6月30日。今までの四人に加え、三好夏凜という五人目の勇者を加えた勇者部の部室では、今新たな活動内容が備え付けの黒板に書かれていた。
『樹を歌のテストで合格させる!』。そんな活動内容が書かれた黒板の前には、ちょこんと樹が椅子に座っている。
何故こんな事をしているかというと、樹の音楽の歌のテストが近日あるのだが、上がり症の樹は歌のテストのたびに大人数の前に立って歌う事に緊張と恥ずかしさを覚えてしまうせいで、音程が外れてしまい上手く歌う事が出来ない。それで今日もテストの結果を得意のタロットカードで占っていたのだが、結果は死神の正位置の四連続。もしもこの場にいない刑部姫が見たら、腹を抱えて笑いそうな結果になってしまった。そんな妹と友達を放っておくわけにもいかず、こうして樹をテストで合格させる事を活動内容に決めたというわけだ。
「あたし達勇者部は、困ってる人を助ける! もちろんそれは部員だって同じよ」
風が活動内容を黒板に書き終えると、難し気な顔をした友奈が口火を切る。
「歌が上手くなる方法かぁ」
「まず歌声でアルファー波を起こせるようになれば、勝ったも同然ね」
「アルファー波?」
首を傾げる樹に、東郷は手を奇妙に揺らしながら説明する。
「良い音楽や歌というものは、大抵アルファー波で説明がつくの」
「そうなんですか!?」
「んなわけないでしょ!!」
驚愕する樹に、夏凜が全力のツッコミを入れた。
ちなみにアルファー波というのは、人が発する脳波の一つであり、気分の落ち着いた時に現れる波形の事である。
「樹一人で歌うとうまいんだけどねー。人前で歌うのは緊張するってだけじゃないかな?」
「へー」
するとそれを聞いた友奈はぽん、と手を打ち、
「そっか。それなら、習うより慣れろ、だね!」
という事で。
「イエーイ! 聞いてくれてありがとー!」
マイクを持った風が明るい声を上げると、タンバリンを持った友奈が片手をあげ、マラカスを持った東郷が場を盛り上げる。夏凜は野菜ジュースを飲みながら風の歌声を聞き、樹は歌の入力機器で自分が歌う曲を選んでいた。
放課後、勇者部五人の姿は地元のカラオケ店にあった。カラオケ店ならば否が応でも誰かの前で歌う事になるので、ここならば樹の本番での緊張を少しはほぐす事ができるのではないかと考えたのだ。
「お姉ちゃん上手!」
「えへへ、ありがと」
ソファに戻る姉に声をかけると、風は嬉しそうに笑いながらピースする。すると友奈が「ちょっとごめんね」と言って樹から入力機器をもらうと夏凜の目の前に差し出した。
「ねぇねぇ夏凜ちゃん! この歌知ってる?」
「……ん? 一応知ってるけど……」
「じゃあ一緒に歌お!」
突然の提案に、夏凜は「ふぇっ!?」と声を上げ、
「ななな、なんで私が!? 慣れ合うためにここにいるわけじゃないわ!」
そう言うと、二人のやり取りを聞いていた風が何故か頬に片手を当てながらこんな事を言う。
「そうだよねぇ~。あたしの後じゃあ、ご・め・ん・ね」
風が指さしたモニターには、先ほどの彼女の歌声の点数が表示されていた。『92点』という、結構な高得点が。
「----友奈。マイクを寄こしなさい」
「えっ?」
「早く!」
「は、はいっ!」
そして友奈と夏凜のデュエットが始まった。もしも刑部姫がいたら、やっぱりチョロいなと笑いそうである。
しかし友奈と夏凜の声は、風に負けずかなり上手い。結果が出てみなければ分からないが、高い点数になるのはまず間違いない。
歌が終わり、息をつきながら横で同じように息をつく夏凜に友奈が声をかける。
「夏凜ちゃん、上手じゃん!」
「ふっ、これくらい当然よ!」
夏凜が嬉しそうに鼻を鳴らすと、モニターに二人の歌の点数が表示される。
点数は、92点。先ほどの風の点数と同じではあるものの、高得点という事に変わりはない。
「次は樹ちゃんだね」
「うん……」
だがやはり緊張しているのか、樹の表情は少し硬い。
やがて樹がマイクを持って四人の前に立ち、部屋に備え付けのスピーカーから音楽が流れる。樹が選んだ曲は、次のテストの課題曲だった。四人の笑顔と視線に背を向けてモニターの歌詞を見ながら、樹はマイクを握る手にきゅっと力を入れ、歌い出した。
歌い出した、のだが。
彼女の歌声は、とても下手……とは言わないまでも上手とは言えなかった。
音程が外れてしまっており、歌声の体を成していない。これでは確かに音楽の歌のテストでは合格を取る事は難しいと言わざるを得ない。
歌が終わり、ソファに座りながら樹ははぁと重いため息を漏らす。
「やっぱり硬いかな」
「誰かに見られてると思ったらそれだけで……」
「重症ね」
夏凜に言われ、樹はもう一度ため息をつく。前途多難、という四字熟語が今の彼女にぴったり当てはまっていた。
「まぁ、今はただのカラオケなんだし、上手かろうと下手だろうと、好きな歌を好きに歌えば良いのよ」
「そうそう気にしない気にしない! さ、お菓子でも食べて!」
しかし。
「って、残ってないー!?」
テーブルの上のお菓子は全て食い尽くされ、テーブルの上にはお腹をぱんぱんにした牛鬼が腹を撫でながら満足そうな表情を浮かべていた。どうやら友奈達のお菓子は、全て牛鬼の胃の中へと直行したらしい。
「ふふ、牛鬼は本当によく食べますね」
「食べ過ぎだよー……」
自分の精霊の所業に、友奈はただ涙を流す事しかできなかった。
と、備え付けのスピーカーから新たな音楽が流れだす。
「あ、私が入れた曲」
東郷が言った直後、何故か夏凜以外の三人が立ち上がりピシッと敬礼のポーズを取った。
「何っ!?」
だが夏凜の困惑をよそにして、東郷はマイクを手に取ると口元に静かに寄せ、歌い出した。
彼女が歌い出したのは、軍歌だった。中学二年生の女子が歌うチョイスとして、それはどうなの? とツッコミが飛んできそうだったが、まぁどんな歌が好きなのかは人それぞれである。
なのだが、この歌がまた無駄に上手い。音程はもちろんだが、何よりも大和魂がこもっているように夏凜には感じられた。どれほど日本が大好きなのだ、この少女は。
結局その歌にツッコミを入れる事は出来ず、夏凜はただ目を丸くして彼女の歌を聞く事しかできなかった。なお、歌の最中三人はずっと敬礼し続けていた。
そして歌が終わり、東郷が満足そうにマイクを置くと三人も敬礼を解いてソファに座る。
「さっきのって、一体……」
「東郷さんが歌う時は、私達いつもあんな感じだよ?」
「そ、そうなの……」
夏凜達の会話を聞きながら、風がペットボトルの水を飲んでいると、彼女のスマートフォンに着信が届く。スマートフォンを取り出して届いたメールを開くと、彼女の表情がかすかに強張った。
スマートフォンをしまい、四人に断ってから女子用トイレに向かうと、鏡の前に立って蛇口をひねる。水が勢いよく流れだし、そのままじっと俯いていると、背後から夏凜の声がかけられた。
「大赦から連絡?」
「……ええ」
「そう。私には何も言ってこないのに。あの馬鹿精霊、ちゃんと仕事しろっての」
しかし夏凜の言葉に、風は何も言ってこない。夏凜は壁に背中をつけて腕組みしながら、
「内容は想像つくわよ。バーテックスの出現には周期がある。今の奴らの現れ方は、当初の予測と全く違ってるわ」
「……最悪の事態を想定しろってさ」
「怖いの?」
風の手が、震えながらぎゅっと握られる。それが、風の今の心の状態を表していた。
「あなたは統率役に向いてない。私ならもっとうまくやれるわ」
風は夏凜にちらりと目線をやってから、蛇口をひねり水を止めると振り返る。
「これはあたしの役目で、あたしの理由なのよ。後輩は黙って、先輩の背中を見てなさい」
そう言うと、風はトイレから出て行った。夏凜はふんと鼻を鳴らすと、自分以外誰もいなくなった空間に声をかける。
「出てきなさい、刑部姫。聞いてたんでしょ」
直後、花びらと共に宙に刑部姫の体が現れた。彼女は腕を組みながら、夏凜をじろりと見下ろし、
「気づいていたのか。で、用件は何だ?」
「一応の確認だけど、風が言ってた事は間違いないの?」
その言葉に、刑部姫はわしゃわしゃと髪の毛を掻きながら、
「ああ、まず間違いないだろう。ま、私からしたらむしろ想定内だけどな」
「……あんた、バーテックスの出現の周期が違ってくるって分かってたの?」
目を見開いて刑部姫に聞くと、彼女は冷めた目で夏凜を見下ろした。まるで、くだらない事を聞くなと言うかのように。
「……そう。全部最初からお見通しってわけね。でも、どうしてそれを大赦に伝えなかったの? 大赦所属の精霊でしょ、あんた」
「別に奴らに全面的に協力してるわけじゃない。それに確かにバーテックスの襲撃の頻度が二年前とは異なるって予想はしてたが、それもあくまで予想だ。絶対に当たるとは言い切れん」
「ふぅん。天才のあんたでも、バーテックスの出現を完璧に予想できるってわけじゃないのね」
「ほざくなクソガキ。『完璧』や『絶対』など、この世に存在しない」
