漢王朝の勢力圏で最北端に位置する幽州。
異民族の烏桓族や鮮卑族に対する防波堤としての役割を担うこの土地では兎にも角にも武力が優先される。勿論、侵略する目的がないのであれば戦なんてものは避けるに限る。しかし幾ら私達が平和を主張したとして相手が戦を望むのであれば、こちらとしても戦わざるを得ないのが世の常だ。その為、幽州を治める者に求められる素質は大きく二つに分けられる。一つは異民族から攻め込まれても容易く打ち払うことができる戦巧者。もう一つは異民族を懐柔し、戦そのものを起こさせない外交巧者だ。私、劉虞は後者を担う者として、もしくは高祖とかいう偉ぶった呼び名を付けられた阿呆の龍こと劉邦の血を引く皇族の一員としての顔を立てる為、幽州刺史の座に着けられようとしていた。しかし、それは蹴った。何故なら私はドが付く程の戦下手である為だ。万が一、烏桓や鮮卑といった連中に攻め込まれた暁には負ける自信しかない。この私の体には光武帝の血を継いでいるから大丈夫とか云う話も上がっているが――あの光武帝とかいう奴って本当に阿呆の血を引いているんですかね? 糞みたいな血筋から恵まれた才覚とは、正にこの事だ。赤子を取り間違えたっていう話の方が信じられる。そうでなければ特殊変異体か、阿呆に混ざった別の血が優秀だったという事だ。ああ、そういえば呂雉は頗る優秀だったな。流石、呂不韋の末裔だ。阿呆の血では薄めることのできない有能っぷりである。いや、光武帝の先祖は薄氏の方だっけ? まあいいや、阿呆の血なんて大したものじゃないんだから拘る必要もない。
閑話休題。
私の名は劉虞、字は伯安。真名は
今は屋敷でぐうたら生活を満喫している。此処は幽州代郡高柳県。皇族の私には一応、代郡太守という役職を付けられているが政治なんてよく分からないので田疇と魏攸に丸投げしている。いや、できないこともないんだけどね。面倒だから阿呆のふりをしているだけで、実際、阿呆だけど。こうやって阿呆阿呆と呆けていれば、周りが勝手に自分から仕事をしてくれるから楽なものだ。今は黄巾賊が世を騒がしているようだが、そんな俗世のことなど気にせずに惰眠を貪った。どうせ田疇と魏攸が対策を考えてくれている。阿呆な私が無理して考えるよりもきっと良い案を出してくれるに違いない。黄巾の乱と云えば、なんとなしに陳勝・呉広の乱を思い出すなあ、と。懐かしい。漢王朝もおしまいかな? 前漢に愛着はあっても後漢に愛着はないからどうでも良いんだけど、とはいえ戦乱の時代に戻るのもそれはそれで困る。今の快適な生活が失われるのは嫌だった。それに劉宏だっけ、あの子可愛いし、劉協だっけ? あの子も可愛い。あの二人が戦乱の最中に死ぬことは世界の損失だと私は思う。可愛いは正義、異論は認めない。私の子にしたい。いやまあ、ある意味では子なんだけど。いざとなったら私の子になる条件で保護できないだろうか?
