アクエリアス・バーテックスを倒した翌日、志騎は椅子に腰かけながらある人物がやってくるのを待っていた。目の前にはホワイトボード、さらにその横の壁にモニターが設置されている。一見してみるとどこかの教室のように見えるが、今志騎がいるのは神樹館の教室ではない。そもそも今日は平日で、この会議室にいる勇者は志騎一人しかいない。銀達三人は今日は学校である。志騎がいるのは、いつも定期診断を行っている病院の会議室だ。
昨日アクエリアス・バーテックスを倒した志騎は、睡眠不足による疲労回復と、バーテックス撃退の際に変身した新しいフォームによる影響を調べるため病院に一日入院する事になった。なお、今回検査を行ったのはやはりと言うべきか刑部姫だった。彼女と顔を合わせるのは久しぶりに感じられたが、刑部姫はそのような様子は少しも見せず志騎の検査を淡々と済ませた。面の皮が厚いというべきか、何というか。
刑部姫による検査は朝から行われ、約二時間半ほどで終了した。そして検査終了後、刑部姫にこの後検査結果と伝えたい事があるからこの会議室に来るように言われたのが、自分がこの会議室にいる理由だ。
スマホや本といった暇つぶしの道具もなく、少し退屈な気分を感じながら志騎が一人待っていると、ようやく会議室の扉が音を立てて開かれた。だが、会議室に入ってきた人物を見て志騎は少し驚く。刑部姫の口ぶりからてっきり刑部姫だけが来るのかと思っていたが、入ってきたのは二人の人物だったからだ。
一人はもちろん志騎の相棒精霊、刑部姫。もう一人は志騎の育ての親である安芸だ。当の本人は志騎にちらりと視線をやったものの、すぐに視線を逸らした。
「待たせたな。少し準備するから待ってろ」
「あ、ああ」
志騎の若干の驚きをよそにして、刑部姫は着物からノートパソコンを取り出して机に置くと、ケーブルを取り出してパソコンとモニターを接続する。するとモニターに、検査時に調べたと見られる志騎の身体上のデータが映し出された。
「ではまずお前の今回の検査結果から説明する。結論から言って、検査時のお前の体に異常は見られなかった。だから検査に関しては異常なしだから安心して良い。話が終了したら退院して大丈夫だ」
「ああ、分かった」
あれほどの力を発揮したので何らかの異常が出ているかもと少し思ったのだが、幸い体の方には何も異常は無かったらしい。とは言っても、相手がこれまで様々な隠し事をしてきた刑部姫なので、少し信憑性に欠けるが。するとそれを察したのか、刑部姫が手をひらひらと振り、
「言っておくが、今回は本当に異常なしだ。私も何か後遺症等が残ってないか隅々までチェックしてこの結果だ。だから安心して良い」
「自覚があるなら、その秘密主義を直せよ」
半眼で睨みながら言うと、刑部姫は顔を背けて「……善処する」とだけ呟いた。どうやら、彼女の秘密主義はまだしばらくは続きそうである。
それから顔を元の位置に戻すと、こほんと場の空気を元に戻すように一度こほんと咳をした。
「け、検査結果の話は以上だ。で、これからが私がお前に話しておきたかった事だ」
そう言って刑部姫がEnterキーを押すと、モニターに映っていた志騎のデータが消え、代わりにこの前志騎が変身した新しいフォームが映し出されていた。
「この姿と志騎の勇者システムを解析した結果、これはお前の中の強い感情と勇者システム、そしてバーテックスの細胞が混ざり合う事で新しくできたフォームという事が分かった。名をつけるとすれば……『セフィロティックフォーム』。十一のセフィラをその身に宿した、お前の新しい姿と言ったところだな」
「セフィラ……?」
聞きなれない言葉に訝し気な表情を浮かべながら呟くと、刑部姫がマウスを操作する。するとモニターに、図形のようなものが出現した。十一の円形が、複数の線で繋がれている図形。それを見て思わずあっと声を出した。表示された図形は、志騎のスマートフォンに表示されたものと同じ形をしていたのだ。
「これはセフィロトの樹と呼ばれるものだ。またの名を生命の樹。旧世紀に存在していたカバラと呼ばれる思想に登場するものだ。この図形にある十一の円形が分かるか? これがセフィラだ。これはおおざっぱに言ってしまえば神の特性・性質のようなものでな、一つ一つに名前がある。ケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクト、ダァト。で、セフィロトの樹が何なのかと言うと説明が長くなるから省くが、一説によるとこの樹の力を身に宿す事で、高度な存在へと進化する事が可能と言われている。まぁセフィロトの樹に関しては様々な解釈が存在するからどれが正解だとは言えないんだが、昨日のお前の姿を見るとあながち間違いじゃないと言えるな」
キロリ、と刑部姫の視線が志騎に向く。刑部姫の話を聞きながら、志騎は確かにそうかもしれないと心の中で彼女に同意する。
