刑「では安芸目線による私と安芸の出会いを、どうぞお楽しみあれ」
志騎が退院した翌日の朝、銀は天海邸の前で一人佇んでいた。
「………」
何も言わず神妙な表情を浮かべている彼女の目の前には、自分がこの家に来るたびに押し続けてきた呼び鈴がいつもと何ら変わらず設置されている。呼び鈴を押せば、この前まで送っていた日常通りに志騎が出てくるはずだ。なのに、何故か今日は緊張による心臓の音がうるさくてなかなか目の前の呼び鈴が押せなかった。さっきから呼び鈴を押そうとしても、すぐに指を引っ込めてしまうという事を繰り返しているほどである。
「………あー、くそっ」
数回繰り返した後、銀は大きく深呼吸をすると、意を決して呼び鈴を押そうとする。しかしまさに銀の指が呼び鈴を押そうとした直前、彼女の指が止まった。それは彼女の意志によるものでは無く、突然目の前の引き戸が開けられたからだ。
「おはよう、銀。……何やってんだ?」
そこにいたのは、神樹館の制服に身を包んだ志騎だった。彼は呼び鈴を押そうとしている体勢のまま硬直した銀を訝しげに見る。一方、不意を突かれた銀は突然現れた志騎に目を丸くしたものの、すぐに我を取り戻すと左手で頭を掻きながらあははと笑い、
「いや、ちょうど今呼び鈴を押そうとしたらお前が急に出てきてさ、ちょっとびっくりしたんだよ。でもあたしが呼び鈴押すよりお前が出てくるなんて珍しいな」
「中々呼び鈴が鳴らなかったから、念のために見に来たんだ。お前が寝坊したって事も考えられるし」
「なんだ、そうだったのか。でもわざわざあたしがいるかどうか確認しに来るなんて、もしかして一緒に学校に行くのがそんなに楽しみだったのか?」
ようやく調子を取り戻してきた銀はそんな軽口を叩く。それを聞いて、何言ってんだお前と志騎の口から呆れた言葉が飛んでくるだろうなと銀は予想していたが、彼の口から飛んできたのは予想外の言葉だった。
「……そうだな。ここしばらく忙しかったし、楽しみじゃなかったと言えば噓になる」
「--------」
志騎の言葉に、銀は目を見開くと同時に自分の顔がかっと熱くなるのを感じた。心臓の音がバクバクと高鳴りし始め、うまく舌が回らなくなる。
「な、なんだ、そうだったのかー。あはは……」
結局自分の口から出たのは、力の抜けた声だった。しかしそんな幼馴染の異変に気付かず、志騎はくるりと銀に背中を向けながら言う。
「ランドセルを持ってくるから少し待っててくれ」
「わ、分かった」
家の中に戻る志騎の背中を見ながら、銀は深呼吸を数回する。するとようやく自分の顔の熱さと心臓の高鳴りが収まって来て、ほっとすると同時に一体何だったんだ? と自分の体の異変に少しの間首を傾げるのだった。
それからすぐにランドセルを背負った志騎が戻って来て、引き戸の鍵をしっかりと掛けると銀に向き直る。
「じゃあ、行くか」
「ああ。……そうだ。志騎。折角だし、手を繋いで行かない?」
言いながら銀が右手を差し出すと、銀の顔を志騎は怪訝な目で見ながら、
「はぁ? 何でそんなガキみたいな事……」
「良いじゃんか別に。それにあたし達まだ子供みたいなもんだしさ。……それともあたしと手を繋ぐのは、嫌か?」
銀が寂しそうな表情を浮かべると、志騎は少し顔をしかめながらため息をつき、
「……学校が見える前には離すからな」
「……! ああ!」
直後、笑顔になった幼馴染にやれやれと肩をすくめながら、志騎は銀の手をきゅっと握る。
握った手の暖かさと柔らかさが伝わってきて、それが今の銀には無性に嬉しかった。少し前まで、もう握れないのかと思っていた手。それが今こうして日常の中でまた握る事ができている。それが今の銀には嬉しかったし、表情には出さないが志騎も似たような気持ちだった。
そして二人は志騎の宣告通り、神樹館の校舎が見えるまで手を繋ぎながら歩くのだった。
ずっと自分達が過ごしてきた、日常通りに。
神樹館に到着した二人は下駄箱で上履きに履き替えてから自分達の教室に向かうと、志騎にとっては何日かぶりになる教室の中を覗き込む。
教室にはすでに何人かの生徒達がおり、友達と話したり読書など自分の趣味に没頭したりと、思い思いの時間を過ごしている。ちなみに須美と園子もすでにおり、須美は今日一日の授業の確認、園子は自分の机ですぴーすぴーと寝息を立てている。相変わらず、二人の性格がよく分かる朝の過ごし方だった。
「こうして見ると、以前とあまり変わらないように見えるな」
「いやいや、そう見えるのは外見だけで、きっとお前が入っていたらわーってなるに違いないって! 志騎は勇者なんだし、それぐらいありえるって絶対!」
「んな馬鹿な……」
銀の力説に苦笑しながら、志騎は教室の中に入ると一直線に自分の机に向かう。
その瞬間、クラスにいた生徒達の視線が志騎に向かった。それに戸惑いながらも表情には出さず、志騎は自分の机にランドセルを置くと少しぎこちなく朝の挨拶をする。
「えっと……おはよう。久しぶり」
直後。
銀の言った通りわーっ! とはさすがにならなかったが……、須美、園子、銀を除く生徒達が一斉に志騎の周りに集まった。突然集まってきたクラスメイト達に目を白黒させる志騎に、クラスメイト達が次々に声をかける。
「天海、久しぶりー! 何日ぶりだ!?」
「退院したって事は、体調良くなったんだよね!? 良かったー」
「本当はお見舞いに行きたかったんだけど、安芸先生からお見舞い行くのも避けるように言われてたし、どこに入院してるのかも教えられなかったしさ。心配したよ」