そう言う刑部姫の表情は本当に嫌そうだった。だが自分の言葉が気に障ったというよりも、そもそも『完璧』や『絶対』という言葉を嫌っているように夏凜には感じられた。日々自分の事を天才と自称している彼女にしては、少し珍しい反応かもしれない。
「あっそ。じゃあ、あんたの予想はどうなの? これからバーテックスは、どう動くと思う?」
確かに完璧で絶対に当たる予想は無理かもしれないが、それに近い予想はできるかもしれないのが目の前の刑部姫という名の精霊だ。普段は憎たらしい笑みを浮かべながら自分をからかう彼女ではあるが、こういった真面目な問いかけではまず嘘はつかない。
すると夏凜が想像したと通り、刑部姫はじっと顎に手をかけて考え込んでから自分の考えを口に出す。
「一体じゃないのは確実だ。まず一体、次に三体が結城友奈達によって倒され、お前に一体、計五体がお前達に倒されている。生半可な数ではお前達には敵わないとバーテックスも学習しているはずだ」
「って事は、三体以上で来る可能性もあるって事か……」
「ああ。四体、もしくは五体……。最悪の場合、残りの七体全員でこちらを殺しに来るって可能性もある」
「………っ」
刑部姫が口にした予想に、夏凜は思わず唾を飲み込む。七体のバーテックスによる、神樹への総攻撃。それを自分達五人で、なんとしてでも迎え撃たなければならない。
不安が夏凜の胸を押しつぶしそうになるが、どうにか自信を沸き立たせて不安を振り払うと刑部姫に言う。
「ふん、上等よ。完成型勇者の私がいれば、どれだけバーテックスが来ようと完全勝利は確実よ。それにいざという時は満開もあるし、私達が負ける事はないわ。絶対に」
「言ったはずだ。この世界に『絶対』なんて言葉は存在しない。それに負ける事が無いのは当然だ。お前達が負ける事は勇者が全員死ぬという事であり、この世界が跡形も無く壊れるって事を意味している。負ける事がないんじゃない、負ける事は決して許されない。……精々気を付けるんだな」
そう言って刑部姫は指を鳴らすと、トイレから姿を消した。一人残された夏凜はぎゅっと拳を握ると、鏡に映る自分の顔を見る。
「……あんたが何を言おうと、関係ない。私がいる限り、あいつらは死なせないし、この世界も壊させない。……絶対に」
まるで刑部姫に言い返すように呟くと、夏凜は扉を開けてトイレから出て行った。
翌日、友奈、東郷、風、樹は勇者部部室のテーブルの前で揃って目を丸くしていた。テーブルの上にはりんご酢やオリーブオイル、はちみつなどの調味料から、プラスチックの容器に入ったサプリなどが勢ぞろいしていた。
「な、なんかたくさんあるー……」
友奈が思わず呆然と呟くと、それらを持ってきた張本人である夏凜が胸を張りながら、
「そう。喉に良い食べ物とサプリよ。マグネシウムやリンゴ酢は肺に良いから声が出やすくなる。ビタミンは血行を良くして喉の荒れを防ぐ。コエンザイムは喉の筋肉の活動を助け、オリーブオイルとはちみつも喉に良い」
早口で食べ物とサプリの効力を説明する夏凜に、四人はそれぞれ感想を口にする。
「詳しい……」
「さすがです……」
「夏凜ちゃんは健康食品の女王だね!」
「夏凜は健康のためなら死んでも良いって言いそうなタイプね」
「言わないわよそんなこと!」
風の軽口に噛みつきながら、夏凜は食材とサプリをビッと指差す。
「さ、樹。これを全種類飲んでみて。グイっと!」
「えっ!? 全種類!?」
「多すぎでしょそれは……。流石に夏凜でも無理じゃない?」
風としては悪気のない発言だったし、自分ができない事を人にやらせるのはどうかという問題もあるので、その言葉は間違いではないのだが、どうやらそれは夏凜の琴線に触れてしまったらしい。
「無理……ですって!? 良いわよ、お手本を見せてあげるわ!」
やれやれ、と言いたそうな笑みを浮かべている風に向かって、夏凜はそう宣言した。
早速、テーブルの上のサプリを全種類数錠ずつ口の中に入れると、オリーブオイルをラッパ飲みして口の中のサプリを一気に胃に流し込む。それからオリーブオイルの瓶をテーブルに置くと、冷や汗をだらだらと流しながらにやりと無理やり笑みを浮かべる。
「ど、ど、ど、どう?」
が、やせ我慢はそこまでだった。
次の瞬間うっと何かをこらえるように頬を膨らませ、顔が一気に青くなり、そして……、
「うう~!」
「か、夏凜ちゃん! 大丈夫!?」
口を押えて家庭科準備室を飛び出す夏凜に、友奈の心配そうな声がかけられたが、当然それで止まるような事は無く、夏凜はそのまま女子トイレへと直行するのだった。
その後、部室に戻ってきた夏凜はハンカチで口元を拭いながら、何事もなかったように笑い、
「樹はまだビギナーだし、サプリは一つか二つで十分よ」
「はぁ……」
肩を落とす樹に、夏凜がにっこりと笑う。いや、そういう事じゃないような……と四人はツッコミたかったが、当然優しい四人にそんな事を言えるはずも無かった。
それから夏凜に言われた通りサプリを水で飲み、試しに歌ってみるものの、結果はこの前のカラオケ店と一緒だった。結局最後まで音程が外れたまま歌い切った樹を前にして、四人は難し気な表情を浮かべる。
「やっぱり、緊張するのがいけないんだから、喉よりもリラックスの問題じゃない?」
「それもそうね。次は緊張を和らげるサプリメントを持ってくるわ」
「やっぱりサプリなんですね……」
自信満々に告げる夏凜に樹が静かに言い、風が夏凜の横でツッコミを入れる。しかしこのままでは今日の収穫はゼロという事になってしまう。テストが近い以上、何か一つでも良いから収穫が欲しい。どうしたものか……と五人が悩んでいると、「あっ!」と突然友奈が声を上げた。
「どうしたの? 友奈」
「あの子に聞けばいいんじゃないかな!?」
「………あの子?」
友奈の言うあの子が誰の事か分からず、東郷は思わずぱちくりと瞬きする。歌について尋ねる以上音楽に詳しい人物なのだろうが、友奈にそのような心当たりの人物が果たしていただろうか。風達三人にも目を向けてみるが、三人共東郷と同じような表情をしている。どうやら三人にも心当たりはないようだ。一体、誰の事を言っているのだろうか。
ニコニコと笑みを浮かべると、友奈はその人物の名前を口にする。
その人物は。
「断る」
その人物----刑部姫は勇者部部室の椅子の上で、いかにも不機嫌そうな表情を浮かべてばっさりと言った。
「そ、そう言わないでよ~! ほら、東郷さんのぼたもちあげるから! 美味しいよ!」
「いらんそんな泥団子」
差し出されたタッパをぺチンと叩きながら友奈の言葉を冷徹に切って捨てる。なお、自分の作ったぼたもちを泥団子呼ばわりされた東郷は、負の感情が滲み出る笑みを浮かべていた。率直に言うと、静かにぶち切れていた。
「あんたも精霊とはいえ、勇者部部員でしょ? だったら、勇者部の活動にちゃんと貢献するのが筋じゃないの?」
「誰も入部届に名前を書いた覚えはない。勇者部に入ったのはそこのにぼし女だけだろう。私がお前達の部活動を手伝う義務はない」
それに、と言ってから樹をジロリと見て、
「そこの小動物を手伝う義理も私にはない。そいつが歌のテストで低い点数を取ろうと知った事か。歌のテストでもなんでもやって、さっさと玉砕してくるんだな」
「あんたねぇ、言い方ってものがあるでしょ!?」
冷たい言葉を吐き出す刑部姫に風が怒りのこもった視線を向けるが、刑部姫は変わらずツンとした表情を浮かべてスマートフォンをいじっている。
「やっぱり、駄目かなぁ……」
「……諦めなさい、友奈。あいつははいそうですかって言う事を聞くわけじゃないわ」
落ち込む友奈を、夏凜が慰める。
友奈が刑部姫に相談してみようと言った時、樹を除いた三人は一斉に渋い表情を浮かべた。確かにいつも天才を名乗っている刑部姫なら緊張をほぐすテクニックだったり、上手に歌う技術を知っているかもしれないが、あの精霊が素直にそれを話すとは三人にはどうしても思えなかった。最悪の場合、見返りに何か要求する事だってあり得る。
しかし友奈の意見に賛成したのは、他でもない樹だった。友奈の言う通り彼女なら何か良い方法を知っているかもしれないし、四人がこうして自分の悩みに付き合ってくれた以上、何もしないうちに諦めるわけにはいかない。そう考え、夏凜に刑部姫を呼び出してもらい、友奈と自分で彼女に何か良い方法を聞かせて欲しいと頭を下げたのだが……、こうしてあっさりと断られてしまったというわけだ。
「だ、大丈夫だよ樹ちゃん。もう一回、もう一回頼んでみるから……」
友奈が今にも爆発しそうな雰囲気に包まれている風と刑部姫を不安そうに見つめている樹に言うと、彼女は一度友奈の顔を見てから、きゅっと唇を噛み締めて告げる。
「……もう良いよお姉ちゃん。刑部姫もごめんね。急に呼んじゃって……」
「樹……」
不満を漏らすどころか、冷徹に断った刑部姫にまで謝る樹にその場の全員の視線が集まる。樹はあはは……と少し悲しそうに笑いながら、
