それは、兄貴が請け負った暗殺を終え、帰ろうとしていた時だった。
泣き笑いのような声が聞こえて、ふと路地裏を見ると、誰かが人間の上に蹲っていたそうだ。緩くカールした黒髪が、グレーのベストを羽織った背中を覆っている。ピンクのミニスカートから伸びた脚は紺のニーハイソックスに包まれている。恐らく、高校生くらいの少女だろう。その傍らには、血の付いた一本のバール。
どうせ知り合いが死んだのだろう。よくある話だ。
そう思ってスルーしようとした兄貴は――聞いてしまった。
チキチキチキ、とカッターナイフの刃が伸びる音を。
異常を感じ、兄貴は物陰から少女の様子を見守り始めた。
そして、見てしまったという。
涙を流しながら、忍び笑いを漏らしながら。
死体の顔の皮を、カッターナイフで剥ぎ取る少女を。
「お……おい、何やってんだよ!」
そう、声をかけたのが、多分間違いだった。
「……ッ!!」
振り返った少女の、猫のような真っ赤な瞳は――怯えの色に染まっていた。
少女は絶叫しながら、傍らのバールを掴み、兄貴の足を――。
◇
「鳰……助けて」
「ちょっとちょっと、いきなり助けてって言われても困るっスよー。何スか一体」
7号室に駆け込んだウチを、鳰はそう言いつつも追い出そうとはしない。部屋に通され、ドアを閉めた途端に、全身から力が抜ける。そのまま、へなへなと座り込んだ。
「ちょっと、どうしたんスか由紀乃サン。そんなキャラでしたっけ?」
「ごめん今それどころじゃないの……お願い、助けて」
「いやいや。まず事情を説明してくださいよー」
流石の鳰も困惑してるみたい。私は座り込んだまま、鳰を見上げる。
「琉牙に正体がバレそうなの。絶対にバレたくないのに……お願い、粉雪は殺すから、絶対にバレないようにして。望みは何でも叶うんでしょ?」
「いや、バレないようにって、何をっスか?」
「とぼけないでよ! 裁定者でしょ? 全部知ってるんでしょ!」
滲む涙をカーディガンの袖で拭き、鳰を睨む。彼女はニヤッと笑みを浮かべ、語りだした。
「まぁウチは全部知ってるっス。夜な夜な街をうろついてはターゲットを探してたぶらかして、相手が心を許した瞬間に隠してたバールで殴りつけること」
「……やめて」
「殺した相手の顔の皮を剥ぎ取って、内臓を引きずり出して、骨を丁寧に叩き折って、全身グチャグチャにして無残な死体にすること」
「お願い、やめてよ」
「きっかけは中2の時、好きだった女子にフラれたこと。元々放任家庭で育ち、愛情に飢えていた由紀乃サンは、その女子にフラれたことで完全に壊れたんス」
「やめてってば……」
「由紀乃サンはなんとしてもその子を手に入れたくなった。だからその子に薬を盛って人気のない場所に持って行き、その子が目覚めたタイミングで――」
「やめてって言ってるじゃん!!」
私の絶叫に、鳰は目をぱちぱちと瞬かせた。首を傾げ、半笑いで口を開く。
「あはっ……由紀乃サン、何で泣いてるんスか? 全部、自分が犯した罪じゃないっスかァ」
「……嘘」
頬に手を当てると、確かに濡れていた。鳰のゲスな笑顔が滲む。気付くと、ウチはみっともなく泣き叫んでいた。
「わかってる……わかってるんだよ、ウチがやってることが悪いことだなんて! 許されない罪を犯してるだなんて! でも……どうしても、やめられないの。憑りつかれたみたいに……いい加減、こんなこと止めたいよ……でもっ!」
「そんなこと言ってぇ、琉牙サンや粉雪ちゃんのこと気に入ってるんしょォ? 二人のことも無残に殺すんしょォ?」
「うっ……」
……大粒の涙が頬を伝う。否定できないよ。今までずっと、そうしてきたんだもの……人間、そう簡単には変われないだなんて、ウチが一番よく分かってる。
「ほら、否定できない」
「……でも、一緒にいたいの」
「はい?」
涙を拭き、真っ赤な瞳で鳰を睨み上げる。
「ウチは琉牙と一緒にいたいの! それが、ウチの望み……でも、ウチが琉牙のお兄さんをヤったってバレたら、きっと殺される……嫌だ、そんなの嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
頭を掻きむしり、絶叫する。
「だからお願い、粉雪を殺すから、ウチの願いを叶えてよ!!」
――残響が、7号室に響き渡った。鳰は静かにウチを眺め……不意に、ふっと微笑む。
「……それが、由紀乃サンの望みってわけっスね。問題ないっス。ただし、粉雪ちゃんを殺せたら、の話っスけどね」
「……わかったよ。絶対に、殺してみせる」
◇
兄貴から聞いた特徴。
緩くウェーブがかかった長い黒髪。猫のような赤い瞳。グレーのカーディガン。ピンクのミニスカート。紺のニーハイソックス。それらは示し合わせたように、由紀乃の特徴と一致している。
……まさか……な。
そう思いつつ、オレは部屋のドアを開ける――と、待っていたかのように窓から月明かりが差し込んだ。由紀乃のベッドの下で、銀色の何かがキラリと光る。オレは足を止め、それをじっと見つめる。何故だろう……妙に心に引っかかる。
導かれるように、オレはそれに手を伸ばしていた。
ベッドの下からそれを引きずり出し――息を呑む。
ひどく冷たく、何重にも血がこびりついた――鈍い銀色のバール。
「……嘘、だろ」
声が震える。全身の体温が下がる。金縛りにあったかのように、瞬きすらできない。
――ガランッ
片手から力が抜け、バールが零れ落ちた。