これは夢だ、古い記憶。私はまた夢を見ていた。
放課後、誰もいなくなった講義室で柳香と今日、講義で習った内容を復習している。
白蓮は講義を終えるとすぐ武芸の鍛錬の為、家へと帰ってしまうので、居残り組は基本的に柳香と私の二人だけだ。こうやって机を挟んで顔を見合わせるのも慣れた光景だった。「んー、面倒だなー」と頭を抱える柳香に講義中にあった眠気に苛まれる姿はない。つい先ほどまで寝ていたこともあるのだろうが、こうして一対一の場で彼女が眠たそうにすることはほとんどなかった。
今日の範囲を写した紙を机に広げて、自分自身の理解も深める為、丁寧に講義内容を語り聞かせる。
「極端な話、世の中に法がなかったら暴力だけがものをいう修羅の国ができあがるっていうことで良い?」
「その例えはどうかなって思うけど――でも民は法により守られているという点は合ってるかな。法を敷き、民衆に守らせるのが国家が持つ役割の一つ」
「確か権利と財産だっけ?」
そう問い返すことができる柳香は、やっぱり頭が悪いとは思えなかった。
「国が定める法っていうのは基本的に民の権利を保障する為っていうのが基本になっているかな」
そこまで言うと、ふむう、と柳香は腕を組んで考え込んだ。
講義の時は居眠りばかりする困った子ではあるが、しっかりと考えてくれるし、教えたことにはきちんと覚えてくれる。白蓮は私のことを物好きだと云うけども、真っ白な絹のように知識を身に付けてくれる彼女に勉強を教えるのは意外と楽しいものだ。お気に入りの小説なんかを紹介すると次会う時には読み終えていたりするから――なんというか嬉しさ半分、無知な少女を自分好みに育て上げているようで少し興奮する。
少々調子の良い性格をしているが、それすらも彼女らしいと笑って許せる。
なんというか彼女には、そういう気にさせる愛嬌があった。
「でも〜、国が必ずしも民の為の法を定めるとは限らないんじゃないの?」
柳香は決して頭が悪い訳ではない、むしろ頭の回転は早い方だ。
「近頃ではまた税率が上がったって云うし、うちは食べるのも厳しくなってきたよ」
誤魔化すように笑みを浮かべる柳香から溢れた言葉にチクリとした痛みを胸に感じた。
属尽である私の家は税を免除されている。そのおかげで今も生きられているのだから属尽としての特権を捨てることもできないし、そも私にそれを選択できるだけの権限もない。それでも重税を課せられる彼女に後ろめたい気持ちを持っている。しかし、これに関しては触れてもお互いの為にならないだろう。
私もまた笑って誤魔化していると「理屈では分かっているんだよ?」と柳香が口を開いた。
「近頃は異民族の襲撃も激しくなったって聞いているし、冷害による飢饉から民衆が次々に賊へと身を落とす話も知ってる」
彼女は惚けた顔をして頭が回る。
「そんな連中から私達を守る為に軍備を整える。その軍備を賄う為に税収を増やす、という理屈は分かっているんだよ。でも横領をしているって話は何処でも聞くし、権力を使って私腹を肥やしたり好き放題する連中もいる」
柳香は大きな溜息を一つ挟んだ後、締めの言葉を口にする。
「何が正しくて、何が間違っているのか。それが私には分からないよ」
肩を竦める彼女の姿を見て、改めて柳香は周りが云うような考えなしではないと実感した。少なくとも彼女には周りの意見を鵜呑みにせず、自ら物事を考える力と意志を持っている。そして私の話を真剣に受け取ってくれる彼女の為に、私もまた真面目に答えようと考える。
「私は……役人の全てが悪いとは思っていないよ」
たったそれだけの言葉で柳香の意識が私に向けられる。
「中にはきちんと仕事している人だっているはずだしね。物事を一と零だけで考えると、きっと碌なことにならないと思う」
基本的に人間という生き物は都合の良い事実から逃れることができない。どれだけ意識したとしても自分にとって都合の良い考えから目を逸らす事は叶わない。
「だから私達は常に様々な可能性を探ることを止めちゃいけないんだって思ってる」
前を向いて歩くというのは、そう云う事だと思っている。
官僚の中には悪いことをせざる得ない者も居るかも知れない。世の中を変えるには相応の権力が必要で、それを手に入れようと思えば何処かで手を汚す必要も出てくるのだろう。勿論、綺麗事を否定している訳ではない。理想や大義は道標に似ている。何処かに向かって歩く時に目標が必要なのと同じように、歩いた道が汚泥に塗れることがないように、何かを為そうとするには必ず必要になる者だと思っている。でも信念だけでは足りない、理想だけでも駄目だ。勿論、綺麗事だけでは事を成し遂げられない。世の中には善だけでは成し遂げられないことがあることを忘れてはいけない。
