「……よし。今日の検診はこれで終了だ。病室に戻って良いぞ」
病院の検査室でパイプ椅子に座る志騎に、パソコンのモニターを眺めていた刑部姫が言った。カチカチとマウスを操作する刑部姫に、志騎が尋ねる。
「なぁ、刑部姫。俺は一体いつまで入院生活をすれば良いんだ? 異常はもう無いんだろ?」
先の戦いの後、二年間戦い続けた志騎は讃州市内の病院へと入院する事になった。バーテックスの細胞の力で外傷などはすぐに治るものの、二年間戦い続けた負荷がどこかに現れていないかなどを確認するためだ。検査をするのは当然人間の医師ではなく、志騎を作り出した張本人にして彼の体を誰よりも知り尽くしている刑部姫が担当している。志騎の質問に、刑部姫はチロリと志騎の顔を見て、
「異常はもうないと断言できるまでだ。分かっているだろう? お前は二年間星屑やバーテックスと戦い続けていたんだ。どこに不具合が生じていても不思議じゃない。少なくとも日常生活がもうできると判断できるまで、お前はずっと入院生活だ」
「それは分かってるけどさ……」
さすがに一日中ベッドの上で寝転がっているというもいい加減飽きてきた。まぁさすがに二年間自分と同じような生活を過ごしてきた園子と銀の目の前で言う事はできないが、この病院に入院してから三週間は経つ。もうそろそろ退院させてほしいというのが本心だった。すると志騎が何を考えているか分かっているのか、刑部姫は頭をくしゃくしゃと掻いて、
「まぁ、検査はあらかた終わったしな。あと少し検査をして何も異常が無ければ退院できるだろう。それまでの辛抱だ」
「そうかい。それは良い事を聞いたよ」
肩をすくめながら志騎は立ち上がると、検査室から出ようとする。しかし扉の前で止まると刑部姫に振り向く。
「そうだ、刑部姫。あいつ、意識は戻ったのか?」
すると刑部姫はかすかに眉間にしわを寄せると、首を横に振った。
「いや、まだだ。私も色々と調べているが原因は分からない。御霊に触れた事が原因である事だけは分かるが、具体的に何が起こってああなっているのかは謎のままだ」
「そうか……。あとで見舞いに行くか」
「ああ、行ってやれ。お前なら何か分かるかもしれないしな」
同じバーテックスのお前なら。そんな言葉が聞こえてきそうだったが、それを否定するつもりはない。真由理や大赦には分からなくても、バーテックスと同じ自分だからこそ分かる事があるのかもしれないのだから。
検査室を出た志騎は廊下を歩きながら、窓ガラス越しに外の風景を見る。
こうして見ると、平和な風景だと思う。
が、だからと言って勇者達の戦いが夢物語だったわけではない。
自分達とバーテックスの戦いは大規模なものとなり、それは大きな山火事となって現れた。幸い死傷者は出なかったものの、それでも現実世界に大きな爪痕を残している。星屑やバーテックスの侵攻も止まってはいるが、外の世界は今も化け物が蠢く赤い世界のままだろう。
だが、悪い事ばかりではない。
この前刑部姫から聞いたのだが、勇者達の満開によって奪われた体の機能が少しずつ返ってきているらしい。本当に少しずつだが、彼女達の体の機能が全て元通りになるのも時間の問題だろう、というのが刑部姫の見解だった。何故体の機能が返ってきたのかは分からないが、もしかしたら先の戦いの勇者達の力を、神樹が認めてくれたのかもしれない。その理由が真実かどうかは分からないが、少なくとも喜ぶべき事だと思う。
窓の外を眺めていた志騎が再び歩き出そうとすると、背後から彼に声がかけられた。
「志騎!」
その声に、志騎はため息をつくと後ろを振りむく。
後ろに立っていたのは一人の少女だった。まだ戻ってきた足の機能に慣れていないのか松葉杖を両手に持ち、左目を眼帯で覆っている。少し伸びた髪の毛はまとめられていないせいで印象が自分の記憶の中の少女と印象が少し違うが、この二年間で変わってしまった雰囲気は少し前のものに戻っている。彼女の顔を呆れた表情で見ながら、志騎が言った。
「お前さ、またあっちの病院抜け出してきたのか? 刑部姫に小言言われるぞ」
「あいつからの小言なんて気にしてないよ。良いじゃん別にお前に会うぐらいさ」
少女――――銀はそう言って、えへへと笑った。
勇者達に体の機能が戻ってくるのと同時に、銀の体の機能も少しずつ戻ってきた。今は右目の視力と左耳の聴力、内臓のいくつかの機能、そして両足の機能が少し戻っている。
大赦の方も銀の処遇について考えを改めているらしく、立場自体は以前と変わらないが、今はこうしてあの気が狂いそうな病室から出歩く事を許されている。とは言っても本来は彼女がいた病院でリハビリを行わなくてはならないのだが、たまにこうして大赦の神官の手を借りて志騎が入院している病院に来る事があった。志騎としてはゆっくりと入院していて欲しいのだが、ようやく外の世界に出る事を許可された事もあるので、さすがの志騎も銀に強く言えなかった。
「それより志騎、お前の方も大丈夫か? 入院してから検査続きって聞いて、アタシ心配でさ……わぁっ!」
「銀っ!」
松葉杖を使って志騎に向かって歩み寄ろうとした銀が、彼の目の前で体勢を崩して転びそうになる。間一髪志騎が銀に駆け寄って彼女の体を抱きかかえ、二本の松葉杖が乾いた音を立てて転がった。
「大丈夫か?」
志騎が銀に尋ねるが、何故か彼女からの返答は来ない。彼女の顔を見ると、彼女は何故か顔を赤らめながらも少し嬉しそうな表情を浮かべていた。
「どうした?」
「いや、志騎の体、温かいなぁって思ってさ」
「……ったく、何言ってんだよ。それより気をつけろよな。お前まだ体治りきってないんだから」
呆れたように笑いながら、志騎は銀の髪の毛をくしゃくしゃと撫でてやる。ペットの犬に対するような扱いに銀はやめろよなーと言葉だけ反抗しているが、どうやら満更ではないよう志騎のなすがままにされている。
それから二人は病院の廊下に設置されている椅子に並んで座ると、志騎が銀に尋ねた。
「園子の様子は聞いたか?」
「ああ。アタシの体も大分治って来て、大赦の神官も色々と話してくれるようになったよ。園子の方はまだ体は治ってないようだけど、アタシ達の体が治ってきている以上、園子の体もじきに戻ってくると思いますってさ! そうしたら、きっとお前についての記憶も戻るよ」
「……そうだな。そしたら、東郷の記憶も戻るだろうな」
体の機能が戻ってくるという事は、彼女達が失ってしまった四人の時の記憶も戻ってくる可能性が高い。園子が志騎に関する記憶を取り戻し、東郷が鷲尾須美だった時の記憶を取り戻せば、自分達四人はまた集まる事ができる。そうすれば、この二年間でバラバラになってしまった絆をまた結びなおす事ができる。そう考えるだけで、志騎と銀は自然と笑顔になれた。
「だけど園子の事だから、俺を忘れてた事めちゃくちゃ引きずるだろうな……」
「それは確かに……。今から何かフォローの言葉考えとくか」
「それはお前が頼む。俺だと下手したら傷口に塩を塗り込みかねないし」
「お前の場合、刑部姫と違って悪気が無いのがさらにタチが悪いもんな」
「それはそうかもしれないけど、さすがに言い過ぎだろそれは」
志騎が半眼で銀を睨むと、彼女は冗談だよと言いながら笑った。それから自然と二人は無言になり、銀の笑い声も静かになっていく。しばらく二人が無言でいると、銀がポツリと志騎に尋ねた。