「今日の授業で分からない所とかあったら言ってね。ノート見せてあげるから」
発せられる言葉は全員違うが、そこにあるのは紛れもなく志騎の事を心配する気持ちだった。これほどまでに志騎がクラスメイト達から心配されていたのは勇者としての知名度もあるかもしれないが、やはり志騎の人間性というものをクラスメイト達がきちんと理解していたからだろう。今まであまりクラスメイト達と接した事が無かったと思っていた志騎だったが、どうやら人というのは本人の知らぬ所でそういう所をきちんと見ているものらしい。その事に若干の照れ臭さとそれ以上の嬉しさを覚え、志騎はクラスメイト達一人一人に感謝を込めた返事をしていった。
そしてクラスメイト達との話が終わると、志騎はふぅと軽く息をついてから銀と須美がいる須美の席に向かう。すると、先ほどまでクラスメイト達に囲まれていた志騎を見ていた銀がにししと笑いながら、
「ちょっとした有名人じゃん」
「やめてくれ、さすがに少し恥ずかしい」
銀の言葉に志騎が手をひらひらとしながら返すと、状況を見ていた須美がニコニコしながら、
「それだけみんな、あなたの事を心配してたって事よ」
「……そうみたいだな」
腕を組みながら軽く笑みを浮かべて言うと、それまで寝ていた園子の鼻提灯がぱちんと弾けた。む~……と眠たそうに眼をこすりながら頭を上げると、彼女のぼんやりと開いた目が志騎の顔を映した。
「あまみんおはよ~」
「おう、おはよう。寝起き早々に悪いけど、机に涎が垂れてるぞ」
「ええ~!?」
志騎の言葉に慌てて園子が自分の机を見てみるが、涎らしきものはどこにもない。そんな園子を見て、志騎は何故かくっと笑いながら言う。
「冗談だよ」
「あ、そうだったんだ~。良かった~」
志騎の冗談に気を悪くする様子もなく、園子はほっと胸を撫でおろした。するとそんな志騎を銀と須美が何故か真剣な表情で見ているのに志騎が気づき、二人に尋ねる。
「どうした?」
「いや、お前が笑いながら冗談を言うなんて珍しい事もあるもんだなと……」
「本当ね……。いつもの志騎君ならそんな事言わないと思ってたから……」
「お前らは俺を何だと思ってるんだ……」
二人の反応に志騎がぼやいた直後、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。銀と志騎がそれぞれの席に戻ると、タイミングよく安芸が教室に入ってきた。おはようございます、と生徒達に朝の挨拶をしてから一度志騎に視線をやり、すぐに視線を外すと生徒達に言う。
「もう皆さん気づいていると思いますが、ここ数日入院していた天海君がクラスに戻ってきました。これは喜ぶべき事ですが、天海君はまだ病み上がりですので、もしかしたらまた体調が悪くなるかもしれません。もしもそれを確認したら、すぐに先生に連絡するようにしてください。天海君も、もしも体調が悪くなったら周りの人や先生にすぐに言うように。良いですね?」
安芸からの確認の言葉に志騎を含めた生徒達からはい、という返事が返ってくると、安芸は笑顔を浮かべて頷いた。それから日常である生徒の出席の確認と神樹への礼を行った後、いつも通り授業が始まるのだった。
志騎にとっては数日ぶりとなる授業だったが、日頃行っている復習と昨日行った予習のためか、授業に支障を来す事もなく、その日の全ての授業は何の問題もなく終わった。そして、志騎にとってはまさに待ちに待ったと言える瞬間がやってくる。
夕礼を終えた志騎はランドセルに教材を詰め込むと、教卓で自分を待つ安芸の元へと向かう。無論、彼女と一緒に刑部姫が待つ病院へと向かうためだ。そして安芸と一緒に廊下に出たその時。
「志騎! 安芸先生!」
二人の背中に声がかけられ、二人が振り向くとそこには銀、須美、園子の三人が立っていた。
「どうした? お前ら」
自分達を見つめる三人に志騎が声をかけると、須美が三人を代表するかのように口を開く。
「志騎君、安芸先生。その……私達もついていってはダメですか?」
「ついていくって……病院に? どうして?」
「いや、その……なんていうか、志騎一人だけ行かせるのはちょっと不安っていうか……。ほら、記憶の封印を解除するのは刑部姫だろ? あいつにやらせたらなんか志騎の性格や記憶に変な操作をしそうでちょっと不安っていうか……」
「それに、記憶が戻ったらあまみんの性格が変わっちゃうんじゃないかって思っちゃったんだよね~。そうならないとは、私も言い切れないから……」
不安げにごにょごにょと口の中で銀が呟き、園子が困ったような笑いながら補足する。要するに、刑部姫一人に任せていたら志騎が自分達の知らない志騎になってしまいそうで不安だ。だから自分達も一緒についていって、そうならないか確認しに行きたいという所か。彼女達の刑部姫の態度を考えれば仕方がないが、きっとそれ以上に彼女達の心を不安にさせているのは、記憶を取り戻した志騎が自分達の知らない志騎になってしまうのではないかという事だろう。過去の記憶を取り戻したところで志騎の性格が変わるとは思えないが、万が一という事も考えられる。それを考慮すると、彼女達の心配も仕方がないと言えるだろう。
志騎が安芸の顔を見上げると、彼女は自分の顔をじっと見返してきた。志騎が良いと言うのなら、自分は特に反対しないという事だろう。いちいち言葉に出さなくても、長い間一緒に暮らしていれば彼女の言いたい事は大体分かる。志騎は安芸から銀達に視線を戻すと、
