魔法少女リリカルなのはS.F.~お前にラブハート~ 作:どめすと
何の脈絡もなく。
脳裏に蘇ったのは遠い体験だった。
「なぜ上手くいかないのッ!」
研究用の白衣を羽織った母さんの後ろ姿。涙を散らしながら、悲しみを怒りで誤魔化しながらコンピュータを叩く母さんの姿。
それを眺める自分。どうしたのか、心配になって。出所もわらないその悲しみを止めてあげたくて進んだ自分。でも肩に添えられた大人の手に引き止められて進めなかった自分。
「フェイト、今は……」
教育係のリニスまでもが泣きそうな顔をしていたけれど、その理由を何も語らない。何も教えてくれないから思った。
「私じゃ、ダメなの?」
母さんの悲しみ。母さんの苦しみ。母さんの心の助けになることは、自分にはできないのか、と。見上げたリニスは首を横に振ったけど、言葉にはしなかった。だから、その時は邪魔にならないようにその場を後にした。
それからも幾度となく似たような状況、同じように苦悩する母さんの姿を目にしたけど、結局どうにもできなかった。言いつけられたことを守り続けた。
そんな体験を伴った記憶が、頭をよぎった。
――――――――――――――――
「――――――はぁッ」
水中から顔を上げたように、フェイトは大きく息を吐き出した。まるで蒸気のように熱を伴うそれは即座に風にさらわれる。
高度3000m弱、大気圧約600hpaの高高度。丸みを帯びた地平線を一望できる高度から、フェイトは吐き出した分だけ空気を吸いこむ。眩暈に耳鳴り、抗いようのない脱力感から肉体が酸素を欲して行った深呼吸。けれど吸い込んだはずの空気は廃に満ちない。息苦しさは紛れない。
「――――……やったっ」
激しい動悸の合間に、被弾によって爛れた肌がジンジンと感覚を取り戻していく。全身が抑制の利かない震えに支配される。
1296秒間。高高度において敵の魔力弾に晒され続け、絶え間のない攻撃と回避行動を強要され続けた疲労が、全身に覆いかぶさる。
「ヤッたっ……」
相棒たるインテリジェントデバイス≪バルディッシュ≫強く握りしめる。手に滲んだ汗が凍り付いたように冷ややかに感じられたが、骨の内側はジリジリと焙られるように熱い。
撃墜。
バルディッシュより伸びた魔法刃にはまだ手応えが残っていた。敵の射撃と砲撃に辛抱強く耐え、敵が距離を開く以上に距離を詰めて斬り込んだ手応え。魔力の源リンカーコアへの魔力ダメージではなく、命の源である肉体への物理ダメージ。バリアジャケットという魔力の鎧を砕き、風船のように張りのある肌をプツリと割って、筋線維の奥に詰まった弾性のある肉を裂いた。
「ヤッたよ……――」
動悸が収まらない。
疲労が理由ではなかった。
鮮血が風に舞うリボンのように糸を引きながら墜落していく白い魔導士を見下ろして、フェイトは呼吸を繰り返す。早鐘を打つ心臓と同等の速度で過呼吸気味に。息苦しいほどの呼吸が止まらなかった。
『Mission Completed.』
バルディッシュの機械音に次いで、白い魔導士の姿にノイズが生じる。
ホログラフィックの幻覚、バルディッシュが構成した仮想のシミュレーション空間が消えていく。全身を覆う倦怠感とひりつく痛み、肺の違和感が消えていく中でフェイトは目を覚ました。
◇
そこは地球の現地拠点。
暖色の蛍光が網膜を刺激する。あおむけの状態から体を起こそうにも体の感覚が鈍い。だというのに、引くことのない動悸と脂汗がリアルにのしかかった。
『素晴らしいわ、フェイト』
天啓のように。通信用デバイスを通じて室内に木霊したプレシアの声に、フェイトは微笑みをつくる。壁面に映し出された母親の表情は穏やかだったから気持ち悪さが和らいだ気がした。
『想定よりもワンランク上に設定した高町なのはを倒し切ったその手法……。高町なのはの戦闘スタイルならば、いかに成長しようとも今のシミュレーションの対処法を徹底することで問題なく倒し切れる。よく頑張ったわね』
