつもりなので、敬意が足りない事についてはどうでも良い。しかし相手がどれだけ驚異的な存在だろうと好きなものは好きなのだ。それを否定される事は容認し難く、不機嫌にもなるというものである。
とはいえ楽しんでばかりいられないのも事実。平治が話したように、人類文明の危機には変わりない。悦に浸るのはそろそろ我慢し、真面目に研究せねばならない。
深いため息と共に鬱屈した感情を吐き出し、気持ちを一新。平治と道子に集めてもらったデータを並べ、レイナはしばし考え込む事にした。
まず、大気の情報。
平治から検査キットをもらい、片手に収まるサイズの機械にセットする。これは収集した容器をセットすると中の空気を解析し、詳細な情報を表示してくれるもの。精度や検出出来る物質に限度はあるが、野外でも簡単に使え、何よりすぐに結果が表示される。信じ過ぎるのは良くないが、素早く情報を得たい時には便利だ。
平治には五カ所から三度大気を収集してもらっており、それぞれの空気を解析。出てきた結果によれば、大気成分に大きな異常は見られない。大気中の細菌やウイルスの大まかな数を示すタンパク質値も一般的な水準だ。怪物が伝染病や毒ガスをばらまいている可能性と、なんらかの化学物質や細菌類に引き寄せられて現れたという可能性が低くなる。
次に道子が調べた、怪物の速度。
十五分間の観測により、平均移動速度は時速四十キロ程度と分かった。また怪物とレイナ達の距離も、現時点で凡そ十五キロほど離れていると判明する。進路は真っ直ぐレイナ達の方。そろそろ場所を移した方が良いだろう。
この四十キロという速度は、さて、どう判断すべきか。怪物の移動速度としては、非常に遅いような気がする。体調が悪くてゆっくりにしか動けないのか、はたまた本気を出していないのか。『異形の怪物』の身体能力がどの程度か分からない現状、こうだと明言するのは難しい。
まだまだ調査が足りない。
それを実感するも、しかしどうしたものかとレイナは悩む。変化があるまで遠距離から観察し続けるというのも、時間があるなら良い手だろう。されどそうもいかない。
「(確か、此処から町までの距離って二十キロぐらいしかないのよね……)」
此処がごくごく一般的な人工林であり、人里から左程離れていないという事だ。
仮に直線距離でこの森から町まで二十キロあるとしても、時速四十キロという速さならば三十分で到達する。うろちょろしてくれるなら数時間掛かるかもだが、今のところ怪物の動きは直線的。寄り道はあまり期待出来ない。
深夜なら兎も角、朝から昼に掛けてこの巨大生物が町の近くまでやってきたら、たくさんの人に目撃されるだろう。怪物の存在は白日の下に晒され、人類社会はパニックに陥る。いや、そもそもこんな巨大生物が町に侵入すれば、大勢の犠牲者が出かねない。時速四十キロというのは車やバイクなら簡単に逃げきれそうな速さだが、怪物は家も曲がり角も全部踏み潰して直進出来るのだ。地形次第では果たして逃げきれるかどうか……
素早く情報を集めるためには、やはり接近したい。しかし動きがあまりにも激し過ぎるため危険、というより無謀だ。どうしたものか……
妙案が浮かばず、行き詰まってしまうレイナ。
「……あれ?」
そんな時、ふと道子が声を漏らした。
「どうしたんだい?」
「え。あ、いえ……その、怪物の動きが、変わったような……」
「変わった?」
平治に尋ねられた道子は、指を指しながらそう答える。
レイナも一度考えを頭の隅に寄せ、怪物の方を見た。怪物は未だごろごろ転がり、こちらに接近しているようだが……確かに、違和感を覚える。
レイナには上手く言葉に出来ない。無理矢理にでも言語化するなら、『派手さ』が最初に見た時よりも足りないような……
「……なんだか、木の飛び方が最初に見た時よりも大人しくなってないか?」
平治も同じく違和感を覚えたようで、彼はそれを言葉に出してくれた。
瞬間、レイナは大きく目を見開く。
木の飛び方が大人しくなった――――平治の意見は正しい。確かに怪物により吹き飛ばされている木々の舞い上がる高さが、最初に見た時よりもかなり低くなっている。
木の舞い上がる高さが低いとはどういう事か? 難しく考える必要はない。単純に、吹き飛ばす力が弱まっているというだけだ。では、何故吹き飛ばす力が弱まったのか?
