桃香放浪伝   作:にゃあたいぷ。

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第四篇.御役人様②

 書籍から世界を覗くだけでは満足できなかった。

 まだ私が水鏡女学院で勉学に励んでいた時の話になる。引っ込み思案な私は女学院から出ようともせず、自由時間は書庫に籠もり切りで書籍を読み込んでいることが多かった。無意識に手が伸びるのは冒険譚、それも人喰い虎や逆賊を退治する英雄譚ではなくて、もっと日常を主に置いた――料理とか、行商とか、あるいは新天地とか、そういったものに興味が唆られる。速読することもできるのにあえてせず、文章を指先でなぞるようにじっくりと読み込むことで物語に没入し、空想の世界に浸るのが私は好きだった。

 そのせいだろうか、私は外の世界に憧れを持っている。

 薄暗い書庫。少し黴臭さの残る空間で、ふと天井に向けて手を伸ばすことがあった。私の想いは外の世界に恋焦がれる、というよりも、無知に対する好奇心に近かった。文字だけでは物足りない。旅先で食べる美食の数々を舌で味わいたければ、道中で食べる雑な料理というのも経験してみたい。そして綺麗とか、壮大とか、そのように表現される景色を見てみたかった。勿論、旅が良いことばかりではないことを知っている、むしろ苦労の方が多いことなんて想像するのは簡単だ。

 でも、そんなことを言っていたら一歩を踏みだすことなんて何時まで経ってもできやしない。

 

 勇気を振り絞るのは難しい、私のような極度の人見知りに出来ることではない。

 それでも私は一歩を踏み出す決意をした。臆病者の私は徹底的に理論武装を施すことで自分を追い詰めて、何度も繰り返し自らの尻を叩くことで漸く「世界を見てみたい」と水鏡先生に相談することができた。それから何度も折れそうになる心をぐずぐずと引き摺りながら、どうにか準備を整えて、近場の町まで商隊に送って貰う時ですら直前で逃げ出したくなる想いを必死で抑え込み、恐る恐ると女学院の外に飛び出した。

 水鏡女学院に入学してから三年以上の刻が過ぎている。

 全寮制の女学院は安定した物資供給で成り立っていたから寮生活に不便はなく、外に出る必要性も特に感じていなかった。おかげで私は入学してから敷地外の景色を一度も見たことがなかった。踏み出す一歩はとても小さな一歩だけど、門を潜る一歩は私にとって地平線の向こう側へと踏み越えるほどに大きな一歩だった。

 私はこれから知ることになる、世界を。地平の先から吹き抜ける風に煽られるように続く一歩を踏み出した。

 

 旅は想像していた以上に過酷で挫けそうになる。

 御飯は美味しくないし、寝床は硬くて体が痛かった。寒い時は凍えそうになるし、暑い時に日陰に隠れることもできない。何度も心を折りそうになって、もう帰りたいと弱音を吐くこともあって、寂しくて夜中に一人泣くこともあった。正直、嫌なことばかりだ。良いことなんて欠片程しかない。

 それでも「旅は楽しかったか?」と訊かれれば、きっと私は「楽しかった」と答えるはずだ。

 未知を経験することは怖いことばかりで嫌になるけども、新しいことを知る思い出は、不思議な事に今になって思い返すと楽しい事ばかりなのだ。当時は、あれだけ嫌がって泣き叫ぶこともあったというのに、楽しかったという実感が後になって残っている。きっと旅というのは思い出を楽しむものなんだと思う。色んなことを経験した、様々な場所を見て回った。その途中で何度も足を止めそうになったけど、結局、旅を最後まで続けることができたのは、楽しいって気持ちが胸に残り続けていたからだろう。

 辛いことや嫌なことはたくさんあったけど、旅をして良かった。心からそう思っている。

 

 その旅の果て、幽州刺史の公孫賛を頼ることになったのは偶然だ。

 ただ単に路銀が心許なくなってしまったから、ちょっとした小遣い稼ぎを兼ねた社会勉強のつもりで短期仕官する。その派遣先が青州と聞いた時は少し驚いたけど、州刺史の妹である公孫越を付けてくれることになったから怖くても我慢して足を運んだ。

 青州平原郡、とある町。到着する前に黄巾の賊徒に襲われたという話を聞いていた――はずなのだけど既に民草は立ち直っており、町の復興が推し進められていた。また役人が居ない町とも聞いていたので、最初の数日は状況を把握するだけで精一杯かな、と決めていた覚悟も杞憂に終わった。書庫に纏められた資料、比較的、新しいものを覗き見れば、町の現状が事細かに記載されていた。賊徒に襲われた被害を纏めるところから始まり、復興の進捗、物資の在庫から不足分の計算まで済ませてある。正直、この近況を書き記した一冊があれば、引き継ぎに困ることはなさそうだ。

 ここまで復興の手続きが整えられているのなら、これを下地に少し調整してやるだけで充分に事足りる。

 

「凄いな……民のことを大事にしてることがわかる……」

 

 民草の生活を第一に考えている、ということが報告書を読むだけでも伝わってきた。

 細かいことを云えば、甘い箇所は沢山ある。もっと効率の良い方法も思い付かない訳ではないのだけど――今のままで上手く行っているのであれば、あえて弄る必要もないように思えた。民草に新しいやり方を一から覚えさせるよりも今あるやり方を修正していく方がずっと合理的だ。報告書に記載されている名前は劉玄徳、どんな人なのだろうか。今から顔を合わせるのが少し楽しみになる。

 書類の向こう側に見える人物に想いを馳せていると、ふと外から足音が聞こえてきた。

 