「うん、母さん。……私、上手にできたんだよね?」
『ええ、とても。リニスが見ていたら大喜びよ』
食事を始めとした身の回りの世話係であり母親のように自らを育ててくれたリニス、厳しい魔法の先生でもあった教育係のリニスが褒めてくれる。フェイトは、その光景を想像するだけで心が少し軽くなった。
「よかった……」
体が軽くなった気がしてフェイトは上体を起こす。仮想マシンにおける単なる数値上の設定、脳を刺激する電気信号による錯覚でしかないはずなのに、酸欠の症状が抜けきらない。苦しさが抜けないけど、これ以上、母プレシアの前で情けない姿を晒しているわけにもいかない。落ち着きを取り戻した呼吸が肺に満ちる。
『でも、ひとつ』
しかし取り繕った呼吸が詰まるような、プレシアの平坦な声が耳に入った。
『戦闘開始から733秒時点。砲撃魔法を潜り抜けて懐に飛び込んだのに、勝利をモノにできる完璧なタイミングで飛び込んだのに。貴女の攻撃にはタイムラグがあった』
覚えている。
高町なのはが砲撃魔法に踏み切ろうとした瞬間。ココしかないというタイミングで発動した超高速移動魔法≪ブリッツアクション≫で無防備の懐へ飛び込むことに成功した、その時の事……。
『なぜ躊躇ったの?』
核心を突かれて、フェイトは息が詰まった。
躊躇った。
その通りだった。
理由はバルディッシュの設定変更。
デバイスには非殺傷設定という既定プログラムが設定されている。第一管理世界≪ミッドチルダ≫の法的拘束力を伴うデバイスの必須設定、魔力に指向性を持たせることにより人体への損傷を魔力の源≪リンカーコア≫へ転写するプログラム。神経系へのショックによる対象の無力化、肉体への損傷を抑えた血を見ない争いの技術が行きついた規定プログラム。
その変更。
つまりバルディッシュに施されたのは、規定プログラムの撤廃――殺傷設定への変更だった。
『殺傷設定の理由、忘れてはいないでしょうね』
「時空管理局が、来たから……」
だからこその殺傷設定だと、フェイトは理解していた。
プレシアは大きく頷いた。
『フェイト、先日貴女がジュエルシードの封印を行った地点に複数の魔導士が現れた。発現した探査系の魔法から察するに貴女の追跡目的でね。……そんな勢力を私は知っている。裏付けも取れている。魔導士らの帰還先を探知した結果、次元空間に停泊した≪次元航行部隊≫所属の戦艦を補足した……」
時空管理局エキスパート部隊≪次元航行部隊≫。
高度な戦闘能力を備えた魔導士で構成されたエリート部隊であり、時空管理局執務官という高ランク魔導士がそれを率いるとリニスから教わったことがある。フェイトは母に認められた自身の実力を疑うわけではないが、執務官の実力は自分と同等以上であると想定しておくべきと判断する。
「それが高町――白い魔導士と通じ合っているんだよね」
『ええ、ほぼ間違いなく』
高町なのはの隠しもしない強力な魔力反応を考えれば、第97管理外世界に来訪した時点で接触していないわけがない。加えて、彼女らの反応に変わりがない――魔力を隠しもしない――ことから時空管理局と敵対関係であるわけがない、と。そんなことはフェイトにも想定できた。
当然、それ以上に重要な点がある。
「母さんの敵、なんだよね……」
『ええ、疑う余地もなく』
時空管理局には、プレシアが高町なのは以上の警戒心を向けていることから、フェイトとしても気持ちを引き締めねばならないという重い理解があった。
『だからこそ、使えるモノはなんでも使う気概が必要なのよ』
だからこそ、プレシアの言うところがフェイトにはきちんと理解できた。
一対多、数で劣る自分がジュエルシードを強奪するために必要なモノが武力であること。敵の継戦能力を確実に奪い去り、冷徹で残忍な血を見せる武力。それさえあれば目的を果たすための手段の幅が広がるのだから。