「……あの子、目覚めてないんだってな」
「みたいだな」
銀の言葉に、志騎は静かに返す。銀が言うあの子、というのが誰かは志騎も分かっている。
「折角戦いが終わったのに、どうしてあの子だけが……」
「分からない。だから後で見舞いに行ってくる。バーテックスの俺なら、何か分かるかもしれないしな」
「そうだな。お前ならできるかも……いや、できるだろうな」
断言するような銀の発言に、志騎は眉をひそめながら、
「簡単に言い切ってるけど、根拠は一体何だよ。もしかしたら、俺でもできないかもしれないぞ」
すると銀はずいっと志騎の目の前に顔を寄せて、彼の目をまっすぐ見える。志騎の瞳に、銀の顔が写り込んだ。
「だって、志騎は今までだって信じられないような事をしてきただろ? バーテックスの洗脳だって自分で解いたし、二年間一人で戦い続けてたし、……それにこうして、アタシの前に帰ってきてくれた。こんなにとんでもない事ばっかりやってきた幼馴染を信じるのは、当たり前だろ?」
ニッと笑う銀に志騎は目をぱちくりして彼女の顔を凝視するが、すぐにふっと笑みを浮かべた。彼女はそれら全てが志騎一人でやってきた事だと思っているようだが、それは違う。自分がバーテックスの洗脳を解く事が出来たのも、こうして帰ってくる事が出来たのも、目の前の少女がいてくれたからだ。正直、自分なんかよりも目の前の少女の方がその何倍もすごいという事に、彼女自身は気付いていない。
それがおかしくて、志騎は思わず笑みを浮かべたままクックックと笑い声を上げてしまう。と、銀はきょとんとした表情を浮かべて、
「何だよ、志騎。刑部姫みたいな笑い声上げて。もしかしてアタシ、何か変な事言ったか?」
「いや、別に。それと銀、頼むから刑部姫みたいな笑い声って言うのは本当にやめてくれ。割とショックだから」
そう言うと、銀もその気持ちは分かるのかそれもそうだなと言ってから、志騎につられるように笑った。そしてスマートフォンを取り出すと現在の時刻を確認し、
「と、そろそろあっちの病院に戻らないとヤバいな。じゃあ志騎、アタシは帰るよ。また今度話そうな」
「ああ。分かってる」
二人は立ち上がると、互いに向き合って言葉を交わす。それから銀は志騎の目を見て、こう言った。
「……志騎。あの子の事、よろしくな。アタシもう、須美が悲しむ姿なんて見たくないんだ」
「分かってる。できる限りのことはするよ」
「ああ、信じてる」
全幅の信頼がこもった言葉を言うと、銀はまたね! と笑顔で言いながら志騎に背を向けて廊下を歩いて行った。志騎は少しの間銀の後ろ姿を眺めていたが、やがてその方向に背を向けるとある人物がいる病室に歩き出す。銀の信頼に応えるために、東郷美森という親友を悲しませないためにも、今自分ができる事をしなければならない。
やがて志騎はある病室の前に辿り着くと、コンコンコンとノックを三回する。しかしどうやら見舞いの人間等はいないらしく、ノックや返事は返ってこなかった。志騎がスライド式の扉を開けて中に入ると、病室は個室となっており、ベッドの上には一人の少女が座っている。が、志騎が入ってきたにも関わらず少女は志騎に目を向ける事すらせず、ただ窓の外をぼうっと眺めている。とは言っても、眺めているのはあくまでそう見えているだけで、彼女の目は何も映していないのだが。志騎はベッドの横まで来ると、少女……結城友奈の顔を見る。目の前の少女は刑部姫から聞いた話によると、とても明るい性格の少女だったらしい。その少女が、今やまるで人形のようになってしまっていた。
戦いの後、勇者達には満開で失った機能が徐々に戻りつつあった。しかし結城友奈だけは御霊に触れたせいか、こうして目は開いてはいるが意識が戻っていない状態になっている。刑部姫が何回か検診したが意識が無い以外は全て異常なしという結果で、流石の刑部姫もお手上げの状態との事だった。
なお、友奈が病院に入院してから勇者部の面々が何回か見舞いに来ているようだが、それでも友奈は何の反応も見せないらしい。以前見舞いに来た勇者部を隠れて見た事があったが、全員不安そうな面持ちをしていた。
それもそうだろう、と思う。刑部姫から聞いた限りでは、結城友奈は勇者部の中心人物とも言える存在だ。その彼女がこんな状態に陥っては、勇者部の面々も不安で仕方ないに決まっている。そして誰よりもそれを感じているのは、二年間友奈と一緒だった東郷だろう。
彼女達は原因も分からず、不安の中友奈の帰りを待っている。
正直、自分に何ができるかは分からない。だけど、自分には彼女達にはないバーテックスの力がある。多くの人達の命と幸せを奪った、化け物の力が。
それでも、その力で彼女達を――――友奈を助ける事ができるのならば。
「……使わない手は無いよな」
そう呟くと志騎は目を細めて、バーテックスの能力を発動する。左目に青い幾何学模様が現れるが、志騎の身体能力が上がったり五感が鋭くなったりはしない。当然だ。今志騎は、あるものを見るために能力を発動したのだから。
志騎がそれに気づいたのは、入院してからすぐの事だった。
ある日ふと暇つぶしにバーテックスの能力を発動して視力を強化して、窓ガラス越しの風景を見ていた時、病院内の敷地を歩く人の中に、何やら小さな灯のようなものが見えた。色はどれも半透明で、志騎は最初それが何なのか分からなかったが、ある日健康体の人物と入院している病人とでは灯の大きさが違う事に気づいた。
それで志騎はある事に気づいた。あの半透明の灯は、人の魂なのではないかと。
それから志騎は何回か他の人にばれないようにバーテックスの能力を発動した結果、自分が立てた仮説が正しい事に気づいた。ある時病気で亡くなった老人と、老人が亡くなった事に悲しみ涙を流す遺族をわずかに開いた病室の扉から覗き見た事があったのだが、遺族にはその灯火はあったが老人には無かった。それこそが灯火がその人物の魂である事を示す、何よりの証拠だった。
そして普通の人間と勇者では魂の色が違うらしい。前に勇者部の面々もバーテックスの能力を発動して見たのだが、東郷の魂の色は青、風の色は黄色、三好夏凜の色は赤、樹の色は黄緑と色がついていた。どうやら普通の人間の魂には色がつかず、勇者の魂の色には色がつくらしい。ちなみに志騎は鏡に自分を映して自分の魂の色も見たのだが、自分の場合は純白だった。
これはあくまでも自分の予想に過ぎないが、星屑やバーテックスはこの能力を使って襲う人間や勇者に狙いを定めていたのではないだろうか。バーテックスには目や耳などの感覚器官はない。何らかの手段で周りの風景を音を得ている可能性はあるが、それに加えてこの魂の灯火を見る能力で、例え目には見えなくても人がいるかどうかを把握している可能性はある。実際に志騎自身も目を閉じた状態でバーテックスの能力を発動したが、例え風景は目に入ってこなくても灯火のイメージと位置だけははっきりと脳内に浮かんできたので、その可能性は高かった。
だが今はそのような事を考えている場合ではない。志騎は能力を発動したまま、友奈の体を見る。普通ならば胸の辺りに、その人物の魂の灯火が見えるはずだ。
が、目に映る光景に志騎は険しい表情を浮かべると能力の発動を止め、左目から青色の幾何学模様が消える。それから志騎はため息をつくと、友奈に背を向けて病室から出て行くのだった。
「魂が無い?」