「急に頼んだのは私だし、刑部姫に断られちゃうのも無理ないよ。大丈夫! 次のテストまでに、絶対に何とかするからっ」
しかし、それは明らかに根拠のないものだった。勇者部の部員達から色々アドバイスをもらって歌ってみても、結局解決策は見つからなかった。このまま歌のテストを受けても、前と同じ結果になるのは目に見えている。だが、それはある意味仕方のない事だ。これはあくまでも、自分の性格の問題にすぎない。
だから、自分がどうにかしなければならない。刑部姫に冷たく言われるのも仕方のない。
だがそれでもやはり、ちょっと悲しかった。前と同じ結果を繰り返してしまう事になるし、何より色々考えてくれた勇者部の面々に申し訳なくて。
悲し気な笑みに四人は何も言えず、ただ彼女の顔を見る事しかできなかった。
と、そんな時だった。
それまで黙って樹の顔をじっと見ていた刑部姫が、何故かさらに不機嫌そうな表情になると、突然ガシガシと髪の毛を掻き、深いため息をついてこんな事を言った。
「………一回」
「えっ?」
「一回だけ歌ってみろ。何を言おうにも、まず歌を聞いてみなければ話にならん。だからまず、歌ってみろ」
その言葉に、樹だけでなく他の四人も驚愕していた。目を真ん丸に見開いて、刑部姫を凝視する。五人からの視線がうざったいらしく刑部姫が一度チッと舌打ちすると、樹が恐る恐る尋ねる。
「ア、アドバイスしてくれるんですか?」
「そう言ってるだろうが馬鹿が。とりあえず何でも良いからさっさと歌え」
「う、歌えって何を?」
あまりの衝撃に再度聞く樹に刑部姫はイライラした口調で、
「何でも良い。J-POPでも洋楽でもアニソンでも何でも。これ以上モタモタするならヘビーメタル歌わせるがクソガキが!」
「は、はいぃぃっ!」
その恫喝に恐れをなしたのか、樹は急いで黒板の前に向かう。刑部姫は椅子にドカッと座り込み、彼女の歌を聞く姿勢になる。それにつられてか、五人も黒板の前で彼女の歌を聞こうと、友奈と風は椅子に座り、車椅子の東郷は友奈の隣に向かう。彼女の横の椅子に座りながら、夏凜がまだ驚きの色が消えていない表情で尋ねた。
「あんた……どういう風の吹きまわし?」
「ただの気まぐれだ。で、何を歌うんだ?」
「じゃ、じゃあテストの課題曲を歌います」
「分かった。準備ができ次第歌え」
そう言うと刑部姫は腕を組んで目を瞑った。樹はすーはーと数回深呼吸をすると、「う、歌います」と宣言してから課題曲を歌い始めた。
彼女の歌声はカラオケ店の時やついさっきと同じ……、いや、二回の時よりもさらに外れて聞こえた。恐らく、刑部姫という彼女にとって恐怖の対象が目の前にいるからだろう。正直、こうしている今も樹には怖くてたまらなかった。
だが、意外な事に刑部姫は何も言わなかった。ただ腕を組んで目を閉じ、樹の歌声を真剣に聞いている。歌っている最中に野次でも飛ばすのではないか、と心配していた五人とは、まったく正反対の反応だった。
やがて樹がようやく歌い終わると、それに合わせて刑部姫もすっと目を開く。
「ど、どうでしたか……?」
不安半分で聞いた樹に対する返答は、さっきと変わらずばっさりとしたものだった。
「率直に言ってへったくそだな。音程は狂ってる、強弱はめちゃくちゃ。聞くに堪えん。私が教師だったら落第点をつけている」
刑部姫の酷評に、樹は顔を赤くして俯いてしまう。よく見ると肩は少し震え、目には涙が溜まっている。友奈達の目の前でこのような酷評をされるのは、気弱な彼女にはあまりに辛い事だろう。
まさか、こんな事をするためにはあのような事を言って、わざわざ樹に歌わせたというのか。アドバイスをするというのも建前で、本当は樹に恥をかかせるためだった。
そう考えた風は奥歯を噛み締めて立ち上がり、刑部姫を怒鳴ろうとする。友奈と夏凜がそれに気づいて風を抑えようとし、
「----だが」
刑部姫の言葉で、三人の動きが止まり、樹の涙が溜まった目が刑部姫に向けられる。
「声は良い。お前のそれは練習などで身につけたものではなく、天性のものだろう。同じ年齢の女子と比べても、お前ほどの歌声を持っている奴はそういない。今のお前の歌は落第点だが、それは強い緊張のせいで音程が狂っていたりしたからだ。それが無くて、かつ歌声のみで評価するのであれば、落第点どころか最高点をつけている」
衝撃的、としか言いようが無かった。樹の目からは涙が引っ込み、夏凜は金魚のように口をパクパクと開け、風、友奈、東郷の三人はサスペンスドラマで殺人現場を目にしてしまった人間のような表情で刑部姫を凝視している。
だが、それも仕方がない。
何故なら、褒めたのだ。
傍若無人、唯我独尊、奸佞邪智、眼中之釘、傲岸不遜。常に自分を天才と呼び、吐き出す言葉は精神をじわりじわりと蝕む毒、自分以外の人間は全て虫けら……いや、そもそも生き物とすら思っていないあの刑部姫が。
褒めたのである。
樹の、歌を、褒めたのである!!
「だ、誰か救急車を呼んでー!」
「もしもし、救急車を一つお願いします!! え、違います! 天気予報じゃないです!」
「た、大変だわ……!! 刑部姫をも狂わせる悪霊がいるに違いないわ!! みんな、急いで隠れて!!」
「刑部姫、大丈夫!? 何か悪いモノでも食べたんじゃない!? 早く正気に戻りなさいよ! 他人を褒めるあんたなんて気持ち悪くて仕方ないのよ!!」
「正気に戻るのはお前らだクズ共」
風が叫び、救急車を呼ぼうとした友奈が間違えて天気予報の番号をかけ、東郷がどこから持ってきたのかお祓い棒をぶん回し、夏凜がわりと本気の表情で刑部姫の肩を掴む。刑部姫は青筋をビキビキと浮かべながら、『もうこいつら本当に殺そうかなー』といつもの自分の行動が原因とはいえ、あまりにあんまりな態度の四人に内心キレていた。
その後、どこからかチェーンソーを取り出して刃を高速回転させると、騒いでいた四人はすぐさま着席した。刑部姫はチッと舌打ちするとチェーンソーを停止させると着物にしまう。本当に、あの着物は一体どのような構造になっているのだろうか。
「……さっきはああ言ったが、あれはあくまでも音程が狂ってたりしなかった場合の話だ。今のお前は緊張が強すぎて本来の声を活かせていない。この学校の教師ならば落第点はないかもしれないが、どのみちこのままだと高得点はまずないだろうな」
やはり、樹の緊張が今回のテストの鍵になっているようだ。それを解決しない限り、彼女が歌のテストに合格する事は難しいと言わざるを得ないだろう。
「じゃあやっぱり、慣れた方が良いのかなぁ」
「それかサプリね!」
しかし刑部姫は二人を思いっきり馬鹿にするようなため息をつくと、
「こいつの性格上、人前に慣れるのは相当時間がかかるだろう。それに強い緊張は確かに厄介だが、逆にある程度の緊張は高いパフォーマンスを生み出す。今のこいつに必要なのは、緊張しすぎない事だ」
「それは、確かにそうだけれど……」
「問題はその方法よね……」
東郷の言葉に、困った顔で風も続く。緊張しすぎないというのは分かるが、人前に出るとどうしても緊張してしまう。かと言って人前に慣れるのも、刑部姫が言った通り時間がかかりすぎるので今からでは無理。再び空気が沈みかけたその時、刑部姫が口を開いた。
「犬吠埼樹。お前、歌で何が一番大事か分かるか?」
「………?」
突然の質問に、樹は思わずぱちくりと刑部姫の顔を見る。いきなりそんな事を聞かれても……と樹が困惑していると、「他の奴でも良いぞ」と刑部姫が言う。すると、一番に手を上げたのは友奈だった。
「はいはいはい! やっぱり、声だと思う! 樹ちゃん、刑部姫から聞いてもすっごく綺麗な声してるし!」
「大間違いだクソ馬鹿。一番どうでも良い。お前はまずその馬鹿みたいにやかましい口を閉じろ騒音女」
毒舌でボコボコにされ、友奈はとぼとぼと部屋の片隅に向かう。
「ねぇ、東郷さん。私って騒音並みにうるさい……?」
「全然そんな事ないわ。私はいつも友奈ちゃんの明るさに助けられてるもの」
「東郷さん!」
さめざめと泣く友奈を東郷が慰め、そんな東郷に友奈がひしっと抱き着く。そんな二人を刑部姫は半眼で見つめてから、「はい次」と手を鳴らして答えを促す。次に手を上げたのは、風だった。
「んー、声じゃないって事は歌い方とか?」
「それも重要な
「じゃあ、やっぱり度胸ね!」
「歌でって言ってるだろうがにぼし。どういう脳みそしてたら度胸なんて言葉が思いつくんだ。次クソみたいな事を口にしたらお前を煮干しにするぞ」
風、夏凜共に答えるが外れだった。刑部姫は樹に顔を向けるが、彼女も分からないのか首をふるふると横に振る。
「結局、一体何が答えなんですか?」
眉をひそめて東郷が尋ねると、刑部姫はあっさりと答えを口にした。
「伝える事、だ」
「伝える事……」
樹がその言葉を繰り返すと、刑部姫はああと頷き、