何かを成し遂げるには力が必要だ。力なき正義に意味がない、それと同じように、力なき悪意にも実害はない。
「……時には悪と呼ばれる行為も必要になることは分かっているつもりなんだけどね」
本質的に、私は底抜けの御人好しではない。
善悪を問われるとすれば、私は自分のことを善人だと思いはするが、決して優しい性格をしている訳ではない。頭の中は常に打算で満ち溢れている。無条件に善意を振りまくような性格を、私はしていない。もし仮に、そのような振る舞いをすることがあるのだとすれば、その行為に得がある場合だ。私が自分を悪人だと思わないのは、悪行を為す事に割に合わないと考えてしまう為だ。理由なくして悪行を為す事はない。逆に云ってしまえば、理由さえあれば悪と呼ばれる行為をすることに――躊躇することはあるかも知れないが、必ずしも、それがいけない事だとは思わない。そこまで私は良い子ではなかった。
世の中には善意から始まる悪行がある、悪意から始まる善行がある。例えば、そうだ。子供がお腹を空かせていたからと食べ物を盗むことは善意からの悪行だ、周りから良い目でみられたいが為に自分よりも見た目が劣った者を傍に置いて可愛がるのは悪意から始まる善行と呼べるかも知れない。
どちらが良いか悪いかの判断なんて、所詮は個人の物差しでしかなかった。
「私は、あんまり頭が良くないけども――これだけは分かるよ」
柳香は真剣な目付きで私を見据えて告げる。
「桃香は自分のやりたいことをすれば良いんだよ」
その言葉に、きょとんとなった。
「君は良い子だからね、桃香が目指すものに間違いはないよ。こうして私の勉強にも付き合ってくれてるしね」
それは違うと思う、友達だから付き合っている。この関係を良好に保ちたいって気持ちもあるし、こうやって勉強を教えることは私の為にもなっていた。誰彼構わずにしている訳ではない。
「君がどう言い繕うとも君は重度の御人好しだ。だって桃香がもっと適当な奴だったら、こうして私が勉学に苦しむこともないんだから」
「もう、ほら続きをするよ」
真面目に取り合うだけ馬鹿を見ると察した私は素っ気ない言葉で返した。
すると柳香は、おお怖い怖い、と広げられた参考書に目を通す。
そんな親友の姿に私は溜息を一つ零した。
悪いことを悪いと言えればどれだけ楽だろうか、善意から出た行動は正義と言えればどれだけ楽だろうか。
大志、もしくは信念、正義と呼ばれる意志には善悪の両方が内包されている。それらの意志は、云ってしまえば、取捨選択の指標なのだ。価値観と言い換えても良い。何を優先するのか、その為に他の何を犠牲にするのか。二兎追うものは一兎も得ず、という諺があるように優柔不断では何も得ることができない。人間として生まれた以上は決断しなくてはならない時がある。悪行と分かっていても自分の信じる目的の為に悪事に手を染めなくてはならない時があり、それでも善良なる道を歩もうと足掻き続ける者もいる。そして、それでもだ。やっぱり大切な何かを守る為に悪事に手を染めてしまう者がいた。
それでも、なのだ、私達は何時だって、それでも、と叫んで生きている。
完全無欠の答えなんて有り得ない。時流や状況、思想によって答えは如何様にも変わる。あるのはその場限りの最善の答えだけだ。だから私達は常に前を向いていなければならない。目先の利益に囚われないように、ずっと前を見据えて生きていく必要がある。
だから私達は考え続ける。苦しくても、それでも、と叫び続けるのだ。
「生きるって面倒臭いなあ……」
そう思わない? と問いかける柳香に曖昧な笑顔を返す。
私は力を欲する、力がなくては声を上げることも許されない。
善悪なんて概念は、強大な力の前では簡単に屈する。もし、その時が来たとして、私は自分の意志を貫けるだけの力を欲した。
強く手を握り締める。それを柳香がにんまりとした笑顔で私を見つめる。
その姿は私塾時代のものではあったが、雰囲気が現在のものと似通っていた。
「桃香がね、どんな選択を選んだとしても私だけは一緒に居てあげるよ」
急な話に困惑する。しかし柳香は机の上に置いていた私の手に、そっと手を重ねて話を続ける。
「桃香の見る未来に私は興味がある、その行く末が楽しみでもある。そして何よりも私は君のことが大好きだ」
だから、と柳香が顔を寄せてくる。
「どれだけの悪行を成したとしても私だけは君を軽蔑しない。私は知っているからね、君が御人好しだってことを。だから私だけは君の傍に居続ける。出来ることなら同年、同月、同日に死ぬことを願っているよ」