翌日、志騎の病室で報告を聞いた刑部姫が目を見開く。ベッドの上に座りながら、志騎はああと頷き、
「普通の人間なら見えるはずの灯火が結城友奈には無かった。動いたり喋ったりしないのも当然だ。そもそも魂が無いんだから」
志騎の言葉に、刑部姫はふむと唸ると、
「奴がもう死んでいるという可能性は?」
「それは無い……と思う。肉体的には異常はないんだろ?」
「ああ。心臓は正常に動いているし、脳も無事だ。肉体的には生きている。……まぁ、その肉体の方が何奇妙と言えば奇妙なんだが……」
刑部姫が口の中で小さくブツブツと呟いているが、気にせずに志騎が話を続ける。
「となると、まだ死んでないと思う。たぶんあの時御霊に触れた事で、魂がここじゃないどこかに行ったんだ。だから心臓も脳も動いているのに、何の反応も無い」
「とすると、魂はまだ精神で繋がっている可能性があるな。本当に魂が肉体から抜け出ているなら肉体はとっくに死んでいるはずだ。志騎、お前のその魂を見る能力でどうにかならないのか? というか、お前がそんな能力を持っているなんて私も初めて知ったぞ」
やや不満げな刑部姫に、志騎は肩をすくめながら、
「俺もこの前初めて気づいたんだ、しょうがないだろ。それに魂を追跡する事自体はできるけど、結城友奈の場合は無理だ。痕跡も何もない」
「魂を追跡する事は出来る? なるほど、バーテックスや星屑が逃げた人間の後を正確に追う事ができるのもそのおかげか……? っと、興味深いがそれについて考えるのは今度だな。今は結城友奈の魂を見つけ出さなければ……」
「何か方法はないのか?」
志騎が尋ねると、刑部姫が顎に手を当てて、
「ないわけじゃない。……正直、可能性は低いがな」
「ないよりはマシだろう。その方法って、何だ?」
志騎の問いに、刑部姫は簡潔に答えた。
「
「たまよび……ってなんだ?」
「読んで字のごとく、死者の魂をこの世に呼び戻す儀式の事だ。お前の話から考えると、結城友奈は死んだわけじゃなく魂がここにないだけだ。とすると、縁のある奴ら……勇者部の奴らが結城友奈に呼びかけ続ければ、精神を伝って魂が肉体に戻ってくる可能性は十分にある」
「でも、呼びかけなら何回も須美達がやってるだろ。どうして戻らないんだ?」
志騎自身としても早く友奈に戻ってきて欲しいと思っているが、勇者部の面々が友奈の見舞いにたびたび訪れているにも関わらず、彼女の魂は一向に戻らない。すると刑部姫はふぅとため息をつきながら、
「これはあくまでも私の予測に過ぎないが……。結城友奈の魂は恐らく今いる場所とは文字通り次元の違う場所にあるんだろう。となると、いくら東郷美森達が声をかけたとしても中々声が届かない可能性があるし、そもそもその場所から出るのが難しい状況に陥っているのかもしれん。魂と肉体が精神で繋がっていられるのは、正直不幸中の幸いだ。魂と肉体が完全に分離したら、結城友奈の肉体は完全に死に、魂も囚われたままになる」
「……そんな事、させてたまるかよ」
ようやく戦いが終わり、友奈も東郷のそばにずっといると約束したのに、もう会えないなんてそんなの残酷すぎる。志騎はぎゅっと拳を握りながら、刑部姫に尋ねる。
「その場所がどこか分からないか?」
「無茶を言うな……と言いたいところだが、ある程度の予測をつける事はできる」
「どこだ?」
志騎の問いかけに、刑部姫はやれやれと言いたそうに肩をすくめてから場所を口にする。
「戦いの最後、結城友奈はバーテックスの御霊に触れただろう? 御霊はバーテックスの核だが、その核と奴らの本拠地となる場所を繋ぐ糸のようなものがあるんじゃないかと私は推測している。そう考えれば天の神がお前の存在を知った事も、結城友奈の魂が肉体を離れた理由にも説明がつく。バーテックスはまがりなりにも『天の使い』であり、人よりも高位の存在だ。結城友奈が生身の状態で御霊に触れた事で、魂が糸を伝ってその場所に行ってしまったのかもしれない」
「って事はその場所は、壁の外の世界?」
志騎の脳裏に星屑が跋扈する赤い炎の世界の光景がちらつくが、刑部姫をそれを否定するように首を横にふるふると振り、
「いや、今も言ったがその世界は恐らくこことは別の次元にある。壁の外から行く事はできるかもしれないが、肝心の行く方法が分からん。探そうにも手がかりはまったく無し、探すぐらいなら魂呼をした方がまだ建設的だろう。ま、方法としては一パーセントの確率が五パーセントに上がるぐらいだろうが……どうした?」
志騎が何かを考え込んでいる事に気づき、刑部姫が声をかける。すると声を掛けられたことに気づいた志騎が刑部姫の方を向き、
「いや、何でもない。それよりありがとな、色々と興味深い話が聞けた。となると今は、須美達が結城友奈の名前を呼び続ける事が一番有力な方法か……」
「ああ。ま、砂場の中から米粒一粒を探し出す事ぐらい大変な事だが、あいつらならそんな事意にも介さずにやり続けるだろう」
そう言うと刑部姫はパイプ椅子から立ち上がった。どうやら大赦にあるという自分の研究室に帰るようだ。
「私の方も何か良い手段がないか調べておく。結城友奈の魂が戻らないというのは、大赦にとっても不都合だからな」
「分かった。俺の方も何か考えておくよ」
「そうか。ま、病み上がりなんだしあまり無茶はするなよ。じゃあな」
そう言うと刑部姫は花びらと共に、病室から姿を消した。病室に一人残された志騎はしばらく刑部姫が消えた空中を眺めていたが、やがてベッドに背中をもたれかけさせると両手を頭の後ろで組みながら、天井を見上げる。
「……まぁ、一つだけ方法があると言えばあるんだけど……」
それは先ほど、刑部姫の話を聞いていた時に浮かび上がった考えだ。
とは言っても、それが本当に上手くいくかは分からない。肉体から離れてしまったという結城友奈の魂に会える確証はないし、そもそも成功するかも分からない。
だが。
「………」
志騎は無言で立ち上がると、病室を出て廊下の窓ガラスから中庭が見える場所まで歩き、中庭を見る。
そこには、車椅子に座る友奈と、彼女の横で何かの台本を持っている東郷の姿が見えた。友奈の意識は戻っておらず、東郷の方はどうやら台本に書かれている文章を友奈に読み聞かせているようだった。
志騎は知っている。
友奈が入院してから、勇者部の面々が学校の放課後に何回も彼女の元に見舞いに来ている事に。
例え言葉が届かないと分かっていても、東郷が何回も友奈に話を聞かせている事を。
例え不安に苛まれても、彼女達全員が友奈が帰ってくると信じて待っている事を。
志騎は結城友奈がどういう人物なのか分からない。そもそも初めて会ったばかりの人間なので、それも当然だ。でも彼女が勇者部にとって、東郷美森から大切な人物だというのはもう分かり切っている。
親友が大切に思っている人間が帰らず、そのせいで親友達が困っている。
ならば。
「何もしないって言うのは、嘘だよな」
そう呟くと志騎は自分の病室に戻り、ベッドに座る。そしてゆっくりと目を閉じて、静かに自分の内面へと意識を集中させながらバーテックスの力を発動する。
(……刑部姫は御霊には糸のようなものでバーテックスを生み出した場所と繋がっているんじゃないかって言ってた。でもそれは恐らく、正確じゃない。糸が繋がっているのは恐らくバーテックスの御霊だけじゃなくて、星屑にも繋がってる。とすると、バーテックスの俺にもその糸がある可能性はある……!)