頭で。理性で。論理的に理解できるけど……生の感覚が抜けない。高町なのはのホログラムを相手に、バルディッシュを振り切った時の、背筋を這いずり回る怖気が手に残っていたから、フェイトは口を開いた。
けれど。
『慣れなさい』
見上げた先から、穏やかな瞳が覗いていたから。
フェイトは微笑み返した。
言葉を飲み込んだ。
◇
「フェイト、ごはん持ってきたよー」
アルフの声にフェイトは我に返る。確か朝食は摂ったはずだと時計を仰いでみたら、時刻は十二時を過ぎていた。睡眠をとるわけでもなくぼんやりと過ごしてしまったことに意味もなく焦燥感を覚えて、フェイトは起き上がる。
するとベッドサイドにトレーが置かれた。
「叱られたのかい?」
アルフのそれが何を指すのか。
逡巡の後にフェイトは思い至る。
「ううん、優しくしてくれたよ」
プレシアによる戦技指導を受けてから四時間弱。ぼんやりと過ごしていたことを心配してのことだろうと。アルフは疑るように眉をしかめたから、フェイトは「ホントだよ」と微笑んでから食事を手元に寄せる。気は進まない、空腹ではないが“食事は三食摂るように”というプレシアとの約束があったから。
「アルフは食べないの?」
「アタシはこっち」
アルフは脇に挟んでいたシリアル食品の箱を取り出して、その中身を無造作に掴み取った。バリバリとよくよく見ればそれはドッグフード、アルフのお気に入りだった。
「今日は一日休むように言われたんだろ。どっか出かけないのかい? 商店街の肉屋とか、メシ屋とか」
「拠点で休んでるよ。
「あのヒトから魔力隠蔽用のデバイスプログラムも貰ってるんだろ? 感づかれる心配はないよ」
「でも、特に行きたいところもないし……」
体を休めること。目的のためにはそれが一番だとも考えてフェイトはフォークを握る。トレーの上にはコンビニ弁当と、三枚の小皿――それぞれ色の違う野菜類――が配膳されていた。相変わらず、アルフは食事になると特に神経を使う。
けれど、アルフはドッグフードの箱をベッドサイドにおいていた。一緒に食べないのかと見上げると、アルフはとぼけるように斜め上に視線を這わせていた。
「あー、アタシ今日はちょっとヨージがあったんだー」
お尻から生え出た尻尾が緊張を知らせるようにピンと強張っていて、アルフはポケットから何かを取り出すとそれを体で隠すようにガサガサと広げていた。
「ちょっと出てくるよー」
部屋を出ていこうとしたアルフは、たぶん自然に落としたふうを装いたかったのだろう。手を開いて落としたチラシが床に着地したのをじっと確認してから、そそくさと出て行ってしまった。
「どうしたんだろ……?」
たぶん見てほしかったのだろうから、フェイトはチラシを拾い上げる。
淡白なチラシだった。水に濡れたらすぐにインクが溶けてしまうような安物の紙に、モノクロで印刷された文字と簡素なイラスト。ご丁寧に異国の文章を翻訳する魔法がかけられていた。
『BAR シティ・セブン≪サタデーナイト・ライブ≫のお知らせ』。
見出しには丸っこい文字でそう記されていた。視線を下へ滑らせると出演者バンドという見出しにバンド名やら個人名やらが並んでいた。その中に、耳にしたことのある名があった。
「――……熱気バサラ」
◇
その日の18時半。フェイトはサブマリンストリートの端にあるBAR≪シティ・セブン≫に辿り着いたのだが、店に近づくことを躊躇い、通りの向かい側から眺めていた。
お酒を置いている店だということはわかる。BARとはそういうものだから。しかし実際に店に入っていくのは若々しい女性。フェイトよりも少し年上程度の女の子がほとんどで、フェイトはそういう場に足を踏み入れるのはなんだか気が引けた。
「せっかく来たんだし……」
