第一話 天海志騎
朝五時半、ピピピピピという目覚ましの電子音が部屋の中に軽く鳴り響いた。
音源は部屋に置かれているベッドの枕元の目覚まし時計からだった。眠っている人物はようやく夢から覚醒し始めたのか、布団の中でもぞもぞと動き出している。
やがて布団の中から手がにゅっと出ると、うるさそうに目覚まし時計のスイッチを軽く叩いて音を止める。そして布団の中から出てくるとくぁっとあくびをした。
布団から出てきたのは少年だった。まだ小学生ぐらいの体格の少年は、眠たそうに目をごしごしとこする。一見何の変哲もない少年に見えるが、他の人間にはまず無い特徴があった。それは、少年の髪の色が普通の黒髪ではなく、水色がかかった白髪である事だ。
少年----
顔を洗った志騎は居間へ入り台所に立つと、すぐさま朝食の準備に取り掛かる。今日の朝食は食パンにベーコンエッグ、トマトやブロッコリーなどで作ったサラダ、さらにピーマンとハムの塩炒めに牛乳である。
朝食から見て分かる通り、志騎は基本的に食事は洋食派である。和食も作れる事は作れるのだが、洋食にはハンバーグやオムライスなど、彼の好きな食べ物が揃っているので必然的に作る物が洋食になっている。とは言ってもさすがにいつも洋食だけでは飽きるので、月に何回かは和食を作るのだが。
ちなみに、料理にピーマンが混ざっているのは同居人が苦手な物だからだ。彼はどうにか同居人のピーマン嫌いを克服できないか日々試行錯誤し、可能な限りは食事にピーマンを出している。まぁ、効果はあまり芳しくないのだが。
志騎がフライパンでベーコンエッグを焼いていると、居間に同居人である女性が入ってきた。
髪の毛を後ろで束ね、眼鏡をかけたその女性は台所で料理をしている志騎を見ると笑みを浮かべて挨拶を交わす。
「おはよう、志騎。今日も早いわね」
「
そう言いながら志騎はフライパンの上のベーコンエッグをあらかじめ用意してあった皿に移すと、出来上がった料理を居間のテーブルへと持っていく。そうして二人分の朝食をテーブルに並べると、二人は床に敷いてある座布団にそれぞれ正座をして静かに合掌した。
「「いただきます」」
そして二人が朝食を食べ始めようとしたその瞬間、安芸がテーブルの上のピーマンとハムの塩炒めを見て軽く顔を引きつらせた。
「ね、ねぇ志騎」
「何ですか?」
「私、たまにはピーマン以外のおかずが良いなぁって思うの。ほら、いつもピーマンだと飽きるでしょ?」
「俺は飽きません。そのために色々バリエーションを考えて作ってるんですから」
「そ、そう……」
はぁ、と安芸はがっかりと肩を落とすが、どうやらまだ諦めきれないらしい。志騎が焼いた食パンにいちごのジャムを塗っているのを見ながら、諦めずに言ってくる。
「じゃ、じゃあピーマンの料理なら良いんでしょ? それなら作ってくれるのよね?」
「はい。……参考に聞きますが、何が食べたいんですか」
「……ピーマンの肉詰め」
「ほう」
「の、ピーマン抜き、とか?」
「それもうただの肉じゃないですか。ピーマン使ってないですし」
志騎の言う通り、それはもうカレーライスのルー抜き、と言っているようなものだ。何が悲しくて作った料理のアイデンティティーを奪うような事をしなければならないのだ。はぁ、と志騎は呆れたようにため息をつきながら食パンを食べ始めた。
安芸と暮らして大分立つが、彼女のピーマン嫌いはもう筋金入りである。そもそも、志騎が毎日三食作っているのは、彼女のそのピーマン嫌いのせいでもあるのだ。
安芸は別に料理が苦手なわけではない。むしろ上手な方だ。なので昔は安芸が基本的に毎日三食作っていたのである。
しかし、その日々の中でたまに問題が起こった。スーパーで野菜が安売りされていると、安芸は節約のためその野菜を大量に買う事があった。
これはまだ良い。節約は大事だし、野菜は体にも良いからだ。
だが、その野菜がピーマンだった場合だけは話が別だった。食費の節約のためにピーマンをたくさん購入したのは良いものの、ピーマンが苦手な安芸はあまり食べたくない。しかしピーマンは消費したい。その二点を考えて、安芸が下した苦渋の決断が志騎にピーマンを食べてもらおうというものだった。
志騎はこの年齢の少年にしては珍しく、ピーマンは嫌いではない。しかし考えてもみてほしい。食卓の自分の皿に大量のピーマンが盛り付けられ、買ってきた同居人の皿にはピーマンがほんのちょっぴりしか載っていないという光景を。もはやピーマンに何か恨みがあるのでないかと思えるほどである。