色々と良からぬことを企てていると馬を歩かせる音がした。カッポカッポと行儀の良い足取りが聞こえてきた。どうやら我が子が久し振りに会いに来てくれたようだ。血は繋がってないけど、一方的に私が娘のように思っているだけだけど。可愛い子には旅させよ、って言葉があるように、可愛い子は私の子供、って言葉もある。ない? あるよ、今作ったんだし。さておき、使用人に二人分の茶を持ってくるように言付けて、軽く身嗜みを整える。
母のだらしないところは子に見せられない。
†
幽州には、裏の顔役と呼ばれる存在がいる。
其の者は現在、幽州最西端の地である代郡で太守を担う人物であり、内側から幽州を支える縁の下の力持ちでもあった。異民族の討伐等で幽州軍を動かす時、兵糧を融通してくれるのも彼女であり、大規模な軍事行動を起こす時に先ず話を通さなくてはならない。というよりも州刺史である私自身が出張らなければ兵糧を出さないと駄々を捏ねる。正直、苦手な人だ。しかし幽州に居なくてはならない御人であることには違いないので今回もまた彼女の元へと溜息交じりに馬を駆けさせる。
幽州代郡高柳県、その城都。先ずは彼女の屋敷に訪れる。彼女は太守だが政務をしている所を私は見たことがない。政庁に赴いても待たされるだけ待たされた挙句、屋敷の方へと通される事が多い為、今となっては直接、彼女の屋敷に向かうのが常になっている。屋敷の入り口には護衛が数名置かれており、何度も屋敷に訪れているせいか、それとも彼女自身が私が来たら通すように言付けているのか、「今日は庭にいますよ」と屋敷の主人に許可も取らずに中へと通される。
果たして、其の者は居た。庭園に設置した机に腰を掛けて、優雅に茶を堪能している。小鳥が一羽、机の上へと舞い降りると少女に向けて、チチチと可愛らしく囀る。少女は柔らかい笑みで目を細めると指の腹で小鳥の頭を撫で、そして茶菓子の欠片を小鳥に分け与えた。その姿はまるで童話の一頁、幻想的な光景に目を奪われているとカチャリと剣と馬具がかち合う音が鳴った。小鳥が羽ばたいた。その光景を悲しくも、寂しくも、思う様子もなく、優しい目で見送った後、少女はゆっくりと視線を私に向ける。
代郡太守。彼女の名は劉虞、字は伯安。真名は
「
無意識に体が畏った。劉姓から察する事ができるように彼女は皇族の一人だ。しかし彼女自身は漢民族であれば誰もが敬愛する高祖のことを阿呆と言って切り捨て、自らの血筋に関しても阿呆の血を何百年と引き継ぐのは逆に関心すると言ってのけた。その思想が洛陽でもウケが悪かったのか、こうして幽州という辺境の地に飛ばされてしまっている。端的に云ってしまえば、皇族の変わり者。しかし、彼女が持つ風格というか、雰囲気というか、他者を従わせるに足る存在感を持っているのもまた事実であった。「楽にしてください」と瑚桃は困ったように笑って手招きする。出来る事なら同じ席に座りたくないのだが、致し方なし、とおずおず彼女に誘われるまま椅子に腰を下ろす。茶は二人分、用意されていた。
「瑚桃様。此度、私が足を運ばせて貰ったのは……」
「兵糧の試算なら田疇に、謀略の援助が必要なら魏攸に相談してね」
そんなことよりも、と国の大事を放ったらかしにして話を切り変える。
「今日の御茶、冀州から取り寄せたものを使ってるの。名前はなんだっけ、紅茶だったかな? 緑茶や烏龍茶も好きだけど、これはこれで味わい深いものなんだよね」
他愛のない話、幽州の将来について語る訳でもなく、世の中を憂う訳でもなく、ただただ世間話に終始する。その話し相手を務める事だけが彼女が私を支援する条件だった。ちなみに何かの遠征で代郡に訪れた時、顔を合わせに行かないと彼女は拗ねる。とても面倒臭い感じで不貞腐れる。ついでにいえば代郡に涼州軍を派遣する時、私が出向かないと彼女は兵糧を出し渋る。それも軍が破綻しないギリギリの量を狙って来るのだ。なんとも面倒臭すぎる女であった。
「……なあ、何時も思うんだが私なんかと御茶をしても楽しくないだろう?」
武一辺倒の私との茶会は面白くないはずだ。少なくとも文化人である彼女と武人である私とでは話は噛み合わない。「そんなことはありませんよ」と彼女は告げる。緩い時間が過ぎた、ただ無意味に時間だけが過ぎる。それは私にとっては非常にもどかしくて、しかし、そういう時間こそが大事なのだと彼女は告げる。それでも時間を持て余すのであれば、と彼女は使用人に碁盤を持って来させる。気を使っているようで自分勝手、さっさと負けて終わらせてしまおうかと考えれば、「手を抜いたでしょ?」と彼女はやり直しを要求してくる。かといって、真面目に碁を打って圧倒しても彼女は不貞腐れる。その為、適度に彼女の実力に合わせて碁を打つ必要があった、本当に面倒くさい御人である。
「こう見えて私、結構、旅は得意なんですよ」