「良いよ、ついてきて。まぁ刑部姫の事だから変な事はしないと思うけど、念のためにな」
「……本当か!? やったー!」
断られる可能性も予測していたのか、銀は志騎の言葉に嬉し気な声を上げる。こうして許可を得た三人は志騎と安芸と一緒に、志騎がいつも定期健診を受けている病院へ安芸の車で向かうのだった。
「チッ」
病院に到着し、検査室に入った五人を始めに迎えたのは、椅子に座った刑部姫の舌打ちだった。無論これは志騎と安芸に向けられたものでは無く、予想外の客人である三人に向けられたものだ。一方、そのような対応は予測していたのか銀は顔をしかめながら、
「人の顔を見るなり舌打ちってずいぶんな挨拶だなぁ。挨拶ぐらい普通にできないのか?」
「何故勝手についてきたお前達に挨拶をしなければならない。むしろとっとと消えて欲しいんだが」
「勝手についてきたのは本当だけれど、それでもきちんと挨拶をするのは人として当たり前の事じゃない?」
「だからお前達にも挨拶をしろと? はっ、寝言は寝て言えよクソガキ共。そのまま永遠に眠り続けてもらって構わないぞ」
「……私、やっぱりあなたが大嫌い」
「ははは。気が合うな。私もお前達が大嫌いだ」
「「「「………」」」」
軽いジャブだと言わんばかりの舌戦の後、四人の視線がバチバチとぶつかり合う。下手をしたら、即座に相手に掴みかかりかねない雰囲気だ。一方、刑部姫と三人の舌戦を改めて目にした志騎は、こいつらこんなに仲が悪くなってたのか……? と冷や汗を垂らしていた。もうここまで来ると、関係の修復は不可能なのではないかと思えるほど悪化している。本当に自分がいない間に刑部姫は何をやらかしたのだろうか。
「まぁ良い。志騎もあまり時間を掛けたくないだろうか、早く済ませる事にしよう。処置をするために麻酔をかけるから、そこに寝転がってくれ」
そう言って刑部姫が指さしたのは、検査室に置かれている質素なベッドだった。それから銀達三人を不機嫌そうな目で見た後、安芸に言う。
「安芸。お前はそいつらを連れて廊下に出てくれ。目障りでたまらん」
「待てよ。お前と志騎を二人っきりにできるわけないだろ」
「知るか。さっさと出ろ。それとも、力づくの方が良いか?」
「やってみろ」
刑部姫と銀の距離が縮まり、二人の間の空気が一気に険悪な状態になる。しかしその時、まるでその空気を破るように志騎が言った。
「銀。俺は大丈夫だ。お前は須美達と一緒に外に出ていてくれ」
「けど、志騎……」
銀が不安そうな表情を浮かべながら口を開こうとすると、志騎は彼女を安心させるように笑みを浮かべながら、
「こいつは確かに何をしでかすか分からないけど、少なくとも俺や安芸先生がいる前で変な事を起こすほど馬鹿じゃない。だから安心して待っててくれ」
「むぅ……」
銀はそれでもなお何か言いたそうだったが、さすがに当の本人にそこまで言われては彼女も強く出る事は出来ず、渋々と「……分かった」とだけ呟いた。それから安芸に連れられて三人は検査室から出ようとするが、部屋を出る直前やはり心配だったのか三人が志騎に言った。
「危なくなったら大声出すんだぞ!」
「何かされそうになったら、突き飛ばしてでも逃げてくるのよ!」
「ジェラート奢ってあげるって言われても、言う事聞いちゃ駄目だよ~!」
「私は誘拐犯か!? ああ!? ぶち殺すぞゴラァ!!」
あんまりな言い様に刑部姫がドスの低い声を出すが、三人はすでに安芸と一緒に検査室を出ていた。クソガキ共が……と忌々し気に呟く刑部姫を見て、志騎はため息をつく。
「本当にあいつらに何したんだよお前……。あの三人が他人にここまで言うなんて見た事ないぞ……」
「あいつらには何もしてない。それより、さっさと始めるぞ。……その前に、本当に良いのか?」
最後に確認の言葉を投げかける刑部姫に、志騎は何の迷いもなくこくりと頷いた。その目に宿る覚悟を目にした刑部姫は、そうか、とだけ呟くと麻酔薬の入った注射器を手にする。それを見た志騎がベッドに寝転がると、刑部姫は志騎の右腕の一部分をアルコールの染み込んだ布で丁寧に拭く。
「お前が寝ている間に、記憶にかけられている封印の術式を解除する。解除自体はすぐに終わるが、麻酔が切れて目を覚ますのは大体一時間後ぐらいになると思う。目を覚ます頃には、お前は記憶を取り戻しているはずだ」
「分かった。……じゃあ、頼む」
「ああ。一時間後に、また会おう。……
そう言って刑部姫は注射器の針を志騎の右腕に刺すと、麻酔液を注入する。微かな痛みと共に麻酔液が体内に入っていった直後睡魔が襲い掛かり、それからすぐに志騎は眠りの世界へと旅立つのだった。
廊下に出た後、銀は検査室の前をうろうろと不安そうに歩き回っていた。それから検査室の扉から検査室の前のベンチに座っている安芸に視線を移し、
「もう終わりましたかね?」
「まだよ。封印の解除が終わっても、麻酔が切れるまで大体一時間ほどかかると思うから、それまではここで待ってる必要があるわね。それまでに中に入ったら、多分刑部姫の雷が落ちるわ」
「別にあいつの雷なんてどうでも良いですよ。ただ……」
「志騎が心配?」
安芸が問うと、銀はこくりと頷いた。それはきっと安芸の隣に座っている須美と園子も同じだろう。
「さすがに刑部姫の言う事を心の底から信じろとは言えないけど、彼女が志騎を傷つけるような事はまずないわ。彼女にとって彼は文字通り自分の遺伝子を使って作った息子のようなものだから」
「……安芸先生は、刑部姫の事を信用なさっているんですね」
「まぁそれは、長い付き合いだからね」