「……ん、誰も居ないのかな?」

 

 生来の人見知りのせいか。気付けば、本棚に身を隠していた。

 扉を開けっ放しにしていたことから中に誰かが居ることは予想立てられたのだろう。別に身を晒しても良いのだが、というよりも咄嗟に隠れてしまっただけで避ける理由もないのだけど、なんとなしに勇気が持てず、意味なく隠れてしまった気不味さから息を潜める。そして誰かの動向を観察する為に、そうっと本棚の陰から顔を晒してみた。

 視線が合った、じいっと少女が私の方を向いている。

 

「こんにちは、読書に熱心なのは良いことだ」

 

 あわわ、と本棚の陰に身を隠す。三角帽子の大きな鍔を両手に握り、身を丸めて息を顰めた。

 きっとさっきのは勘違いで、目が合った気がしたのも偶然で、だって此処は暗いから落としたりもあるかも知れない。

 しかし現実は無情だ、トントンと足音が近付いてくる。

 

「あ、居た」

 

 少女がひょこっと顔を出して、私のことを見下ろしてきた。

 あわわ、と動転すると、どうどう、と少女が両手を開いて落ち着かせようとする。

 私は馬ではありません、しかし声には出ない。

 

 ひっそりと彼女に対する印象を下方修正していると少女は悪戯っぽく笑って周囲を見渡していた。

 

「ふむふむ、此処に広げられたどれもこれもが機密に関わるものだね。君、分かってる? これって重罪だぜ?」

「あわわ……で、でも私は……役人として……」

「私はずっと此処の御世話になっているのだけど、君の顔なんて知らないよ。それに幽州刺史に助けを求めたのは少し前の話、新しい役人が派遣されるにしても来るのが早過ぎる」

 

 そういえば、私は人に会うのが怖いからと無理言って別行動をさせて貰っていた。この町を守ったという劉備との挨拶は戯志才と公孫越に任せて、余った時間のできた私はひっそりと引き継ぎ作業に勤しむことにしたのだ。あれから結構な時間が過ぎていると思うけど、もしかするとまだ新しい役人が来たという話が広まっていないのかも知れない。いや、でもきちんと説明すればまだ、こんな時こそ勇気を出さないと朱里に笑われちゃう!

 

「ところで君、もしかしてなんだけど――――」

 

 ――頭に黄巾を巻いた賊の間諜じゃないよね?

 

 その問いにゾクリと背筋に嫌なものを感じた。

 このままだと私はどうなっちゃうの? 獄に放り込まれちゃう? 賊との繋がりを吐かせる為に乱暴されちゃう? 朱里が持っていた薄い本みたいな目にあっちゃう? あわわ、と未来予想が負の側面へと転がり落ちていく中、「そういえば綺麗な衣服を着てるなあ」と私のことをまじまじと見つめてくる。今、私が着ているのは水鏡女学院の制服だ。

 駄目! 朱里や水鏡先生には迷惑を掛けられない!

 

「やめて! なんでもしますから捕らえるのだけはやめてください!」

「ん、今、なんでもするって言った?」

 

 あ、と思った時にはもう遅い。

 彼女は心底楽しそうに笑みを浮かべている。私はもう身を震わせていることしかできなかった。

 がっしりと後ろから抱き締められた私は軽々と持ち上げられた。そのまま書庫を出て、何処かへと連れて去られている。まるでぬいぐるみのような扱い。政庁から出る様子もないし、廊下で擦れ違う人からは微笑ましそうな目を向けられるので、たぶん疚しいことには巻き込まれていないはずだ。目的地は分からない、生来の人見知りから声を上手く発することができなかった。

 そのまま辿り着いたのは執務室、彼女は扉も叩かずに部屋に乗り込んだ。

 

「桃香、可愛い子を拾ったんだけどウチで飼っても良いかな?」

 

 そして開口一番、そんなことを口にした。

 桃香と呼ばれた少女は「ええっ?」と困惑した顔を浮かべてみせる。

 良かった、どうやら彼女はまともそうだ。

 

「鳳統、何をしているのでしょう?」

 

 横から眼鏡を掛けた女性に話しかけられる。

 彼女の名前は戯志才、幽州刺史の公孫賛に仕える身の上だ。とはいえ彼女もまた私と同じように旅の道中、路銀を稼ぐ為に公孫賛に仕えているので、公孫賛の配下という訳ではない。私も含めて食客という言い方が近い気がする。実際、私の役割も「幽州軍が青州に蔓延る賊徒を討伐する為の拠点を用意して欲しい」というものだった。

 私を見つめながら必死に笑いを堪えている公孫越が派遣されたのも、その一環だ。

 

「……捕まりました」

 

 ぬいぐるみ抱っこされるに至る現状を簡潔で正確に答えると「だっはっはっはっ!」と公孫越は遂に我慢できずに大声で笑い出した。

 

「柳香、ちゃんと元居た場所に戻してあげてね?」

「えぇーっ、もうちょっと可愛がりたかったんだけどなー」

「駄目だよ、困ってて可哀想だし……」

 

 桃香に言われて、まあ仕方ないか、と彼女は私を抱えたまま部屋を出る。

 これってわざわざ私を持ち上げながら移動する必要はあるのだろうか?

 

「あ、ちなみに今のが劉玄徳。あの書類を作成した人だよ」

「えっ? ええええぇぇー―――っ!?」

 

 私が叫び声を上げるのも気にせず、柳香と呼ばれた少女は私の小さな体を抱き寄せたまま廊下を歩き出した。

 

 

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