----落ちていく。
果てしない空間の中を、落ちていく。
自分がどうなっているか分からない。どうして自分が落ちているのか分からない。
ただ、自分が何もない空間をひたすら落ちていく感覚だけがあった。
このまま落下し続けたらどうなるか、それすらも分からない。ずっとこのまま落ち続けるのか、それとも何かにぶつかって死ぬのか。
いや、そもそもの問題として、自分は生きているのか、死んでいるのか。
そういった肝心な事すら、分からなかった。
『----』
その時、何かの声が聞こえた。
その声が誰の声かは分からないし、何と言っているかも分からないが、なんとなく、その声が待っている所に行かなければならないという事だけは分かった。
そのためには、まずこの空間から抜け出さなければならない。
そう思い、瞑っていた目を静かに開けたところで。
天海志騎は、眠りから目を覚ました。
「……こ、こは……」
まず目に入ったのは白い天井だった。次に、嗅ぎなれた消毒液特有のツンとした匂いが鼻孔を刺激する。自分の今の状態からすると、どうやら自分は病室のベッドに横たわっている状態らしい。一瞬自分が初めて安芸と出会った時と状況が似すぎているので夢かと思ったが、体に残るわずかな倦怠感がそれを否定する。
やがてぼんやりとしていた意識がゆっくりと覚醒していくと、自分の右手が誰かに握られているのを感じた。
体を起こし、自分の右手を握っている誰かの姿を確認する。
そこにいたのは。
「銀……」
来客用の椅子に座り、ベッドにもたれかかって寝息を立てながらも、志騎の右手をしっかりと握っている銀だった。彼女の顔にはまだ傷が治りきっていないのか、絆創膏など傷の治療を施した跡がある。
それから銀とは反対方向に目を向けると、銀と同じように来客用の椅子に座りながら寝息を立てている須美と園子の姿があった。須美がすーすーと静かな寝息を立てているのに対し、園子は朝教室で眠っているときのように、すぴーすぴーと気持ちよさそうな寝息を立てながらご丁寧に鼻ちょうちんまで膨らませている。彼女らしいといえば彼女らしいのだが、よほど熟睡しているのか口元から微かに垂れた涎が須美の肩にかかってしまっている。そんな園子の姿に、志騎は思わずやれやれと肩をすくめた。
「……そういえば、あれから俺どうなったんだ?」」
頭に手をやりながら、志騎は独り言を呟く。自分がこの病室に来た時の記憶が、全く無かったからだ。
だがそれでも、かろうじて覚えている事はある。樹海で、自分一人でバーテックスと三体と戦った事。攻撃を受けて、今にも死にそうな状態であった事。その状況をどうにか覆すために、刑部姫から渡されたキリングトリガーを使った事。
そこまでは覚えているのだが、それ以降は全く覚えてない。キリングトリガーを使った時、まるで自分が自分で無くなるような感覚を覚えた直後、意識がぷっつりと途切れたのだ。それから何が起きて、どうなったかはまるで分からない。
ただ、一つだけ分かっている事がある。自分達はどうにか三体のバーテックスを撃退し、帰還する事ができたという事だ。そうでなければ、自分も彼女達もこの場にはいない。それだけは本当に、喜ばしい事だと思う。
その事に志騎は安堵の息をつくと、左手を眠る銀の額に伸ばしてデコピンの形にする。本当ならもうちょっと寝かせても良かったのだが、さすがにいつまでも利き手を握られているのは不便だし、彼女達からあれから何があったか話を聞く必要もある。だが無理やり叩き起こす事はしたくないので、あまり力を入れず軽く彼女の額をピンと弾く。
「おい、いい加減起きろ」
すると額に走った衝撃に、銀が「ん……」と小さく呻きながら起き上がる。そして目をこすりながら寝ぼけ眼で志騎の顔をとろんと見つめた直後、目を見開いて言った。
「し、志騎!? 目が覚めたのか!?」
「あ、ああ……。それより、声がデカい。須美と園子が起きるぞ」
しかし志騎の警告も空しく、銀の声に眠っていた須美と園子が目を覚ました。二人共最初はとても眠たそうにしていたものの、志騎が起きている事を確認すると驚いた声をそれぞれ上げてくる。
「し、志騎君!?」
「あまみん!?」
「お、おう。二人共おはよう」
須美と園子の反応に志騎はどうにかそれだけ返すが、二人から返事はない。何故か二人は、志騎の顔をじっと見つめていた。それは銀も例外ではなく、何故か不安そうな眼差しで志騎の顔を見つめている。
「……どうしたんだ? 三人共」
やや普通ではない三人の様子に志騎が尋ねると、銀が唐突に尋ねた。
「……志騎。あたしの好きなジェラートの味は何だ?」
「はぁ? しょうゆ豆味だろ? お前イネスでジェラート食べる時は大概あれだろうが」
「志騎君。私とそのっちがオリエンテーションで名乗った正義の味方の名前は何?」
「国防仮面だろ。あの後安芸先生に衣装とか全部没収されただろ」
「書道の時間に私が書いた文字は~?」
「内角高めだろ。てかさ、あれマジでどういう意図で書いたのお前? 今でも意味が分からないんだけど……」
何故か突拍子もない質問を次々聞いてくる三人に、志騎は全て正確に答えた。すると、三人ははぁ~と心の底から安堵したような息をついた。
「良かった……。いつもの志騎だ……」
「どういう意味だよ。ってか、あれからどうなったんだ? 俺達がここにいるって事は、バーテックスをどうにか撃退できたって事か?」
すると志騎の言葉に、三人は一斉にえ? ときょとんとした表情を浮かべた。
「志騎君……あなた、何も覚えてないの?」
「ああ。途中から記憶が飛んでる。……なぁ、一体何があったんだ?」
最初志騎は自分と彼女達が力を合わせて、どうにか三体のバーテックスを撃退したのだと思っていたが、どうも彼女たちの反応を見るとそうではないようだ。彼女達の先ほどの何かを確認するような質問と、志騎の一部の記憶が無い事を知った彼女達の反応が、志騎がキリングトリガーを使ってから何かがあった事を志騎に感じ取らせた。
三人は一度顔を見合わせると、志騎にバーテックスとの戦闘で何があったかを話した。
話を聞き終えた後、志騎は思わず目を丸くしながら三人に言った。