須美の言葉に安芸は苦笑しながら返す。確か、安芸はバーテックス・ヒューマン計画において発案者の氷室真由理の唯一の助手だったはずだ。しかしよくよく考えてみれば、あの人格破綻者の彼女が唯一助手にしていたという事は、二人は科学者と単なる助手という関係ではないのかもしれない。
須美の隣から体勢をやや前傾気味にしながら、園子が安芸に尋ねる。
「安芸先生と刑部姫って、どれぐらいの付き合いなんですか~?」
「そうね……。刑部姫の人格の元になった真由理との関係も入れると……大体17年ぐらいかしら」
「17年……って事は、小学生からの付き合いって事ですか!?」
今の安芸の年齢は25歳。それから逆算すると、二人の関係が始まったのは大体小学3年生ぐらいになるだろう。それからここまで長い間あの刑部姫と友人関係を保てているとは、銀達にはとても信じられなかった。はっきり言って、常人であれば三日で精神をズタボロにされてしまうのではないだろうか。
「なんか、それを聞くと先生と刑部姫がどんな形で出会ったのかすっごい気になるんですけど……」
銀の呟きに、須美と園子もこくこくと頷く。三人の反応に安芸は苦笑しながら、
「そうね……。じゃあ折角だし、ちょっと話しましょうか。このまま待ってるのも暇でしょう?」
まさかの安芸の言葉に、三人は再びこくこくと頷いた。安芸と刑部姫の出会いは前から気になっていたが、このような形で聞けるとは思っていなかった。安芸の言う通り、折角の機会だと思って聞かせてもらう事にしよう。
安芸は近くの自販機でペットボトルのお茶と三本の缶ジュースを買うと、自分はお茶を、三人にはジュースを渡す。
喋る前の準備をする様にお茶で喉を湿らせると、安芸は静かに語り始めた。
自分と氷室真由理の、出会いの物語を。
彼女と出会ったのは近所の図書館だった。当時自分は学校の授業で必要な調べものをするために、近所の図書館へと向かった。調べものに必要な本が、学校の図書館ではどうしても見つからなかったのだ。その時に出会ったのが、後に親友となる少女、氷室真由理だった。
彼女を最初に見た時、とても自分と同い年とは思えないというのが安芸の真由理に対する第一印象だった。艶のある黒髪を背中まで伸ばしており、まるでモデルのようにすらりとした体型。おまけに周りに大人が見ても分からないような専門書をどっさり積み重ねて、それをつまらなさそうな目で読みながらどんどん脇に置いて次の本に取り掛かるその姿は、小学生というよりもまるで科学者のようだった。
と、人によっては運命の出会いと言われるかもしれないが、あれはそんなに良いものでは無いと安芸自身思う。何故なら、二人のファーストコンタクトは決して良いものでは無かったからだ。
安芸が思わず真由理をじっと見ていると、安芸が自分を見つめている事に気づいた真由理はじろりと安芸に視線を向けながら尋ねた。
『何だ?』
突然冷たい声をかけられた安芸が戸惑っていると、さらに真由理の口からこんな言葉が飛び出した。
『用が無いなら見るな。私はペット屋の動物じゃない』
そう言って安芸から視線を外すと、また手元の本に視線を戻した。真由理----刑部姫の性格を知っている者が聞いたら、簡単に脳裏に浮かぶであろう。氷室真由理と言う少女の性格は、恐ろしい事に小学三年生の頃からすでに出来上がりつつあったのだ。
そして初対面の人間からそのような事を言われた安芸は呆気に取られながらも、初対面の人間にそのような態度を取る真由理に気を悪くし、彼女から離れて一人本を探し始めた。
しかし、肝心の本は中々見つからなかった。図書館にいる司書に聞こうにも、忙しそうで中々声を掛けられなかった。何の手立ても無く一人でうろうろしていたその時、突然舌打ちが聞こえてきた。聞こえてきた方向に目を向けると、そこには真由理が不機嫌そうな目で安芸を見ていた。
『何の本を探してるんだ』
彼女から問われた事に安芸は少し驚きながらも、先ほどの事もあり言おうか言うまいか少し迷った。しかしこのままうろうろしてるのも時間の無駄なので、疑い半分で彼女に本のタイトルを言ってみた。
すると真由理はぶっきらぼうに棚の番号と何列目にあるか、さらに何というタイトルの本の隣にあるのか答えた。そして真由理に言われた通りの所に向かってみると、本当に自分が探していた本がその場所にあったのでひどく驚いた。
しかし、それだけでは終わらなかった。安芸がお礼を言ってからよく知ってたわねってと言ったら、真由理はつまらなそうに答えた。
『前に読んだ事があったから覚えてただけだ。それと、その本はやめておけ。127ページの5行目の記述に誤りがある。読むなら別の本にしろ』
彼女の言葉を聞いて、安芸は思わず眉をひそめた。ページ数と行数が正確すぎる。彼女の様子からして適当に言っているだけとも思えない。まさか、本当にそのページに何が書かれているか覚えているとでも言うのだろうか。
それを聞くと、彼女は『ああ』と少し不機嫌そうに返した。まるで、『1+1は2なの?』というような、当たり前の事を聞かれて苛立ったように見える反応である。
安芸が信じられない、と素直に思った事を伝えると、彼女はさらに眉間にしわを寄せて、
『お前の好きな小説は何だ?』
と唐突に尋ねてきた。
またもや出てきた突然の問いに安芸は戸惑いながらも、素直に自分の好きな小説のタイトルを言う。すると真由理はさらにページ数と行数を言えと言ってきたので、安芸は言われた通り適当なページ数と行数を彼女に告げてみた。そして直後、彼女がそれらを尋ねてきた理由が分かった。