「歌というのは本来、歌う人間の想い、願い、考えを音楽やリズムに乗せて相手に伝えるものだ。確かに歌声や音程、強弱等は重要だが、それらはあくまでも伝えるという行為を補強するものに過ぎない。歌にとって一番大事な事は、誰に何を伝えたいかだ」
掌の指をゆっくりと合わせながら、刑部姫は続ける。まるで、自分の研究結果を発表する科学者のように。
「最近はいわゆる『売れる曲』が多く売り出されているが、別にそれも間違いじゃない。声、音程、強弱、リズムが良ければ、大抵売れるからな。だが忘れてはいけないのは、例え売れるのを目的にした曲だとしても、どれだけ下手糞な歌であろうと、何を伝えるか、誰に伝えるかを明確にしなければならない事だ。別にそれはなんだっていい。友人や親に愛情を伝えるものだったり、またはこの世でたった一人の人間に向けられたものだったりな。たとえどれほどエゴに満ちた歌であっても、普通の人間なら顔をしかめるような歌詞で構成された歌であっても、誰に何を伝えたいかが込められていれば善悪関係なくそれは『歌』なんだ。逆に言えば、どれだけ声が良くても、音程が合っていたとしても、それが無ければただの空っぽだ。上手い下手の前に、それはもう歌としての体裁を整えていない。当然そんな歌は、誰の心にも響かない」
良いか? と刑部姫は樹の顔をまっすぐ指差し、
「テストの本番では音程や強弱の事は考えるな。ただでさえ緊張しやすいお前がそこまで考えたら、一気にパンクするぞ。緊張しても良い。上手く歌おうとしなくても良い、そもそも声が良いからな。お前はただ、誰に何を伝えるかをただひたすら考えて歌え」
「そんな事で、良いんですか?」
「下手に考えると一気に場の雰囲気に呑まれる。それだけを考えていた方が今のお前にはちょうど良い。それができれば……まぁ、歌のテストで合格はまず間違いないだろう。……以上だ。精々頑張るんだな」
そう言うと刑部姫はパチン、と指を鳴らして花びらと共に姿を消した。勇者部一同はしばらく刑部姫が座っていた椅子を見つめていたが、やがて風がポツリと言う。
「……なんか、意外と真面目に答えてくれたわね……」
「そうですね……。明日は、槍でも降るのでしょうか……」
「それ以上はやめときなさい、東郷。刑部姫が聞いたらまた戦闘機の模型を送り付けられるわよ」
「望むところです。その時は全面戦争もやむをえません」
「東郷さんの目が本気だぁ……」
四人が口々に言う中、樹だけはさっきの刑部姫からの言葉を、小さく口にした。
「……誰に、何を伝えるか……」
犬吠埼樹の運命が変わったのは、彼女が小学生の時だった。
その日、突然家に大赦の仮面をつけた数名の大人達がやってきた。当時家にいたのは彼女と中学一年生だった風だけで、両親は不在だった。樹は風の後ろに隠れていたので、大人達の対応を行ったのは風だった。大人達が何を言っているのかは分からなかったが、話を聞く風の顔が辛く、今にも叫び出しそうなのをこらえるようにスカートを強く握りしめていたのを見て、きっと良くない事が起こったのだろうと樹は薄々感じていた。
大人達が帰った後、姉から告げられたのは、自分達の両親が事故で亡くなったという事だった。その時の樹はあまりに衝撃的な言葉に頭の中が真っ白になってしまったが、それはきっと風も同じだっただろう。妹と姉の違いを挙げるとするなら、妹はただただ衝撃で呆けていただけだが、姉は一人残った妹を護るために必死に悲しみをこらえていた事だろう。きっと彼女も、本当は泣きたかったはずなのに。両親の葬式の時も、風は涙の一つも見せなかった。ただまっすぐ前を見て、唇を強く噛みしめていた。
そして、その日から風は樹の姉であると同時に母親になった。家事が苦手な自分の代わりに料理を覚え、学業では勉強を教え、どんな時でも樹を助けてくれた。結果、風の背中は樹の心から安心できる場所になった。
風がいればなんだってできる。それは紛れもなく樹の本音だった。しかし同時に、自分一人では何もできないという劣等感を、樹の心に植え付けてしまっていた。
『やっぱり、怒るよね……』
勇者部の真実を樹達に伝え、真実を知らされた東郷が一人部室を出て行った後、風は背中を向けて一人落ち込んでいた。バーテックスという未知の怪物を相手に戦わなければならないという真実を、風はずっと一人で背負い込んでいたのだ。……それなのに、何もできなかった。
もしも自分が姉の後ろに隠れている自分では無く、隣を一緒に歩いていけるような自分だったらどれほど良かっただろうかと、犬吠埼樹は思う。
そうだったら、風は自分を頼ってくれていただろうか。
彼女一人に背負わせるのではなく、自分も一緒に背負っていく事ができたのではないだろうか。
気弱で泣き虫で、臆病。
そんな自分に、果たして一体何を伝えられるというのだろうか----?
「樹ー。……樹ー? 樹起きなさーい」
姉の自分を呼ぶ声で、犬吠埼樹は心地よい眠りから目を覚ました。しかし朝に弱い彼女にとっては、朝起きるだけでも一苦労だ。樹がベッドの上で身じろぎしていると、風が部屋に入ってきた。クローゼットに入っていた樹の制服を取り出し、椅子に掛ける。
「樹ー? 着替えて顔洗ってきなさいよー」
うーんと非常に眠たそうな呻き声を出しながら、樹はどうにかベッドから起き上がる。それからパジャマから学校の制服に着替え、目をこすりながらリビングへの扉を開ける。風はどうやらスープの味を確かめていたらしく、小皿に少しよそったスープの味に満足した笑みを浮かべている。
「おはよう、お姉ちゃん……」
「おはよう! もうスープも出来てるから、先にトースト食べてて」
まだ眠気が残る自分とは対照的に、風は朝からキビキビして元気いっぱいだった。朝が弱い自分にとってはうらやましいと心の底から思う。
椅子に座り、のろのろと緩慢な動きでバターをパンに塗ってもそもそと食べ始める。と、スープを置いた風が何かに気づき、樹の後ろにそっと近づく。
「ちょっと動かないで」
声をかけられた樹が言われた通りパンを食べるのをやめると、後頭部に何やら髪の毛をいじられるような感触が生まれる。どうやら風がブラシを使って自分の髪の毛を整えてくれているらしい。数回髪の毛を梳かすと、風が満足そうに笑った。
「よし! 今日も可愛いぞっ」
しかし姉から褒められたにも関わらず、樹の表情は曇っていた。エプロンを外した椅子に座ろうとしていた風はそれに気づき、樹に尋ねる。
「元気ないね。どした?」
「……あのね」
「ん?」
「……あのね、お姉ちゃん」
「うん」
繰り返す樹に、風は急かすような事はせず、ただ口元に笑みを浮かべながら彼女が切り出すのを待っている。樹は風の顔をじっと見てから、小さく言った。
「……ありがとう」
樹の言葉に風は一瞬呆気に取られたような表情を浮かべるも、すぐに困ったような笑みを浮かべ、
「何? 急に」
「何となく、言いたくなったの。この家の事とか勇者部の事とか、お姉ちゃんにばっかり大変な事させて……」
「そんな。あたしなりに理由があるからね」
「理由って……?」
樹が尋ねると、風は一瞬黙り込むもすぐに明るい口調で答えた。
「ま、まぁ簡単に言えば、世界の平和を守るためー、かな? だって勇者だしね」
「でも……」
「何だって良いよー。どんな理由でも、それを頑張れるならさ」
「どんな、理由でも……」
と、そこで風は両腕をぶんぶん回し始めた。まるでその場に漂い始めた、真面目な雰囲気を振り払うように。
「はーい! シリアスはここまでー! 冷めないうちに食べて! 学校行くよ!」
しかし風の言葉を聞いても、樹の表情は晴れないままだった。
その後学校に登校し、授業を受けるものの樹の気分は上の空の状態だった。ノートを開き、歴史を説明する教師の言葉を聞こうにも、言葉自体が中々頭の中に入ってこない。まるで頭の中に満ちるもやもやした霧が、教師の言葉が入ってくるのを防いでいるかのようだった。
(どんな理由でも頑張れるなら……。だったら……私は……? 勇者になったのも部に入ったのも、お姉ちゃんの後ろについていっただけ……。私、理由なんて何もない……)
「----今日は、ここまで」
教師が告げると共に、授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。我に返った樹の耳に、「起立」という言葉が伝わってくる。少し慌てて立ち上がり、礼と神樹への拝を済ませて再び着席すると、スマートフォンに着信が入る。スマートフォンを取り出して確認すると、どうやらNARUKOにメッセージが届いているようだ。送信主は風で、内容は今日の部活内容についてだった。
なんでも飼い主探しの依頼が来てた仔猫の内、二匹の貰い手がついたらしい。それで二手に分かれ、各依頼主の家へ向かい仔猫を引き取ってくるようだ。
するとメッセージを見た友奈と東郷から『ラジャー!』『了解です。』という返信、さらに夏凜からも『了解』という返信が届く。
「……あ」