「俺が一人でバーテックスを倒した? 冗談だろ?」
「いやいや志騎さんや、気持ちは分かるけど、さすがにあたし達もこの場でそんな嘘つかないって……」
志騎の言葉に、銀はやれやれと言いたそうな口調で返す。
だがそう言われても、まだ今の志騎には自分一人であの三体のバーテックスを倒したという事が信じられなかった。その時の戦闘の記憶が自分に無かったのもそうだし、あれほど自分達が苦戦した三体のバーテックスが自分一人に倒されたというのが中々想像できなかったからだ。しかし三人の様子を見るに嘘をついている様子は見られないし、第一そんな嘘をつく理由もない。とすれば、彼女達が言っている事は間違いなく本当だろう。
「すごかったんだよ~。バーテックスをどんどん倒しちゃうし、傷もあっという間に治っちゃうし~」
「傷も? そう言えば、確かに傷が全く無いな……」
園子の言葉に自分の体を改めて見回してみると、彼の体には銀達のような絆創膏や包帯の類がまったく見られなかった。息苦しさなども全く無い事から、どうやら潰れたと思っていた内臓も治っているらしい。
「てかさ志騎。あの力、一体何なんだ? あたし達今まで見た事無かったぞあんなの」
銀が尋ねると、須美と園子も同意するようにうんうんと頷いた。そう言えば彼女達には、キリングトリガーの事を話していなかった。刑部姫の言葉が不穏だった事もあり、今までその事について話すのは避けていたが、さすがにそのような力を見せてしまえば彼女達も気になって仕方ないだろう。志騎は諦めたようにため息をつくと、三人にキリングトリガーの事を話した。
「志騎専用のパワーアップアイテムって……何だよそれ!? 精霊も志騎だけだし、どうして志騎ばっかー!」
うがー、と頭を抱えて銀が悔しそうに叫ぶ。しかし精霊という言葉に志騎は自分にキリングトリガーを渡した張本人を思い出すと、話を聞いていた須美に尋ねた。
「刑部姫とは会ったのか?」
「いいえ。昨日私達が意識を取り戻した時に安芸先生が会いに来てくれたけど、彼女の姿は見てないわ」
「そうか……。そう言えば、あの戦いから俺達どれぐらい寝てたんだ?」
自分は傷が治っていたとはいえ、彼女達はかなりの重傷を負っていた。あれほどの傷を受けていたら、彼女達も自分と同じように長い間眠っていても不思議ではない。
すると、その質問に答えたのは園子だった。彼女は指で日数を数えながら、
「私達は丸一日寝てたよ~。それで昨日三人共目が覚めたんだけど、あまみんだけ意識が戻らなかったから、あまみんは二日だね~」
「そんなに寝てたのか……」
傷が全て癒えているはずの自分が彼女達よりも眠っていたというのは少し腑に落ちないが、それもキリングトリガーの力の反動だと考えると考えられない話ではない。何せ須美達の話によると、キリングトリガーを使った自分は単独で三体のバーテックスを倒したというのだ。それほどの力を発揮した代償として、体に相応の負担がかかってもおかしくない。
「でもお前ら、昨日まで寝てたって言ってたけど、もう動いて大丈夫なのか?」
「ああ。治療のおかげで結構治ってるんだ。まぁさすがに全快ってわけじゃないけど、もう動いても大丈夫だって言われてる」
「だけど、それでも昨日までは痛かったんよ~」
銀の言葉に続くように園子がちょっと困ったような笑みを浮かべて言った。まぁいくら大赦の霊的治療が優れているとはいえ、あれほどの傷がすぐに完治するというわけにはいかないだろう。今はもう痛みもだいぶ和らいでいるようだが、昨日は園子の言う通り動くたびに痛みが走っていたに違いない。
そして……そんな重傷であるにも関わらず、三人は自分を心配して自分のそばにいてくれた。
それが、志騎にとっては嬉しかった。
「そうか。……三人共、心配してくれてありがとな。あと……みんな無事で、良かったよ」
言いながら、志騎は口元にうっすらとだが柔らかい笑みを浮かべた。三人はそれに顔を見合わせると、自分達も同じ気持ちだと言うように笑みを浮かべた。
と、そんな時だった。
突然病室の扉が開く音がして、その音に四人の視線が扉に向けられる。
そこにいたのは、硬い表情を浮かべた刑部姫だった。彼女は意識を取り戻している志騎に視線を向けると、やはりどこか少し硬い口調で言う。
「意識を取り戻したか、志騎」
「あ、ああ」
「ちょっと刑部姫。いくら志騎君の病室だからって、ノックぐらいは……」
「病院に運び込まれた時に検査をした結果、特に異常は見られなかったが、念のためにこの後精密検査を行う。安芸が呼びに来るから、それまで待機してろ。お前達もその時一緒に検査を行う。何も無かったら退院して良い。以上だ」
咎めるような須美の言葉を無視して一方的に言うと、刑部姫は病室から出て行った。すると、閉じられた病室の扉から志騎に視線を移しながら銀が言った。
「なぁ、なんか刑部姫の奴、機嫌悪くなかった?」
「確かに……どこかピリピリしてたわね」
刑部姫は大抵の人間には刺々しく接するが、それでも安芸や志騎などごく一部の人間に対しては非常に親しく接する。だが先ほどの刑部姫の志騎に対しての態度は、銀達に対する態度よりはマシなものの、いつもよりかなり不愛想だった。その変化には言葉を無視された須美も怪訝そうな表情を浮かべるほどだ。
さらに、志騎と刑部姫のやり取りを見ていた園子がこんな事を言う。
「そう言えば、安芸先生も変だったよね~」
「先生が? どんな風に?」
「ひめちゃんみたいに不愛想ってわけじゃないんだけど、ちょっと不安そうな表情をしてたって言うか、焦ってるような感じがしたんだ~。最初は私達を心配してるからかなって思ってたんだけど、なんかそれだけじゃないような気がするよ~」
「………」
刑部姫と安芸の態度の理由は想像がつく。きっと、志騎がキリングトリガーを使った事だろう。刑部姫はそもそも志騎にキリングトリガーを極力使わないよう警告していたし、安芸もキリングトリガーの持つ力の事を知っていた可能性が高い。だがそうなると、分からない事が一つある。
(……どうして、そんな表情を浮かべる必要があるんだ?)
