劉の文字が刻まれた旗が風に靡かれる。
正面に広がる草原には何万を超える軍勢が怒声を張り上げて刃を振り回しており、互いの命を奪い合っている。緑色を基調とした兵装の者達がこちら側だろうか? 相手だと思われる青色の軍勢には曹の旗が立てられていた。何処も彼処で鬨の声、剣戟の音が鳴り止まない。時間が過ぎる度に地面に倒れ臥す者が増え続けた。押し込まれている、どうやら緑色の軍勢が劣勢のようだ。もう大勢が決まったというのに、誰もが戦うことを止めず、止める者もおらず、兵一人に至るまで死力を振り絞れと立ち向かった。嗚呼、なんと哀しい光景なのだろうか。此処にいる兵の誰もが死を覚悟している。背後にある城都を守る為に、自分達の土地を永らえさせる為に、それが例え一秒に満たずとも、兵達は命を賭して戦い続けていた。それでも押し込まれる、それでも打ち砕かれる。陣形は各地で崩壊を始めており、辛うじて持ち堪えているだけの状況だった。
もう戦局を変えることはできないだろう、という時に彼女は来た。
「……こんな所にいたのね、劉備」
彼女は私の名を呼んだ。その傍には光沢ある白色の珍しい衣服を身に纏った男がいた。
彼女が率いてきた軍勢は、私の近くにいた部隊を瞬く間に制圧し、そして大きな金棒を持った将を振り払って、ただ一人、私だけを見据える。きっと彼女にとって私は倒すべき敵なのだろう。冷たい、でも同時に温もりのようなものを感じられる。不思議とその瞳からは恐怖を感じなかった。まるで悠久の友との再会を祝福するような、それでいて全力ぶつけるに足る好敵手を前にした時のような、そんな感情が入り混じっていた。
私の体が勝手に動き出す、一歩前に出て、ただ一人、威風を身に纏った少女を睨み付ける。
「用があるのは、私ですよね? 曹操さん」
声が震えていた、恐怖を感じているのだろうか。
それもそのはずだ。目の前にいる少女は、私とは余りにもかけ離れ過ぎていた。
ええ、と首肯する少女に、私は後ろで見守る者達へ気丈な笑顔を作る。
「なら……他の皆には手を出さないでください。……焔耶ちゃんも、そこで見ていて」
ゆっくりと剣を抜いてみせる、まだ手は震えていた。
周りの者が動揺し、身代わりを立てようとする。でも、それは余計な御世話だと思った。
これはきっと私がやらなくちゃいけないことだ。
「黙りなさい、孫権。この先は、王と王の戦いよ」
この世界で私が何をしたのか分からない。
でも、これはきっと、私が選んだ戦いなのだと思う。だったら最後は自分でケジメを付けなきゃいけない。彼女は私のことを王と言った。ならきっと私は王と呼ばれる程のなにかをやらかしたのだろう。私は本来、王を目指すような人間ではない。それでも王となる為に行動を起こした。何千、何万という将兵を犠牲の上に私は私の望む世界を築き上げる為に行動した。私の意志に、理想に殉じた者達の為に私だけは最後まで争わなくてはならない。その死出の旅に共は一人として必要ない。
大勢は決した、残る犠牲は私一人だけで充分だ。
「劉備。貴女に真の天の加護があるなら、貴女は私に勝てるはず。その時は思うように、この戦いを終わらせるといいわ」
冷めることを言ってくれる。天の加護なんてあるはずがない、その事は私が最も知っている。
「はい。……その言葉、忘れないでくださいね」
だからこそ、この一騎討ちには意味があるのだ。
「我が真名と父祖に誓って」
さあ行こう。ちっぽけな意地だけを胸に抱いて――貴女が私であれば、きっとそうに決まっている。
「ならば……行きます!」
泥を啜って、全身を汚した見窄らしい見た目になっても前だけを向いて生きてきたはずだ。
分かる、分かるよ。貴女は私だから、それだけが私にできることだからだ。私には優れた才能はない、ただ意地汚くて絶対に諦めない。前を向いて生きる為だったらなんだって踏み躙る、両足が切断されたなら両手で這ってでも前に進んでやる。四肢が切断されたなら芋虫のように身を捩らせてでも前を目指してやる。諦めない、ただそれだけが私に許された特権だ。さあ両手を握り締めろ、何度でも立ち上がれ、足が折れても這っていけ、武器が失えば拳で、拳が潰れたら頭突きだ。勝てるかどうかは知らない、勘定にいれない。諦めない、それだけは絶対に折ることのできない意地だ。ましてや、それが国ひとつ、良くやったなんて言葉は許さない。その言葉にはなんの意味もないってことを私は知っている。死んでも剣を振るい続けろ、血反吐を撒き散らしても剣を取ることを止めるな。死んでも許されないことをしてきたのだろう?