質問に対する答えを聞いた真由理は次の瞬間、すらすらと何かの小説の文章を言い出した。それに安芸がまさかと思い図書館にあった小説のページ数と行数を確認してみると、なんと彼女が口に出していた文章と見事に一致していたのだ。しかもただ文章を読み上げているだけでなく、ちゃんと句点等の位置も理解して喋っている。つまり、彼女の頭の中には小説に書かれている文字全てが一字一句違わず入っていたのだ。
文字通りの天才の所業を目にした安芸は思わず絶句したが、気が付くと当の本人はもう別の本を読んでた。今やった事は何て事のない、文字通りの朝飯前の事だと言外に告げるかのように。
それが----安芸と、氷室真由理の出会いだった。
「----これが、私と彼女の出会いよ。あの行為を見た時、思ったわ。ああ、天才って本当にいるんだって」
三人に自分と真由理の出会いを話した安芸はそこで一度話を区切ると、お茶を一口飲んでからふぅと軽く息をつく。三人が安芸の目を見てみると、彼女はまるで遠い昔を懐かしむように目を細めていた。
それは安芸にとっては、まさに未知との遭遇だったのだろう。今まで出会った事もない、凄まじいまでの頭脳を持つ天才が、突然自分の目の前に現れたのだから。
「じゃあそれがきっかけで、安芸先生は真由理さんとご友人になったんですか?」
すると須美の言葉に安芸は苦笑しながら、
「さすがに出会ったばかりの人間を簡単に友人とは呼べないわ。でも、気にならなかったって言ったら噓になるわね。だからその日の翌日、また図書館に行ってみたの。そしたら初めて会った時と同じところに、彼女はまた別の本を大量に脇に置いて、本を読んでいた。それで近づいて今日は何の本を読んでるの? って聞いたの。そしたら……」
「「「そしたら?」」」
三人がオウム返しに問うと、安芸は何故ため息をついて、
「無視されたわ。で、それから何回も話しかけて返ってきたのは、『聞こえた上で無視してるんだ。それぐらい察しろよ馬鹿が』」
「ああ、言うわ……。あいつなら絶対に言うわ……」
目に浮かばないのが逆に難しいほどである。だが安芸はその思い出すら懐かしいのか、少し笑いながら、
「でも彼女の態度にさすがに私も頭にきて、それから何回も話しかけたの。何回か本当に人を殺しかねない目で睨まれたけど、根気よくね。それでようやく、彼女も渋々だけど私に色々な事を話してくれるようになったの」
「(……何て事のないように話してるけど、それは先生がすごくないかしら……)」
「(うんうん。我慢比べであの刑部姫に勝つなんて、私だったら絶対無理だよ~)」
園子ですら刑部姫のペースに乱された事を考えれば、我慢比べで安芸が真由理に勝った事がどれだけ大変な事か分かるだろう。彼女と十年以上友人関係を築けていたのは、この忍耐強さもあったに違いない。
「それから色々と話して、ようやく知り合い以上友達未満の関係になったって感じね。彼女も最初は鬱陶しがっていたけど、段々と棘のない笑顔を見せてくれるようになったわ」
棘のない笑顔と言われても、いつも皮肉気な刑部姫の笑顔しか見てこなかった彼女達には中々そうぞうできなかったようで、銀は腕を組んでうーんと唸りながら、
「何だか、意外ですね。刑部姫の事だから、ずっと無視し続けるって思いましたけど」
「……そうね。私も最初はそう思ってたわ。でもよくよく考えてみると、彼女が私にそんな反応をするのも当然だったのかもしれないって思うの」
え? と三人がきょとんとした表情を浮かべると、安芸は先ほどとは少し違う、寂しさの混じった笑みを浮かべながら、
「それから何度か図書館に行ったんだけど、彼女はいつも一人で図書館に来ていたの。それで一回、友達はいないのって聞いたら、こう言ったのよ。『いないさ。必要ないし、作ろうとしても無駄だからな』って」
「これまた言いそうだな……」
銀が冷や汗を垂らしながら言うと、何故か安芸は少し悲しそうな表情を浮かべて、
「確かにそうかもしれないわね。でも、考えてみると少し違和感がない?」
え? と安芸からの言葉に三人は思わず目をぱちくりと瞬きしてから顔を見合わせる。違和感、と言われても三人は正直彼女なら言いそう、という感想しか浮かばない。するとそれを察したのか、安芸は特に残念がるような素振りも見せずすぐ答えを言った。
「『作ろうとしても無駄』って事は、一度は作ろうとしたって言っているように聞こえない?」
「「「………あ」」」
答えを聞き、三人はすぐに安芸が何を言いたいのかを知る事が出来た。
確かに、それは氷室真由理が言うにしては少し違和感がある。三人が知っている彼女ならば作ろうとしたなど言わない。それ以前に、『何故私が友人などを作らなければならないのだ?』ぐらいは普通に言いそうである。
だがその時氷室真由理が言ったのは、『作ろうとしても無駄』。それはつまり、一度は友達を作ろうとしたような口ぶりだった。
あの、刑部姫が。
「あの、性格最悪毒舌鬼の刑部姫が……」
「ミノさん、考えてる事が漏れちゃってるよ~」
「まぁ、気持ちは分かるけど……」
「この場に彼女がいたら即座に殺しかねない発言ね……」
驚くどころか顔を恐怖の色に染めた銀だったが、流石に気持ちが分かるのか須美と園子はおろか、友人である安芸も特に否定の言葉は言わなかった。それほどまでに予想外という気持ちが、痛いほど分かるからである。
「最初は彼女がそう言った理由がよく分からなかったんだけど、付き合っていく内に何となく理由が分かったわ。一言で言うと、天才過ぎたのよ。彼女は」