キリングトリガーの力が強大で志騎の身に何かが起こるのが不安だというのは何となく分かるのだが、こうして確認してみる限り志騎の体は健康体そのものだ。特にこれといった反動もないし、傷もすっかり治っているのに、どうして刑部姫はあれほどピリピリしていたのだろうか。
また、今の志騎には刑部姫に尋ねたい事があった。
それは、志騎のゾディアックフォームの能力が、何故バーテックスの能力に酷似していたかだ。
前に聞いた刑部姫の話によれば、志騎の勇者システムに組み込まれているゾディアックシステムは大赦のある科学者が作り上げたものらしい。そのゾディアックシステムがどうしてバーテックスの能力に似ているのか、当然志騎にはまったく分からない。
なのでその事と志騎の勇者システムを開発した科学者について刑部姫から話を聞き出したかったのだが、当の本人は話を聞き出す前にさっさと病室から立ち去って行ってしまった。あれでは後の精密検査の時に話を聞き出そうとしても、何も喋らない可能性がある。自分と安芸にはやけに馴れ馴れしく接する一方で、そういった秘密主義な所が刑部姫にはあった。
聞き出したい事があるのに、まったく聞く事ができない。
その事実に若干の苛立ちを感じながら、志騎はため息をつくのだった。
それから三十分後、刑部姫からの連絡を受けたのか安芸が病室にやってきて精密検査を受ける事を四人に告げると、四人は病室を出て検査へと向かった。
とは言っても志騎は途中で三人と別れると、別室で一人で精密検査を受ける事になった。検査を担当するのは、案の定と言うべきか刑部姫一人だった。四人と別室で検査を受ける理由を刑部姫に聞いてみた所、キリングトリガーの力の影響等も調べたいかららしい。正直もっと聞きたい事はあったが、時間もそんなに無いとの事ですぐに検査を受ける事になった。
検査自体は志騎が月に受けている定期健診と同じようなもので、脈拍や血圧、さらにはCTスキャンを用いての検査などだった。
やがて全ての検査を終えた志騎は検査室でパイプ椅子に座って刑部姫からの診断の結果を待つ事になった。刑部姫はと言うと、志騎の目の前でパイプ椅子に座りながら電子カルテを睨みつけている。
しばらく刑部姫は電子カルテを睨めっこをしていたが、不意にふぅと息をつくと電子カルテから志騎に視線を移した。
「特に異常はなし。傷も無いようだし、後で安芸に伝えて手続きを取らせたら、もう三ノ輪銀達と一緒に退院して良いぞ」
「ああ、分かった」
「それと、しばらく私の分の晩飯は用意しなくて良い。少し大赦の方の仕事が忙しくてな、少しの間顔を出せなくなる。まぁ、それが終わったらまた顔を出せるようにはなるが……」
刑部姫のその言葉に、志騎は思わず眉をひそめた。
前から刑部姫が志騎の前に姿を見せない事はたまにあったが、キリングトリガーを使ったこのタイミングで顔を出せなくなるというのは少し奇妙な気がしたのだ。まるで、キリングトリガーについて聞かれるのを避けているような……そんな感じが、今の刑部姫からは感じられる。
「……なぁ刑部姫」
「ん、なんだ?」
「お前、俺に何か隠している事があるんじゃないのか?」
すると、刑部姫は「はっ」と笑い、
「なんだそれは? お前に隠している事など何もないが?」
「……本当だろうな?」
「ああ、本当だ」
「………」
しばらく志騎は刑部姫をじっと見つめていたが、やがて「……分かった」と言うと病室から出て行った。刑部姫が志騎が出て行った病室の扉を見ていると、再び扉が開き一人に人物が病室に入ってきた。その人物----安芸はついさっきまで志騎が座っていたパイプ椅子に座りながら呆れたように刑部姫に言う。
「相変わらずあなたは嘘をつくのが上手いわね」
「嘘をついた覚えはない。単に言う必要がないだけだ」
「屁理屈ね」
「屁理屈も言うさ。こんな検査結果を見ればな」
そう言いながら刑部姫が電子カルテを差し出すと、安芸は電子カルテを受け取りそこに表示されている志騎の検査結果に目を通す。一通り目を通した安芸は、そこに表示されている情報に思わず顔をしかめた。
「一応聞くけど、間違いじゃないのね」
「残念ながら、な。キリングフォームに変身した影響で、今まで志騎にかかっていた封印は全て解除されている。さすがに記憶までは戻っていないが、解放された力にあいつが気が付くのも時間の問題だろうよ。それまでは今まで通りあいつの観察を頼む」
「……分かったわ」
安芸はそれだけ言うと、パイプ椅子から立ち上がり病室から出て行った。彼女の後ろ姿を見届けながら刑部姫はパイプ椅子の背もたれに寄り掛かると、苛立たし気にチッと舌打ちをするのだった。
「----よっしゃー! 退院だー!」
「わーいわーい!」
「二人共、あまり騒がないの!」
検査の結果、四人の身体に特に異常は見られなかったためもう退院しても大丈夫と安芸から言われた四人は、その日の午後に無事退院した。
そして病院の敷地内から出た直後、歩きながら両腕を真上に伸ばして喜ぶ銀とそれに便乗する園子に、須美の注意の声が飛んだ。すると銀は笑いながら、
「ごめんごめん。でも大目に見てよ。入院中家族にも会えなかったし、やる事は寝る事ぐらいしかないし、もう退屈でさー」
「私はたくさん寝られたけど、体が固くなっちゃったよ~。それに、久しぶりにジェラートも食べたいね~」
「そうだなー。でもさすがに家族の顔見たいし、鉄男にお土産渡さないといけないし、ジェラートは明日にするか」
「そうね。まだ退院したばっかりだし、まず今日は家に帰ってゆっくり体を休めましょう」
「だな。俺も腹減ったし、早めに帰って今日はスタミナつくものでも作るよ。スタミナって言ったらやっぱり肉だから……生姜焼きにでもするか」
「うどんも良いよ~。うどんは万能食~」
「……いや、さすがに万能食ではないと思うが……」
確かにうどんは美味しいし低カロリーで消化も良いが、だからと言って万能食と言い切るのは正直どうかと思う。そこまでうどんは万能ではないだろうし、第一そこまで期待をされてはうどんも困るだろう。