そこで樹はある事に気づき、急いで夏凜個人にメッセージを送る。返信はすぐに返ってきた。彼女からのメッセージには、ある人物の電話番号が記載されている。樹は教室を飛び出すと、すぐにその電話番号に電話をかけた。すぐに話したい事があるから屋上の入り口まですぐに来て欲しいと言うと、電話の相手は少し嫌そうだったが最終的には渋々と承諾してくれた。
部活動の事も考えると、あまり長く話は出来ない。ホームルームを終えて、樹は鞄を持つと駆け足で部室ではなく屋上への入り口まで走る。本当は屋上で話した方が良いのかもしれないが、生憎普段は施錠がされているし、それに普通の生徒ならば屋上には用が無いので、まず近寄る事は無いだろうと判断したからだ。
駆け足で人の隙間を潜り抜け、ようやく屋上の入り口まで辿り着くと、約束した相手はすでにそこで待っていた。
「遅い。人を呼び出しておいて遅れるとはどういうつもりだ」
不機嫌そうな口調で言ったのは、夏凜の精霊である刑部姫だった。彼女は腕を組んで、眉間にしわを寄せてジロッと樹を睨んでいる。
「ごめん、なさい……。急いで走っては来たんですけど……」
が、樹は文句の一つも漏らす事無く息を切らしながら謝った。それに刑部姫はチッと舌打ちするも、それ以上樹を責めるような事は言わなかった。そして樹が刑部姫の前までやってくると、懐から札のようなものを取り出して自分の後ろの壁に貼り付ける。
「それ、何ですか?」
「人払いだ。独り言を話していると思われるのはお前も面倒だろうし、姿が見えないとはいえ誰かに見られるのは反吐が出る。……で、何の用で呼んだ? 呼び出した理由がつまらない理由だったら、容赦はしないぞ」
刑部姫の樹を見る目に、殺意が宿る。こういう時の刑部姫は大抵本気だ。まず嘘はつかない。彼女の殺意に圧されながらも、樹はどうにか自分を奮い立たせて彼女の顔を見る。
樹が夏凜に頼んだのは、刑部姫の電話番号を教えてもらう事だった。自分は彼女の電話番号を知らないが、刑部姫と連絡を取っている夏凜ならば彼女の電話番号を知っているのではないかと思い、夏凜に頼んだのだ。夏凜からは心配されたものの、樹からの真摯なお願いに仕方なく刑部姫の電話番号を教えた。取って食われるんじゃないわよという、冗談とも本気とも取れる忠告と共に。
それから急いで刑部姫に連絡を取り、渋る彼女からどうにか了承を得てここで話す事になったというわけだ。樹は深呼吸を数回すると、刑部姫に彼女を呼び出した理由を話し始めた。
「昨日、言ってましたよね。今度歌う上で大事なのは、誰に何を伝えるかを考える事だって」
「ああ、そう言った」
「でも私、あれから考えても、誰に何を伝えたら良いか、まったく分からなくて……。いつもお姉ちゃんの後ろに隠れてた自分が、一体何を伝えられるんだろうって……」
「………何故そう思う」
樹の言葉に、刑部姫は静かにそう返した。樹は唇をきゅっと噛みながら、今日の朝から考えていた事を口に出す。
「お母さんとお父さんが死んじゃってから、家の事は全部お姉ちゃんがやってくれて……。私はそんなお姉ちゃんの後ろに隠れてるだけで……。勇者部の事だって、お姉ちゃんは全部背負ってみんなを支えてくれて……。それなのに私は、何もできない。勇者になったのも部に入ったのも、お姉ちゃんの後ろについていっただけで……。勇者として頑張る理由なんて、何もない。そんな私が、誰かに何かを伝える事が、本当にできるのかなって……」
話すたびに、声がどんどん沈んでいく。
馬鹿だと思う。こんな事を刑部姫に言っても、何の解決にもならないのに。きっとくだらない事を聞くなと言われるだけなのに。本当に自分は、何もできないし無駄な事しかできないと、樹は泣きそうになった。
「----理由なんて、無くて当たり前だろう」
え? と樹が顔を上げると、刑部姫は壁にもたれかかり、腕を組んで樹の話をじっと聞いていた。
「お前は……正確には勇者部の三人は、バーテックスの事も勇者の事も知らなかった。ただ神樹に選ばれて、戦う事になっただけだ。それで戦う理由を見つけ出せと言われても、それは無理のない事だろう」
「で、でもお姉ちゃんには世界を守るって理由があって、友奈さんは勇者としてみんなを護りたいからって理由があって、東郷先輩は友奈さんを護りたいって理由があって……」
「………世界を守りたい、ねぇ……」
口の中で転がすように、刑部姫は呟いた。それに樹が思わずきょとんとした表情を浮かべると、
「それはあいつらが特別なだけだ。大体、東郷美森だって最初は戦う事にビビっていたと聞いた。あいつも最初から戦う理由があったから戦ったわけじゃない。ただ結城友奈が傷つくのを見ていられなかった、だから変身して戦う事を決めた。それだけの話だ。何か難しい事があったか?」
「そ、それはそうですけど……」
まだ煮え切らない態度の樹に、刑部姫は特に怒る事無く続けた。
「お前を見ていると、私の知り合いを思い出すよ」
「刑部姫の、知り合いですか?」
「ああ。そいつはお前達よりも前の勇者でな。以前は今のように一般人から勇者を選ぶんじゃなくて、大赦の家系の人間から勇者が選ばれていたんだ。だがそいつはお前達のように一般家系であるにも関わず、何故か勇者に選ばれた。つまり最初から勇者に選ばれる事が分かっていた奴らとは違って、そいつもお前同様巻き込まれる形で勇者になったんだ」
そう聞くと、確かにその人物と自分は似ているのかもしれない。勇者の事やバーテックスの事を何も知らず、突然勇者に選ばれ戦う事になった。すると当然ある事が気になり、樹は刑部姫に尋ねる。
「その人は、どんな理由で戦っていたんですか?」
自分が勇者になったのは、単に姉についてきただけだ。世界を守るとか、そんな高尚な理由でなったわけではない。自分と同じような立場のその人は、一体どのような理由で勇者になったのだろうか。
しかし、刑部姫の口から出たのは予想外の言葉だった。
「無かった」
「え?」
思わず樹が間抜けな声を出すと、それがおかしかったのか刑部姫はクックックと低く笑ってから続ける。
「正確には、最初はそいつも戦う理由が無かったんだ。そいつが勇者になったのも、ただ目の前の戦いを放っておけなかっただけ。結城友奈のような強い理由は存在しなかった。だが、幾たびの戦いを得て、自分が本当に何を護りたいのかを知った時、あいつは初めて戦う理由を自覚する事が出来た」
分かるか? と言いながら刑部姫は樹に視線を向け、
「戦う理由が人それぞれであるように、理由ができるタイミングも人それぞれだ。最初から持っている奴もいれば、戦いの中でそれを自覚する奴もいる。お前は確かに戦う理由が無いかもしれないが、それは今だけだ。どれだけかかっても、お前はお前だけの戦う理由を見つけ出せばいい」
「……私だけの、戦う理由……」
そんな事が、本当にできるのだろうか。樹が不安そうにしていると、唐突に刑部姫がこんな事を言った。
「お前、よく自分がああだったら、こうだったらって考えるタイプだろ。もっと明るかったら、もっと姉のような性格だったらって」
「え? は、はい……」
まるで見透かしたような言葉に、樹は思わず頷く。ちょうど昨日の夢の中で、同じような事を考えていたからだ。さすがに刑部姫がそんな事を知っているはずがないとは思うが、まるで夢の中を覗き込まれたような気分になって少し恥ずかしい。
「言っておくが、無意味だぞそれ。個人はその個人にしかなれない。犬吠埼風は犬吠埼風にしかなれないし、お前はお前にしかなれない。違う人間のようになりたいなんていうのは、蛙が鷹になりたいと思うようなものだ。考えるのも無意味な事だ」
「……でも、それじゃあ私は……」
すると樹の言葉を予測していたかのように、刑部姫が続きを先取りする。
「『……いつまでも私は、臆病で弱気で、泣き虫のまま』って言いたいのか?」
「…………」
図星だった。刑部姫の言いたい事は分かるが、それは自分はいつまで経ってもこの性格のままという事だ。ずっと姉の後ろに隠れたままで、一人では何もできない。これからも、ずっとそんな情けない自分であり続けるという事。そんなのは自分でも嫌だと思うが、今の刑部姫の理屈ではそれは不可能だという事になってしまう。だったら自分は、一体どうしたら良いと言うのか。
樹が再び黙り込むと、刑部姫ははぁとため息をついた。
「……確かに犬吠埼樹は犬吠埼風にはなれない。……だが、同時に犬吠埼風は犬吠埼樹にもなれない」
え? と樹が顔を上げると、刑部姫はいつもは滅多に浮かべない真剣そのものの表情を浮かべて諭すように言う。
「確かにお前は姉のように明るくできないし、誰かを引っ張る事も出来ないだろう。だが臆病、弱気、泣き虫は、裏を返せば誰かの痛みを自分の事のように受け取り、共感する事ができるという事だ。それは犬吠埼風にもできない、お前にしかできない事だ。……天才の、私にもな」
はっと刑部姫は笑った。だがそれはいつもの馬鹿にするような笑顔では無く、まるで自嘲するような笑みだった。