その事について志騎が安芸に聞いたところ、返ってきた返事は『志騎にすくすくと育って欲しいから、ピーマンをたくさん出した。自分が嫌いだからでは決してない』というものだった。まぁ、安芸本人は非常に真面目な人間なので、その後すぐにピーマンが嫌いという事もあると認めたのだが。
そしてこのままでは冗談抜きで自分の食事が大量のピーマン料理だけになってしまうのと、安芸のピーマン嫌いをどうにか克服して欲しいと志騎が考えた結果が、自分が三食作るというものだった。
安芸は当初は反対していたものの、何回か行われた話し合いの結果、渋々その案を受け入れる事になった。今ではこうして食事の用意を志騎に任せてはくれているが、ピーマンを食べる時だけは今のような要求をたびたび出してくる。しかしさすがに志騎も慣れてきたので、今ではため息をつきながらも安芸の要求を流すようになった。
やがて二人は朝食と食後の歯磨きを終えると、それぞれ学校と職場へ向かうための身支度を始める。志騎は一旦自分の部屋に戻ると、自分が通っている学校『神樹館』の制服を身に纏う。普通の小学校ならばその必要も無いかもしれないが、神樹館は結構格式が高い学校のため毎日制服を着て通う必要があった。
制服を着る準備を終え、いつも使っているランドセルの中身がちゃんと入っているかチェックを終えると部屋を出て居間に向かう。そして居間で朝のニュースを見ながら登校までの時間を潰していると、スーツ姿に着替えた安芸が居間に来た。
「じゃあ志騎、私は先に学校に行ってるわね。遅刻しないように気を付けるのよ」
「はい。安芸先生も気を付けて」
安芸の言う学校というのは、志騎の通う神樹館の事だ。安芸は神樹館の、しかも志騎のクラスの担任の先生なのである。とは言っても、志騎が安芸と一緒に暮らしているのを知っているのはごくわずかだ。神樹館の教師以外だと、今はこの場にいない志騎の幼馴染ぐらいである。
安芸が先に家を出てから十五分ほど経ち、そろそろ行くかと志騎が畳から腰を上げたその時、玄関からピンポーンという呼び鈴の音がした。その呼び鈴の音を聞いて、すぐに志騎は呼び鈴の主が誰かに気づいた。こんな時間に呼び鈴を押すのは、志騎が知る限り一人しかない。
志騎が玄関に向かおうとすると、再び呼び鈴が鳴らされる。しかも一回だけではなく、ピンポンピンポンピンポーンと何回も鳴らされる。はぁ、と志騎はため息をつきながらやや早歩きで玄関に向かうと少し乱暴に引き戸を開ける。
「よっ! おはよ、志騎!」
片手を挙げながら言ったのは、女子用の神樹館の制服を身に纏った一人の少女だった。髪の毛を後ろで短く纏めており、前髪には花の髪飾りが着けられている。朝から元気いっぱいの少女の満面の笑顔は、彼女特有の溢れんばかりの活発さを志騎に伝えてくる。志騎は半目になりながら、少女の額に軽くデコピンをした。
「いてっ!」
「朝から騒ぐなよ銀。人んちの呼び鈴をピンポンピンポン馬鹿みたいに鳴らしやがって……」
志騎が呆れたように言うと、少女----志騎の幼馴染、三ノ輪銀はたははと笑いながら、
「いやぁ、お前が寝坊でもしてたらまずいなぁって。安芸先生、遅刻とかにすごい厳しいだろ? あたしもしょっちゅう怒られてるからさー」
「あの人が厳しいのは同感だけど、飯作ってるのは俺だぞ? 朝寝坊なんてできるかよ。とにかく、すぐに用意してくるから待ってろ」
「りょーかい!」
彼女の元気の良い返事を聞きながら志騎は自室に戻ると、ランドセルを持って再び玄関に戻る。それから鍵をかけて、銀と一緒に家を出た。
銀の家は志騎の家から歩いて三分ほどの場所にあり、いわゆるご近所さんの関係だ。そのため、こうして朝二人で一緒に学校まで向かうのが幼い頃からの二人の習慣になっていた。流石に帰りはそれぞれの事情もあるため、二人一緒に帰れない日もたまにはあるのだが。
「いやぁ、なんだか今日はまっすぐ学校に行けそうな気がするなぁ!」
「いつもまっすぐ学校に行けてないような事を言うのはやめろよ。まぁ、事実ではあるけどさ……」
嬉しそうな銀の発言に、志騎はやれやれと言いたげな口調でツッコミを入れる。
銀の言う通り、彼女は学校に遅れる事がたまにある。それは別に彼女が学校が嫌いだから途中で寄り道をしているというわけではない。むしろ学校は好きな方だろう。勉強は苦手だが、休み時間などは校庭で走り回っている姿をよく見かける。そして、それにたまに志騎も巻き込まれる。