実際、あの姿になった瞬間から体の内側から凄まじい力が溢れてくるのを感じていた。武器を生成した時や銀達を回復した時も誰かから教えてもらったわけではなく、ただ今の自分ならできるというはっきりとした確信だけがあった。それで実際に試してみた所、本当に武器を生成したり銀達の体を癒す事ができたのだ。理由があるからできるのではなく、ただそれを行う事が可能だからできるという滅茶苦茶な力。あの瞬間、確かに自分は刑部姫の言う通り今よりも高次の存在へと進化していたのかもしれない。
「だけど、どうして俺がそのセフィロトの樹の力で変身する事ができたんだ。その力は一体どこから来たんだ?」
今まで志騎はセフィロトの樹の話など聞いた事もない。だが昨日自分はそのセフィロトの樹のセフィラの力を身に宿し、バーテックスを倒した。一体どういう理由で、自分はセフィラの力を取り込む事ができたのだろうか。
「それは恐らく神樹からだ。前に安芸が言ったが、神樹には地上のあらゆるものが概念的記録として蓄積されている。お前の勇者システムを通して、神樹に蓄積されていた『セフィロトの樹』という概念にアクセスする事で全く新しいフォームを作り出したというのが妥当な所だろう。まぁ、元々この世界にあったセフィロトの樹が神樹に取り込まれていたという事も考えられるが、今この場でそれを考えるのはあまり意味がない。確かなのは、お前が新しい力を手に入れたという事だ。……確認できただけでも、武器生成能力に他者の回復能力。これだけでも強力なのに、極めつけはバーテックスの細胞の阻害能力だ。これはバーテックスに対して圧倒的優位に立つ事ができる能力と言っても良い」
それは無論、昨日のアクエリアス・バーテックスとの戦いの中で志騎が放った一撃の事だろう。その一撃を受けたアクエリアス・バーテックスは回復能力と頑健性を失い、銀達の攻撃は大ダメージとなり、傷を回復する事ができなくなっていた。つまりあの能力を上手く使えば、今後はどのようなバーテックスが来ても有利な条件で戦えるという事だ。
だが、大赦にとっては喜ぶべき情報のはずなのに刑部姫や安芸の表情は硬い。すると理由を説明するために、刑部姫が再度口を開く。
「だが、だからと言って安心できる状況じゃない。お前がその能力を持ったという事はすでにバーテックスも知っているだろうし、今後は四人の中で志騎を優先して狙ってくるだろう。昨日のバーテックスの強化の事もあるし、この先どんな予想外の事が起きても不思議じゃない。で、それを防ぐためにはどうしたら良いかという話だが……安芸」
「ええ」
すると説明は刑部姫から安芸へとバトンタッチし、刑部姫が横にずれ安芸が志騎の前に立つ。
「最近増えているバーテックスの襲撃と、昨日のバーテックスの強化の報告を受けて、大赦の方であなたた達の勇者システムの強化案が出ているの。勇者システムそのものの強化はもちろんだけど、鷲尾さん達三人にはまた別の強化を三人の勇者システムに組み込む予定よ」
「それって……銀達にも、俺と同じような新しいフォームを組み込むって事ですか?」
確かに昨日の自分のような強大な力を持った新フォームに銀達も変身する事ができれば、戦力は大幅に増すだろうが、そんな事が本当にできるのだろうか。
「まだあなたのような新しい姿とは決まっていないけれど……。でもその力があれば、今までより戦いが相当楽になるのは確かよ。おまけに四人の勇者システムの戦闘データから、バーテックスには核らしきものがあるのが分かった。鷲尾さん達の新しい強化で、核に干渉する事ができるようになれば……」
「あいつらでも、バーテックスを倒す事ができる」
志騎の言葉に、ええと安芸が頷く。今まではバーテックスの核を破壊するには、志騎のキリングフォームか新しく発現したセフィロティックフォームしか手段が無かった。しかしもしもその強化で銀達も志騎同様バーテックスの核を直接破壊する事ができるようになれば、バーテックスを完全に倒す事も出来るようになる。そうすれば、バーテックスとの戦いにも終止符を打つ事ができるかもしれない。
「神託によると、しばらくバーテックスによる襲来は無いみたい。大赦はそれまでにあなた達四人全員の勇者システムのアップデート、鷲尾さん達三人にはそれに加えて新しい強化システムを用意する。その旨を、鷲尾さん達に伝えておいて」
「分かりました」
恐らくこの話を聞けば、須美達の戦意はますます高まるだろう。何せ、強化システムが組み込まれれば長く続いたバーテックスとの戦いを自分達が終わらせる事ができるかもしれないのだ。須美は間違いなく張り切るだろうし、銀と園子は間違いなくテンションが上がるだろう。正直、テンションが上がりまくってやかましい事になるかもしれないので二人に関してはほどほどにしてもらいたい。
と、志騎が内心そんな事を考えていると横で志騎と安芸の会話を聞いていた刑部姫が唐突に口を挟んだ。
「ああ、そうだ志騎。セフィロティックフォームの能力に関してだが、お前は今回武器生成能力、他者の回復能力、バーテックスの細胞の阻害能力を使っていたが、恐らくまだ未知の力を残していると私は思っている」
「未知の力……?」
ああ、と刑部姫は首肯し、