なら死ぬことは怖くないはずだ、怖いのは意志を曲げること。それだけだ。
「曹操さん……! 私は、貴女や雪蓮さんが羨ましかったです……!」
剣を振るい続ける、確実に相手を仕留める為に洗練させる。しかし、その全てを少女に打ち払われる。
「強くて、優しくて、なんでもできて……私もそうなりたいと思っても、辿り着けない高みにいて……!」
それでも諦めない、当然だ。当たり前だ。剣は想いをぶつける為のものではない、想いを乗せて振るものだ。なら振り続けることを止めていいはずがない。
「最初は……皆が笑って暮らせればいいって、それだけを考えてました」
ぽつりと零された言葉に――嗚呼、なんと馬鹿なことを考えたのだろうか。と思った。
そんなことは無理だと最初から分かっていたはずだ。この世界は、私が知っているよりも、もっと複雑で、広くて、そんなことは想像してもし切れないことだと知っていたはずだ。白蓮と一緒に風鈴先生に色んな事を教わっていただけの頃とは訳が違う。家で筵を作って売ってた頃とは比較にならない。そんなことは世界を知らない私でも知っている事だ。
皆、ただ笑って静かに過ごしたいだけなのに、そう思うだけで上手く行くほど世界は簡単には出来ていない。
「でも、それでも……」
そうだろう、それでもだ。
「だからこそ、作りたいと思ったんです!」
それでも願ったのだろう?
「みんなが笑って暮らせる、優しい国を!」
それでいい、それだけで良かった。
きっと私はそれだけを糧に前を向いて生きられる。だから、こんな馬鹿げた事態になったのだ。
これはきっと田舎娘が足掻き苦しんだ物語の末路。自分勝手な想いに理想を乗せて、傍迷惑にも周り全てを巻き込んで、ただひたすらに前だけを向いて駆け抜けた少女の終着点だ。哀れとは思わない、同情はない。賞賛もしない。ただ一つ、納得する。それだけだ。
もう此処には用はない。目覚めよう、私の居るべき場所へ。貴女はやりきった、それでも届かなかった。やりきるだけでは辿り着けない場所がある。それが知れただけでも良かった。意識が離れる、天に昇る。劉備と曹操が問答する姿が見える、そして私ではない私が剣を落とした。
此処にはもう得られるものはない。
行こう、私のあるべき場所へ。
†
夢を見ていた、たぶん夢だったんだと思う。
目覚めると何時もの部屋。民草と呼ぶには広くて、豪族と呼ぶには少し貧相な感じだ。
外は白じんできたばかりのようだ。まだ寝呆ける頭を抱えながら部屋を出て、肌寒い廊下を抜けて台所にある甕から一杯の水を掬って飲み干した。渇きを潤した後、口元を拭い取りながら夢のことを考える。あの夢は何だったのだろうか。夢と呼ぶには妙に現実味があって、しかし現と呼ぶには現実離れし過ぎていた。
私の家は決して裕福とは云えない。確かに皇帝の血を引いているようではあるが、所謂、属尽と呼ばれる存在であり、幾つかの特権を得られるが正当な皇族として認められている訳ではない半端者だった。その特権に胡座を掻き、稼ぐことを怠った結果、屋敷はあっても筵を織らねばならぬ程度には困窮した生活を送っている。
まあ、それでも世の民草に比べると恵まれている方だとは分かっている。
少なくとも筵の買い手はいるのだ。私が皇帝の血を引く者と知り、漢王朝に忠義を尽くす一環で織った筵と引き換えに食料を恵んでくれる者がいる。おかげで飢饉が蔓延してる中でも私の家は御飯を食べ続けることができた。
そのことに思うところがない訳ではない。
だが、私には何かを成す力がなかった。
あの夢のことを思い出す。
夢の私も力をない事を悔やんでいた、そして自分では意志一つ貫けない事を嘆いていた。
だから私は力を欲する。
意志だけでは為し得ない事を知った、大義だけではなし得ない事を知った。
力がなければ声一つ上げることも許されない。
私は力を欲する、力を身に付けようと決意する。
真っ直ぐに歩み続ける為に、今からでも力を得る為に動き出そうと心に誓った。