では何故彼女が学校に遅れる事がたまにあるかというと、彼女の行くところで何故かトラブルが起こる事があるのだ。例えば親とはぐれた迷子がいたり、まだ小さい子供達が喧嘩をしていたり、はたまたうっかりペットの手綱を離してしまい、それで自由になり走り回るペットを追いかける持ち主がいたり、例を挙げるとキリがない。
それで彼女自身親切な性格なので、その人達と関わって一緒に問題を解決するのだが、その結果学校に遅れてしまい先生に怒られる、というのがたまにあった。ちなみに銀は志騎と同じクラスなので、担任の先生は安芸先生である。
「まぁでも、確かに今日は時間もあるし、今から何かトラブルでも起きない限りは遅刻はありえな……」
志騎がそう言いかえたその時、二人の目の前を茶トラの模様に首輪をした子猫が通りがかった。子猫は二人の姿を見ると、ニーと可愛らしく鳴きながらとことこと歩いてくる。そして二人は、その子猫に見覚えがあった。
「あれ? なぁ志騎。この猫、木場さんちのトラジローじゃないか?」
「え? まさか……いやでも、確かに、そう言われてみれば……」
木場さん、というのはここから歩いて数分程の家にある年配の女性の名前だ。人当たりが良く優しい女性であると同時に、おっとりとした性格の持ち主で、普段は自宅で子猫であるトラジローと一緒に過ごしている。それは良いのだが、そのトラジローという猫が活発な性格で、たびたび家を飛び出してはあちこちを散歩している。ただ最後には必ず木場の家に帰るので、幸い大きな騒ぎになった事などは一度もない。
ちなみに、二人が木場と面識を持ったのは今のように道を歩いていたトラジローを見つけ、それを木場の家に連れて行ったのがきっかけだ。なお、その際にお礼としてどら焼きや羊羹をもらったのは二人にとっては良い思い出である。
「もしもトラジローなら、首輪に名前が書かれてたはずだよな……どれどれ……」
志騎が擦り寄ってくる子猫の首輪を見てみると、そこには綺麗な文字で『トラジロー』と書かれていた。ビンゴである。銀はトラジローの頭を優しく撫でてやりながら、
「こいつ、またばあちゃんの家を抜け出して散歩してたのか……。駄目だろ抜け出しちゃあ。ばあちゃんきっと寂しがってるぞ?」
銀が苦笑しながら注意しても、当の子猫はニーと嬉しそうに笑うだけだ。トラジローの柔らかな毛並みを手で感じながら、銀は何かを決めたような顔で言う。
「よし! せっかく見つけたんだし、ちょっとトラジローをばあちゃん家まで送ってくる!」
「おい、学校はどうするんだ。ここからはあんまり遠くないけど、トラジローを届けに行ってそこから学校っていうのはさすがに遅刻確定だ。また安芸先生に怒られるぞ」
すると銀はポリポリと頬を掻きながら、
「確かにそうだけどさ……。だからと言って放っておけないよ。きっとばあちゃん一人で寂しがってるだろうし。悪いけど、先に行っててくれ。あたしが勝手にやる事だから、安芸先生には何も言わなくて大丈夫」
彼女がここまで言うのは、トラジローのためもあるだろうが、きっと木場のためというのもあるのだろう。木場は長年一緒だった夫に先立たれ、今はトラジローと一緒の生活を送っている。実際は彼女はトラジローを我が子のように大切にしていたし、きっと今頃は家で一人でいるのだろう。
例え自分が損をしてでも、誰かのためを考えて行動する。
それが志騎の知る、三ノ輪銀という少女の性格だった。
「………はぁ」
志騎は一度ため息を吐くと、銀に言った。
「トラジローは俺が届ける。お前は先に学校に行け」
「え?」
「また遅刻して、安芸先生に怒られるのも嫌だろ? トラジローは俺が連れて行くから、お前は学校に行ってろ。ちょっと時間が無くなってきてるけど、今なら急げば間に合う」
「で、でもお前は? そしたらお前が遅刻しちゃうじゃんか」
「そんな心配は良いよ。良いからお前はもう先に行け。流石にこれ以上遅刻は駄目だろ」
「いや、でも……」
そう言われても、だからと言って学校に行くのも普通心苦しいだろう。他人の事を考える銀ならば、なおさらだ。志騎の顔を心配そうに見つめる銀に、志騎は苦笑しながら言う。
「じゃあ貸し一だ。今度何か困った事があったら、力を貸してくれ。それで良いだろ?」
その言葉に銀はまだためらっているようだったが、やがて渋々ながらも「……分かった」と小さく呟いた。
「……じゃあ、トラジローの事頼むな。あと、ばあちゃんにもよろしく」
「はいはい、分かってるよ。ほら、さっさと行けって」
志騎から促され、銀は志騎とトラジローに背を向けて走り出す。そしてそのまま学校に向かうと思われたが、突然くるりと後ろを振り返った。
「この埋め合わせは、絶対にするからなー!」