それから四人は他愛ない会話をしながら、帰り道を歩いて行った。検査自体は午前中に終わったものの、それから安芸による退院の手続きや準備などに時間がかかったため、もう辺りはすっかり夕日に照らされている。三体のバーテックスが襲来した時もこのような感じだったが、幸いな事にバーテックス襲来の時に必ず鳴る鈴は鳴らなかった。さすがに大事なお役目とはいえ、ようやく傷が癒えたのにまたバーテックスとの戦闘で傷を負うのは勘弁して欲しいので、この時ばかりはバーテックスが襲来しなくて良かったと思う。
「じゃあミノさん、あまみん、また明日~」
「二人共、今日はちゃんと早く寝るのよ!」
「分かってるって! じゃあな園子、須美! また明日!」
「じゃあな」
やがて志騎と銀の家に向かう分かれ道に差し掛かると、別れの言葉を交わしながら志騎と銀は須美と園子の二人と別れた。銀は両手を後頭部に回しながら、
「だけど、今回ばかりはさすがにヤバかったな……。まさかバーテックスが三体も来るとは……」
「確かにあれは予想外だったな。だけど、もう同じ事が二度と起こらないとは限らない。もしかしたら今度は三体どころか四体、いや、下手をしたら五体一気に来る可能性だってある」
もしも志騎の予想通りの事が起こったら、正直四人に勝ち目はない。何せ、予想外の事とは言え三体のバーテックスに四人は殺されかけたのだ。今回の場合はキリングトリガーがあったおかげでどうにか四人全員生き残る事ができたものの、次も同じようにいくとは限らない。結果的にバーテックスを全滅させる事ができたとしても、戦いの中で四人の内誰が死んでもおかしくはないのだ。そんな結末は、許容するわけには決していかない。
銀も同じ気持ちだったのか、彼女は拳を強く握りしめながら、
「四体だろうが五体だろうが関係ない。あたしの大切な人達や日常を消そうっていうなら、全部まとめてぶっ飛ばす!」
「……お前らしいな。でも、口で言うのは簡単だけど……」
「分かってる。この前死にかけたし、今のあたしの力じゃ難しいって事ぐらい言われなくても分かる。だから、もっと強くなる。今よりももっと強くなって、あたしの大切な人達も日常も、全部全部守るんだ!」
そう言う彼女の眼には、力強い意志の光が宿っていた。彼女の言葉通り、ついこの前死にかけたばかりだというのに、彼女の眼には戦いや死への恐怖心と言ったものは全く感じられない。いや、正確には彼女も感じてはいるのだろうが、それ以上に自分の大切な人達や日常が失われる方がもっと怖いと感じているからこそ、その恐怖を乗り越える事が出来ているのだろう。それは紛れもなく、三ノ輪銀という名の少女の強さだった。
「……銀。前から思ってたけど、お前は本当に強いな」
「え!? な、なんだよ志騎いきなり~。変な事言うなよ、恥ずかしいだろ~」
ちょっと照れ臭そうに顔を赤くしながら、銀は志騎の肩をぱんぱんと叩いた。それに困ったような笑みを浮かべながら、志騎は今日の検査の時の刑部姫の様子について思い出す。
本当はあの場で刑部姫にキリングトリガーの事をゾディアックシステムについて尋ねようとしたのだが、刑部姫のあの態度を見て聞くのをやめたのだ。恐らく今の彼女に聞いても、自分が求めている答えが返ってくる可能性は低い。理由は分からないが、彼女は自分に何かを隠している。彼女に真正面から聞こうとしても、今日のようにはぐらかされるのがオチだろう。それはたぶん、彼女の近くにいる安芸も例外ではない。
(ったく、何だってんだ……)
一体彼女達は、自分に何を隠していると言うのだろうか。何故自分に話そうとしないのか。刑部姫はともかく、安芸は昔から自分が聞いた事はきちんと答えてくれたというのに。
そんな二人に対する疑問と苛立ちで、志騎は思わず少し顔をしかめる。そして、そんな幼馴染の変化を見逃すほど銀は鈍感ではない。
「志騎、どうした? もしかして、具合でも悪いのか?」
「……いや、何でもない」
自分の顔を覗き込んで尋ねる銀に志騎はそう返すが、銀は怪訝な表情を浮かべながら「本当か?」と疑わしげな口調で尋ねる。志騎は肩をすくめながら、
「ああ、本当だ」
「………」
銀は少しの間志騎の顔を見つめていたが、やがてそっか、と言うと彼の顔から視線を外した。
「でも、本当に何かあったらあたしや須美達にもちゃんと相談しろよ? あたしにできる事なら何でもするし、須美達もきっと力になってくれると思うからさ」
「分かってるよ、それぐらい」
「本当か~?」
「だから本当だって。お前達の事を疑ってなんかねぇよ」
「なら良かった!」
志騎の言葉に、浮かない表情を浮かべていた銀の顔がぱっと明るくなる。彼女の笑顔を見て、志騎もようやく口元に微かな笑みを浮かべるのだった。
帰宅後、志騎は須美達の前で宣言した通り豚肉の生姜焼きを作ろうと思ったが、タイミングよく安芸が志騎が帰宅した数分後に帰ってきた。そして夕食の準備に取り掛かろうとしていた志騎に、疲れているだろうし今日の夕飯は自分が作ると言い出した。まだ病み上がりという事もあり、志騎はその言葉に甘える事にして、先に入浴を済ませる事にした。
風呂にゆっくりと入った後、寝間着に着替えて居間に戻った志騎を出迎えたのは豚肉の生姜焼きとみそ汁の良い匂いだった。居間のテーブルには白く輝く白米にみそ汁、メインのおかずの豚肉の生姜焼きとキャベツの千切りが二人分置かれていた。志騎が食事の席に着くと、安芸も同じタイミングで席に着いた。
そして二人揃った所でいたただきます、と合掌してから夕食を食べ始めた。志騎がみそ汁と啜っていると、ご飯をむぐむぐと食べていた安芸が唐突に尋ねた。
「志騎。体の調子は大丈夫?」
「……? はい、大丈夫です」
「そう。何か異変があったら、すぐに言うのよ」
「はい、分かっています」
そう言いながらも、志騎の口調は少し硬かった。