「確かにあの力だけでも脅威だが、さっきも言った通りセフィラは神の特性・性質のようなものだ。それらを体に取り込み高次の存在に進化するという事は、一時的に神に近づくという事を意味している。今はまだあの程度だが、力を今よりも操れるようになれば極小範囲での世界改変すら可能になるかもしれん。ま、それはあくまで私の予想だが可能性はゼロではない。来るべきバーテックスとの戦いのためにも、そういった事ができるかもしれないと頭に入れておけ」
「できるかもしれない、だろ? 本当にできるとは限らない」
「可能性があるなら恐らくできる。お前の手に入れた力は、お前が考えている以上に強大だ。それこそ、使いようによっては神になれると言っても過言じゃない」
「神に、ねぇ……」
なんとまぁスケールの大きい話だ、と思う。確かに昨日感じた力はそれぐらい大きなものだったが、だからと言って神になれると言うのは飛躍し過ぎではないかと思う。それにそういう事を言うのは、いくら何でも神樹に罰当たりだろう。とは言っても、目の前にいるのはそういった事にとことん無関心な刑部姫なので気にしても無駄なのだろうが。
「さて、色々と伝えてたがこれで今日の話は終わり……と言いたいところだが、最後に一つだけ伝えたい事がある」
「まだあるのか?」
「そう言うな。こちらはすぐに済む」
そう言って刑部姫は何故かバツが悪そうに髪の毛をくるくるといじると、言いづらそうに口を開いた。
「……その、悪かったな。色々と、お前に関する事を黙っていて」
「………え?」
予想もしていなかった刑部姫の突然の謝罪に、志騎は思わず間抜けな声を出しながら目を丸くする。
「だから、悪かった。立場上お前には色々と話せない事があったが、それでお前を傷つけてしまったのも事実だ。だから、その……済まなかった」
「…………」
しかし志騎は刑部姫の謝罪を聞いているのか聞いていないのか、まるで石のように硬直したまま刑部姫をじっと見つめていた。いつもは滅多に見せない志騎のように、刑部姫は半眼になりながら、
「……何だ。私が謝るのはそんなに予想外なのか?」
「いや、予想外を通り越して、謝るお前の姿が単純に滅茶苦茶喜色悪い」
「安芸、これは私の日頃の行いのせいなのか?」
「それ以外に何があるの?」
フォローを期待して安芸に尋ねたが、親友から返ってきたのは冷たい言葉だった。それを聞いた刑部姫は「そうか……」と呟くと床にしゃがみ込んでのの字を指で書き始めた。相変わらず他人に対しては辛辣かつ冷徹な態度を取るくせに、身内に対してガラスの心な精霊だった。
「私もごめんなさい、志騎。話してはならない事情もあったけれど、刑部姫の言う通りそれがあなたを傷つけてしまった。……でも、これだけは分かっていて欲しいの。私があなたと暮らしていたのはあなたの様子を監視するためというのもあるけれど、それだけじゃない。あなたの事は今でも家族だって思ってる。それだけは、私の正直な気持ちよ。信じてもらえないかもしれないけど……」
安芸の悲しそうな表情から紡がれる言葉を志騎は黙って聞いていたが、やがてふっと柔らかい笑みを浮かべると安芸に言った。
「別に疑うつもりなんてありませんよ。安芸先生にも事情はあったって事はもう十分に分かってますから。それに前にも言いましたけど、安芸先生には感謝してます。だから、謝る事なんてないですよ」
「志騎……」
自分に課せられたお役目の事もあったとはいえ、自分が育ててきた少年の事に思わず安芸の涙腺が緩む。そんな感動的な場面を前にして、刑部姫は不満げに呟いた。
「……いや、おかしくないか? 対応が安芸と私でまったく違い過ぎないか? 何故こんなにも差が出たんだ?」
「さっきも言ったけれど、あなたの場合は日頃の行いのせいよ」
「逆にどうしてお前と安芸先生を同列に扱わなきゃいけないんだ?」
「ちくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
凄まじい慟哭を上げながら、刑部姫は床に手をついた。彼女の姿に、流石に志騎も少しいじりすぎたかと心の中で反省する。こうして一応和解した以上は、前と同じように今夜の食卓に顔を出すだろうし、今夜の夕飯はハンバーグにしてやろうと思う。まぁ、彼女は自分の出した料理なら何でも食べるのだが。
「……ったく。今日の夕飯はハンバーグにしてやるから元気出せよ」
「え、マジでそれを早く言えよまったく意地悪だなお前は一体誰に似たんだかそういう意地悪は大概にしとけよあと私デミグラスソースよりケチャップソースの方が好きだからそれでしくよろ」
「………」
前言撤回。やはりこいつは刑部姫だ。しかもデミグラスソースよりケチャップソースの方が好きというのが自分と同じで非常に腹立たしい。いつもオムライスを作る時はケチャップソースである。
「まぁとにかく、今後は極力お前には隠し事をしないようにする」
「極力、っていうのがミソだな」