「そしてお前は、自分の心を歌を使って誰かに伝える事ができる。誰かのようになりたいと思うな。自分ができる事、自分だけができる事を見つけてやれば良い。どんなに平凡な人間でも、どんなに気弱で臆病で泣き虫な人間でも、そいつにしかできない事は必ずある。自分には何もないなんていう奴はな、そう言って何もかも諦めようとしている愚か者だよ。その方が楽だからな。……だが私が見た限り、お前はそういった類の愚か者じゃない。どれだけ時間がかかっても考え続けていけばいい。今は姉の後ろについていく事しかできないお前でも、それぐらいならできるだろう」
最後は少し手厳しかったが、それは同時に樹ならできるだろうと確信しているような言葉だった。
そして、そこで初めて樹はさっきまで自分の心を覆っていた暗雲が晴れている事を感じた。いつもは毒舌ばかりしか吐かない刑部姫が、案外真面目に対応してくれたからかもしれない。それか誰かに話した事で、気持ちが一時的にすっきりしただけかもしれない。
だが、これだけは確かだ。
彼女は、自分を肯定してくれた。自分はこのままで良いのだと。弱気で臆病で泣き虫。そんな自分にもできる事が、そんな自分にしかできない事が必ずあると彼女は言ってくれた。
それが、樹にはたまらなく嬉しかったのだ。
「ま、それが分かったらもうそんな辛気臭い顔はしない事だな。いつもハムスターのようなお前がそんな顔をしていたら、明日ごろにはベッドで冷たくなっているぞ」
「----刑部姫さん」
「んぁ?」
と刑部姫が怪訝な表情を浮かべると、樹は突然刑部姫の両手を握ってぶんぶんと勢いよく振り始めた。しかし小柄とはいえ人間の樹と精霊の刑部姫では当然体格の差がありすぎて、刑部姫は上下にぶんぶんと振り回される。
「ありがとうございます! 刑部姫さんのおかげで少しですけど気持ちが軽くなりました!」
「ああそうかそれは何よりだ分かったから手を離せ視界が狂いそうなんだよこっちは!」
「それとごめんなさい! 私、刑部姫さんの事誤解してました! 刑部姫さんにも、人情とは良心とか、そういった大切なものがきちんと残ってたんですね!」
ようやく樹が彼女を振り回すのをやめ、むふーと輝いた目で刑部姫を見る。くらくらと首を振りながら、刑部姫は眉をひそめ、
「……いや、別に自分でもそういうものは残ってないと思うが……。あと私が言うのもなんだけど、結構言うねお前……」
樹の意外な一面に少し驚いていると、何かに気づいたのか樹がスマートフォンを取り出して現在に時刻を確認し、あっと声を上げる。
「そうだ、部活の時間が始まっちゃう! 刑部姫さん、行きましょう!」
「え、おい、ちょっと、こら」
そう言うと樹は刑部姫を大胆に真上に放り投げると、重力に従って刑部姫の体は樹の頭の上にぽとんと落下する。刑部姫を頭の上に乗せたまま楽しそうに笑う樹を眺めながら、刑部姫は頬杖を突き、
(……こいつ、将来悪い男に騙されたりしないだろうな……)
まさか一時の気まぐれでこのような事になるとは……と刑部姫はため息をつく。
その後、刑部姫を頭に乗せた樹の姿を見せて、勇者部一同は驚愕の表情を浮かべるのだった。
「……なんであんたがこっちについて来るのよ」
「私が一番知りたい」
横目で樹の頭の上にいる刑部姫を見ながら言うと、刑部姫がムスッと態度で返した。
「良いじゃないお姉ちゃん。刑部姫さんがいても、依頼はできるんだし」
「まぁ、それはそうだけどさぁ……」
さすがの風も可愛い妹の言葉に叶わず、刑部姫を見ながらはぁとため息をついた。
樹が勇者部に合流した後、刑部姫は風と樹と一緒に依頼主の家に行く事になった。本当は夏凜の方に行って彼女をいじってやるかと刑部姫は考えていたのだが、樹の『刑部姫さんも一緒に行きましょう!』という言葉に仕方なくついていく事になった。本来なら断っていてもおかしくないのだが、先ほどの事もありどうも彼女の頼みを無下にする事ができない。
(「……あんた、樹に一体何したのよ」)
未だ刑部姫への不審が抜けきっていない風が刑部姫に小声で尋ねると、刑部姫は変わらず不機嫌そうな顔で、
(「見ての通り、お前の妹に懐かれた。なぁ犬吠埼風、私が言うのもなんだがお前の妹大丈夫か?」)
(「……ちょっとあたしも不安になってきてるわ……」)
(「姉のお前ぐらい信じてやれよ……」)
妹を信頼しているといえ、この状況には風も頭を抱えたいらしい。初めて互いの心がシンクロした刑部姫と風は、はぁと揃ってため息をつくのだった。
数分後、二人と一体が辿り着いたのは海辺近くの家の前だった。事前に依頼主から教えてもらった住所を調べ、家屋と住所が一致している事を確認する。
「ここね」
備え付けの呼び鈴を押すとビーっという音がし、風が家の中に聞こえるように呼びかける。
「すいませーん! 讃州中勇者部です! 子猫を引き取りに来ました!」
そして引き戸を開けると、中から聞こえてきたのは子供の泣き声だった。
「絶対ヤダ! この子をあげるなんて……!」
泣き声と共に聞こえてきた言葉に、二人と一体の目が家屋の奥に向けられる。そこでは、猫を抱えた少女と困った表情を浮かべた母親が向かい合っていた。
「私が飼うからぁ!」
「でもね、うちでは飼えないのよ……」
しかし少女は母親の言葉に納得せず、仔猫を抱えたまま泣きじゃくっている。それを見て、樹が言った。
「もしかして、仔猫を連れて行くの嫌だったのかな……」
「あちゃー……。もっと確認しておけば良かった……」
とすると、仔猫を引き取るという話が複雑になってくる。あの少女の様子では、恐らく仔猫を離す事はないだろう。
「どうしよう……。この家の子、泣いてるみたい……」
樹が言うと、困っていた様子だった風はすぐに表情を引き締め、
「大丈夫。お姉ちゃんが何とかする」
「えっ? 何とかって……?」
樹が尋ねるが、風は答えずに家に入ろうとする。が、それに待ったをかけたのは何故かスマホを眺めていた刑部姫だった。
「待て、犬吠埼風」
「……? 何よ」
「判断はお前に任せる。だがその代わり、もしもガキがどうしても飼いたいって言ったら、私が言う条件を伝えろ」
「条件って?」
風が尋ねると、刑部姫はその条件を伝える。聞いた風は怪訝な表情を浮かべていたが、「分かったわ」と素直に頷くと家の中に入っていった。
「あの家のお母さん、仔猫の事考えなおしてくれて良かったねー!」
「……うん」
風と樹、刑部姫は夕日に照らされる中、学校への道を歩いていた。
あの後風は母親と子供の仲を取り持ち、仔猫は少女が育てる事になった。その上で刑部姫が風に伝えた条件を少女に伝え、少女もその条件を承諾し、仔猫は今はあの家で引き取る事になった。
「喧嘩にもならなかったし、お姉ちゃんのおかげ。だよね、刑部姫さん!」
「ま、そうだな」
樹が頭の上の刑部姫に言うと、刑部姫はあくびをしながら答えた。二人がそんなやり取りをしていると、風が突然こんな事を言った。
「……ごめんね、樹」
「え?」
突然の風の言葉に樹が思わず立ち止まると、風もそれに合わせて立ち止まる。一瞬樹は自分の聞き間違いかとも思ったが、風はもう一度同じ言葉を告げる。
「ごめん」
「何で、謝るの?」
謝られる理由が分からず、樹が尋ねると風は沈んだ表情で、
「樹を、勇者なんて大変な事に巻き込んじゃったから……。さっきの家の子、お母さんに泣いて反対してたでしょ? それでさ、思ったんだ。樹を勇者部に入れろって大赦に命令された時、あたし、やめてって言えば良かった。さっきの子みたいに、泣いてでも。ねぇ刑部姫、それってたぶんできるわよね?」
「……前例は無いが、不可能ではないだろうな」
戦力が低くなってしまうのは痛いが、どのみち戦う意志が低いと神樹への霊的パスが繋がらず、勇者に変身する事は出来ない。それだったら樹を勇者部に入れず、四人で戦うか、それから夏凜と同じように別に勇者候補を育て、勇者部に合流させるといった方法もできなくはない。
刑部姫の答えを聞いて、風はやっぱりと呟く。
「そしたら……もしかしたら、樹は勇者にならないで、普通に……」
「何言ってるのお姉ちゃん!」
落ち込む風に、妹から力強い言葉が飛ぶ。風が顔を上げると、目の前には透き通った真剣な目で自分をまっすぐ見据える樹の顔があった。
「樹……」
「お姉ちゃんは、間違ってないよ」
「でも……」
それでも風が言葉を続けようとすると、樹は小さな笑みを浮かべて、
「それに私、嬉しいんだ。護られるだけじゃなくて、お姉ちゃんと、皆と一緒に戦える事が」
今まで自分は、姉に護られるだけだった。
けれど勇者として戦っている時は違う。風や友奈達と一緒に、世界を守る事ができる。大変だけれど、誰かの大切な人を守る事ができる。まだ迷っている事はたくさんあるけれど、それだけは間違いなく樹自身の想いだった。
樹の強い意志に、風はしばらく驚いたように口を開けて樹を見ていたが、彼女の言葉に安堵したのかふっと相好を崩した。