「……? どういう意味ですか?」
安芸の言葉の真意がよく理解できず、須美が尋ねると安芸は自分の説明を補足する。
「常人を遥かに超えた頭脳を持つ彼女は、子供の時からこの世界の全てを理解してしまっていた。本来なら年を重ねて理解していくものを、彼女はもうすでに知ってしまっていたのよ。だからこそ、私と出会った時には彼女はすでにあらゆるものが見えていた。実際、時々彼女の目は私や目の前の本じゃない、どこか全く別のものを見ていたわ」
「全く別のものって、何ですか?」
「それは分からないわ。天才の見ているものは、普通の人には分からない事が多いから。特に彼女のような際立った天才の場合は、ね」
一番の友人であるはずの安芸ですら分からないとなると、氷室真由理の見ているものを共有できる人間はもしかしたらこの世にはいないのかもしれない。三人はおろか、同じ天才と言われる人間でも。さらには彼女の遺伝子上の息子である、志騎でも。
「あとで聞いた話だけど、一応彼女も子供の時は友達を作ってみようとした事はあったみたい」
「想像できない……」
「まったくね。でも、友達ができた事は無かった」
「それってやっぱり、性格のせいだったり?」
園子が聞くと、安芸は首を横に振って否定の意を示した。
「たぶん、彼女の周りの子達が無意識に彼女を避けてたと思うわ。人は無意識に、自分には理解できないものを避ける性質がある。特に子供は自分と他人との違いを見分ける能力が高い。悪意は無かったと思うけど、それが理由で周りの子達は真由理を避けていった。それを繰り返していくうちに、彼女も諦めたんだと思うわ。自分に友達なんてできないって」
「……なんだかそれって、悲しいね」
ポツリと、園子が沈んだ声で呟いた。それは銀も須美も同じだった。
自分達の知る刑部姫----氷室真由理は性格最悪の女性だが、そんな彼女でも幼少期の頃は打算とはいえ、友達を作ろうとした時があったのだ。だがそんな彼女の想いが叶う事は無かった。皮肉な事に、彼女自身がいつも自慢げに告げている『天才』という、他の人間の能力を圧倒的に凌駕する才能のせいで。
特にそれを痛感しているのは、三人の中では園子だろう。乃木家という大赦の中でも最高の権力を持つ家の一人娘である彼女は、それが理由で銀達とチームを組むまで友人ができた事は無かった。理由は異なるが、自分達とは違う存在という理由で友達ができなかったという点は真由理と同じと言えるだろう。
「とは言っても、当時から彼女は少し性格が捻くれてたからそれも友達ができなかった理由の一つには間違いないでしょうけど……。まぁそれは良いとして、話を続けるわね。それから彼女と色々話をしたり行動を一緒にして、大体一年ぐらい経ってようやく互いを友達だって呼べるようになったのよ。で、中学一年生の時に同じ中学校に通う事になったの」
「あの刑部姫と同じ中学……」
「なんか、あくまで予想でしかないけどすごく苦労してそうですね……」
刑部姫と過ごす中学生活と聞いて須美と銀が思わず苦々しい口調で呟くと、ピキッと安芸の体が突然固まった。どうしたんだろう? と三人が思った直後、
「----苦労、ね。ええ、本当に、ほんっとうに苦労したわ。彼女、中学に入ると性格も頭脳もさらに磨きがかかったから。ある時は自分をからかってきた男子を全員タコ殴りにして教室のベランダから逆さ吊りにし、ある時は自作のターボエンジン付きスケートボードに乗って校庭を爆走し、またある時は実験をすると言って理科室を半分吹き飛ばし。そのたびに彼女を一緒に職員室まで連れて行って何回頭を下げた事かしらふふふふふふふふふふふ」
「あ、安芸先生戻って来て~!」
「てか予想以上にアウトローだな刑部姫! そんな事までやってたの!?」
「と言うよりも、一体何をしたら理科室を半分吹き飛ばすのかしら……」
顔を俯かせながら暗い笑みを漏らす安芸を見て、三人は三者三様の言葉を漏らす。おまけに安芸の手に握られていたお茶のペットボトルが握力に負けて半分潰れかかっているのを見ると、彼女が中学時代にした苦労は三人の予想以上のもののようである。一体、刑部姫は他にどんな悪事をしたのだろうか。非常に気になるが、怖くてそれ以上は聞き出せない三人だった。
それからようやく安芸は正気を取り戻すと、額に手を当てて疲れたような息をつく。
「----ごめんなさい、取り乱したわ」
「いいえ、心中お察しします。……本当に」
少なくとも、いつも冷静な安芸が取り乱すほどの苦労を感じさせられる話題だったので、須美は心の底からの労いを込めて言った。
「どこまで話したかしら……。ああ、私達が中学に上がってからの話ね。そんな感じで彼女には色々と振り回されたけど……。彼女と縁を切ろうと思った事は一度も無かったわ」
「……散々振り回されたのに、ですか?」
聞いただけでも刑部姫の所業は普通の人間には手に余るものだ。いくら安芸でも、何回か堪忍袋の緒がぶち切れかかったはずである。なのに、どうして安芸は彼女を見放さずずっと友人関係を保ち続ける事ができたのだろうか。
「逆に聞くけど、あなた達ならどう? 一度でも友達と呼んだ人の事を、簡単に見放せる?」
そう聞かれ、三人は思わず互いの顔を見てから納得してしまった。なるほど、確かにこれ以上ないほど説得力のある言葉だった。
