「今、何と仰りました?」
とても静かな総合部の会談室。
そこに沙羅提督の低い声が地を這うように通る。
「私の旦那様に近付くな、と言ったの。貴女耳が悪いの?」
対してにこやかな声の主、愛菜は聖女のような笑みを絶やさず沙羅提督へ返した。
今この場にはこの二人しかいない。
何故なら愛菜が沙羅提督を総合部副部長の権限で呼び出したから。
それも秘書艦の同行はいらないと通告してだ。通常ならば提督らは誰しも秘書艦を護衛という役目もあって連れて行く必要があるのだが、上官である者にそう言われれば沙羅提督は従う他ない。
立ったままで真っ向から睨み合う両者。方や険しく目を細め、方や微笑む。何とも言えない異質な雰囲気だ。
「耳は良い方です。しかし、聞き捨てならないことを仰られた気がしましたのでその確認を、と」
「あら、そういうこと。まあ、そうよね。好意を抱いている殿方にもう愛する妻がいるだなんて一度言われただけでは理解出来ないわよね?」
「…………」
「貴女が浅ましくも恋慕を抱く相手、鬼月仁隊長は、私の旦那様なの。だからこれ以上あの人に近寄らないで。正直に言って目障りなのよ、貴女」
沙羅提督は愛菜から開口一番に言われたことを、また言われた。
それが何度も何度も頭の中で復唱されるが、心が違うと否定する。
そもそも、だ。あの人に妻なんていない。それは誰もが知っていること。ならば何故この女はそんなことを言っているのか、沙羅提督は困惑した。
旦那様だと言いながら、彼女の苗字は『鬼月』ではない。仮に自分でも知り得ない事情がこの女と彼の間にあったとしても、彼の行動や彼とのやり取りに一切この女の影は見えない上に、他の女の影すら見えないのだ。
だと言うのに、この女の目は真実を語る者の目をしている。
「顔色が悪いけど、気分でも悪い? でもね、旦那様に害虫がベッタリと張り付いてるのを目撃した私の方が、貴女の数億倍気分が悪いのよ。分かる?」
愛菜は沙羅提督と一定の距離を保ちながら、穏やかな口調で捲し立てた。そうするのも相手の目が死んでいないからである。
しかし言葉とは便利な物で、直接手を下さなくても相手を追い詰めることが出来るのだ。
攻撃は最大の防御。向こうが反撃する勢いまで奪える。
「分かったなら金輪際旦那様に近寄らないでね。旦那様にとって貴女は他人。私は妻。ほら、場違いなのは誰? 誰がどう見ても、どう聞いても、貴女よね? 貴女は人の旦那を掠め取ろうとしてる害虫。私はそんな害虫を駆除しようとする妻。ここまで言われれば流石の貴女でも理解出来たでしょう? 優秀なお姫様」
俯き、わなわなと震える沙羅提督。
対して愛菜は嬉々として言葉を並べる。
自分の最愛の相手に纏わり付く不快な害虫にとどめを刺すはいつだって気持ちが良いものだから。
しかし―――
「聖女とまで呼ばれる副部長様は、とてもお寂しい方なのですね」
―――害虫から言われた言葉に愛菜の笑顔はガラガラと音立てて崩れさる。
おかしい。これまでの相手はこれまでの言葉で泣き崩れたり、絶望感に打ちひしがれてきた。
なのにどういうことだ。害虫は忌々しくも未だに己が脚で直立し、憎々しくも哀れんだ目をこちらに向けてくる。
愛菜の頭の中で憎しみからの言葉が列挙する中、沙羅提督は雫が優しく落ちるかの如く言葉を紡いでいった。
「私、貴女様を尊敬していましたの。同じ女性でありながら男社会の軍の中で凛々しく振る舞う貴女様を……」
「でも、そんな気持ちも無くなりましたわ。貴女様はお寂しい方。何が原因で貴女様がそのような方になってしまったのかは存じ上げません」
「ですので同じ土俵に立つ気はありませんわ。そして貴女様のお言葉に従う必要もありませんわね。私が愛する仁様に貴女様という伴侶がいるという事実が有りませんから」
沙羅提督の言葉を無機質な目をした無表情で聞いていた愛菜。凛と澄まし、相手を見据える沙羅提督。