「分かったよ」
志騎からそう返されると銀は再び走り出したが、さら数メートルほど走った所でまた志騎の方に振り返り、
「絶対に、するからなー!」
「もう分かったって! 良いから早く行けよ! 遅れるぞ!」
志騎がそう叫び返すと、ようやく銀は振り返る事無く学校へと向かって行った。志騎はいつも使っているスマートフォンを起動して時計を確かめる。銀のあの速度と今の時間を考えると、ギリギリ教室にはたどり着けるだろう。まぁ、トラジローを送る自分は間違いなく遅刻確定だろうが。
志騎はニー、と甘えるように鳴きながら足元に擦り寄ってくるトラジローを抱きかかえると、銀と約束した通り木場の家へと向かうのだった。
「トラジローをありがとうね、志騎君。今度もし暇だったら、銀ちゃんを連れて遊びに来てね」
「ありがとうございます。それじゃあ自分はこれで」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
それから約二十分後、トラジローを木場の家に送り届けた志騎は木場からのお礼の言葉を受け取ると、彼女の家を出た。それから再びスマートフォンを起動して時刻を確認すると、もうすぐホームルームの時間である事を確認する。
「さて、それじゃあ急いで行くか」
そう呟くと、改めて学校へと歩き出す。
いや、歩き出そうとした。
「……え?」
志騎は突然立ち止まると、思わずそんな声を出していた。
志騎の目の前の風景はいつもと変わらない。仕事へと向かう大人、道路を走る車。さすがにこの時間に道を歩く学生の姿は無いが、それでも志騎が知っているいつもと同じ日常の風景だ。
だが、一つだけ目に見えて異常な点がある。
それら全てが、まるで時間が止まったかのように動きを止めているのだ。
人も、車も、さらには吹いている風すらもその動きをピタリと止まってしまっている。一瞬タチの悪い悪戯かと思ってしまったが、自然現象すら求めてしまう悪戯がこのようにあるわけがない。
「何だ、これ……」
戸惑いながらも志騎は近くにいるスーツ姿の男性に近づくと、その男性の体を動かそうとぐっと男性を押すが、男性はまったく動かない。どんなに力を入れてみても、まったく動く気配すらなかった。志騎は呆然をそれを見ながら、諦めて男性から手を離した。
だが、異常はそれだけでは終わらなかった。
チリン。
突然、志騎の耳に突然澄んだ風鈴のような音が鳴り響いた。辺りを見回してみるが、そのような物はどこにもない。しかもその音は、どんどん増えていった。
まるで、何かの警告音のように。
周りの時間が止まっている中で風鈴の音だけが鳴り続けているというのは、奇妙を通り越して不気味だった。
そして、極めつけの異変が起こる。
どこからか風鈴のものとは違う、奇妙な音が響き渡ったと同時に、まるで空を侵食するかのように不思議な色をした光が放たれた。さらに光と共に色彩鮮やかな花弁も出現し、光と共に世界へと広がっていく。やがて光は空だけではなく、山、街、人を次々と呑み込んでいきそれら全てを真っ白に塗りつぶしていった。
しかし、その光景に恐ろしさなどは微塵も感じられなかった。それどころか大量の花弁が舞い散りながら光が世界を覆っていくその光景は、むしろ幻想的ですらある。だが、今呑み込まれようとしている志騎にとってはそれどころではない。とっさに逃げようとするが、志騎の走る速度よりも光が世界を飲み込む速度の方がはるかに速い。
「くっ……!」
あまりの眩しさに志騎は思わず体を庇うように両腕で顔を覆うが、やがてその体は真っ白な光に呑み込まれていった。
同時刻。
どこかの建物の一室の窓から、光に包まれていく世界を見る一つの影があった。その影は窓から外の光景を見ながら、可愛らしい声で呟く。
「……始まったか」
そう呟いた直後、影はその体から花弁を散らしながらその部屋から姿を消した。
光の眩しさに志騎はしばらく両腕で顔を覆っていたが、ようやく光が収まったのを確認すると目を恐る恐る開く。そして、目の前の光景に口をぽかんと思わず開けてしまった。
「……どこだ、ここ」
目の前に広がっている景色は自分が知っている町並みではなく、まったく別のものに変貌していた。
その光景を一言で言うならば、樹の蔦や根だ。比喩ではなく、本当に樹の蔦や根のようなものがどこまでも広がっているような世界が今志騎の目の前に広がっている。さっきまであったはずの人の姿や家屋などはどこにもないが、そんな世界に一つだけ見覚えのある物が志騎の目に映った。
「あれって……大橋か?」