安芸はこう言ってくれるが、自分の身体を心配してくれるならば、彼女達が隠している事をきちんと話してほしいと志騎は思っていた。まぁそんな事を言っても安芸が話してくれる可能性は低いので、それをわざわざ口にしようとは思わないのだが。
いや、そもそも隠している事を自分に正直に話してくれないという事は、自分の事などどうでも良いと思っているのでは----。
(……って待て。俺は一体何を考えているんだ)
志騎は不意に浮かんできたその考えを無理やり頭の中から追い出す。自分は一体安芸に、何馬鹿な事を考えているのだろうか。彼女は親に見捨てられた自分をここまで育ててくれたではないか。それに今も自分の身を心配してくれている。そんな安芸を疑うなど、馬鹿げているにもほどがある。
こんな考えを持ってしまうのは、キリングトリガーとゾディアックシステムの件で自分も気づかない内にピリピリしてしまっているからだろう。安芸が作ってくれたご飯を食べてベッドでゆっくり休めば、きっとこんな考えも胸の中の不安も無くなるはずだ。そう信じて、志騎はパクパクとご飯と生姜焼きを食べていく。いつもは見せない志騎の姿に安芸は目を丸くしながらも、ゆっくりと食べなさいと優しく諭すのだった。
食後、歯磨きを終えてから自分の部屋に戻った志騎は明日の授業の予習を済ませると、早めにベッドに入る事にした。いつもは寝る前にテレビを安芸と一緒に見たりするのだが、さすがに今日は体を少しでも休めたいし、胸の中にわだかまる不安も早く消し去ってしまいたい。志騎は部屋の電気を消すとベッドに入り、瞼を閉じる。すると自分の思っていた以上に疲れていたのか、すぐに睡魔が襲ってきた。
(……今日は、よく眠れそうだな……)
口元にうっすらと笑みを浮かべると、志騎は早々と意識を手放すのだった。
きゃああ助けて助けてやめろ来るな化け物あっちに行けうわあああ俺の足がやめろ来るな死ね化け物やめてお願いお願いします助けてくださいお願いしますお願いします何でもしますお願いしま
ガブリ
ひゃああやめろやめろうるさい離せおいふざけるなうるさいんだよさっさと死ね早く死ねそうしたら助かるんだうわああふざけるな俺がどれだけお前に尽くしてきたとうるさいんだよそんなの当たり前だあたしのために死ぬのも当然だ嫌だ嫌だ死にたくないうるさいさっさと死ねあれちょっと待ってなんであたしにいやああああはははざまぁみろお前みたいな女死んで当然だあれどうして俺までやめて
ガブリ
あひゃひゃひゃみんな死んだみんな死んだもうおしまいだみんな死ぬんだ世界は終わるんだそうだどうせ死ぬなら盗もう犯そうだってもう誰もいないしどうせ俺も死ぬんだから最後ぐらいなんでもやって良いだろあはははあれ俺の右手がない血がぴゅーぴゅーだあひゃひゃひゃ本当に噴水みたいだあははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ガブリ
おぎゃあおぎゃあやめてくださいどうかこの子だけは助けてください私は殺していいです何でもしていいですおぎゃあおぎゃあおぎゃあだからこの子だけは殺さないで見逃してくださいおぎゃあおぎゃあおぎゃあ誰か助けて神様お願いですこの子だけは助けてくださいどうかお願いしますこの子だけはおぎゃあおぎゃあおぎゃあああやめてくださいおぎゃあおぎゃあああごめんねあなたを護れなくてごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあお
ガブリ
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い息をつきながら、志騎はベッドの上で自分のシャツの胸元を抑えていた。全身から汗が大量に流れ、そのせいでシャツが体に張り付いて気持ちが悪い。喉はカラカラで、水が無性に欲しかった。そばにある目覚まし時計を見てみると、時刻は四時半。自分がいつも起きている時間よりも一時間ほど早い。だが、今の志騎には二度寝しようという気などまったく起きなかった。
「何だ……今の夢…」
酷い夢だった。悪夢と言い換えても過言ではない。
燃え上がる街並みに浴びるだけで火傷してしまいそうな熱風、何かに殺された人々の死体、死体から漂ってくる血液の臭い、そして人をかみ砕く感触。夢のはずなのに、それはあまりにもリアルすぎてまだ頭にこびりついている。思い返すだけで吐き気がして、志騎は思わず口元を抑えた。
(なんであんな夢を……)
今のようなあまりにリアルすぎる夢を見た事は今まで一度も無かった。あのような映像が流れる映画も見た事はないし、そもそも夢であるならばあれほどリアルなはずがない。志騎は額の汗を拭うと、ベッドからゆっくりと降りた。シャワーを浴びてすっきりしたかったというのもあるし、何よりもまた寝たら今のような夢をまた見てしまいそうで寝る気が無かったからだ。
のたのたととろい動きで着替えを用意すると、志騎は風呂場へと向かったのだった。
シャワーを浴びて体中の汗を流した志騎は着替えて日課の朝食作りに取り掛かったものの、気分までさっぱりする事は無かった。こうして手を動かしていても、頭の中では昨夜の悪夢の光景が離れない。あんなものはただの夢のはずなのに、まるで呪いのように志騎の頭の中に残り続けている。こうして料理のために手を動かし続けていれば少しは気が紛れるかもしれないと思ったが、そう上手くもいかなかった。
やがて安芸も眠りから目覚めて居間にやってくると、志騎はできた料理をテーブルに並べてから安芸と食卓の席に着き、一緒にいただきますと合掌する。それから箸を手にして白米を口にするが、味はよく分からなかった。それどころか、何を食べても美味しいと感じる事が出来ない。そもそも食欲も分からない。どうやら昨日の夢は、自分にかなりの悪影響を与えているようだ。
そして手にしている茶碗の半分まで白米を残してしまってから、志騎は箸を置いた。
「……ごちそうさまでした」