その言葉には思わず首を傾げると瑚桃は不貞腐れるようにジトッと私のことを睨みつけてきた。
「あー、信じてないですねー」
幽州に来てから不要不急の外出を禁じ続けている人に言われても、って気持ちが強い。しかし、それを口に出すわけにもいかず、取り繕う笑みを浮かべれば、ぶぅぶぅと彼女は文句を口にする。私よりも年上であるはずの彼女は、なんとも幼かった。それでいて自分のことを阿呆を称して、権限を惜しむことなくまるっと他の人に分け与える。経験上、それが一番上手く回るのだと彼女は云う。
「幽州を三傑で表すと蕭何が田疇で、張良が魏攸。韓信は白蓮になりますね」
そう言いながら彼女は白石を指で挟んで、小気味好い音を立てながら盤面に打ち付ける。むっふーん、と気持ち良さそうに息を零すが、全然、良い手ではない。あまりに軽率な一手を咎めるように黒石を打ち込むと、ああん、と彼女は情けない声を漏らした。瑚桃はこういうとこがある。
「彼の英傑と並び称されるのは恐縮なんだが……そうなると、さしずめ高祖様は貴女になるのかな?」
不敬にも程がある言い草、捉え方によっては捕らわれかねない。
しかし、これが軽口として通用することを私は知っている。そもそも彼女自身、高祖を軽んじているところがあった。劉邦という人物は人に頼る事しか能がなく、誰かに担がれる事だけは人一倍に上手かった。そんな見てくれだけが立派な鯉が皆に煽てられることで駆け登り、自分のことを龍と勘違いしたまま大成する。正しく阿呆の極みだ。それが彼女の称する高祖像になる。
そして、その評にがっつりと当て嵌まるのが目の前の女性であった。
「えー、私が天下を統一しても叛乱を企てられるだけなんですけどー?」
瑚桃は先の一手で形成が悪くなった盤面を睨みつけながら口を動かした。
「それに天下を統一するなら人材が一人足りないかな?」
「それは?」と興味本位に問い返すと「陳平」と間をおかずに答える。
「幽州は他と比べると地盤が弱いからねー。勝つには彼奴の謀略は必須かな」
あと、と彼女は思い出したように告げる。
「頭の出来は知らないけど、たぶん、白連と韓信が戦ったら良い勝負すると思うよ?」
「それは言い過ぎだよ」
「能力っていうよりも時代かな、当時の最先端は今の陳腐ですし。まあ尤も彼奴の場合は股でも潜って、周りを油断させている隙に勉強する時間を稼ぐんだろうけども」
そうなったら韓信に分があるかな、と瑚桃は腕を組んで考え込んだ。
彼女はこんな風に
パチンと石を打つ音が鳴った。気の抜けた一手、直ぐに咎める一手を打つと「ま、待った!」と瑚桃が声を荒げた。
「今のなし、今のなーし!」
「何処かの誰かに州刺史を押し付けられたせいで仕事が溜まっているので、待ったはなしでお願いします」
「えー、いけずー! 話術によって集中力を乱すとは卑怯千万、恥ずかしくないのか!!」
「戦に卑怯は付き物ですので、ほら、瑚桃様も陳平の重要性について説いていたではありませんか」
「ぐぬぬ……」
瑚桃は苦渋の顔で盤上に向き直り、睨み付ける。もう勝負は決まっているようなものであったが、彼女が途中で勝負を投げ出すことはない。きちんと最後まで足掻き打ち切るのだ。その為、終盤の寄せの段階で結構、詰め寄られる事がある。それまでに大差を付けているので勝敗が引っくり返ることはないが、もし仮に情勢が対等のまま終盤に入る事があれば、勝つことは難しくなるかも知れない。とにかく彼女は諦めが悪かった。
「……どうして貴女は幽州刺史を辞退したのですか?」
なんとなしに問いかけると瑚桃はあっけらかんと答える。
「え、だって面倒臭いし?」
「……聞いたことが間違いだったかな」
「まあ私に出来ることって神輿だけですし?」
整地も終えて、「参りました」と瑚桃が頭を下げる。そして、私を見据えてゆっくりと告げる。
「私はもうやりたいことをやった後だし、これ以上、同じことを続けたいって気もないんだよね。今の私の楽しみは若者達が青春してるのを縁側から眺めていることだ。だから頑張れ若者、私は応援してるぞ」
「もうちょっと仕事を手伝ってくれるとありがたいんだけどな。州刺史の肩書きを担ってくれるとか」
「貴女のやりたい事に私の力が必要なら考えてあげるけど、私が私の意思で陣頭に立つ気はないよ。諦めなさい」
青州の御土産を期待しているからね、と瑚桃は笑顔で告げる。
そんな話、一度もしていなかったんだけどな。なんだかんだで情報を仕入れている辺りが、彼女の厭らしいところである。彼女は阿呆であるかも知れないが、馬鹿ではない。少し抜けているところはあっても頭が悪い訳ではない。言動に子供っぽいところがあっても幼くはなかった。
なんとなしに見透かされてるような感覚。それとは別に親が子に向けてくるような視線が、私は苦手だった。