元のものと比べると形が少し変わってしまっているが、それは間違いなく志騎が幼い頃から見続けてきたランドマーク、大橋だった。何故他の建物が一切見えなくなってしまったこの世界で、大橋だけが変わらずにそこにあり続けているのだろうか。
しかしそこで志騎は、ある重要な事実に気づいた。この奇妙な世界になってしまってから人の姿がまったく見られないが、さっきまでいたはずの人々は……学校にいるはずの安芸や銀、クラスメイト達は大丈夫なのだろうか。自分は今の所なんともないが、この世界は人体に何の影響もないのだろうか。
「早く学校に行かないと……! って、どうやって行けば……!」
今の世界では大橋以外、学校に向かうための目印になるような物が一つもない。大橋の位置から予測して学校があると思われる場所へ向かう事ぐらいはできるかもしれないが、今の状況では本当にその方向であっているのかすら分からない。だが、だからと言ってこのままじっとしているわけにもいかない。そう考えて大橋の方を見た志騎の目に、またもや奇妙なものが映った。
「何だあれ……。生き物……なのか?」
大橋の向こう側から、巨大な生き物らしきものがふよふよと宙に浮きながらこちら側に向かってきているのが見えた。生き物らしきものと志騎が思ったのは、遠目である事を差し引いてもそれが普通の生物にはどうしても見えなかったからだ。
正方形の体からは針のような物が左右に伸びており、そこに球体がそれぞれくっついている。体の下部からは白い帯のような物が伸び、上部の触覚からは球状の液体がまるでシャボン玉のように立ち上っては消えて行く。
「何だか分からないけど、行ってみるしかないか……」
あれがなんなのかは正直分からないし、もしかしたら下手に動かずにここにいた方が良いのかもしれない。だが、ここにいても今の状況をどうにかする事は出来ないのも事実だ。
そして何より、学校にいるはずの安芸や銀が心配だ。もしかしたら、彼女達も自分と同じようにこの世界に迷い込んでいるかもしれない。もしもそうなっているのなら、彼女達を探し出すためにも危険は伴うが行動は必要だろう。
志騎はランドセルを持つ手に力を込めると、こちら側に向かってくる生き物に向かって走り出した。
この世界に変わってから方向も距離感も滅茶苦茶になってしまった感じがあるが、案の定だった。いつもならばこのペースで走っていればそろそろ学校に着くのだが、学校の姿はまったく見られない。やはり周りの建造物と同じように、学校もその姿が見えなくなってしまっているようだ。おまけに周りが巨大な樹の蔦ばかりのせいで、どれだけ走っても同じような光景が続くために距離感すらも狂いそうだった。それでも志騎が迷いなく走り続けていられるのは、生き物らしきものの姿がはっきりと見えるからだ。
「それにしても……かなりでかいな……」
最初は遠目に見ていたからその大きさがいまいち分からなかったが、こうして走り続けていると段々とその生き物らしきものの大きさが分かってくる。少なくとも、普通の一戸建てよりは遥かに大きい。もしもあれが本当に生き物だとしたら、一体どういう進化を経たらあんな大きさにまで成長するのだろうか。
と、志騎がそんな事を考えていた時、生き物がアクションを起こした。生き物は突然自分の真正面に上部の触覚らしきものから泡のような物を発射し、次に右方向の針にくっついている巨大な球状の液体から高圧水流を発射した。発射された高圧水流はこの世界の足場になっている巨大な蔦に直撃すると、轟音を立てながら蔦を破壊する。
「おいおい、嘘だろ……!」
その威力に志騎が驚愕の表情を浮かべた瞬間、生き物の正方形の体に突然光の矢のような物が突き立ったと思ったら、その場所にへこみが生じた。が、そのへこみは光を放った次の瞬間に瞬時に消えてしまう。
「回復までするのか……。あれ、生き物じゃないのか?」
もちろん生物も傷を負ったら自然治癒でその傷を回復する事は可能だが、その回復にも時間を必要とする。しかしあの生物らしきものの回復は、『回復』というよりも『再生』に近い。あれだけの再生速度を持つ生き物は、恐らくこの地球上には存在しないだろう。
そして志騎は、そこでようやくある事実に気が付く。
「誰か、戦ってるのか?」
最初は何故生き物が泡や高圧水流を発射したのか分からなかったが、今の光の矢のような物を見て分かった。誰かがあの生き物と戦っているのだ。だからあの生き物は泡と高圧水流を用いて、敵対者を撃退しようとしたのだ。
(でも、あんな化け物と一体誰が……?)