「私も同じよ。確かに彼女には何回も振り回されたわ。基本的に傍若無人な彼女でも私の言葉は聞いてくれたから、越えちゃならない一線は一度も越えなかった。それに、彼女と一緒にいて楽しかった事も何回もあったから。あなた達は知らないだろうけど、そういう時の彼女、本当に心の底から楽しそうに笑うのよ。その時だけは、この子も女の子なんだなって思ったわ」
自分の中の想い出を語る安芸の口調は、とても優しかった。それだけ彼女にとって、氷室真由理という少女と過ごした日々は尊いものなのだろう。自分達にとっての、四人で過ごした日々のように。
「なんか、信じられないな。あの刑部姫がそんな風に笑うなんて」
「そうだね~。刑部姫、私達にはいつも意地悪な事しか言わないもんね~」
だがいくら安芸にとってはかけがえのない親友でも、銀達にとっては信用できない毒舌精霊だ。安芸と志騎の事は信用しているのかもしれないが、自分達の事は駒の一つ程度にしか思っていないような気までする。それに関しては安芸も同感なのか、ため息をつきながら、
「それについてはごめんなさいね。何回注意しても彼女の口の悪さと性格だけは直らなかったから、私も段々流すようになったのよ。もう少し強く言えば良かったかしら……」
「いえ、そんな。安芸先生のせいじゃないですし」
「それに刑部姫が綺麗な言葉を言うのも、なんていうか……」
「気持ち悪いわね」
「「「即答した……」」」
まさかの肯定に、銀と須美に加えて園子も軽く冷や汗を垂らす。どうやら刑部姫が綺麗な言葉を使う事に関しては安芸も同意見らしい。自業自得とはいえ、この時三人は初めて刑部姫に同情した。ほんのちょっぴり、だが。
「でも、中学二年生になったあたりで少し彼女の様子が変わったわ。たまに一人で帰るようになったし、何か機械のようなものを組み立てて授業中もずっと何か考え込むようになった。数回か何を考えているのか聞いてみたんだけど、そのたびにはぐらかされた。気にはなったけど、彼女は昔から秘密主義な所があったから、私もあまり気にしなかったのよ。でもその数か月後に、彼女は突然大赦の科学者になった」
「そういえば、刑部姫も言ってたわね。中学二年生の時に大赦を脅迫して、大赦の科学者になったって……」
前に刑部姫は、大赦がどうしても隠しておきたい情報を手に入れ、それを脅迫材料にすると同時にバーテックスに対抗する戦力を作り出すという条件付きで、大赦の科学者になったと言っていた。もしかしたらその時から、彼女は大赦が隠しておきたい情報について何か調べていたのかもしれない。
「私もびっくりしたわ。大赦の本部に向かったら、大赦の科学者になった真由理がいたんだもの。おまけに私を助手にするとか言い出すし……。それから間もなくして、彼女は大赦の本部に自分専用の研究室を作ると、ある計画を大赦の上層部に持ち掛けた。それが……」
「V.H計画……」
険しい表情で呟く銀の言葉に、ええと安芸が首肯する。
V.H計画。またの名をバーテックス・ヒューマン計画。バーテックスの細胞に人間の遺伝子を組み込み、科学・呪術両方の面で手を加える事で兵器として先鋭化した勇者、すなわちバーテックスの力を持つ勇者を人工的に作ろうという禁忌の計画。そして計画の結果作り出されたのが須美と園子のクラスメイトであり銀の幼馴染----天海志騎だ。
「計画については真由理が前に話したように、反対意見はあったけど神樹様の寿命にバーテックスに対する戦力、そして神樹様の許可もあって実行が許可されたの。ただし、あまりにも無理のある話だったから二年を期限にして、もしもそれ以上かかったら計画は中止とするっていう条件付きでね」
「安芸先生は、刑部姫ならできるって思っていたんですか?」
いかに氷室真由理が天才といえ、彼女がやろうとしていたのは人間が人間を作るという禁断の所業だ。そんな事が、本当にできるのかと普通の人間ならば疑うに違いない。すると案の定と言うべきか、安芸は複雑な表情を浮かべ、
「正直彼女から最初話を聞いた時は、疑い半分だったわね。いくら天才とはいえ、真由理は紛れもなく人間。人間が人間を作る事なんて、本当にできるのかって思った。でも周囲の疑念なんてまったく気にしないで、彼女はひたすら計画を進めたわ。バーテックスの細胞を手に入れてそこに自分の遺伝子を取り組み、様々な実験を進めた。そして二年経った時……彼女は、バーテックス・ヒューマンを作り出す事に成功したのよ」
そこまで言うと、彼女は一度目と口を閉じた。まるで、その時の事をじっと思い出しているかのように。
「その時の事は、今でもよく覚えてるわ。いつも通り彼女の研究室に向かってたら、研究室から彼女の笑い声が聞こえてきたの。あんなに嬉しそうな笑い声は、正直聞いた事が無かったわ。部屋に駆け付けたら、中央に設置された試験槽の前で彼女は両手を広げながら本当に嬉しそうに笑ってた。液体で満たされた試験槽の中には、胎児が体を丸めて浮かんでた。……それが、志騎がこの世に生を受けた瞬間よ」
バーテックス・ヒューマンという神の領域に足を踏みいれる計画。それは天海志騎という少年が誕生した事で、見事成功したと言えるだろう。だがそうとなると気になる事が一つある。それを確かめるため、銀は恐る恐るといった調子で安芸に尋ねた。
「あの……安芸先生。生まれた後、志騎はちゃんと育てられたんですか? いや、あたしと出会った頃には普通に育ってたから虐待じみた事はされてないと思うんですけど……」
志騎が幼少期に受けた扱いは、子供が受けるものとしては過酷過ぎた。