「もういいの?」
明らかにいつもと比べて全然食べていない志騎に安芸が尋ねるが、志騎ははいと答えながら頷くのが精一杯だった。怪訝な表情を浮かべながらも、安芸は志騎に言う。
「朝ご飯をきちんと食べないと、あとが辛いわよ。もう少し食べたら?」
「……すいません。今日はちょっと食欲が無くて……」
やや元気のない声で言われてはさすがの安芸もそれ以上言う事はできなかったのか、それ以上朝食を勧めるような事を言う事はなかった。ただ、体調が悪いようなら今日の学校は休んだらどうと志騎を心配する言葉を言ってくれた。
それに志騎は大丈夫ですと返すと、茶碗と残ったおかずを台所に運び始めた。さすがに悪い夢を見たせいで学校を休みますなど、笑い話にもならないからだ。食欲は無いが、さすがに学校へ行くだけの体力はある。
それから安芸は一足先に学校へ向かい、志騎も神樹館の制服に身を包んでから居間でテレビのニュースを眺めていると、ピンポーンと呼び鈴の音が聞こえてきた。時間帯とこの家に来る人間の事を考えると、きっと銀だろう。志騎は腰を上げると、玄関へ向かって引き戸を開ける。すると案の定、そこにいたのは笑顔の銀だった。
「おはよっ、志騎!」
「……ああ、おはよう。用意するから、ちょっと待ってろ」
そう言ってから志騎が銀に背を向けて部屋へ向かおうとすると、突然右手首が掴まれた。志騎が怪訝な表情を浮かべながら振り返ると、銀が心配そうな表情を浮かべながら彼の顔をじっと見つめていた。
「……なぁ志騎。何かあったのか? なんか、いつもより元気が無いように見えるぞ?」
銀の言葉に志騎は一瞬動揺を表情に出しそうになったが、どうにかそれを防ぐ事に成功する。相変わらず、人の変化には非常に敏感な少女である。
志騎は困ったような笑みを浮かべると、銀に言った。
「別に何もねぇよ。お前の気のせいだろ。さ、分かったら早く手を離してくれ。二人まとめて遅刻になる気か?」
「……分かった」
志騎の言葉に銀は右手首から手を離すが、その表情は今もどこか不安そうだった。志騎は彼女にそんな表情をさせてしまった事に若干の罪悪感を感じながらも、学校へ向かう支度をするために自分の部屋へ向かうのだった。
それからランドセルを背負い、玄関で待っている銀の所に戻ると鍵をかけて彼女と一緒に学校へ向かう。少し元気がないように見えた志騎を気遣ってか、銀は登校中に色々な話題を志騎に振ってくれた。彼女の話に付き合う事で志騎自身の気も紛れ、昨夜の夢の事も徐々に頭の中から消えていく。表面上はよく喋る銀に呆れたような態度を見せながらも、志騎は銀の気づかいに心の中で感謝するのだった。
そして二人は特にこれといった問題もなく、神樹館に辿りついた。普段ならば様々なトラブルに巻き込まれて学校に遅刻しがちな銀だが、今日はそういったトラブルは特に起きず学校に辿り着く事ができた。
「たまにはこういう事もあるんだな」
自分の靴を下駄箱に入れながら志騎が呟くと、先に上履きに履き替えていた銀が何故か胸を張りながら、
「ま、あたしは勇者だし! 日頃の行いってやつだな!」
「そういう事は一か月間遅刻を一回もしなくなってから言え」
うぐ、と銀は志騎の言葉に思わず言葉を詰まらせるものの、朝二人の間に漂っていた不穏な空気はすっかり取り払われていた。
二人が教室に辿り着くと、例の如く須美は自分の席で最初の授業の準備をし、園子は自分の席で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「おはよう、志騎君、銀」
「おはよー」
「おはよう」
二人が来た事に気づいた須美が二人に挨拶をし、二人も須美に挨拶を返す。すると良いタイミングで園子の鼻提灯がパチンと割れ、園子は少しあたふたとした調子で体を勢いよく起こした。
「あわわ~! お母さんごめんなさい~!」
そう言いながら本当に申し訳なさそうな表情で両手を合わせる園子に銀は苦笑しながら、
「園子、まだ朝の学活前だよ」
銀の指摘に園子は恥ずかしそうに笑いながら、
「えへへ~、二人共おはよう~」
園子の挨拶に、銀と志騎はそれぞれ朝の挨拶を返す。
一見いつもと同じ日常だが、四人はこの前生きるか死ぬかの戦いを繰り広げていた身だ。それを思うと、今こうして互いに挨拶を交わしている事が本当に奇跡のように思える。
銀と志騎が席に着くと、ちょうど学校のチャイムが鳴り響き安芸が教室に入ってきた。それから日直の号令と共に規律をすると、教室に備え付けられている神樹の神棚に礼をして再び着席し、本日一日目の授業が始まる。
夢は最悪だったとはいえ、こうして今まで何度も過ごしてきた志騎の神樹館の一日が始まるのだった。
一時間目の次の授業は男女合同での体育だった。今日行うのは100メートルのタイム測定で、校庭では安芸の合図と共に男女四人ずつ走り、タイムを計っている。もちろんその中には、志騎達四人の姿もあった。
志騎が列に並んで自分が走る順番を待っていると、隣で同じように待っている銀が志騎の肩をつついてきた。
「なぁ志騎。折角だし、競争しないか?」
「競争?」
「ああ。買ったら負けた奴の給食のプリンを貰う。どうだ?」
「……乗った」
銀の提案に、志騎は口元に笑みすら浮かべて賛成した。何を隠そう、志騎の好物の一つはプリンなのだ。
いつもはこういう事にはあまり乗り気にはならないが、好物であるプリンが賞品であるならば乗らない手はない。もちろん自分が負けてプリンが銀に取られる可能性も十分にあるが、それを差し引いてもこの勝負に乗る価値はある。志騎が足を軽く伸ばしながら走る準備を整えていると、前に並んでいた走者がスタートを宣言する生徒の合図と共に走り出す。志騎と銀を含めた四人の生徒はそれを確認してからスタートラインの前へと立った。
「あまみん、ミノさんがんば~」