こんなおかしな世界であんな怪物と、一体誰が戦っているのか。志騎は怪物に見つからないようにできるだけ蔦の陰に隠れながら、怪物に近づいていく。
そしてようやく怪物の近くまで来た志騎の耳に、聞きなれた少女の声が聞こえた。
「んー……どりゃあっ!」
その直後、金属製の物を地面に叩きつけたような鈍い音が志騎の耳に届いた。その声と音に志騎は陰からこっそりと顔を出し、その音を出した本人を見て驚きで目を見開いた。
(銀っ!?)
そこにいたのは、自分の幼馴染で先に学校に向かったはずの三ノ輪銀だった。
だが、今の銀の姿はいつも自分が目にしているものとは少し違っていた。真紅を基調にした戦装束のような服を身に纏い、両手にはいつもの彼女では持てそうもない、刀身に丸い穴が開いた斧を携えている。
いや、よく見ると戦場にいるのは彼女だけではない。銀から離れた位置に、二人の少女達がいた。一人は白を基調にした戦装束に弓を持ち、もう一人は紫色を基調にした戦装束に槍を携えていた。そしてその少女達にも、志騎には見覚えがあった。
(あいつらは……乃木に鷲尾か!? なんであの二人まで……!)
二人の少女達は、志騎のクラスメイトである鷲尾須美に乃木園子だった。とは言っても彼女達は志騎とはあまり話した事が無い。何故銀に加えて、あの二人までこの世界にいるのだろうか。あの三人の共通点と言えば、家が『大赦』の中でも名家といった所だが……。
(って、マズい!)
怪物の片方の水球に不思議な力が集まりだし、その方向は園子の方を向いている。彼女は先ほど怪物の攻撃を受けたのか、ふらふらになりながらも槍を支えにして立ち上がろうとしてる。しかしあのままでは恐らく彼女が態勢を立て直す前に高圧水流が発射される。須美と銀も攻撃を察知して園子をカバーしようと動くが、二人の立ち位置からでは間に合わない。
「くっ……そっ!!」
志騎は蔦の陰から飛び出すと、ランドセルを手にもって体を勢いよく回し始める。そしてランドセルを思いっきりぶん投げると、ランドセルは放物線を描きながらどうにか怪物の体に当たった。
「はっ?」
「えっ……?」
「ほぇ……っ?」
突然飛んできたランドセルに銀と須美は声を上げ、園子は突然の事に目を丸くしている。そんな三人を無視して、志騎は怪物に向かって声を張り上げた。
「おいっ! こっちだ化け物!!」
もちろん今のランドセルで怪物にダメージを与える事ができたとは志騎自身微塵も思っていない。怪物との距離が近いとはいえ今の三人とは違って志騎には小学生程度の力しかないし、それに遠心力を加えたとしてもできる事は怪物にどうにかランドセルを当てる事ぐらいだ。
重要だったのは、怪物の意識をどうにかこちらに向けさせる事だ。案の定、怪物が体の向きを志騎の方に向ける。志騎は怪物に背を向けると、全力で怪物から遠ざかるように走り出す。するとそこでようやく志騎の存在に気づいたのか銀の驚愕した声が志騎の耳に届いた。
「志騎!? どうしてお前が『樹海』に……!?」
どうやら『樹海』というのがこの世界の名前らしい。だが今の志騎にはどうでも良い事だ。これであの怪物の注意が三人から逸れてくれれば、彼女達が態勢を立て直せる時間を稼ぐ事ができる。
なのだが。
「まぁ、やっぱりそうなるよな」
怪物は水球に力を溜め、走っている志騎に高圧水流を発射しようとしている。当然だが避け切る事などできるはずがない。精々あの高圧水流を食らってぐちゃぐちゃの肉塊になるのが関の山だろう。
そして、轟音を立てながら志騎目掛けて高圧水流が発射され、志騎が無駄だろうなと思いながら横に跳ぼうとしたその瞬間。
「志騎ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
志騎の名前を大声で叫びながら、銀が全力で志騎の元に走ってきた。その速度はまさに風のようであり、一瞬のうちに志騎の元に到達すると彼を抱えてその場から高く跳躍した。
次の瞬間、今まで志騎が立っていた場所が高圧水流によって砕かれた。その光景を真下に見ながら、抱えられながらの跳躍という人生初体験に、志騎は思わずうおっと声を上げて目を見開いた。
そして志騎を抱えた銀が怪物から少し離れた場所に降り立ち志騎を下ろすと、怒りの形相で怒鳴る。
「お前なんであんな事したんだよ!! もう少しで死ぬところだったんだぞ!?」