つまりは、できる限り隠し事をしないが、それでも時々隠し事はするぞという事だろう。まぁさっき二人が言った通り大赦に務めている以上どうしても話せない事はあるのだろう。あまり許容できる事ではないが、仕方ない。
……ここで仕方ないという考えが思い浮かぶのは、心のどこかで自分も大赦のやり方に一定の理解をしているからだろう。バーテックスから人類を護るというお役目を担っている以上は、そういった秘密を保ち続けなければ組織を保つ事は出来ない。天海志騎という少年の正体を、大赦のほとんどの人間が知らないように。
だが、それが間違っていると簡単に言う事はできない。どれほどの隠し事をしているかは知らないが、大赦が約三百年間人類継続に貢献してきた事は紛れもない事実だ。それだけは、安易に否定されていい事実ではない。
「ああ、それと志騎。今日の検査の結果異常は無かったから、明日からまた学校に通えるようになるわ。だから明日の準備は忘れないように」
「はい、分かりました」
そんなに長く休んでいたわけではないとはいえ、久しぶりの学校だ。安芸先生から教えてもらった予習を行う事はもちろん、明日遅れないように今日は念のために早く寝た方が良いだろう。
「以上で今日の話は終わりだ。病院の方にはすでに話を通しておいたから、この後はもう着替えて退院して良い。安芸、それで良いな」
「ええ。じゃあ志騎、またあとで」
「はい。先に失礼します」
安芸に一度軽く頭を下げると、会議室から出て自分の病室へと向かう。そして病室に戻り、病院着から
私服に手早く着替えると病院を出た。今の時刻は大体午後一時ほど。銀達は今頃学校だろう。やる事も特にないし、一度自宅に戻って軽くシャワーを浴びてから学校の授業の復習でも行う事にしよう。そう考えると、志騎は頭上に昇る太陽の光を全身に浴びながら、自宅への道を歩き始めるのだった。
自宅に戻り軽くシャワーを済ませると、志騎は自分の部屋に向かい勉強を始めた。部屋はカーテンが敷かれていて薄暗く、精神的に追い詰められていたとはいえよく朝からこんな所にいられたなと自分で軽く苦笑する。カーテンと窓を開けて空気の入れ替えを行うと、机に向かい勉強を始める。銀が見たらがり勉などと言われそうだが、こちらは数日学校を休んでしまっていたのだ。少しでも遅れを取り戻さなければならない。
志騎は椅子に座り、学校の授業の復習を始める。しばらく彼の部屋の中には教科書のページをめくる音、鉛筆でノートに問題の答えを書くカリカリという音が響く。
そうして復習を始めて時間が経ち、ようやくひと段落つき両腕をぐぐーっと真上に伸ばすと、背中からぱきぽきと小気味いい音が聞こえた。同時に空腹を訴える腹の虫が鳴いたので時計を見てみると、時刻はすでに三時だった。どうやら時間の経過も忘れるほど、自分は集中していたようだ。
空腹感は感じるものの、今何かを食べると夕食に差し支えるかもしれない。刑部姫に今日はハンバーグと言ってしまったので、夕食のメニューを変える事もできない。いや別に変えても良いのだが、彼女の事だから夕食中ずっと負のオーラを志騎目掛けて飛ばしそうなのでそれはできれば避けたい。
さて、どうするか……と志騎が考えていると、志騎のポケットの中のスマートフォンが震える。スマートフォンを取り出して画面を見てみると、銀からの着信電話だった。よくよく考えてみれば今はもう神樹館の授業が全て終わる頃だ。彼女から連絡が来ても別に不思議はないだろう。通話ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てる。
「はい、もしも……」
『志騎ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!! 検査終わったか!?』
大声が志騎の鼓膜を派手に揺らし、キィィィン……と嫌な耳鳴りがした。志騎が不快気な表情を浮かべながら数回頭をふらふらさせると、電話口の向こうから須美の声が聞こえてくる。
『銀、声大きすぎ!』
『あ、そうだな……。悪い志騎、大丈夫か!?』
「たった今お前のせいで大丈夫じゃなくなったよ」
顔をしかめながら言うと、何故か銀はほっとしたような口調で、
『そういう悪態を言えるって事は、検査は大丈夫だったみたいだな。いやー良かった良かった』
「切って良いか?」
『わー、ちょっと待ってちょっと待って! 志騎、今何してたの?』
「あ? 勉強だよ。しばらく休んでたし、復習してた」
『うっわ、真面目……』
「うるさい。で、一体何の用だよ?」
ただの検査が終わったかの確認ならチャットツールでも十分なはずだが、わざわざこうして連絡を取ってきたのは何故だろうか。
『ねぇ志騎。今からイネス行かない?』
「イネス?」
『そう! 最近ドタバタしてたし、久しぶりにジェラート食べに行こうよ! お前の復帰祝いも兼ねてさ!』
ふむ、と志騎は少し考え込む。今の時間帯からならば夕食を作る時間には間に合うし、ジェラートならば夕食の支障にもならないだろう。それに、今日刑部姫から伝えられた事を銀達に伝えるのにもちょうど良いだろう。
「ん、良いぞ」