両手には手錠をされ、首には秘密を抹消するための爆弾付き。それらの事を考えると、どうしても三人の脳裏には赤ん坊の時の志騎が過酷な実験を受ける映像が浮かんでしまう。小さい体をメスで切り刻まれたり、電気ショックを受けたり……。特に想像力の豊かな園子はそれ以上の事を考えてしまったのか、ガタガタと体を震わせている。
が、何故か安芸は三人の不安を打ち消すように笑みを浮かべると、優し気な口調で言った。
「それは大丈夫よ。真由理、自分の血を分けた存在ができたのがよほど嬉しかったのか、虐待じみた実験はしなかったわ。それどころか、志騎を作ってからは毎日子育ての本を読んでたし、それに……」
ふふっ、と安芸はおかしそうに笑った。いつもは滅多に見ない担任の教師の様子に三人が思わず怪訝な表情を浮かべると、安芸は理由を話した。
「志騎は赤ん坊の時滅多に泣かなかったけど、その代わりに顔を不快そうにしかめたりしてたの。ある日に私が研究室で本を読んでたら、赤ん坊の志騎を抱えた真由理がすごい勢いで走って来て、こう言ったのよ。『あ、安芸! 助けてくれ! 志騎の機嫌が良くならないんだ!! おむつは変えてやったし、食事もやった! なのに機嫌が悪い! どういう事だ!?』って。あの時は私も思わず笑っちゃったし、今も思い出すと思わず笑っちゃうわね」
と言いながら、よほど当時の真由理の様子がおかしかったのか安芸はまたクスクスと笑う。
しかし一方で、三人は目を丸くしていた。この間の刑部姫の話を聞いてから、志騎は子供の頃からひどい目に遭っていたのだと思っていたが、それではまるで逆である。すると安芸がさらに信じられない事を言った。
「実はね、志騎の名前を付けたのは真由理なのよ?」
「「「ええええっ!?」」」
またもやもたらされた驚愕の事実に三人は思わず声を上げた。廊下を歩いていた数人の患者の驚いた顔が三人に向けられて、恥ずかし気に三人は身を小さくした。
「提案したのは私だけどね。そしたら真由理もまんざらでもなさそうに『考えておく』って言ったの。それから色々な名前を紙に書いて、悩みに悩んでようやく決まった名前が志騎の名前なのよ」
「そ、そうだったんですね~」
「し、信じられない……」
もう今日だけで何回驚けば良いのだろうか。今まで自分達は氷室真由理という人物に最悪な印象しか抱いてなかったが、今の話を聞くとまた違った一面が見えてくる。相変わらず性格が最悪な印象は変わらなかったが、それでも志騎を育てる事に関しては意外と真面目な感じがある。
「私が見ていた限り、彼女が彼を傷つけた事は一度も無いわ。赤ん坊の時は彼をあやしながら本を読んで、成長したら自分を『博士』って呼ばせて、色々な事を教えてた。今はもう無い外国の事、文化、宗教。志騎は相変わらず無表情だったから嬉しかったのかは分からないけど、それでもいつも真面目に彼女の話を聞いてた」
「てか、何故に外国の文化とかを……?」
「単純に外国が好きだったのよ、彼女」
ピクリ、と。自分の横で須美がかすかに体を震わせるのを感じ、どうしたんだろうと思った銀は須美の顔をこっそり見て思わずひっと声を出しそうになった。
日本文化大好き少女の顔は、見事なまでに能面のような無表情になっていた。どうやら刑部姫は外国文化好き発言を聞いて、彼女の中の大和魂がひそかに燃え上がってしまったらしい。銀は彼女の顔から静かに目を逸らしながら、どうか自分の親友とあの性悪精霊が竹槍とアサルトライフルを持って殺し合いを始めませんように……と割と本気で神樹に祈るのだった。
「あ、安芸先生はその時、何をしてたんですか? やっぱり刑部姫の助手ですか?」
「私は主に一般常識を教えてたわ。とは言っても彼に教えられる事には制限があったから、漢字の読み方とか計算とかだけど。だから真由理が言ったって事もあるけど、志騎からは『先生』って呼ばれてたわ」
「じゃあその時から、安芸先生はあまみんにとっての先生だったんですね~」
園子の言う通り、志騎にとって安芸は子供の頃から色々な事を教えてくれた文字通りの『先生』だったという事だ。とは言っても、記憶を封印された彼はそれすらも覚えていないのだろうが。
「……私と真由理の二人で志騎に色々教える日々は少し大変だったけれど、楽しかったわ。でも、志騎が作られてから三年経った時……、真由理は彼女でも治す事の出来ない、不治の病にかかった」
急に、安芸の言葉のトーンが落ちる。同時に彼女の表情も先ほど比べて少し暗くなっていた。
だが、それも当然だろう。いくら性格に問題があるとはいえ、大切な友人が死ぬ話をするのは誰だって辛い。それも小学生からの親友なら、なおさらだ。
「前に彼女が話した通り、病気は彼女の頭脳ならともかく、現代の医療技術では彼女の病気を治す事は出来ないものだった。自分の死期を悟った彼女は自分が死ぬ前に、志騎に色々なものを残そうとしたわ。彼専用の勇者システムも、彼を外に出そうとしたのもそのためだと思う。そして自分にできる事を全部して、刑部姫を生み出して……彼女は亡くなった」
そう話す安芸の表情はいつも通り冷静そうに見えたが、三人は彼女の目がかすかに潤んでいるのを見逃さなかった。しかしそれを指摘するような無粋な真似はしない。自分の内から溢れる感情を隠すように、安芸は冷静さを装いながら静かに言う。
「……真由理が志騎と過ごした時間は三年。私と過ごした時間に比べると短いし、志騎を生み出した理由がバーテックスを倒すためだったのは否定しない。だけど私の目から見て、志騎と接していた時の真由理には、母親としての愛情があった。それだけは、間違いじゃないと思うわ」