すると志騎はその怒りに少し面食らいながらも、あっさりとした口調で返した。
「……だって、
そのあまりにもあっさりとした言葉に銀は絶句した表情を浮かべると、両手で頭を抱えた。
「……ったく、こんな時にまでそんな癖出さなくて良いのに……。まったく……」
口の中でそんな事をブツブツと呟くと髪の毛をくしゃくしゃと掻き、
「ああ、もう! とりあえず、バーテックスはあたし達がどうにかするから、志騎はどこか安全な所に隠れてるんだぞ! さっきのような真似したら、帰ってみっちり説教だからな! ……じゃ、またあとでな!」
そう言って銀は笑顔で軽く手を挙げると、高く跳躍して姿を消した。恐らく先ほどの怪物----バーテックスの所へ向かったのだろう。
「……隠れてろって言われてもな……」
正直、放っておけないというのが本音だ。彼女の姿を間近で見たが、バーテックスの攻撃を受けたのか体中傷だらけだった。あの状態の銀達を放ってなどおけない。
だが、志騎には戦う力など持っていない。先ほどだって志騎一人が死ぬところだったが、
どうするべきかと、志騎が舌打ちしたその時。
『ふっふっふー、お困りのようだな、少年!』
「……っ!? 誰だっ!?」
突然、少女のような声がその場に響き渡った。志騎が驚いてその場を見渡すが、人影は全く見られない。すると志騎のその様子をどこからか見ていたのか、姿なき声がまたその場に響き渡る。
『お前のスマートフォンを確認してみろ!』
「スマートフォン……?」
言われた通りにポケットの中のスマートフォンを取り出して確認してみると、何故かいつもと画面が違っていた。画面の中央にはまるで花のようなアイコンが表示されており、さらに画面の上部には謎のアプリが点滅している。
『そのアプリを押せ!』
「あ、ああ……」
言われるがままにアプリをタッチすると、突然志騎の目の前に花びらが舞い上がった。そしてその花びらが消えると、そこには一人の少女が浮かんでいた。
少女と言っても、銀達と比べるとかなり小さい。さすがに掌に乗るようなサイズではないが、それでもぬいぐるみ程度の大きさだ。黒髪を背中まで伸ばし、神官服のような服を身に纏っている。しかし一般的なそれとは違い、色は黒色である。くりくりっとした目は非常に可愛らしいが、同時に悪戯っ子のような光を宿している。そして背中にはまるで悪魔のような黒い小さな羽がちょこんとついていた。羽をパタパタと動かしながら宙に浮かぶ少女に、志騎は呆然としながら尋ねる。
「お前は……?」
その言葉を待っていたと言わんばかりに少女は笑みを浮かべると、力強い口調で言った。
「名乗るのが遅れたな。私の名は、てぇんさい美少女精霊の
「………いや、呼ばないし。しかも自分で天才美少女って……」
「事実だから仕方ない」
「ええー……」
突然の名乗りに、志騎はどうリアクションを取れば良いのか分からなくなった。正直今まで出会った事のない女性のタイプなので、どう接したら良いかも分からない。その空気を察したのか、少女----刑部姫はこほんと咳払いをする。
「まぁ、私の事は後で話すとしよう。それより志騎、今お前はバーテックスと戦う力が欲しいんだろう?」
突然刑部姫から放たれた自分の名前に、志騎は思わず眉をひそめた。
「……お前、どうして俺の名前を……。いや、今はいいや。お前、あの化け物の事を知ってるのか?」
志騎が尋ねると、刑部姫はちらりとバーテックスと呼ばれた怪物を見ながら、
「ああ、あいつはバーテックス。世界を殺すために生まれた、人類の敵だ」
「世界を、殺す……」
聞いてみれば物騒な言葉だが、刑部姫の言葉が嘘だとは思えない。それはきっと何よりも今のこの世界の様子と、さっきの傷だらけの銀達の姿が物語っているからだろう。
「……戦う力が欲しいんだろう、って言ったな。欲しいって言ったら、くれるのか?」
「別に私は構わない。私はただお前の意志を聞きに来ただけだ」
「意志……」
「ああ、そうだ。戦いたいって言うなら方法を教えてやる。戦いたくないって言うならそれも構わない。このまま戦いが終わるまで、隠れていればいい。それも一つの手段だ。で、どうする?」
刑部姫の問いに、志騎は答える代わりにバーテックスの方を見た。
世界を殺すという、巨大な化け物。
あんなものと、今自分の幼馴染とクラスメイトが傷だらけになりながら戦っている。