それで自分が操られないのは、恐らく自分が唯一天の神ではなく氷室真由理が作り出した人間型のバーテックスからだろう。糸はあるかもしれないが、そもそも天の神の力が及ばない可能性はあるし、氷室真由理が志騎の細胞に何らかの操作をして、内側からの天の神の干渉を防いでいる可能性がある。
目を瞑った志騎の意識に、自分の純白の魂のイメージが浮かび上がる。と、その魂から一本の糸のようなものを感じる事が出来た。ビンゴだ。
とは言っても、その糸は本当に薄く、今にも切れてしまいそうだった。しかしきっとそのおかげで志騎は今まで内部からの天の神の干渉を受けずに済んだのだろう。二年前に自分はバーテックスの本能に呑まれかけたが、あれは外部からの干渉だったからに違いない。
(とすると、あとは簡単だ。逆らわず、この糸を伝って行けば良い。結城友奈が御霊に触れた事で魂がこの糸を伝って別の場所に行ったなら、俺の魂もこの糸を伝って行けば同じ場所に辿り着く可能性はある!)
とは言っても、運よく結城友奈の魂を見つけ出せたとしてもこの場所に戻ってこれるかは分からない。
だが、今はリスクを考えているような状況ではない。一刻も早く、彼女の魂をあるべき所に帰さなければならない。志騎が糸にさらに意識を集中させると、魂が糸を伝ってここではないどこかへと向かい、それにより結城友奈と同じように魂が肉体から乖離する。
そして志騎の魂は意識を伴って、糸を伝って別の次元の世界へと旅立って行った。
一方、その頃。
(……ここは、どこ? 今の私は……何?)
肉体を離れた結城友奈の魂は、刑部姫の予測した通り彼女達の世界とは別の次元を漂っていた。
草も木も水も何もない、友奈の魂以外何も存在しない無の世界。友奈の魂は一人で膝を抱えながら、宙を漂っていた。
友奈が膝を抱えて宙を漂っていると、どこからか声が友奈に届いた。
『――――戻ったらきっと、覚えてないだろうけど……』
「……声。どこから?」
そう言いながら友奈が辺りを見回すが、声の主らしき人物はどこにも見えない。いや、そもそも友奈一人しかいないはずのこの次元に声が聞こえる事自体がおかしかった。
『……あなたは消滅するはずだったんだ。神樹様は、あなたの体を蘇生してくれた。しかしそれはかなり無理な蘇生だった。御霊に触れてしまった影響で精神が目覚めず、貴女は今ここにいるのだろう』
「……私はどうすれば元の体に、皆の所に戻れるんですか?」
しかし、返答はなかった。友奈はその人物を捜そうと宙を泳ぐが、やはり人っ子一人見えない。友奈は再び膝を両手で抱えると、元の世界の勇者部の面々と大切な親友に思いを馳せる。
すると、どこからか一羽の鳥が友奈の所に飛んできた。生物など存在しないこの世界に、だ。
自分の目の前に飛んできた鳥を見て、友奈は思わず呟く。
「……カラス……」
友奈の目の前に飛んできたのは一羽のカラスだったが、一般的な黒いカラスとは違いそのカラスは青色をしていた。胸には勇者のものと同じ、花の紋章がある。青いカラスは光り輝くと、人型の光を形成した。
「……あなたは?」
友奈が尋ねた直後、人型の光から友奈に向けて声が発せられた。
『初めまして、未来の勇者よ。私は乃木若葉。西暦2019年、いや、新世紀元年において勇者のお役目を担っている者。何十年、もしかしたら何百年も先の貴女に、未来の希望を託した者だ』
新世紀元年、という言葉に友奈は目を見開く。それはつまり、目の前の人物は今から約三百年ほど前の人物という事だ。
それだけではない。乃木、という苗字には聞き覚えがあった。自分と親友に真実を話してくれた勇者、乃木園子の苗字と同じだ。となると、目の前の少女は乃木園子の先祖なのかもしれない。だが何故三百年ほど前にいたはずのそのような人物が、自分の前にいるのだろうか?
もしもこの場に刑部姫がいれば、そのカラスが個人の言葉を記憶し、再生する能力を持った精霊だという事に気づくだろう。しかし刑部姫はこの場にはいなく、当然友奈もそのような事を知らない。困惑する友奈を前にして、記録された音声がさらに言葉を紡ぐ。
『バーテックスが出現した日、私達は多くのものを奪われた。それを取り返すために、私達は強大な敵に立ち向かい、戦った。一番初めは白鳥歌野と藤森水都。その次が私達。高嶋友奈、郡千景、土居球子、伊予島杏、上里ひなた。乃木若葉。神世紀元年の今、四国は戦いから免れているが、この声を聞いている貴女の時代に至るまで、バーテックスとどれほどの戦いが起こるのか、何人の勇者が生まれるのか、私には分からない。だが、全ての勇者達が時に恐怖して、悩んで、苦しんで、まもりたいもののために戦っていくのだろうと信じている』
実際、目の前の人物の言葉は的を得ていた。
友奈も、東郷も、風も、樹も、夏凜も、園子も、銀も、そして志騎も。それぞれが戦いの中で明かされる真実に悩み苦しみながら、それでも大切なものを護るために傷つき、戦ってきた。詳細は分からないが、きっと三百年前の勇者達もそうだったのだろう。
『私達の代の勇者は白鳥歌野からバトンを引き継いだ。そのバトンは、いずれ次の代に渡される。そして次の次の代へ。次の次の次の代へ。次の次の次の次の代へ。何代でも、何度でも、どれほどの時間が経とうと……引き継いでいかれるだろうと私は思う』
そこで友奈は、ある事に気づいた。
目の前の人物の光が徐々におさまって輪郭がはっきりしていくと同時に、彼女の後ろに何人もの人影が立っているのが分かったのだ。もしかしたら彼女達が、先ほど若葉が口にしていた三百年前の勇者なのかもしれない。
『そのバトンの名は「勇気」である。別名を「希望」と言う。「願い」とも言う。今の私は未来の貴女に対し、何もしてやる事ができない。せいぜい、こうして声をかける事しかできない。けれど、信じて欲しい。貴女の後ろには、バトンを引き継いできたたくさんの人達がいる。見回して欲しい。貴女の隣には、今まで貴女が一緒に過ごしてきた友達や家族がいる。貴女は決して一人ではない事を知って欲しい。多分今のあなたはとても苦しんでいると思う。痛いこと。悲しいこと。絶望すること。がんばってがんばって、それでも耐えられないくらいつらいことがあったのだろう。だからこそ私の言葉が届いているはずだ』
……実際、そうだった。
本当に、結城友奈という少女は頑張ってきた。
例え怖くても、例えどれだけ傷ついても、頑張って頑張って、世界と大切な人達を護ろうとしてきた。
その結果、こんな世界に一人でいる事になってしまったとしても。
若葉の話を静かに聞いている友奈に、さらに声が続く。
『そんな貴女に私が言いたい言葉は、「もっと戦え」でも、「もっとがんばれ」でもない』
そしてついに、目の前の少女の姿が明らかになった。
桔梗を連想させる青と白が混交された勇者装束に、凛々しい顔立ちの少女。少女――――若葉は友奈の顔をまっすぐ見て、告げた。
『生きろ。ただ生きてくれ。大切な人がいるなら、その人の事を思い起こしてほしい。貴女が生きる事を諦めたら、その人が悲しむ事を思い出して欲しい。私は多くの大切な友達を失った。貴女の大切な人に、私と同じ思いをさせないでやってくれ。貴女の大切な人……、その人の所に必ず戻ってあげてくれ』
その言葉を最後にして、若葉と背後にいた数人の影は消えて、青いカラスの姿も無くなっていた。
「大切な人……」
友奈の脳裏に浮かぶのは、勇者部の面々の顔。
夏凜、風、樹、そして自分の親友である東郷。