そして段々とその速度が落ちているのなら……もしかすると、もうすぐ止まるかも知れない。
動きが止まれば、高速回転を続けている時より遥かに安全な筈だ。上手くいけば体表面のサンプルが得られるかも知れないし、そこまでは無理でも音や細かな動きぐらいは観測出来る。もしかすると遠目では見えなかった、様々な『秘密』を観察出来るかも知れない。
千載一遇のチャンスだ。何故動きが鈍ったのか分からない以上、数時間以内に二度目があるとは限らないし、そもそも何分間止まるか予想も付かない。止まる保証もないが、そこは賭けに出るしかなく――――この賭けに勝たねば二度とチャンスは訪れないという確信を抱く。
レイナが動き出すのに、さして時間は掛からなかった。
「? え、博士? どうしたのですか?」
「怪物に接近します」
「はぁ……せ、接近!?」
荷物を纏め始めたレイナを不思議に思ったのか。尋ねてきた道子に、レイナは何一つ隠さずに答える。
驚きの声を上げた道子は、顔を青くしながら震えた。お前も一緒に来いと言われるのではないかと、不安がっているのがレイナにも一目で分かる。しかしその不安は無用なものだ。レイナは道子を連れていこうとは元より考えていない。
「大丈夫です。私一人で近付きます。お二人はここで怪物の動きを監視し、何か変化があったら教えてください」
お願いするのは怪物の監視と報告のみ。
危険な賭けなのだ。行くのは自分一人で十分だろう。
「……ぼくも行くよ!」
勿論、向こうから手伝いを買って出てくれるのなら、それは願ったり叶ったりではあるが。
平治の提案に驚き、レイナは一呼吸置いてからその発言を改めて確認する。
「……危険ですよ?」
「流石に分かってるよ。でもまぁ、なんだ。あんたを一人にしたら呆気なく死にそうだからね。目覚めが悪くなるのは勘弁だ」
「……助かります」
「あ、あの、私は……」
「木村さんは先程お願いした通り、監視をお願いします。森の中からでは怪物の動きは見えませんから。私達の目になってください」
おどおどする道子に、改めてレイナは指示を出す。安全な仕事であるが、道子の役割は決して軽くない。むしろ道子のように怪物を常に監視している者が居なければ、おちおち命など賭けられないというものだ。
この場に残る者にも大切な役割がある。レイナの気持ちは届いたようで、道子はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「お願いします。通信機を渡しておきますね。どんな些細な事でも良いので、変化があったら教えてください」
「はい。その、お気を付けて」
「可能な限り善処します」
道子に別れの挨拶を伝え、レイナは丘を下る。
平治も後に続き、二人は揃って森へと入るのだった。
……………
………
…
【か、怪物の動きが止まりました! どうぞ……】
「はい、こちらでも完全静止を確認しました。このまま監視を続けてください。どうぞ」
【りょ、了解しました】
通信機越しに道子とやり取りをし、一通り話し終えたレイナは耳許から通信機を退かす。
次いで、目の前の『怪物』をじっと見つめた。
間近で見れば、その圧倒的な巨大さがよく分かる。遠目での目測通り、五十メートルほどはあるだろう。レイナはこれまで様々な怪物と遭遇しており、五十メートルというサイズは決して巨大な部類ではない。しかし人類と比べれば圧倒的なサイズで、途轍もないプレッシャーをレイナに与えてくる。
そんな威圧感を和らげるのが、怪物の表面を覆い尽くすもの。
体毛だ。回転中はその動き故に気付かなかったが、真っ白な体色は、全身くまなく生えている白い毛によるものだったらしい。風が吹くと草原のように靡くところからして、かなり滑らかな質感のようだ。朝日を浴びるとキラキラ輝き、朝露のような雅な煌めきに包まれる。
これが――――『異形の怪物』の真の姿か。
至近距離で未知の怪物を前にしたレイナは、勿論とてつもなくワクワクしていた。『星屑の怪物』や『天空の怪物』とは接触こそしたが、あれらは先輩達から安全性についてお墨付きをもらった上で触れ合っている。此度そのような許可はなく、それどころか恐らく世界で始めてこの種にここまで近付いたのだ。これがどうして興奮せずにいられよう。
「こ、こんなのが転がってたんだ……い、いきなり動いたり、しないよな……?」
いや、怖がるというのが一般的な反応か。
啖呵は切ったものの、いざ怪物を前にすると恐怖が込み上がってきたのか。腰が引けている平治に、レイナは淡々と答える。
「どうでしょう。動き出す兆候があれば良いのですが、もしかしたらないかも知れません」
「ちょ……」
「まぁ、ここまで来た以上怖がっても仕方ありません。精々僅かな兆しも見逃さないよう、警戒は怠らずにいましょう」
それはそれとして、と頭の中で前置きしながら、レイナはふと思う。
そもそも、『異形の怪物』はどのように前進しているのだろうか?