『ほんとか!? いよっしゃあ!』
ひゃっほー、と電話の向こうで無邪気に喜ぶ銀の声が聞こえてくる。どれだけ嬉しいんだよと志騎は苦笑いを浮かべながら、銀に尋ねる。
「それで俺は、イネスに行けば良いのか?」
『ああ! あたし達は先にイネスに行ってるから、そこで合流な! じゃあまたあとで!』
「ああ」
それを最後に通話を切ると、志騎はスマートフォンをポケットに突っ込んでから先ほどの銀のはしゃぎようを思い出す。
「ったく、どれだけ嬉しいんだよ……」
久しぶりのイネスだからテンションが上がっているのか、それとも志騎の検査が終わった事がよほどうれしかったのか。まぁ、理由は別にどうでも良いだろう。彼女にとってはきっと両方だし、どちらも彼女にとってはお祝いするほどに嬉しかった事に変わりはないのだから。
志騎は机の上の教科書とノートを閉じると、部屋を出て銀達が待つイネスへと向かうのだった。
「んじゃあ、志騎の復帰を祝って、かんぱーい!」
「「かんぱーい!!」」
「かんぱーい……。ってこれジェラートだけどな」
イネスのフードコートにある四人掛けのテーブル席で、いつも頼んでいるカスタード味のジェラートを軽く掲げながら志騎が言うと、ほうじ茶アンドカルピー味に口をつけていた園子がのんびりとした口調で、
「小さい事は気にしない方が良いんだよ~。大事なのは、あまみんがきちんと帰ってきてくれた事をお祝いする事なんだから~」
「ああ、うん、まぁそうなんだけどな……」
園子から正論を言われた志騎は、カスタード味のジェラートを一口食べる。前に食べた時のジェラートは半分上の空状態で食べていたので、こうしてきちんとジェラートを味わうのはかなり久しぶりのような気がする。すると今度はほろにが抹茶味のジェラートを食べていた須美が志騎に尋ねる。
「それで、検査の結果は大丈夫だったの?」
「ああ。特に異常なし。明日からまた普通に学校に通って良いってさ」
「そうなんだ! クラスのみんな喜ぶだろうなー。みんな、お前の事心配してたし」
「そうなのか」
この三人はともかくとして、クラスメイト達からも心配されていたとは少し驚きである。志騎は基本的に勇者になるまでは銀以外の人間とあまり積極的にコミュニケーションを取る事はしてこなかったので、クラスメイト達からそこまで心配されているという事が少々意外に感じられた。
と、何故か園子がにこにこと笑みを浮かべながら、
「実はミノさんも今日ちょっと落ち着かなかったんよ~。一日中ずっとそわそわしてたし、ここに来る時なんてスキップしてたしね~」
「お、おい園子、やめてくれよ……」
園子の報告に銀が頬を赤らめていると、志騎は怪訝な表情を浮かべながら首を傾げ、
「……? なんでそんな落ち着かない感じだったんだ?」
「むっふっふ~。それはもちろん、あまみんに会えるのがすごく嬉しくて……。むぐぐ」
しかし園子の言葉は、彼女の口を銀の片手が慌てて塞いだ事で残念ながら聞く事は出来なかった。志騎は何やってんだ……と呆れながら刑部姫の話を思い出し、
「ああ、そうだ。お前達に伝えておかなきゃならない事があったんだ」
志騎の言葉で園子の口から銀の手が離され、三人の視線が志騎に向けられると、志騎は今日刑部姫から聞いた話を三人に伝えた。
話が終わると、最初に声を上げたのはやはりと言うべきか銀だった。彼女は目をキラキラとさせながら、
「新しい強化システム……!? 何だよそれ! すげぇカッコよさそうじゃん!」
「うんうん、私もテンション上がってきたよ~! 変身したら、空とか自由に飛べるのかな~!」
自分達に来るであろう新しいシステムに銀と園子が希望と歓喜で目をキラキラさせていると、須美が二人をたしなめるように、
「二人共。嬉しいのは分かるけど、気を引き締めなくちゃ駄目よ。私達の勇者システムが強化されても、それを使ってバーテックスと戦うのは私達なんだから。ちゃんと新しい力を扱えるように、私達ももっと鍛えないと」
実際、この前戦ったアクエリアス・バーテックスも以前戦った時と比べて強化されていた。今はバーテックスの能力を封じる事ができる志騎がいるが、だからと言って彼に頼りきりになっては志騎の負担が増えるばかりだ。新しい力を十全に使いこなす事ができるように、自分達ももっと強くならなければならない。すると、須美の言葉を聞いて銀が腕組みをしながら神妙な面持ちで、
「確かに、志騎はともかく今のあたし達じゃまたあんなバーテックスが来たらこの前の二の舞だろうな……。須美の言う通り、今の内に鍛えておかないと。なぁ志騎、バーテックスの襲来はしばらくないって神託が来てるんだよな?」
「ああ。安芸先生はそう言ってた。まぁ、それがいつまでかはさすがに分からないだろうけど……」
「でも、その間にちょっとでも強くなるのは大事な事だよ~。備えあれば憂いなし~」
いつもと変わらないのんびりした口調ではあるが、園子の目は真剣そのものだ。そしてその心は他の三人も一緒だ。相手が未知の怪物である以上、強化された勇者システムがあれば大丈夫などという楽観論は当てにならない。自分達の大切な友人を死なせないためにも、この世界を守るためにも、少しでも強くなる必要がある。大切な友人達の顔を見ながら、四人は心に誓った。