(みんなに会いたい………。戻りたい……)
そう思いながら、どこか出口は無いかと再び虚空を泳ぐ。
しかし、目印も何もないこの空間では本当に前に進んでいるのかも分からない。先ほどの若葉の言葉を思い出しながら、友奈は立ち止まって唇を噛む。
(悲しませたくない……。だけど、あの人はああ言ってくれたけど、この世界がどこまで続いているかも分からない。どうすれば私……)
友奈が再び両膝を抱えてしゃがみ込もうとした瞬間。
友奈の目の前で、バチバチバチ!! という電気が弾けるような音と共に白い光が躍った。
「………っ!?」
驚きで目を剥く友奈の前で光はさらに大きくなり、やがて――――。
「――――はぁっ!!」
両腕を大きく広げて、目の前に何かが現れた。
いや、何かではない。友奈は目の前のそれを一度見た事がある。
それは。
「アンノウン……!?」
以前自分達勇者部と戦った未知のバーテックス、アンノウンだった。
しかし以前戦った時とは違い、今の自分のように体のあちこちが幽体のようになっている。突然現れたアンノウンに驚きながらも、友奈は戦闘態勢に入る。
どうしてアンノウンがここにいるのかは分からない。だが、バーテックスが目の前にいるのならば戦闘は避けられない。そう考えて、友奈は緊張しながらもアンノウンに鋭い視線を送る。
が、アンノウン本人は辺りを見回してから、友奈に視線をやったかと思うと、
「ふぅ、どうやら成功したみたいだな。結城友奈、だよな?」
流暢に日本語を喋って、友奈を唖然とさせた。一方、アンノウンの方は友奈がそのような反応を見せる理由が分からないようで、少し首を傾げながら、
「……おい、どうした?」
「……バ」
「バ?」
「――――バーテックスが喋ったぁああああああああああああああああああああああああ!?」
今までのバーテックスとはあまりに違い過ぎる反応に、友奈は思わず絶叫した。しかしバーテックスは怪訝な声で、
「はぁ? 何言ってるんだお前……って本当だ、いつの間にかこんな姿になってる。魂だけだとこんな風になんのか俺……」
自分の両手や体をジロジロと見てバーテックスがどこか落ち込んだように呟いた。以前戦った時とは違って人間臭い反応を見せるアンノウンに友奈はまだ戸惑っていたが、アンノウンの方はすぐに気を取り直して友奈に言う。
「まぁいいや。俺が誰かは今は後回しにするとして、早くここから出るぞ。勇者部の連中とす……東郷が、お前を待ってる」
「東郷さん達が……?」
この前は命を懸けて戦っていたというのに、何故か友奈はアンノウンは嘘をついていないとすんなりと信じる事が出来た。理由は自分でもよく分からないが、アンノウンはそんな人(?)ではないという直感があった。だからアンノウンの言った通り、東郷達が待っているという言葉も受け入れる事ができた。
アンノウンはすっと友奈に近寄ると、
「ああ。何よりも東郷は、今もお前の名前を呼んでお前が帰るのを待ってる。今は聞こえないかもしれないけど、よく耳を澄ませて聞いてみろ。そしたら聞こえるはずだ。お前の名前を呼ぶ声が」
「東郷さんの……」
友奈が呟くと、アンノウンは黙り込んだ。いや、違う。黙り込んだのではなく、今言った通り耳を澄まして聞くために会えた口を閉じたのだ。それに倣って友奈も口を閉じる。
何もない空間に静寂が満ちて、呼吸音すら聞こえなくなる。しかし静寂に怯える事なく、二人はじっと耳を澄ませ続ける。
しばらく二人がそうしていた時。
『勇者は傷ついても傷ついても、決して諦めませんでした』
「……東郷さん……!」
どこから東郷の声が、二人の耳に届いた。友奈が辺りを見回そうとするが、アンノウンが友奈の肩を掴んで自分の口の前に人差し指を立てる。それに友奈が慌てて口を両手で塞ぐと、さらに東郷の声が聞こえてくる。
『全ての人が諦めてしまったら、それこそこの世が、闇に閉ざされてしまうからです。勇者は自分が挫けない事が、みんなを励ますのだと信じていました。そんな勇者を馬鹿にするものもいましたが、勇者は明るく笑っていました。意味がない事だというものもいました。……それでも勇者はへこたれませんでした』
懐かしい友の声に、友奈の胸の中で帰りたいという気持ちがむくむくと大きくなる。そんな友奈の顔を、アンノウンは何も言わず黙って見つめている。
『みんなが次々と魔王に屈し、気が付けば勇者はひとりぼっちでした。勇者が一人ぼっちであることを、誰も知りませんでした。ひとりぼっちになっても、それでも勇者は……』
と、それまで滑らかだった東郷の言葉が不意に止まった。それからすぐに朗読が再開されるが、どこかその声は震えているように友奈とアンノウンには感じられた。
『……それでも勇者は、戦う事を諦めませんでした。諦めない限り、希望が終わる事はないから……です……。何を失っても……!』
震えていた声にさらに感情がこめられていき、最後の辺りにはもう嗚咽が混じっている。
『それでも……』
そして、ついに。
今までこらえられていた東郷の感情が、爆発した。
『それでも私は……、一番大切な友達を失いたくない……!!』
「東郷さん!」
友奈がついに声を上げるが、その声が東郷に届く事は無い。無情な事実を告げられる友奈に、さらに東郷の悲しみの声が響き渡る。
『いやだ……いやだよ……寂しくても、辛くても、ずっと、私と一緒にいてくれるって、言ったじゃない!! うあああ……うあああああああああああああああああああああっ!!』
二人しかいない世界に、東郷の泣き声だけが響く。すると、アンノウンが不意に友奈に言った。
「……友奈。俺もさ、つい最近大切な人を泣かせちゃったんだよ」
「……そう、なんだ」
うん、とアンノウンは頷いて、
「その人のそばにいる事が出来なくて、二年間そいつを一人ぼっちにさせて、泣かせた。我ながら酷い事をしたって思ってる。……なぁ友奈。お前は約束したんだろ? 大切な人のそばに……東郷のそばにずっといるって。だったら、その約束は守らないと駄目だろ。俺が言える事じゃないけど……大切な人を、泣かせちゃ駄目だ」
気が付けば、アンノウンの姿がいつの間に変わっていた。
友奈と同じように幽体なのは変わらないが、体の大部分が少年の姿になっており、体や顔の一部分が変わらずに異形のままとなっている。一見してみるとちぐはぐな姿に見えるが、恐らくそれが目の前のバーテックスの本質なのだろう。人の姿と
「……うん、そうだ。私、約束したんだ。大切な友達と約束したんだ……!」
東郷は自分が護ると。絶対に忘れないと。ずっと一緒にいると約束した。
「勇者は泣いている友達を放ってなんかいられない。絶対に、帰るんだ!!」
友奈の力強い言葉の直後。
二人の頭上を、青いカラスが舞った。カラスが頭上を通り過ぎていくと、何もなかったはずの空間の果てに光が見えた。誰に教えられなくても、志騎と友奈は直感する事が出来た。あれが出口だと。
「ほら、早く行け。勇者部の所へ、そしてお前の大切な親友の所に」
アンノウンが友奈の背中を押すと、友奈は困惑した表情をアンノウンに向けて、
「待って! あなたは……!」
「俺は別のルートから帰る。お前を連れてだと無理だったけど、俺一人なら問題ない。さぁ、分かったら早く帰れ。あっちの世界で、また会おう」
友奈は一瞬迷った表情を見せていたが、すぐに迷いを消すとこくりと頷いて、
「うん! またね! ……ありがとう!」