すると突然、愛菜は口元を手で押さえて優雅に笑い出した。
―――――――――
「…………これはどういうことだ?」
その頃、総合部の正門前では鬼月提督が総合部員たちに取り囲まれていた。
鬼月提督はこの日、総合部の方から一人で来るように言われて馳せ参じた訳だが、到着した途端に待ち構えていた彼らに囲まれて困惑の表情を浮かべている。
彼らは簡単に言ってしまうと愛菜に唆された者たち。
愛菜の話だけを真実とすれば『豊島提督は鬼月提督に弱みを握られて嬲られている』のだ。
そんな可哀想な彼女を愛菜が呼び出して今は面談中であり、同じく呼び出した鬼月提督はその面談が終わり次第その罪を問われる。
だから彼らは罪人を取り囲んで逃げ出さないようにした。まだ罪が確定していないためその身柄は拘束出来ないが、もしも相手が逃げようとすれば捕縛することが可能になる。武器を用いてでも。
「自分の胸に手を当てて考えるんだな」
「どうせ艦娘の子たちにも同じようなことしてたんでしょ!」
男と女の部員がそう口にすれば、周りも「そうだ!」「この人でなし!」と声をあげた。
鬼月提督は何のことを問い詰められているか分からなかった。
それもそのはずで、本当に鬼月提督本人は何もしていないのだから彼の反応は真っ当である。
でも取り囲んでいる者たちの目は、今にも自分に飛び掛かろうとしているように殺気立っているのだ。
鬼月提督は訳が分からず、謂われ無いことを責められながらその場に立ち尽くすしかなかった。
―――――――――
愛菜が笑い出した。
沙羅提督はそれを見て相手がおかしくなったのかと思ったが―――
「寂しいのは貴女よ。本当に寂しいのは、ね」
―――不意に無機質な黒い眼差しが喉元に迫る。
まるで鋭利な刃物が突き付けられたかのように、沙羅提督の手足の先はサッと血の気が引いた。
明らかに怯みを見せる害虫に愛菜は可笑しくて可笑しくて、またつい笑みが零れそうになったがもっといいことがあるからと我慢する。
それは―――
「だって旦那様は、害虫じゃなくて、私を選ぶから」
―――害虫が絶望色に染まる時が待っているから。
「……どういう意味ですの?」
「言葉の通りよ。私の旦那様だもの。害虫なんか選ぶはずないでしょう?」
「いい加減嫌になってきましたわね。害虫呼ばわりされるのは」
「あら、害虫を害虫と言ってどうして気に障るの?」
「……話してしても埒が明きませんわね」
話が全く通じない愛菜を前に思わずため息が零れる沙羅提督。
そしてふと視線を窓の外にやれば、最愛の相手が何故か取り囲まれている光景が目に入ったことで目を見開いた。
その顔を見た瞬間、愛菜は『ああ、可笑しい』と今日一番の聖女の笑みが浮かぶ。
「あれはどういうことですのっ!?」
「私の旦那様だもの。皆さん、他の害虫が付かないようにガードしてくれているの」
「そんなのあの状況から見て有り得ませんわ!」
「そう。まあいいわ。話はこれで終わり。貴女は二度と私の旦那様に近寄らないでね」
愛菜はそう言うが、沙羅提督は何も言わずに鬼月提督の元へと急いだ。
それを見送り、愛菜も優雅に旦那の元へと向かうのだった。
―――――――――
「これはどういうことですのっ!?」
鬼月提督の元へとやってきた沙羅提督。
声を荒げる彼女を周りはまるで鬼から庇うようにしながら「大丈夫」「もう怖くないよ」と言うが、当の本人は掛けられる言葉の意味が分からない。
しかしここで喚けば余計に混乱するのは明らか。なので沙羅提督はゆっくりと深呼吸をした後、改めて口を開く。
「皆さん、お待ちください。何がどうなっているんですか?」
それでも周りの総合部員たちの言葉は変わらない。
聞いているだけで、考えるだけで、沙羅提督は目が回りそうになった。
「どうしたもこうしたも、私がお呼びしたのよ。ね、隊長?」
そこへ遅れて愛菜が優雅にやってくる。
鬼月提督も沙羅提督も状況がよく分からないでいる中、愛菜は鬼月提督のすぐ目の前まで歩を進めた。