すでに計測を終えていた園子が二人を応援すると、銀が笑いながら手を振り返した。そんな彼女を須美がやれやれと言いたそうな表情で見つめている。やがて前の走者が走り終えると、それを確認した生徒が手を振り上げながら声を上げる。
「位置について!」
その声で四人全員が走り出す体勢を取り、四人の間に少し緊張した空気が漂う。
「用意……ドン!」
そして合図と共に、四人全員が勢いよく走りだした。その中でトップを走っているのはさすがと言うべきか銀だった。志騎も負けじと速度を上げるが、それでも銀には一歩及ぼない。病み上がりだというのに元気な奴だと志騎は呆れを通り越して感心すら抱いてしまう。
だが、感心している状況ではない。後ろから彼女の横顔を見てみると、彼女は口元に勝利を確信した笑みを浮かべていた。このままでは彼女の想像通り勝負は彼女の勝ちとなり、今日の給食のプリンは彼女のものになるだろう。
(させるかよ……!)
ぎり、と奥歯を噛みしめながら志騎がさらに速度を上げようと足に力を込めた瞬間。
左目が突然熱を持ったと同時に体中から凄まじい力が沸き起こり、志騎の身体が前方へと急加速して銀をあっという間に追い抜いた。
「えっ?」
突然の現象に志騎が思わず間抜けな声を上げたのも束の間、あまりの加速に脳の反応が遅れ、志騎は体のバランスを思いっきり崩してしまう。
そしてバランスを崩した志騎は銀を追い抜くと盛大に転がり、数メートル進んだところでようやく止まった。
「し、志騎! 大丈夫か!?」
「ああ……。痛てて……」
慌てて駆け寄ってくる銀にそう返しながら志騎が返事をして立ち上がろうとすると、左足の膝に痛みが走る。よく見てみると、膝小僧の辺りにかすり傷ができてそこから出血していた。そこに安芸が駆け寄って来て志騎の傷の様子を見ながら言う。
「かすり傷ね……。まずは傷を洗った方が良いわね。三ノ輪さん、悪いけれど天海君に付き添って傷を洗ってから保健室に……」
「大丈夫です。一人で行けます」
そう言うと志騎は両足に力を入れて立ち上がった。その際に膝小僧に痛みが走るが、歩けないほどではない。そんな志騎に、銀が不安そうに声をかける。
「志騎、本当に大丈夫か? あたし保健係だし、ついていくぞ?」
「これぐらい大丈夫だ。ちょっと行ってくる」
銀の言葉に志騎は手をひらひらと振って断ってから手洗い場へと歩き出した。足の痛みを庇うためひょこひょことやや危なげな足取りになってしまっているが、幸い歩行に問題はない。
手洗い場へと歩きながら、志騎は先ほどの走行の時の事を思い返していた。
(……一体、あれは何だったんだ?)
突然左目が熱くなったと思ったら全身に力が沸き上がり、その力を上手く制御できず吹き飛んでしまった。あの時自分の身に、一体何が起こったというのだろうか。一応左目に手をやってみるが、もうあの時の熱はすっかり失われてしまっており、体から湧き上がっていた力ももう感じられない。もしや、銀にプリンを取られたくないがために火事場の馬鹿力が発動したのだろうか。
そう考えて、志騎は思わず笑いだしそうになった。さすがに自分はそこまで単純ではないし、その程度で馬鹿力を人間が簡単に発揮できるというのであれば、銀がとっくの昔に発揮している事だろう。
そんな事を考えながらようやく手洗い場に辿り着くと、蛇口のハンドルを捻り水を出す。そして傷口を洗うために膝小僧を水に浸した。
だが、
「……ん?」
そこで志騎はある違和感に気づいた。傷口を水に浸したというのに、傷口に水が滲みこむ時特有の痛みが感じられないのだ。それに訝し気な表情を浮かべながら志騎が膝小僧に視線を向けた次の瞬間、志騎は思わず目を見開いた。
ついさっきまであったのはずの傷口が、無かったのだ。それどころか先ほどまであったはずの傷の痛みすら消失している。一瞬傷があったのは自分の見間違いかと思ったが、さっき感じた痛みがその傷が見間違いではない事を証明している。
ならば、もう傷が治った? いや、ありえない。たとえかすり傷であろうとも、傷が治るには数日はかかるはずだ。人間の傷がそんなに早く治るなど志騎には聞いた事がない。
「………」
いや、正確にはつい最近あった。
自分は覚えていないが、園子達の話によるとバーテックスとの戦闘で負った自分の右腕や傷が、戦闘中に一瞬で治ったらしい。だがそれはあくまでキリングトリガーを使った時の話だし、何よりも今の自分は勇者の姿ではない。傷がそんなに早く治るはずがない。
しかし。
それならば何故、自分の傷は無くなっているのだろう。
「………きっとそんなにひどい傷じゃなかったから、見えなくなってるだけだろ」
自分にそう言い聞かせるように呟くと、志騎は膝を手早く水で洗ってから生徒達が集まっている場所へと戻る。
まるで、目の前で起こった現象から目を背けるように。
なお、銀との勝負は志騎の突然の急加速による負傷により無かった事になった。怪我を負った(銀達からはそう見える)志騎をもう一度走らせるのも酷なのでそれも仕方ないだろうが、プリンを一個多く食べられる機会を失った志騎は少し落ち込むのだった。
体育の授業が終わった後は国語の授業だった。黒板の前で安芸が教科書を読み上げ、須美が非常に綺麗な姿勢で椅子に座りながら教科書を開き、体育の授業で爆走したからか銀は今にも眠りそうな表情で睡魔と戦い、園子は教科書を見ながら何やら楽し気な表情でノートに何かを書いている。あれで安芸の読んでいる箇所等を完全に把握しているのだから、まったく恐るべき少女である。
一方、須美の後ろ斜め右の席に座る志騎は教科書を開きながら、先ほどの百メートル走の時の事を思い出していた。
あの時はあまり深く考え込まなかったが、こうしてじっくりと考えてみるとやはりおかしい。何故急にあのような力が発現し、自分の速度がいきなり速くなったのだろうか。もしもあのまま走行を続けていたら銀は確実に追い越していただろうし、自分の自己ベストタイムも簡単に更新していただろう。あの時の自分には、それほどの力があった。
(……そもそも、何がきっかけだったんだ?)