遠目からの観察では、この怪物はごろごろと前に転がりながら移動しているように見えた。が、これを前転移動だと考えるのは早計かも知れない。例えばモロッコの砂漠に生息するクモの一種、通称フリックフラックスパイダーは、天敵から逃げる際にバク転を行う。このバク転はかなりのスピードがあり、砂漠のように足場が不安定な環境では普通に走るよりも速い。
この怪物も、前転に見せかけてバク転していた、という可能性もある。或いは回転しているように見えただけで、本当は毛の動きだけで移動していたのかも知れない。人間の目というのは、存外当てにならないものなのだ。
……前転バク転を考える以前に、何処に頭があるのかすら分からないが。
レイナと平治は一応『異形の怪物』が進んでいた向きとは直角の位置に立っているのだが、頭の向きや移動方法が分からぬ現状、不意にこれまでとは全く違う方角進んでもおかしくない。もしもレイナ達の方に来たら、逃げる間もなくお陀仏だ。
ましてやその身体に接近し、
「うん。ま、仕方ない」
分かった上で、レイナは自分の命を惜しまなかった。
「……何が仕方ないって? え、なんで怪物に近付こうとしてるんだ?」
「ちょっとあの毛を毟ろうかと思いまして。毛が手に入れば、色々分かるかもですし」
「何さらっととんでもない事言ってんのコイツ!?」
部下からのコイツ呼ばわりもなんのその。その程度の礼節を気にするのなら、己が生命の危機を無視出来る訳がないのだ。
お構いなしに突撃しようとするレイナ。平治はがっしりと組み付きそれを阻もうとする。やはり男性の力というのは強いもので身動きを封じられてしまうが、しかしそれでもレイナは止まらない。怪物の毛を取ると決めた以上、そこは断じて譲れないのだ。
「ま、待ちなって! 毛が取りたいなら、ほら、転がってきた場所を調べれば良いじゃないか! 多分何本か抜けてるって!」
「あ。それもそうですね。うっかり失念していました」
逆に言えばそれ以外はあまり執着していないので、より良い提案があればあっさり行動方針を変えるのだが。不意にレイナがぴたりと止まるものだから、平治は勢い余ってつんのめり、レイナもろとも倒れそうになる。平治は苦笑いを浮かべながら、レイナを解放した。
申し訳ないと思いつつ、やはり第三者が居てくれるのはありがたいとレイナは感じる。大好きなものを前にした時、人間の理性というのは当てにならないのだ。
ともあれ、そうして平治の提案に従ってレイナは『異形の怪物』が通った場所……木々が薙ぎ倒されている領域へと向かう。平治もついてきて、一緒にその場へ足を踏み入れた。木々は粗方踏み潰され、空には青空が広がっている。風通しも良く清々しい気持ちにさせてくれた……真っ白な巨大球体の全体像がハッキリと見えなければ。
怪物が気紛れにバックでもすれば、その瞬間にあの世行き。
しかしスリルを味わうよりも、毛の一本見付ける方がレイナには大事。倒れた無数の杉の木を踏み付けながら、後方の怪物など目もくれずに足下を探して回る。対する平治は足下より怪物の方をちらちらと気にしていて、調査はあまり行えていない様子だ。
「……ん? これ、アイツの毛じゃないか?」
尤も、そういう人に限って見付けてしまうのもよくある事で。
「え? どれですか!?」
「これだよ。ほら」
レイナが思わず尋ねると、平治は見付けたものを足下の木から拾い上げてくれた。本来それは稀少なサンプルであり、素手で触るのはNGなのだが、細かな事は気にしないレイナ。これは観察・実験用にしようと柔軟に思考を切り替え、平治から一本の毛を受け取る。
それは真っ白で、かなり太い毛だった。
長さはざっと二十センチほど。太さは正確には計りかねるが、指で摘まめば強い手応えを感じる程度にはある。手触りは滑らかで、触り心地はかなり良い。人間の指の力でも簡単に曲がるが、柔軟性に優れているため折れる事はなく、千切ろうとしてもビクともしなかった。
このような毛の持ち主について、レイナにはパッと思い付く種はいない。
しかしだからこれは怪物の毛だと確定するのは、些か早計だろう。逃げ遅れた哀れな犠牲者のものかも知れないし、何処からか風で飛んできたものかも知れない。確信を得るには追加でもう何本か、可能なら数十本ほどをこの踏み荒らされた木々の上から発見したいところだ。
まだまだ調査が必要である。平治にそれを伝えようとした
【ピキィイオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】
瞬間、甲高い雄叫びが森に響く。
レイナと平治は同じ方へと振り向いた。そこから声が聞こえてきたのだから。そして二人は声の主を見る。
もぞもぞと全身の『毛』を波立たせ始めた、怪物の姿を――――