そう言って友奈は右手をぶんぶんと振ると、光の方へと去っていった。志騎はそれを見届けると、何もない世界を見回してから呟く。
「……それにしても、ここがバーテックスと繋がってたとはな。本当、何もない世界だ……」
こんな寂し気な世界で一体誰が住んでいるのやら、と志騎は口には出さず心の中で呟く。興味が全くないわけではないが、もうこの世界に用はない。友奈は見つけ出せたし、帰り道も見つけた。あとはこの世界から出るだけだ。
出る方法は来た時と同じだ。魂はここにあるが、糸は魂を失った肉体を繋がっている。糸を伝って、肉体に帰ればいい。無駄に逆らわず流れに身を任せればそれだけで帰れる。
志騎が目を瞑って意識を集中させると共に体から力を抜くと、幽体が淡く輝き薄くなっていく。もうしばらくしたら、この世界から姿を消す事ができるだろう。
そしてついに志騎の姿が世界からこの世界から消え去ろうとした瞬間、
「……?」
突然、後ろから視線を感じた。
しかしそれはあり得ないはずだ。この世界には本来何もおらず、今いるのは自分だけだ。友奈はついさっき脱出したし、もうここに誰もいるはずがない。なのに何故、背後から視線を感じるのだろうか。
志騎が思わず後ろを振り向くと同時に、目の前にいる存在に目を見開く。
「―――――」
目の前にいたのは、純白のワンピースを着た、白い長髪に赤い瞳をした少女だった。純白の髪の毛はサラサラで、血のように赤い瞳は何も感じさせない無感情。見た目は氷室真由理にも負けてない美しさなのに、何故か見ているだけで志騎の背筋に寒気が走った。
少女は志騎を見ながら、にっこりと笑みを浮かべる。が、その笑顔は友好的なものでは決してない。悪意も何もこもっていないのに、何故か少女の笑顔は志騎に恐怖を抱かせた。こいつはヤバいと、志騎の脳が警報を発している。
「お、前は……」
だが志騎が尋ねる前に。
志騎の幽体はこの世界から消え、彼の志騎は香川の病院のベッドの上へと戻っていった。
「………」
体に意識が戻った志騎は病院の天井を見上げながら、先ほどの少女の姿を思い出す。
「なんだったんだ、一体……」
額に流れる汗を拭いながら、志騎は呟く。今まで星屑やバーテックスと戦ってきた志騎だったが、あれほど危険を感じたのは初めてだったのだ。勇者になってから……いや、生まれて初めてかもしれない。そもそもの話、あのような場所にいたあの少女は一体何者だったのだろうか。目的は達したというのに、志騎の胸には気味の悪い疑問が残っていた。
「と、そうだ……」
あの少女の事は気になるが、今は後回しだ。それよりも確認しなければならない事がある。
志騎はベッドから立ち上がって中庭が見える窓ガラスの辺りまで向かうと、ガラス越しに中庭を見る。
志騎があの世界に行くまでは、車椅子に座る友奈に東郷が何かの台本を朗読していた。
だが、今では。
二人の少女が涙を流しながら、互いの手を握って再会を喜んでいた。
「………は」
それを見た志騎の口から、安堵の息が漏れる。
友奈は帰ってきたのだ。
東郷の約束を果たすために。大切な親友をこれ以上、泣かさないために。
分からない事はあるし、これから先何かが起こるかもしれない。
でも、それでも。
今の志騎からするとそれら全てがどうでも良くなるぐらい、今の中庭の光景は喜ばしいものだった。
「ほぉん。なるほど、そうだったのか」
数日後、志騎から事の顛末を聞いた刑部姫が、パイプ椅子に座りベッドの横の小さな机の上に置かれている皿から、くし形に切られたいくつもあるリンゴの内一つをつまみながら言った。ちなみに、りんごを切ったのは志騎ではなく刑部姫である。志騎も皿からリンゴを一つつまみながら、ああと相槌を打って、
「最初はどうなるかと思ったけど、友奈がきちんとこっちに帰ってこられて良かったよ。友奈はこれからどうなるんだ?」
「検査をしたが、満開によって味覚と両足が戻っていない以外はとりあえず異常なし。数日したら退院できる。しばらくは車いす生活になるだろうが、他の勇者同様味覚と両足の機能も戻るだろう」
「友奈以外はもう、治ってるんだっけ?」
「ああ。東郷美森の記憶も流石に二年間一気に、というわけではないが戻り始めている。恐らくお前達についてはもう思い出しているだろう」
「そっか……。それなら良かったかな」
志騎が安心したようにベッドに背中を預けると、りんごを飲み込みながら刑部姫が言った。
「しかし、流石だな志騎。まさか結城友奈を見事にこの世界に呼び戻すとは」
と刑部姫が言うと志騎はぽかんと刑部姫の顔を見てから、何故かおかしそうに笑い、
「違うよ、刑部姫」
「ん?」
「俺はあいつを見つけただけで、あいつには何もしてない。それに、仮に俺がどんなに手を尽くしたとしても、友奈自身の意志が弱ければ戻ってくる事は出来なかった。友奈がこっちに戻ってこれたのは、あいつの意志が強かったからだ。友奈はあいつ自身の強い意志で、東郷の隣に帰ってきたんだよ」
あの時の友奈の強い意志を目の当たりにした志騎の言葉に、刑部姫は新しいリンゴを口に放り込んでシャリシャリと食べながら、
「意志……か。なるほど、確かにそれなら納得がいくな。しかしそれだけ聞くとただの根性論なのに、どうしてお前が言うと説得力があるんだろうな?」
「知るかよ」
笑いながら志騎もさらにリンゴを一つ取り、口に放り込む。
実は志騎は、刑部姫には唯一話していない事があった。
それは別の次元の世界で出会った、あの謎の少女についてだった。
きっと刑部姫に話せば、少女について全力で調べてくれるだろう。だが、仮に彼女が全力で調べたとしても、きっと彼女の事は何も分からないという確信が何故か志騎にはあった。刑部姫――――氷室真由理が神世紀最高の天才だという事は分かっているが、それでも彼女には少女の正体に辿り着く事は出来ない。それこそ、人である限り。そんな確信が、志騎にはあった。
まぁ、それがどうしてかは志騎自身にも分からないが、きっと志騎にしか分からない事なのだろう。あの時の少女の笑顔が、何故かそう確信させた。
そんな事を考えているとはまったく知らない刑部姫が、ふと何かを思い出して志騎に言った。
「そうだ、志騎。もうしばらく先の話になるが、讃州中学校の文化祭があるが息抜きに行ってきたらどうだ? さすがにお前も病院にこもりっぱなしは暇だろう?」
そう言われ、志騎はそろそろ中学や高校だと文化祭の季節である事を思い出すと同時に、東郷が手にしていた台本の正体に気づいた。恐らくあれは文化祭での劇の台本か何かだったのだろう。
「それ、いつ?」
「ああ、確か……」
聞かれた刑部姫がスマートフォンを手にして、讃州中学校の文化祭の日付を確認して志騎に話す。するとその日がいつか聞いた志騎はすぐに首を横に振った。
「その日は予約がある。どうしても外せない」
「ほう、そんなにか。何があるんだ?」
刑部姫としてもどうしても知りたいわけではなく、一応知っておくか程度だったのだろう。志騎はふっと口元に柔らかい笑みを浮かべながら告げた。
「……大切な友達との、再会かな」
その日、乃木園子は大橋近くの公園で海を眺めていた。勇者部の面々に満開で失った機能が返ってきていたように、園子の体にも満開で失われた機能が徐々に返ってきている。体からは包帯が取れて、今まで隠されていた彼女の姿が露になっていた。
「……わっしー」
目の前に横たわる美しい海を眺めながら、園子は親友の名前を口にする。満開で二年間の記憶を失ってしまった友人。彼女はもう、記憶を取り戻しただろうか。もしもそうなら、とても喜ばしい事だと思う。ひと段落ついたら、また彼女に会いたい。