「----でもまぁ、あまり気負い過ぎてたらバーテックスと戦う前に疲れちゃうし、たまにこうしてジェラートやうどんを食べに来ようよ! たくさん食べて、たくさん動く! そうすればバーテックスが何体来ようとあたし達なら大丈夫だって!」
「……言ってる事はそれっぽいけど、お前は単にイネスに来たいだけじゃないか?」
「えっ!? い、いやぁ、そんな事は無いぞ?」
「目が泳いでるわよ、銀」
目が高速で左右に泳ぐ銀を見て志騎と須美はやれやれと呆れが混じった笑みを浮かべ、園子もクスクスと笑う。そんな和やかな雰囲気を感じながら、志騎はジェラートを一口食べる。
「ま、バーテックスに関しては大丈夫だろ。刑部姫の奴もいるし、何かあったらあいつから……どうした? お前ら」
何故か刑部姫の名前を出した途端、目の前の三人の空気が変わり、志騎は思わず目を丸くする。具体的に言うと、空気が急にピリッとしたというか、三人の表情がかすかに険しくなったのだ。確かに銀や須美は刑部姫との仲はあまり良くなかったが、園子は彼女を『姫ちゃん』と呼んでいたから彼女自身はそこまで刑部姫を嫌っていなかったと思っていたのだが。
「あー、悪い。お前がいない間にちょっと色々あってさ。できれば今は刑部姫の名前をあまり聞きたくないというか……」
「え、そこまでか? 確かにあいつの性格は正直腐ってるけどさ、聞きたくないって言うほど?」
驚きながら志騎が尋ねると、三人は迷わずこっくりと頷いた。マジかよ、と小さく呟いてから志騎は軽く目を見開く。前まで彼女をそこまで嫌っていなかった園子にまでこのような態度を取られるとは、一体彼女は自分がいない間に彼女達に何をしたのだろうか。三人に聞いても良いが、そうなったら三人の機嫌がさらに悪くなりそうなのでこれ以上踏み込むのはやめておくとしよう。
そう思いながら志騎がさらにジェラートを舐めようとすると、銀の口から予想外の言葉が飛び出した。
「なぁ志騎。あいつはお前の精霊だからこんな事言うのもあれだけどさ、気をつけろよ? あいつの言いなりになってたら、いつ日かほんと大変な目に遭うぞ? いくらお前の母ちゃんだからって、言いなりになっちゃ駄目だぞ?」
「----は?」
恐らく今日一番の予想外の言葉に、志騎は間抜けな声を出しながら銀の顔を凝視する。ジェラートを舐めている最中に言ってしまったので、コーンに盛られていた少量のジェラートがテーブルへと垂れる。しかしその志騎の様子は銀にとっても予想外だったようで、彼女は少し驚いたような表情を浮かべながら、
「え、志騎お前まさか聞かされてないのか?」
「聞かされてないのかって、何が? いや待て。それ以前にあいつが俺の母親ってどういう事だ? 一体お前達は俺がいない間に何を聞かされたんだ?」
困惑した表情を浮かべながら尋ねる志騎を見て、本当に自分の身の上を知らされていないのだと気づいた三人は顔を見合わせる。それからここではぐらかしても志騎からの追及が止む事はないだろうと言葉を交わさずとも察した三人は、志騎にこの間自分達が刑部姫から聞いた話を彼に伝えた。
刑部姫が、元々氷室真由理という、大赦の科学者であった事。
彼女がバーテックス・ヒューマン計画に使う遺伝子を提供した人物、つまり遺伝子上ではあるが一応志騎の母親である事。
氷室真由理の人格と頭脳をデータ化し、精霊に移した存在が刑部姫という精霊であり、氷室真由理当人はすでに死亡している事。
などなど、彼女達が刑部姫から聞かされた話を全て志騎に伝えた。
そして、ようやく銀達が話し終えると。
「…………」
ずーん、と効果音が鳴りそうなほど暗い空気を背負いながら、志騎はテーブルに突っ伏してしまっていた。情報量があまりに多かったのも理由の一つだろうが、やはり刑部姫----氷室真由理が彼の母親だったという事にショックを受けているのかもしれない。今まで見た事が無い幼馴染の姿を目の前にして、銀は恐る恐るといった口調で言った。
「えっと……お気持ち、お察しいたします……」
「……やかましい……」
返ってくる言葉にも力が無い。彼の手の中にあるコーンの上のジェラートはまた溶けそうになっている。なんと声をかけて良いか分からず、三人は困ったような表情を浮かべながら自分達のジェラートを神妙に舐める。
一方、机に突っ伏している志騎は銀達が考えている通り、彼女達からもたらされた情報に強いショックを受けていた。刑部姫がかつては人間だったいうだけでも驚きだというのに、その上彼女が自分の遺伝子上の母親だったというのはあまりにインパクトが強すぎる。おかげでこうして頭の中の情報を必死に整理するので精一杯の状態である。
だが、情報を整理していくうちに、志騎の胸の中である疑問が沸いてきた。
「………死ぬ前の氷室真由理は、どんな人だったんだろう……」