息が吹きかかるほど間近な距離、柳香が更に身を乗り出して――――、
†
――ガバッと布団から飛び起きる。
荒い呼吸、寝汗が酷い。傍らには俯せで眠る柳香の姿、むにゃむにゃもう食べられないよ、と定番の寝言を口にしている。
外はまだ暗い。なんとなしに手で頰を触れる、顔が熱くて仕方なかった。そのまま両手で顔を覆って、声にならない呻き声を上げる。なんという夢を見ていたのか。ちらりと柳香のことを横目に見れば、とても幸せそうで腑抜けた寝顔を晒していた。その唇をチラリと見やり、無意識に意識してしまったことを自覚して、くしゃくしゃっと髪を掻き乱しながら前屈みになって呻いた。本当に、なんて夢を見たのか。なんだか妙に股下が疼いているし、かといって今、自分を慰める訳にもいかないし、四六時中、ずっと一緒に居るから自慰なんてしてる余裕もないけど。
嗚呼、もう今の自分はまともではない。とりあえず顔を洗ってこようと思った。
台所の甕に貯蔵された水を拝借して、パシャッと顔に掛ける。
冷たさが肌身に染みる。顔を振って、天井を仰いだ。その姿勢のまま、暫し今の状況について整理する。
此処は青州平原国。青州刺史が黄巾を頭に巻いた賊徒に斃された話を聞いて、そのまま青州へと足を踏み入れた。それは大義や信念といった大層な理由ではなくて、ただ単に食い扶持を稼ぐ為という意味合いが強い。事実、平原国を中心に集落から賊を追い払っている内は柳香を飢えさせることはなかったし、これを数ヶ月も続けている内に名が知れ渡るようになり、常山の趙子龍あれば平原には劉玄徳あり、とまで呼ばれるようになってしまっていた。
その一環で賊徒に襲われる集落の防衛に参加したのがつい先日のことであり、敵味方の総数が互いに百を超える指揮を執ったのは先の戦闘が初めてのことだった。拙い部分も多かったに違いない。事実、私はたった一人の親友に怪我を負わせてしまった。幸いにも命には別状はなかったが、もう二度と彼女に怪我を負わせないと強く誓った。
柳香の快癒するまでの間、もしくは援軍や代わりの役人が来るまでの間、兵士達と共に一から武芸を鍛え直している。また柳香に使った傷薬の御礼をする為にも町の復興を手伝い、田畑が耕したりなんかもしていた。おかげで寝る時間になると何時もくたくたで俯せで寝ている柳香と同じ寝台で眠りに就いた。
とはいえ出立の日も近い、そろそろ挨拶回りをしないといけない。
平静を取り戻したことを自覚して、濡れた顔を手拭いで雑に拭った。
外はまだ暗い。もうひと眠りしようと考えて、与えられた部屋に戻る。まだ眠る柳香の情けない寝顔を見届けた後、その傍にひっそりと身を寄せるように掛け布団を被った。少し肌寒い、彼女の背中の傷が治っていれば、暖を取る為にも抱き寄せていたところだ。それでも眠気は訪れるものであり、程なくして深い眠りに就いた。
それから数日後の朝、兵士達に調練を付けていると幽州の刺史から役人の応援が来たという話が届けられた。
これで此処もお別れか、次は何処に行こうかな。
そんなことを考えると新しく来た役人が、どうにも私と話がしたいということで政庁まで足を運ぶことになった。
政庁に向かうと幽州から遣われたと思しき二人組が執務室で私を待ち構えていた。一人は凛とした顔付きに眼鏡を掛ける如何にも出来るって感じの女性であり、もう一人は私がよく知る人物に似た容姿の少女であった。
そんな二人の注目を浴びながら、失礼します、とおずおずと部屋に上がり込んだ。
「貴方が、劉玄徳殿ですね?」
眼鏡の女性に問われて首肯する。何か悪いこととかした覚えはないんだけどな。
「気を張らなくても良い。この町を守るのに尽力して下さったと聞いたから一度、礼を言いたかったもので」
少女はクイッと眼鏡を上げて、自らの名を名乗る。
「私は幽州刺史である公孫賛から遣われた戯志才と申します。そして――」
「そして私が公孫賛の妹の越だよ」
越と名乗った少女は私を見ると人懐こい笑みを浮かべて、気さくに手を差し出してきた。
「お姉ちゃんから劉備さんの話はよく聞いてるよ、よろしくね」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」
言いながら彼女の手を受け取る。
白蓮の妹か、通りで似ている訳だと思った。それにしても白蓮は知らぬ間に幽州の刺史にまで出世してしまったようだ。
差が付けられているなあ、とかぼんやりと思いながら曖昧な笑顔を浮かべる。
それから更に数日、引き継ぎ作業に忙殺されることになった。