「……ありがと」
「どういたしまして!」
「樹ったらなんか偉そう! 刑部姫の性格が移った?」
互いに言い合った後、二人は笑い声を上げた。一方の刑部姫は自分を引き合いに出されて、樹の頭の上で少しムスッと表情を浮かべている。
「さーてと! 部室に戻ったら、樹は歌の練習ね!」
「あ! うう~、そうだった……! が、頑張る!」
そして二人と一体は、再び学校への道を歩み始める。と、風が樹の頭の上にいる刑部姫に尋ねた。
「そうだ。ねぇ刑部姫、あんたどうしてあんな条件出したの? あの子もお母さんも引き受けてくれたから良かったけど……」
刑部姫が提示した条件とは、次のようなものだった。
まず三ヶ月少女が仔猫を飼い、三ヶ月経って勇者部が様子を見に向かい、問題が無さそうだったらまた二ヶ月仔猫の面倒を見る。そして二ヶ月後も勇者部が様子を見て問題が無ければ、仔猫を正式にあの一家の家族とし、勇者部も様子を見に行かなくて良いというものだった。なお、様子を見に行って少女が仔猫の世話をきちんとしていなかった場合などは、即刻勇者部が仔猫を引き取るという手筈になっている。
「ガキの中には飽きやすい奴がいる。あのガキがそうだっていう確証は無いが、生き物を育てるっていうのは簡単にできる事じゃない。三ヶ月きちんと面倒を見る事ができれば及第点だろう」
「じゃあ、二ヶ月は?」
「その頃から十二月にかけて、気温がだんだん下がっていく。寝る時の環境は人それぞれ異なるだろうが、暖房を切っていた場合布団から出るのが辛くなってきて、面倒臭がりなら餌をやるのも億劫になる季節だ。おまけに猫は寒さに弱い生物だから、一日中暖房をつける事も考えなくてはならない。食費や電気代などの金銭面、アレルギー、自分や家族が家にいない時の猫に対する対応……。そういった事をひっくるめて猫を飼い、あのガキの言っている事が口だけじゃないのかを確かめるのが五ヶ月っていう期間だ」
「へぇ~、刑部姫さん、そんな事まで考えてたんですね……」
驚き半分、尊敬半分で樹が言う。そんな妹にちょっと心配そうな視線を向けながら、風がさっきの少女の顔を思い浮かべる。
「でもさ、杞憂じゃない? あの子あんなにお母さんに自分が飼うからって頼み込んでたし、猫の世話を面倒臭がるようにはあたしには見えなかったけど……」
「言っただろう。ガキの中には飽きやすい奴もいる。最初は確かに本気で飼うかもしれないが、段々と世話に疲れてきたり飽きたりする可能性だってゼロじゃない。もしも人間が全員ペットの世話をきちんとするなら、捨て犬や捨て猫はいないだろうが」
「それは、そうだけど……」
まださっきの少女の顔が浮かんでいるのか、風が納得していなさそうな表情を浮かべていると、刑部姫はチロリと風を横目で睨みながら、
「お前があのガキに絆されるのは勝手だが、それでもしもあの仔猫が捨てられたりしたらどうなると思う? 野良猫になって生きていくのはまだマシだ。道路を歩いていて車に轢かれたり、縄張り争いでズタボロになって野垂れ死になったり、最悪の場合は保健所送りになって殺処分っていうのもありえない話じゃない」
「………っ」
刑部姫の口から出た単語に、風は顔を険しくし、樹も不安そうな表情を浮かべる。今は神樹への信仰心のおかげか四国に住む人々のモラルは高く、西暦時代に比べると捨て犬や捨て猫の数は減っている。しかしあくまで減っているというだけでゼロではないし、数が減っているのも西暦時代に比べると人口も減っているので、それで減っているように見えるという話も否定できない。
そして、殺処分される犬や猫も少なからずいる、というのも悲しい事ではあるが事実だった。
「……私達人間は赤ん坊の時ならともかく、それなりに成長すれば自分で料理する事ができるし、料理をする事ができなくてもレトルト食品や水で飢えを凌ぐ事ができる。気温も過酷な環境でなければ、ある程度適応する事も出来るだろう。……だが、犬や猫などのペットは違う。私達人間の手助けが無ければすぐに死ぬ。言い方を変えれば、ペット達の命の手綱を握っているのは飼い主なんだよ。……人間にせよペットにせよ、命を育てるっていうのは楽にできる事じゃない。お前なら分かるだろう、犬吠埼風」
刑部姫の言葉に、険しい表情を浮かべながらも風は否定しなかった。約二年前からとはいえ、一人で樹の世話をしてきた彼女には、刑部姫の言っている事が痛いほどに分かるに違いない。
「ま、私が条件を出したのはそんな理由だ。五ヶ月きちんと世話を続ける事ができれば、あのガキの言葉が口だけのものじゃないと認めてやっても良いだろう。だが途中で飽きたり放り出していた場合は、容赦はするな。すぐさまあの猫を引き取り、世話をきちんとしてくれる奴を見つけてやる事だな」
「……いや、別にはそれは良いけど、勇者部の部長はあたしなんですけど……」
まるでリーダーのような指示を出す刑部姫に、頬をひくひくさせながら風が言う。
すると自分の頭の上で聞こえなかったふりをする刑部姫に、樹が尋ねた。
「あの、刑部姫さん。もしかして刑部姫さんも、生き物とか育てた事があるんですか?」
すると刑部姫は頬杖を突きながら、じろりと樹の顔を見下ろして、
「何故そう思う?」
「いえ、その……。はっきりとは言えないんですけど、刑部姫さんの言葉に実感がこもってたって言うか……。何かペットを飼ってた事があるのかなーって……」
自分でも上手く言葉にすることができないのか、樹が難しそうに言うと、刑部姫が案外すんなりと答える。
「ああ、過去に一度な。私の友人と一緒に育てていた」
「刑部姫あんた友達いたの!?」
風が背後に雷が見えるほどの衝撃を受けると、刑部姫がどこからか取り出したスーパーボールが風の額に直撃する。殺傷能力はないとはいえ、そこそこの弾力と刑部姫の投擲技術が組み合わさったスーパーボールが高速で額に直撃し、風は額を抑えてその場にうずくまる。
「……そっか、だから……」
「……っ? どうした、犬吠埼樹」
追撃のために二、三発目のスーパーボールを取り出した刑部姫が聞くと、樹は刑部姫の顔を見て、
「いえ、私ずっと刑部姫さんが誰かに似てるなーって思ってたんです。誰だろうってずっと考えてたんですけど……今、分かりました」
「ほほう。私に似ている人間だと? 誰だ?」
聞き捨てならなかったのか、刑部姫が少し挑発的な笑みを浮かべる。唯一無二の天才である自分に似ている人間とは、一体どこのどいつだと興味が沸いたのだろう。樹は笑いながら、その人物を口にした。
「えっと……その……私とお姉ちゃんの、お母さんです」
と、それに異を唱えたのはようやくスーパーボールのダメージから回復した風だった。よほど痛かったのか、額を撫でさすりながら立ち上がり涙目を樹に向ける。
「お母さんと? 全然似てないじゃない。第一、お母さんは刑部姫ほど性格悪くなかったわよ?」
「うん、そうなんだけど……。でも、ちょっと似てるなって思ったの。顔も似てないし、性格も似てないし……。それなのに、お母さんに似てるなって。今まで理由がずっと分からなかったんだけど、刑部姫さんペットを育てたって言うし。それって、その子にとってのお母さんって事でしょ? だから……」
確かに命を育てていたという点では、その生き物の母親とする事もできるだろう。樹が自分の母親と似ていると評したのは、恐らくその点だ。
顔も性格も違うとはいえ、母親として命を育てていた者特有の雰囲気。ゆえに、樹は刑部姫が自分の母親と似ていると評したに違いない。
「でも、あたしはやっぱりお母さんと刑部姫が似ているとは思えないけどなぁ……。もしも刑部姫があたしの母親だったらあれよ? あたしとっくの昔にグレてるわよ? あ、ちょっと待って刑部姫ごめんスーパーボールだけはご勘弁をー!」
悲鳴を上げて風が額を隠してうずくまる。しかし、彼女の予想に反して刑部姫は特になんの反応も見せなかった。これは風も樹も予想外だったのか、二人の視線が樹の頭の上に向けられる。
直後、刑部姫の背中の羽がパタパタと動き、彼女が体が宙に浮く。彼女が二人に背を向けたまま、世界を赤色に染める太陽を見つめた。
「……母親、か。確かに私は第三者から見たら母親だったかもしれない。……だが、母親と呼ばれる資格は私には無い。育てはしたが、結局私はあいつを死なせてしまったからな」
「刑部姫さん……」
どこか哀愁がこもった背中に樹は声をかける。彼女のそのような姿は、風も樹も見た事が無かった。
刑部姫はしばらくじっと太陽を見つめていたが、やがて背中を見せたまま彼女は何も言わず花びらと共に二人の目の前から姿を消してしまった。余計な事を喋りすぎたためか、自分のそのような姿を見せるのが嫌になったのか、はたまた別の理由か。
樹が刑部姫の消えた場所を見つめていると、風が樹の頭に優しく手を置いた。
「部室に戻りましょ、樹。歌の練習もしないと。刑部姫も大丈夫、きっと明日には、また会えるわよ」
「……うん、そうだね」