「……ミノさん」
口にしたのは、彼女の三人目の親友の名前。たくさん満開をして、自分と同じように動けない体になってしまった彼女。神官から話を聞いたのだが、彼女も徐々に体の機能が回復してきたらしい。今はまだ会えないが、時が経てばもう一人の親友と同じように彼女と会う事ができる。
そして、最後の一人。自分が忘れてしまっていた、大切な四人目の親友。
園子は不安で手を震わせながらも、その名前を口にした。
「……あまみん」
天海志騎。園子の四人目の友達にして、勇者。四人の中で唯一の男子。体はバーテックスだけれども、他の誰かを思いやる事の出来る人間の心を持つ存在。
自分達は四人は、ずっと一緒だった。三人の事が、園子は大好きだった。三人の事をずっと忘れないと思っていた。三人の内の一人、鷲尾須美に忘れ去られた時は正直悲しかったが、それでも自分だけは彼女達を忘れないと思っていた。
なのに、忘れていた。
大切な友達の事を、忘れていた。
「……わっしーも、こんな気持ちだったのかなぁ……」
目の奥からこみ上げる熱い何かをこらえながら、園子は呟く。
大切な友達を忘れるのもも辛いが、忘れ去られるのも辛い。自分はそれを知っていたはずだ。それなのに自分は、彼の存在を忘れていた。例え何が起こっても、自分だけは三人の事を忘れないと誓っていたはずなのに。
そして園子が海を眺めながら悲しみに沈んでいた時、背後から二人の少年少女の声が聞こえてきた。
「……なぁ、銀。本当にここなのか?」
「うん。園子の神官の人に聞いたら、ここに来てるって聞いたから……。あ、いた! おーい、園子!!」
自分の背中にかけられた声に園子は自分の体が震えるのを感じながらも、振り向けずにいた。
だって、どんな顔をして会えば良いか分からない。銀に会えるのは嬉しいし、もう一人の少年に会えるのだって本音を言えば嬉しい。だけど、もう一人の少年の事を自分は忘れていた。それなのに、彼にどの面下げて言葉を掛ければ――――。
しかし、そんな園子の意志に反して彼女の体はもう動いていた。やめて、と言い聞かせても体は言う事を聞かない。それほどまでに、彼女は大切な友人に会いたかったのだ。
園子が振り返ると、少し離れた所に車椅子に座りながら笑顔でぶんぶんと右手を振る少女と車椅子を押す水色がかった白髪の少年の姿が見えた。
二人の姿を目にして、ついに園子はこらえきれなくなった。
両目から涙を流しながら、まだ自由が利かない体で二人に駆け寄る。
「ミノさん! あまみん!」
が、やはり無理だったのか園子の体が途中でよろける。慌てて銀が車椅子から立ち上がると、どうにか園子の体を抱きかかえて彼女が地面に倒れるのを防ぐ。二人に志騎が駆け寄ると、二人の体をそっと優しく支えた。二人の手のぬくもりを感じながら、園子は涙を流ししゃくりあげる。銀は園子を抱きしめながら頭を撫でて、
「よしよし。園子、大丈夫か?」
「う゛ん……。ねぇミノさん、夢じゃないよね?」
「あったり前だろ? ほら、どうだ? 夢じゃないだろー?」
むにー、と園子の頬を軽く伸ばしながら銀が明るく言う。とは言っても力はほとんど入ってないに等しいので痛くも何ともない。ただ、頬を引っ張られる感触と銀の手から伝わってくる温かさが、今自分がいる瞬間が夢ではない事を園子に感じさせる。園子はもう一度しゃくりあげ、次に志騎の顔を見ると再び涙が溢れ出し、
「あまみん……ごめんね……忘れちゃって、ごめんね……!」
「お前のせいじゃない。だから、気にするな」
そう言って志騎は園子の背中を軽くポンポンと叩く。二人の温かさと言葉に、園子はしばらくその場で泣き続けた。
やがて園子が少し落ち着くのを確認すると、三人は公園に備え付けられているベンチに座った。空は快晴で、風が緩やかに三人の頬を撫でる。銀はうーんと伸びをしてから、園子に尋ねた。
「じゃあ園子の体の機能も、ほとんど戻って来てるんだ?」
「うん。少しリハビリが必要かもしれないけど、すぐに前と同じように動けると思うんだ~。そうしたら、乃木園子完全復活だぜぇ~」
ビュッビュッと元気のアピールのつもりなのか、軽く前方にジャブを突き出す園子に志騎と銀が思わず苦笑する。ついさっきまで泣いていたが、ようやく調子が戻ってきたようだ。この分なら、リハビリを終える頃には文字通り完全復活を遂げるに違いない。と、ようやく明るい笑顔を取り戻したはずの園子の顔が、再び曇った。
「あまみん、本当にごめんね」
「なんだ、まだ気にしてたのか」
「だって私、わっしーの事もミノさんの事も、あまみんの事も忘れないって決めてたんだよ。それなのに、あっさりとあまみんの事を忘れちゃって……」
志騎に気にしなくて良いとは言われたが、園子は四人の中でも一際友達を大切に思う心が強い。そんな彼女だからこそ、志騎の存在を忘れていた事に気を病んでいる。今はまだ会えていないが、三人の事を忘れてしまっていた東郷同様に。
志騎はふぅと息をつくと、
「別にお前が謝る事じゃないよ。俺だってバーテックスになってたとはいえ、お前達の事を忘れてたんだ。つまり、お互いさまって事だ。だから、お前がこれ以上謝る必要なんてないんだ。……それに」
一度言葉を区切ると、志騎は口元に笑みを浮かべて、
「仮に東郷がお前と同じ事を言っても、お前は気にしないだろう?」
それに園子はぱちくりと瞬きすると、「……うん」とゆっくりと頷いた。
「だろ? お前が俺の事を忘れたのはお前のせいじゃない。だからお前はもう自分を責めなくて良いんだよ。お前が自分を許せないって言うなら、俺は何回だってお前は悪くないって言う。だって俺達、親友だろ?」
園子の顔を見て志騎が言うと、園子はしばらくきょとんとした表情を浮かべていたが、再び「……うん」と頷いて笑った。ようやく笑顔になった園子に志騎と銀が顔を見合わせて笑うが、そんな二人に園子がこんな事を言った。
「そう言えば、あまみんはどうして私達の記憶が戻ったの?」
「え!? え、えっとだな園子、それは……」
何故か志騎ではなく銀が慌てるが、尋ねられた志騎は園子に聞かれた事に素直に答える。
自分が自我を失いバーテックスとして戦っていた時、銀に呼び止められ、彼女の話を聞いた後に人間だった時の記憶を思い出し、それと一緒に自我を取り戻したのだと。何故か恥ずかしそうに聞いていた銀の横で志騎が説明すると、園子が目をキラキラと輝かせて、
「それってつまり、愛の力だ~! ミノさんのあまみんへの愛が、あまみんを元に戻したんだよ~!」
「そ、園子さぁん!? お前は一体何を言っているのかなぁ!?」
びゅおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!! と奇声を出す園子に銀が叫ぶが、志騎の話を聞いて心だけは完全復活を遂げた園子は立ち上がると、
「こうしちゃいられないよ~! 早く病院に戻って、二人をモデルにした甘酸っぱい小説を書かないと! ネタは鮮度が命なんよ~!」
「待てぇ! 甘酸っぱい小説ってお前は一体何を書くつもりだ!? 園子、園子さん!? ねぇ! ねぇったら!!」
先ほどまでのよたよた歩きが嘘みたいに軽やかに動く園子を、銀が松葉杖を使ってギクシャクした動きで追う。追いかけっこを始めた二人の背中を、志騎は呆然と眺めながら、
「……ネタ? 寿司が出てくる小説でも書いてんのかあいつ?」