自分を生み出した張本人であり、大赦の科学者。そして刑部姫の前身とも言える人間、氷室真由理。自分の記憶から消えた彼女は一体どのような人間だったのだろうか。安芸が親代わりだったため生みの親というものをあまり知らずに育った志騎にとって、それは何よりも気にかかる疑問だった。
彼の言葉に三人は顔を見合わせると、口々に氷室真由理の人物像を予想しながら呟いていく。
「どんな人か……。安芸先生の友達で、大赦の科学者で、志騎君のお母さん……」
「でも、あまみんには悪いけど、良い人とはちょっと思えないよね~……」
「あの刑部姫の性格の元になった人だからな……」
三人からの評価はかなりひどいが、正直今までの刑部姫の態度や言動を見ると悪い印象しか抱けないだろう。
天上天下唯我独尊にして傲岸不遜。毒舌家で人間嫌い。なのに頭脳と才能は紛れもなく天才だからどうしようもない。当然氷室真由理本人には会った事は無いが、まず園子の言う通り善人ではないのは間違いないだろう。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
氷室真由理という人物は、本当にそれだけの人物だったのだろうか。
志騎はようやくむくりと顔を上げると、三人に告げた。
「……帰ったら、刑部姫と安芸先生に俺の記憶の封印を解除する事は出来ないか話してみる」
「封印された記憶って……鳥籠の時の?」
銀の言葉に、志騎はこくりと頷く。が、それを聞いた須美は少し不安そうな表情を浮かべると志騎に尋ねる。
「志騎君、良いの? 自分の記憶の事が気になるのは分かるし、あなたが本当に自分の記憶を取り戻したいなら私達は反対しないけど、記憶を取り戻す事があなたのためになるとは限らないのよ? ……それなのに、どうして記憶を取り戻したいって思ったの?」
須美がそう尋ねるのも無理はないだろう。彼女達から話を聞く限りでは、鳥籠とやらの場所にいた時の自分はまともな人間としての扱いをあまり受けていなかったように感じられるからだ。仮に記憶を取り戻す事が出来たとしても、それで志騎に何かの得があるわけではないし、むしろ思い出す事が辛い気持ちになってしまう事だって十分に考えられる。封印されていたという彼の過去の記憶が気になるのは分かるが、それならば記憶を取り戻すより、このまま記憶が封印されていた方が良いのでは----。きっと三人は、そう考えているのだろう。
三人の自分を心配する気持ちを痛いほどに感じながら、志騎は口を開く。
「確かに俺の記憶を取り戻す事に何らかの意味があるかは分からない。正直、俺が記憶を取り戻したいのは、氷室真由理っていう科学者がどういう人間なのか知りたいっていうただの自己満足だ。他人から見たらそんなに重要な理由ってわけじゃない」
けど、と一拍置いてから、
「本当に意味がないとしても、俺の自己満足だとしても、俺は知りたい。氷室真由理がどんな人間で、どういう気持ちで俺に接していたのか。過去の俺はどんな事を考えていて、どんな性格だったのか。俺はそれが知りたい」
それからまたもや溶けかかっているジェラートを一口舐めると、何故か苦笑を浮かべて、
「ま、それにだ。確かに氷室真由理は性格最悪の科学者だったかもしれない。……だけど、それでもやっぱり人から忘れられるのも、忘れるのも悲しい事だと思うんだ。氷室真由理がどんな人間だったとしても、俺はそいつを忘れたままになんてしておけない。だから思い出したい。それだけだ。……おかしな理由だろ?」
志騎はそう自嘲するが、三人の口元に浮かんでいたのは温かな笑みだった。三人の予想外の反応に志騎が思わず目を丸くすると、銀はにひひと笑いながら、
「おかしくなんてないよ。志騎の言ってる事、少し分かるし」
「そうね。私達も、もしも四人の誰か一人でも忘れてしまったら、忘れたままになんてしておけないもの。どんな手を使っても思い出したい。私があなたの立場だったら、きっと同じ事を思うわ」
「……そうか」
銀と須美の言葉に志騎は少し照れくさそうに頬をポリポリと掻くと、園子がいつも通りののんびりした口調で、
「それにしても、良い言葉を言うね~あまみんは。そうだ! 今の言葉を今度私の小説のあまみんにも言わせてあげよ~っと!」
「おいやめろ」
志騎からの冷たい言葉に園子はええ~っ!? と割と本気でショックを受けた様子を見せ、銀はあははと声をあげて笑い、須美もクスクスと静かに笑う。志騎はったく、と呆れながら再びジェラートを舐めるのだった。
その日の天海邸の夕食は、志騎が宣言した通りハンバーグとなった。トマトケチャップがたっぷりかかったハンバーグの横には、ポテトフライと人参、ミニトマトにブロッコリー、さらに天海邸ではおなじみとなったピーマンの千切りが添えられていた。