そして樹は風と一緒に今度こそ学校へと向かう。
その頭に、先ほどの刑部姫の悲し気な後ろ姿を思い浮かべながら。
そして、歌のテスト当日。樹は丸めた音楽の教科書を手にしながら、自分の番が来るのを待っていた。
(大丈夫……。昨日だって、ちゃんと練習したんだし)
「----次は、犬吠埼さん」
「は、はいっ!」
自分の前の順番の人物のテストが終わり、自分の名前が呼ばれる。緊張が混じった声で返事をしてから、樹は黒板の前まで歩き正面を向く。
その瞬間、教室にいるクラスメイト達の視線が一斉に樹に向けられているのが分かってしまった。その視線に負の感情が全くないという事は分かっていても、やはりどうしようもないほどの緊張が樹の体を締め付けてくる。
(やっぱり、無理……)
緊張と不安が樹の心を支配しかけると同時に、音楽の教師のピアノの演奏が始まる。表情を引き締めて樹が教科書を勢いよく開くと、中からぱさりと一枚の紙が床に落ちた。
「す、すいません……!」
慌てながら樹がしゃがみ込み、紙を拾う。その際紙が開かれ、文面が樹の目に飛び込んでくる。
「………!」
二つ折りになっている紙に書かれていたのは、勇者部の面々が自分に宛てて書いた寄せ書きだった。
『テストが終わったら打ち上げでケーキ食べに行こう』
「友奈さん……」
自分が気負わないように、テストの結果よりも、テストが終わった後の事を書いてくれている友奈。
『周りの人はみんなカボチャ』
「東郷さん……」
自分が緊張しないための方法を書いてくれている東郷。
『気合よ』
「夏凜さん……」
短く簡潔だけど、信頼の念がちゃんと込められているのが分かる夏凜。
『周りの目なんて気にしない! お姉ちゃんは樹の歌が上手だって知ってるから』
そして……心強く、樹の心から不安を吹き飛ばす、温かな風の文章。
文面に書かれたメッセージが、樹の心に力を与え、自然と彼女の表情が笑顔へと変わっていく。
「犬吠埼さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい!」
自分を心配した教師に返事をし、立ち上がる。同時に、樹の脳裏に刑部姫の言葉が蘇る。
『テストの本番では音程や強弱の事は考えるな。ただでさえ緊張しやすいお前がそこまで考えたら、一気にパンクするぞ。緊張しても良い。上手く歌おうとしなくても良い、そもそも声が良いからな。お前はただ、誰に何を伝えるかをただひたすら考えて歌え』
刑部姫からの言葉を強く心に刻みこむと、再びピアノの演奏が始まる。しかし、樹の心に先ほどあった恐怖と過度の緊張は無い。若干の緊張はあるが、刑部姫も言っていた通りそれは必要なものだ。無理に無くすようなものではない。今自分がすべきは、
(誰に、何を伝えるか……)
そんなのはもう、決まっている。
(私はみんなと一緒にいる! 勇者としてだって、この歌だって……!)
それだけを、伝える。
この場にはいないけれど、自分の事を信じてくれている、勇者部の面々。
そして、自分の可能性を信じてくれた、母親のような精霊に。
樹の口が開かれ、歌声が教室に響き渡る。
教室のクラスメイト達の驚きと感嘆が入り混じった目が樹に向けられるが、それにも緊張する事無く樹は歌い続ける。
クラスメイト達のその反応が、今回の樹のテストの結果を見事に表していた。
放課後、刑部姫はこの前樹に呼び出された屋上に通じる扉の前で一人宙に浮かんでいた。彼女が腕組みをして目を閉じていると、階段を上ってくる足音が聞こえてくる。この場に現れる人物は、刑部姫の知る限り一人しかいない。
「刑部姫さん!」
その人物、犬吠埼樹が姿を現すと刑部姫はゆっくりと目を開ける。樹は刑部姫の目の前まで来ると、息をつきながら嬉しそうに言った。
「刑部姫さん、私……!」
「言わなくても分かる。歌のテストで合格したんだろう?」
「はい、これも、勇者部の皆さんや刑部姫さんのおかげで……!」
と、突然刑部姫が樹の口に右手の人差し指を向ける。
「確かにあのガキ共や私の言葉がお前の助けになったのは事実かもしれない。だが、合格を勝ち取ったのはお前自身がプレッシャーに負けず、自分の実力を発揮したからだ。そこは間違えるな」
一瞬呆気に取られた樹だったが、刑部姫の遠回しな励ましだという事に気づくと、クスクスと笑った。樹が突然笑い始めた事に刑部姫は一瞬眉をひそめると、何かを言う事も無く再び腕を組んだ。
「それで刑部姫さん、実は私、やりたい事が出来たんです」
「やりたい事?」
「実は私……歌手に、なってみたいというか……」
「ほう」
少し照れながら樹が言うと、刑部姫はからかう事も無く少し目を見開いた。今まで小動物のように気弱だった彼女が歌手という職業を口にした事が、意外だったのかもしれない。
「正直、まだ夢なんて言えないです。ただやってみたい事ができた、それだけなんです。けど、それでも良いんです。頑張る理由があれば、私はお姉ちゃんの後ろじゃなくて、一緒に並んで歩いて行ける。だから、歌手になるために頑張ってみたいって思って……。ちょ、ちょっとまだお姉ちゃんに言うのは恥ずかしいんですけど……」
恥ずかし気に樹が頬を赤くすると、刑部姫は腕を組んだ状態のまま樹に告げた。
「良いんじゃないのか。例えどんな理由でも、それは他の誰でもないお前が抱いた願いであり、お前の意志だろう。だったら、お前が望むままやりたい事に向かって突き進んでいけばいい」
「……っ! はい! ありがとうございます!」
刑部姫の言葉に嬉しい気持ちが胸の奥からこみ上げてきて、樹は思わずぺこりとお辞儀をした。一方の刑部姫は、真正面から礼を言われる事に慣れていないのか、ぷいっとそっぽを向いている。
「じゃあ私、部活に行きますね! ……刑部姫さん!」
階段を下りて少し刑部姫から距離を取ると、突然樹が振り返って刑部姫に叫んだ。
「何だ?」
「昨日、刑部姫さんは自分は母親と呼ばれる資格なんてないって言ってましたけど、私はそんな事ないって思います! 昨日刑部姫さんは、自分が育てていた子が死んでしまった事を本当に悲しんでいるように見えましたから!」
「………」
「だから私は、刑部姫さんはその子にとって間違いなくお母さんだったと思います! だから、母親と呼ばれる資格なんてないなんて、言っちゃ駄目ですよ! ……じゃあまた、部活で!」
そう言って樹は、階段を駆け下りて勇者部部室へと向かって行った。
刑部姫が階段下をじっと見ていると、彼女の後ろの屋上への扉が静かに開かれる。中から現れたのは、大赦の仮面を被り、神官服に身を包んだ安芸だった。
「珍しいですね、あなたが特定の個人に肩入れするとは」
「………ただの気まぐれだ」
「本当ですか?」
「………」
正直、ただの気まぐれと言うと嘘になる。
もしかしたら、彼女と誰かを重ね合わせていたのかもしれない。
親を失い、母であり姉のような存在の庇護の下で育てられた、誰かを。
だからこそ自分でも信じられないぐらい、彼女に色々とお節介を焼いてしまったのかもしれない。
「一応聞いておきますが、大丈夫ですか?」
「それはあいつに同情して、監視の目が鈍るんじゃないかって言いたいのか? 安心しろ、それはない」
確かに今回は樹に色々助言を送ったし、かつて自分のそばにいた誰かを彼女に重ねて見ていたのかもしれない。
しかしそれで、自分の役目を忘れるような愚かな真似は決してしない。例えこの先彼女が戦いの中で傷ついたとしても、だ。
冷酷だと言われるかもしれないが、そもそもそういった人間なのだから、今更何を言っているのだという話にしかならない。
「……それを聞いて安心しました。彼女達のサポートと監視、引き続きよろしくお願いします」
「ああ、お前もわざわざこんな所にご苦労だったな」
神官はぺこりと刑部姫に頭を下げ、階段を下りていった。彼女の後ろ姿を見送ると、刑部姫はスマートフォンを取り出して現在の時刻を確認する。
「……面倒だが、私も行くか」
直後、刑部姫の姿は大量の花びらと共に、階段から姿を消した。
それから数日後の七月七日、残りのバーテックス七体が一斉に四国に襲来。
讃州中学勇者部、結城友奈、東郷美森、犬吠埼風、犬吠埼樹、三好夏凜がこれを迎撃。
戦いの中で三好夏凜を除いた勇者四人が『満開』を発動、結果バーテックス七体を撃破する事に成功する。
十二体のバーテックスを全て撃破し、友奈達はもうこれで自分達の戦いは全て終わったと思っていた。
その先にある、真実と悲しみを知らぬまま。
次話は七体のバーテックスとの戦いが終わった後の話になります。理由としては次話の展開では刑部姫はほとんど戦いに参加せず、ほぼ原作通りの流れになるからです。ですから次回は七体のバーテックスとの戦いが終わった後、つまり四人が満開した後の話になります。楽しみにしていた読者の方々には申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いします。