自分があれほどの力を発揮したきっかけ。銀に勝つためにさらに速度を上げようと足に力を入れた瞬間、力が沸き起こった。ならば、足に力を入れたのがそのトリガーだとでも言うのだろうか。
しかし、そうならば歩く時にもあの未知の力が発現しかねない。それが今まで一度も発現していないという事は、つまりトリガーは別にあるという事だ。では一体、そのトリガーは何なのか?
考えても考えても答えが見つからず、志騎が思わず髪の毛をくしゃくしゃと掻いたその時、変わらず楽し気な表情を浮かべている園子の姿が目に入った。
(ったく、一体何を書いているんだか……)
少し呆れながらも彼女が一体何を書いているのか気になった志騎は少し目を細めて園子のノートをじっと見つめる。とは言っても当然距離もあるので、どうせ見えないだろうなと思った瞬間。
左目が急に熱くなり、園子のノートに書かれている猫の絵が、まるで望遠鏡でも覗き込んだかのように一気に志騎の目に飛び込んできた。
「うわっ!?」
突然の現象に志騎は思わず目を見開いて驚きの声を上げてしまう。しまった、と思った時には時すでに遅く、クラス中の視線が一気に志騎に注がれた。すると当然、安芸から注意の言葉が志騎に飛んだ。
「……天海君。授業中は静かに」
「す、すいません……。ちょっと顔洗ってきます」
志騎が安芸に謝りながら席を立つと、周囲からくすくすと忍び笑いが聞こえてきた。大方今の大声と志騎の言葉から、志騎が居眠りをしていたとでも思っているのかもしれない。だが志騎はそれを無視して教室を出ると足早にトイレに向かう。
(……何となく分かってきたぞ、あの力の発動条件)
最初の力の発動時は、志騎が銀を追い抜きたいと思った時に発現した。
そしてついさっきは、志騎が園子が何を書いているか見たいと思った時に発現した。
つまり。
(こいつは、俺が何かをしたいと思う事がトリガーなんだ……!)
最初は銀を追い抜きたいと思ったから、強力な脚力として。
二回目は園子のノートを見たいと思ったから、人並外れた視力として。
志騎が何をしたいか、より正確に言えば何をするか強く思う事によって、その力は発動する。
そしてその際には必ず、左目が熱くなる。その時左目に一体何が起きているかを、知らなければならない。
志騎は男子用のトイレに入ると、鏡の前に立つ。幸い授業中という事もあってか、周囲に人の姿はない。今ならば何をしていてもバレるような事はないはずだ。
志騎は鏡の前で深呼吸をして目を瞑ると、体育の時の感覚を思い出す。イメージは、力強い脚力で大地を駆け抜けるイメージ。
するとその瞬間、左目が熱くなり体の中から力が溢れ出す。まるで今なら何でもできそうな、全能感にも似た力の奔流。
その感覚に吞み込まれないように気を付けながら、志騎は両目をゆっくりと開く。
そして鏡に映った自分の左目を見て、絶句した。
「何だよ……これ……!?」
鏡に映る自分の左目に映っていたのは、普通の人間の眼球ではなかった。
まるでいくつもの模様を組み合わせたような、不可思議な形をした幾何学模様が左目に出現していたのだ。幾何学模様は青い光を放ちながら、左目の中で踊っている。
その光景に志騎は勢いよく後ずさると、体が背後の壁に鈍い音を立ててぶつかる。それと同時に左目の熱が収まると、眼球に浮かんでいた幾何学模様も消えて元の目に戻った。荒い息をつきながら左目に手をやる志騎は静かに呟く。
「一体……なんなんだ、これ? 俺に、何が起こったんだ?」
今まで自分の身にこんな事が起こった事は一度も無かった。だが、このような現象が起こるきっかけとなった物を志騎は知っている。
キリングトリガー。
刑部姫が開発したあのアイテムを使った事で、このような事になったのだろうか? しかしあれはあくまでも志騎の勇者システムをバージョンアップさせるための物のはずだ。このような現象が起こる事など、本当にあり得るのだろうか。
いや、それだけではない。
体育の時間で負ったはずの自分の怪我が一瞬で治ったのも、まさかキリングトリガーの影響だとでも言うのだろうか。ならば何故、刑部姫はその事を自分に黙っていた? 安芸はその事を知っていた? 知っていて自分には何も話さなかった?
あの二人は……一体、何を知っているというのだ?
「………」
志騎はよろよろと立ち上がると、鏡に映る自分を一瞬見てから教室に戻る。
その胸に、言いようのない不安が沸き上がるのを感じながら。