そう思った時、自然と志騎の口から言葉が出た。
「正直、今どういう状況なのかは分からない」
「ああ」
「どうしてあいつらが戦っているのか、あいつらの力がなんなのかも分からない」
「だろうな」
刑部姫からの肯定の言葉に、志騎はぐっと拳を握りながら、
「……だけど、だからって言って放っておけない。教えろよ、どうしたら俺はバーテックスと戦える」
その問いに刑部姫は腕を組んでじっと志騎を見つめていたが、やがてふっと笑みを浮かべた。
「まぁ、今はそれで良いか」
「……?」
「なに、こっちの話だ。それより、戦う方法を教えてやる。まず、画面の花のアイコンをタップしろ」
「分かった」
言われるがままに花のアイコンを押すと、画面が切り替わる。画面の上部には『Brave』という文字と花の紋章のようなものが表示されたアプリ、『Zodiac』という文字と星座が円状に表示されたアプリ、そしてベルトのようなアイコンが表示されたアプリがあった。
「次に、一番右のアプリをタップ」
「ああ」
そして言われた通りに一番右のベルトのようなアイコンが表示されたアプリをタップした瞬間、突然異変は起こった。
志騎の腰から光が発せられたかと思うと、花びらが散ると共に腰に機械でできたベルトが出現したのだ。ベルトの正面部分の装置はまるで液晶パネルのようになっているが、本来何か映し出されるであろうその装置の部分には今は何も表示されなかった。
「うわっ、何だこれ!?」
突然自分の腰に出現したベルトに驚くと、刑部姫が志騎の周りを跳び回りながら続ける。
「そう驚くな。次にスマートフォンの『Brave』ってアプリをタップだ」
「はぁ、次は一体何が出るやら……」
そう呟きながら、スマートフォンの『Brave』のアプリをタップする。
『Brave!』
スマートフォンから女性の音声が流れると同時に、スマートフォンの画面に花の紋章が表示されると共に、ベルトの液晶パネルのような装置の部分から光線が志騎の前方に照射される。
「さぁ、ここで両腕を軽く開く!」
「両腕を軽く開く」
「両腕を真上に伸ばしてから体の前で軽く交差!」
「両腕を真上に伸ばしてから、体の前で軽く交差……こうか」
刑部姫がやけにテンション高くポーズをとると、志騎もそれに倣うようにポーズをとる。二人がそんな事をしている間に、ベルトからは音楽が流れる共に先ほどベルトから放たれた光が空中に図式のようなエフェクトを形成する。志騎にはそれがまるで何かの設計図や、ゲームなどで見かける術式のようにも見えた。
そして志騎が体の前で軽く腕を交差し、音楽が鳴りやんだ直後、今度はベルトから女性の音声が響いた。
『Are you ready!?』
「さぁ、それでスマートフォンをベルトの装置にかざしながら勢いよく叫べ! 変身!」
「えっ? へ、変身!」
拳を上に突き出しながら言う刑部姫のテンションに戸惑いながら志騎は本当にそう言いながら、スマートフォンの画面をベルトの装置にかざす。
『Brave Form』
直後、志騎の前方に展開された術式が志騎の体に迫り、その体を通過する。
その瞬間、花びらが舞い散ると共に志騎の体は文字通り『変身』した。
身に纏うのは神樹館の制服ではなく、銀達のものと似た純白を基調にする戦装束。彼女達のものと違いを挙げるならば、志騎のそれは男性用に形を整えており、さらに各所に鎧のような物が追加されている事だろう。ベルトの左側には機械でできた片刃の剣状の武器が装着されており、先ほどまで何も表示されていなかったベルトの装置にはスマートフォンの画面に表示されているのと同じ紋章が表示されていた。
「ほ、本当に変身した……。てか、何だ『Are you ready!?』って……」
変身した自分の服や自分の両手を呆然と見ながら志騎が言うと、刑部姫が志騎の目の前を飛びながら言う。
「驚いている暇はないぞ? その姿ならバーテックスに対抗する事ができるはずだ。さっさと行った方が良いんじゃないか?」
彼女の言葉で志騎は表情を引き締めると、ベルトに装着された剣を外し持ち、遠方にいるバーテックスを睨み付ける。
「よし……行くか」
そして樹海の蔦を強く蹴りつけると、志騎は先ほどの銀のように高く跳躍してバーテックスの元へと向かう。彼の後ろ姿を眺めながら、刑部姫はにやりと笑った。
「さて……見せてもらうぞ、志騎。お前の力をな」