「隊長、とりあえず私と共に来てください。ここではあまり話せないことですので」
「……分かった」
愛菜の言葉に従う鬼月提督を、周りは嘲笑う。
もう終わりだ、と。
しかし―――
「仁様っ!」
―――沙羅提督だけは違う。
周りの総合部員たちを押し退け、鬼月提督の元へと掛け、その腕にしっかりと抱きついた。
そう。大抵の人間ならば、この場面で動けない。でも沙羅提督は違うのだ。
これが愛菜が唯一見誤ったことである。
そして一つのミスは取り返しが付かないように、これまで愛菜が築いてきた緻密な網に大穴を開けた。
「沙羅、提督……」
「仁様はこの人に付いて行かなくていいのです!」
沙羅提督の叫びに鬼月提督は勿論、その場にいる全員が驚愕する。
鬼月提督は本当に意味が分からない、と目を見開くが、総合部員たちに至っては「どういうことだ?」「洗脳?」などとざわつき始めた。
愛菜に至っては未だ何とか聖女の笑みを張り付けている。
しかし―――
「全くもって、豊島提督の言う通りだ」
―――颯爽と門を潜ってきた藤堂の言葉に、愛菜の笑みは再びガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
何故なら藤堂は今日、大本営の会議に出席のため総合部を留守にしているはずだからだ。
「…………藤堂部長、どうしたんですか? というより、会議はどうしました?」
声が震えそうになるのを何とか堪えて言葉を発する愛菜。
対して藤堂は鬼月提督たちを愛菜から庇うように背に隠し―――
「会議なんて今日は無いよ。君を欺くために大本営の方にもひと芝居してもらったんだ。部長をしているとあちらにもコネは出来るからね」
―――ニヤリと口端を上げて返した。
すると愛菜は自身の頭を掻き毟り始める。
違う違う違う違う。予定と違う。こんなの違う。
運命なのに。私たちは運命で結ばれているのに。
ブツブツと零しながら、あれだけ綺麗だと言われた髪はあられもなく乱れ、宝石のようだと言われた目は血走っていた。
「間島、どうした!?」
鬼月提督は彼女の異変に駆け寄ろうとしたが、藤堂と沙羅提督がそれをさせない。
どういうことだ、と鬼月提督が藤堂を睨めば、藤堂は静かに……それでも声はちゃんと周りの者たちにも届くように言った。
「仁、残念だけど、君の悪評を流していたのは彼女なんだよ。理由は彼女が君に惚れていて、何者でも君の側に近付かせないようにするためだ」
「な、んだと……!?」
驚愕する鬼月提督。当然、沙羅提督も周りにいる総合部員たちもあまりのことに言葉が出ない。
それでも藤堂は元部隊の先輩として、総合部の部長として淡々と言葉にしていく。
「最初は些細なことを部員たちに触れ回る。すると悲しいかな、あれよあれよと尾ひれが付いて酷い悪評になっていく。これは仁の能力に嫉妬している者たちのせいもあるんだけどね。ただ、言葉だけで確たる証拠は残らない」
「でも明らかな工作活動の証拠はいくつも出てきた。着任当初の仁のいる鎮守府へ艦娘を着任させない工作の跡や仁の鎮守府を監視していた痕跡。今頃は
「今回の一件は彼女の仁に対するストーカー行為ということで反逆罪に問われないから軍法会議にはならない。でも罪は罪だ。間島にはちゃんとその罪を償ってもらう」
藤堂はまだ続けるが、当の愛菜の耳から藤堂の声は遠ざかっていく。
目は光を失い、縋るように愛する人へ視線を移すが、合った愛する人の目はとても悲しい色を見せていた。
そうさせたのは自分。痛い程分かったが、心がそうじゃないと叫んだ。
次の瞬間、愛菜は地を蹴り、地に両手をつき、靴の前底に仕込んだナイフを沙羅提督の首元目掛けて素早く振り下ろす。
「ひっ!?」
「止めるんだ!」
藤堂が叫ぶが既に愛菜はモーションに入っていて止めることは不可能。
しかし―――
「動くな、間島……」