ピーマンにげんなりした表情を浮かべながらも綺麗な所作で夕食を口に運ぶ安芸、ハンバーグを口に運び今日の料理の出来の良さを確認する志騎の横で、刑部姫がハンバーグだけではなく盛り付けの野菜にまでケチャップを大量にかけるのを、志騎はゴミを見る目で見ていた。自分もケチャップは好きだが、さすがにここまではしない。安芸も刑部姫の所業は目に入っているはずだが、特に注意もせず黙々と夕食を食べている。彼女にしては珍しい反応だが、恐らくこれまでに幾度か注意したものの、一向に直す気配が無いのでもう諦めたのだろう。正直刑部姫に注意したかったが、この後に持ち掛ける話題の事を考えると今はあまり彼女の機嫌を損ねたくない。
志騎は白米が盛られた自分の茶碗を目の前に置くと、意を決して刑部姫に話しかける。
「刑部姫、頼みがある」
「頼み? お前から私に頼み事とは随分珍しいな。なんだ、小遣いでも欲しいのか?」
けたけたと刑部姫が明るく笑いながら言うと、志騎はごくりと唾を飲み込みながら言った。
「ああ。……俺の鳥籠の時の記憶の封印を、解除して欲しい」
志騎の口からその言葉出た直後、刑部姫の顔が真剣なものに切り替わり、安芸の表情が強張る。沈黙がさっきまで明るかった食卓を支配してから数秒経つと、刑部姫が手にしていた茶碗を置いてため息をつく。
「話したのはあのガキ共か……。ま、それを知っているのは私と安芸とあいつらしかないからそれも当然か……」
「できるか?」
その言葉に刑部姫はあっさりと頷き、
「ああ、できる。あくまでお前の記憶にかけたのは封印であって消去じゃない。場所を選ぶが解除自体はできる。……だがその前に一つ、私からも聞いていいか?」
「何だ?」
「何故、記憶を取り戻したい? 確かに記憶が封印されているのは気持ち悪いかもしれないが、別に今のお前にでかい影響をもたらすものでもない。別に封印されたままでもお前には何の問題もない。それどころか、記憶を取り戻す事でお前の精神に何らかの影響を与える可能性すらある。それなのに何故、お前は過去の記憶を取り戻したいと思うんだ?」
やはり刑部姫にしても、気になるのはそこらしい。ちらりと安芸の方を見てみると、彼女も心配そうな表情を志騎に向けている。彼女も刑部姫と同じ気持ちなのだろう。だったら、自分も自分の本心を彼女達に打ち明けなければならない。ただ要望だけを言って、自分の気持ちを打ち明けないのは、いくら相手が刑部姫でもフェアではないからだ。
「銀達にも似たような事を聞かれたけど……一言で言えば、氷室真由理っていう人間を知りたいっていう俺の自己満足だ」
「何っ?」
そう言った刑部姫の声音には、呆れよりも困惑の感情が強く滲み出ていた。彼の記憶を取り戻す理由が、かつての自分を知りたいという事にさすがの彼女も戸惑っているのだろう。そんな刑部姫が少し珍しくて、志騎は思わず口元に小さく笑みを浮かべながら続ける。
「お前の言う通り、記憶を取り戻しても俺に何かの影響があるかは分からない。もしかしたら思い出さなかった方が良いと思うかもしれない。……でも、俺には確かに鳥籠って所にいた時の記憶があって、俺を作り出した大赦の科学者で、安芸先生の友達だった氷室真由理っていう人がいた。……どんな理由があっても、俺と接していた人を忘れたままになんてしておけない。そいつがどれだけ性格最悪の人間だったとしても、どんな性格で、どんな事を考えていて、どういう気持ちで俺と関わっていたのか。できるのなら、俺はきちんとそれを思い出したい。……ただの自己満足かもしれないけど、それが俺が記憶を取り戻したい理由だ。……不服か?」
言いながら刑部姫の顔を見ると、彼女は今まで志騎が見た事が無いぐらい複雑そうな顔をしていた。眉間にしわを寄せて、唇を強く噛みしめている。彼女のこんな表情は、今まで見た事が無かったのと同時に、彼女もこんな表情ができるんだなと少し酷い感想を浮かべてしまったが、そう思うのは許してほしいと心の中で思った。
刑部姫はしばらく黙りこくっていたが、やがて髪の毛をくしゃくしゃと乱暴に掻くと、
「ああくそ、分かった。明日神樹館の授業が終わり次第、いつも検査をしている病院に来い。安芸、すまないが明日志騎を病院に連れて来てくれ」
「ええ。分かったわ。志騎もそれで良いわね?」
「はい。……刑部姫、ありがとうな」
「私は別に構わん。礼なら安芸に言ってやれ」
刑部姫は手をひらひらと振りながら返すと、安芸は口元に笑みを浮かべながら首を横に振り、
「私も良いわよ。むしろ、志騎がそう言ってくれて少し嬉しいわ」
「嬉しい、ですか?」
ええ、と志騎の言葉に安芸は頷きながら、
「これはあなたと同じ、私の自己満足に過ぎないけれど……。例えどれほど性格に難があっても、やっぱり親友の事を覚えていてくれる人が私以外誰もいないっていうのは、少し寂しいもの」
するとよほど安芸の言葉が予想外だったのか、刑部姫の目が真ん丸に見開かれる。それから珍しい事に----本当に、本当に珍しい事に----彼女の頬がほんのりと朱色を帯びる。そしてそれを隠すようにご飯を一気にかきこむと、志騎に空になった茶碗を突き出す。
「し、志騎! お代わりくれ! 今日は少し頭を使い過ぎて腹が減った!」
そんな非常に珍しい刑部姫の様子に、志騎と安芸は顔を見合わせて笑うと、刑部姫の茶碗を受け取って注文通り白米を大量によそってやるのだった。