と、微妙に何かを勘違いしている発言をするのだった。
「疲れた……」
「お疲れ」
「ほとんどはお前のせいだけどな」
車の後部座席でぐったりしている銀が、横に座る志騎を軽く睨む。普段は銀が志騎を振り回して志騎が疲れるというのが定番となっているので、今のようなやりとりはかなり珍しいと言える。
あれから再び園子と他愛のない会話をした二人は、体の機能が完全に戻ったらまた会おうという約束を園子と交わして別れた。今はこうして、大赦の神官が運転する車の後部座席に乗って、志騎が入院する病院がある讃州市に戻っているというわけだ。また園子に会えるのは嬉しいが、できれば自分達をモデルにした甘酸っぱい小説というのは書かないでもらいたいなー……と銀は心の中で思った。
それから横を向くと、志騎が窓の外の夕日をじっと見つめていた。赤い光に照らされる彼の顔を見ながら、銀はそっと志騎の肩に頭を乗せる。
「……どうした? 眠いのか?」
「いや、ただ、ちょっとこうしていたくなっただけ……」
「……そうか」
志騎はそう言うと視線を銀の顔から窓の外の夕日に戻す。頬に触れる感触を味わうように銀は猫のように目を細めながら、志騎にこんな事を言った。
「……なぁ、志騎。お前の体の事だけど……」
「言わなくても良いよ。大体の予想はついてる」
彼から返ってきた言葉に、銀は思わず唇を噛み締めた。
バーテックスの襲撃が一時的に止んでも、志騎の問題が解決したわけではない。
彼は未だ20歳までしか生きられない体だし、戦いが終わったら大赦に廃棄処分される兵器だという事も変わらない。今はこうして自分といられているが、もしもバーテックスの戦いがまた始まったらきっとすぐに戦いに駆り出されるだろうし、そうでなくても戦いの中で死んでしまうかもしれない。
そう考えると、自分と彼が一緒にいられる時間は非常に短い。
それはきっと、志騎も分かっているだろう。彼は自分の体や寿命、戦いの後のことについて刑部姫から聞いてないが、東郷との戦いの時彼女から聞かされた真実で、自分の身に何が起こっているかは大方の予想がついているはずだ。それでも彼は、命が尽きるその時まで人を護るために戦うと決めた。
兵器として、勇者として、バーテックスとして。
それはあまりにも固く、強い。
だが同時に、決して報われる事のない運命。
それが、銀には非常に悲しかった。
「ん……」
と、突然志騎が呻き声を上げた。銀が顔を見ると、彼は右手でこめかみのあたりを軽く押さえて顔をしかめていた。まるで、頭痛にこらえるように。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもない」
何もなかったように自分に向けて笑みを向ける志騎に、銀はそれ以上追及せずにそっか、とだけ返すと再び肩に頭を乗せてから、彼の左手を右手でそっと握る。
バーテックスの罪を背負って、命が尽きる時まで戦い続けようとする少年。
彼との別れの日は、刻々と近づいている。彼とは長くても、あと六年ほどしか一緒にいられない。もしかしたら、もっと短くなってしまうかもしれない。
せめて、その時までは。
一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも長く。
天海志騎という大好きな少年と一緒に、こんな穏やかな時間を過ごしていきたいと、三ノ輪銀は思うのだった。
「ふーふんふーふんふーふーふん」
誰もいない無の世界で鼻歌を歌いながら、純白の髪の毛に赤い瞳の少女はまるでバレエ選手のように宙を踊っていた。やがてピタリと止まると、頭上を見上げて、
「まさか、このまま何も起こらずに済むなんて思ってないよねぇ?」
ここ最近、少女にとって気に食わない事が続いていた。
バーテックス・ヒューマンというまがい物の出現、人間達がこそこそ改良していた神の力を利用して作られた勇者システム、そして壁が壊されるという一人の人間が起こした愚かな所業。今まで少女は人類を見逃してきたが、それらの出来事は少女に人類抹消を決断させるにはあまりに十分すぎる出来事だった。少女は軽やかにステップを踏みながら、
「ま、それに何より気に食わない事はそれだけじゃないしねぇ」
脳裏に、三人の人物の顔が浮かび上がる。
壁を壊した張本人、東郷美森。
友奈の名を継ぐ少女、結城友奈。
人類が作り出した禁忌の兵器、天海志騎。
「特に結城友奈と天海志騎は駄目だなぁ。すっごく勘に障るというか、すっごく殺したい。ばらばらに八つ裂きにして、地獄の業火で数千年焼いても全然ダメ」
そう呟く少女の顔に浮かぶのは、笑顔。しかし言動とは裏腹にその笑顔に悪意といったものがまったくないのが、少女の持つ異質さと畏怖を増幅させていた。
「こういうのは、すっごくすっごく苦しめてあげないと駄目だよね? 人間のくせに、誰に牙を剥こうとしているのか、きちんと分からせてあげないと」
そして少女は踊りながら、口元に笑みを浮かべる。
あまりに無邪気で、あまりに残酷な笑みを。
「待っててね? 私に逆らう愚か者に裏切り者。あなた達二人は、苦しめて苦しめて、殺してあげるから」
勇者達によって、四国という世界は守られた。
しかしそれと引き換えに、世界は神の怒りを買った。
人類抹消の時へ向けての針が動き出し、同時に三百年続く戦いの決着も少しずつ迫りくる。
その戦いに勝利するのは天の神か、大赦か。
未来を決めるのはバーテックスか、讃州中学勇者部か。
結城友奈。東郷美森。犬吠埼風。犬吠埼樹。三好夏凜。乃木園子。三ノ輪銀。
そして、天海志騎。
バトンを引き継いできた少女達が未来を取り戻す物語。
罪にまみれた偽物の少年が未来を作り出す物語。
二つの物語の最終章が、もうすぐ始まろとしていた。
その結末を知るものは、まだ誰もいない。
いつもご愛読ありがとうございます。作者の白い鴉です。今話にて、『天海志騎は勇者である ―結城友奈の章―』は終了となります。次回から新章にして最終章、『天海志騎は勇者である ―勇者の章―』が始まります。内容としては現在放送中の『結城友奈は勇者である ―大満開の章―』と勇者の章を組み合わせたようなものになるかと思います。とは言っても、ところどころ大満開の章とは少し違う描写になるかもしれません。というのも、アニメの方の乃木若葉の物語と楠芽吹の物語の原作の乖離が少々あるため、原作の設定を取り入れて書くのは難しいと思ったためです。なので、基本的には原作の方の設定を中心としたいと思います。
また、今回魂の灯火など、御霊に繋がる糸などオリジナルの設定がでましたが、これらに関してはバーテックスに関してはこういう解釈が可能なんじゃないか? という想像のもと書きました。実際、目も耳も無いのにバーテックスってどうやって人間を殺してるんだろう、と真剣に考えた結果あのような設定となりました。
そして勇者の章では園子、銀、志騎の三人が勇者部に加わると同時に天の神との最後の戦いが始まります。勇者の章でも今までしてきたように、原作を基本としてオリジナル展開等を入れて物語を進めたいと思います。また、最初は志騎と勇者部部員達との交流を書く所から始めようと思います。その展開をじれったく思う読者様もいるかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。
後書きだというのに長くなって申し訳ございません。次は、勇者の章でお会いしましょう。