―――鬼月提督が愛菜よりも素早く沙羅提督の前に出てその攻撃を阻止していた。
マルーンの眼帯がはらりと地に落ちる。
過去の傷で失った右眼は開いていないが、その傷痕すらも自分を睨んでいるようで、愛菜はやっと観念した。
―――――――――
それから愛菜はやってきた警察官らに連行され、藤堂は部員たちへの説明を近藤に任せて今度こそ大本営へ報告へ向かった。
鬼月提督と沙羅提督は警察に同行し、鬼月の場合はストーカー被害者ということで事の経緯を詳しく説明され、沙羅の場合はまた違う被害者ということで事情聴取されたのであった。
二人が警察署から出てくると、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
「……沙羅提督。俺のせいで危ない目に遭わせてしまいすまなかった」
「いえ、そんなこと……仁様のお陰で私は何ともありませんでしたから」
バス停までの道程をゆっくりと肩を並べて歩きながら、二人はポツポツと会話する。何とも言えない雰囲気ではあるが、それを沙羅提督の腹の虫がぶち壊した。
くぅ、とハッキリ聞こえてきた場違いな音に鬼月提督は不意を突かれキョトン顔。対して沙羅提督は耳まで真っ赤になってしまう。
「あぁ……良かったらお互い、自分の鎮守府に戻る前に、飯でもどうだ?」
「い、いいですわね……では、私がよく行くレストランが近くにありますから、そこでいいですか? 予約無しでも席があればすぐに通されますので」
「ああ、いいとも」
こうして二人はまた歩き出した。
しかし二人は小さくではあるが、共に笑っている。
お互い、自分の鎮守府には既に遅くなると連絡を入れてあるので緊急事態でもない限りは問題無い。
「沙羅提督」
「はい?」
「あの時、俺が孤立している時、庇ってくれてありがとう。とても嬉しかった」
「仁様……」
ふと言われた感謝に沙羅提督は今度はその頬を桜色に染める。
すると二人の雰囲気は今度は全く別のものへと変わった。
「私の方こそ、守って頂きありがとうございました。その眼帯の方は私がお礼とお詫びを込めてプレゼントします」
「それは……いや、ありがたく頂くよ。楽しみにしている」
「はいっ」
沙羅提督は明るく返事をすると、勢いのまま鬼月提督の左腕に抱きつく。
「沙羅提督……」
「もう離れたくありませんわ、仁様」
「……いや―――」
思わず拒否の言葉を言い掛けた鬼月提督。しかし沙羅提督と目が合ったことでその言葉を飲み込んだ。
自分の望みと彼女の望み……それは一緒なのだから拒否するのはおかしい、と。
「―――俺も、離れてほしくない」
「…………ほんとう、ですか?」
鬼月提督の言葉に沙羅提督は思わず呆けたように返してしまう。
しかししっかりと鬼月提督が頷くのを見て、今度は目の前が霞んでしまった。
「……また俺は泣かせてしまったみたいだな」
「泣いているんですの、私? こんなに嬉しいのに?」
「泣いている。泣かせた俺が言うのもなんだが、とても幸せそうに微笑んでいるのに、泣いている」
「夢みたいですもの……っ」
「夢で終わらせる程、俺は気障な男じゃない。きっと夢じゃなかったと後悔させる」
「ふふふっ、後悔なんてしませんし、そんな後悔ならしていいですわ。もしも夢だったらそれこそ喉が枯れるまで泣きます」
「……いいんだな、俺で?」
「今私とても気分がいいですから、今ここで嬉しさのまま叫んでもいいですわ」
「止めてくれ、恥ずかしい」
優しく手を振り解き、肩を抱き寄せた鬼月提督の行動に沙羅提督はうっとりしながら彼の腰に手を回す。
「しませんわ……今は私たちだけの世界を私自らぶち壊すなんて真似は」
「そうしてくれ。沙羅提督……じゃない、沙羅」
「はい、仁様」
「……君が好きだ」
「私も仁様が大好きですわっ」
こうして二人は夜の街中に肩寄せ合ったまま消えていくのだった―――。
読んで頂き本当にありがとうございました!