同時にアルフの好意を無駄にするのも良くないと思い込んで、≪OPEN≫のプレートがかけられた、赤茶けた木製の扉の前に立つ。アンティーク調のドアノブは所々メッキが剥げているが、みすぼらしいとは思えなかった。模様のひとつひとつを指で撫でたくなるような味があった。フェイトは思わず手を伸ばしていた。
けれど、店内から賑やかな声が聞こえて我に返る。その場に、自分が割り込むのはいけないことだと感じて、フェイトは伸ばした手を引っ込める。
「開かねぇのか?」
すると若い男の、ぶっきらぼうな声が背中にかかった。フェイトは覚えがある声に体が固まるのを自覚し、恐々と振り向く。丸眼鏡の奥に除く瞳に自身が映っていてた。
フェイトは視線から逃れるつもりで横に跳ぶ。それを道をあけたのだと勘違いしたのか、ギターケースを背負った丸眼鏡の男はドアノブに手をかけた。スムーズに扉が開くと、カランと耳に慣れない鐘の音が鳴った。
「なんだ、開いてるじゃねぇか」
フェイトの脳裏に、嵐の日に垣間見た男の瞳が浮かぶ。ジリジリと焼き付くような瞳、こわいと感じてしまう感覚を思い出すが、それとはあまりにもかけ離れた瞳がそこにはあった。
熱気バサラ。
そう呼ばれる男が、目の前にいた。
「入らねぇのか?」
まるで寝起きの子供のような瞳と再び目が合う。フェイトは緊張が解れたような脱力感を覚えて何かを言い返そうとした。しかし、その瞳にいつまたあの“こわい”感覚が宿るのかいたたまれなくなり、フェイトは路地へ逃げ込む。喧騒が遠ざかる。後ろに着いてくる足跡はない。
フェイトは足を止めて振り向くが、やはり人影はない。フェイトはなんだからがっかりしたような気持ちを抱くけれど、そのまま路地を進むことにした。
足が止まる。振り向いてしまう。
足が止まる。振り向いてしまう。
足が止まる。振り向いてしまう。
もやもやとした気持ちがそうさせたみたいで。そんな挙動不審を数度繰り返したのちに、人の気配をすぐ後ろに感じた。
「どうしたんだい」
なにもない座標にポンと点が出現したように。音もなく現れた声に、フェイトは咄嗟に三角の形状をした金色の装飾品――待機状態のバルディッシュを握りしめて振り向く。
時空管理局につけられたのならば即座に反撃できるように。
「道に迷ったのかな?」
しかし、そこに立っていたのは青年だった。
二十代の若い男、スポーツドリンクを持ったジャージ姿の爽やかな青年。柔らかいまなざしと、そこに映る屈託のない既視感のある光が印象的だった。
魔力のない現地住民。それがわかって、フェイトはどうすればいいか迷った末に頷く。穏便に事を済ませて拠点に戻るためにはそういうことにしておいた方がよさそうだったから。
すると青年は視線を落とした後で大きく頷いた。なぜそれほどに満足気なのか、フェイトは尋ねたい気持ちを我慢するが。
「さては≪ジャミングバーズ≫目当てだな」
聞き覚えのないワードに、やはり首を傾げてしまった。
妨害の棒、それとも鳥? どういうものだろうかと想像しかけて、そういえばと青年の視線を追ってみる。その先、自身の手に握られたチラシをそっと見ると≪ジャミングバーズ≫という文字がでかでかと載っていた。
青年はどこか嬉しそうだった。暖かいまなざしだった。それは教育係のリニスのようであり、記憶の中の母の表情に似ていた。
「この路地を出てすぐ右手がBAR≪シティ・セブン≫だ。店内奥の階段を下れば会場があるから、その入り口で入場料を払えばいい」
もしも兄か姉がいたらこんなふうに助けてくれるんだろうな、と。ありもしない想像をしてみて小さく頭を振る。そんな優しさは必要ないから。
――――違うよ。
言葉が口の中で木霊する、それが音になっていないことにフェイトは気が付く。もう一度それを言葉にするのも、青年の親切を貶めるのも気が引けて、頷くことにした。
そのまま逃げるつもりで来た道を戻ると、再びBAR≪シティ・セブン≫の扉の前に戻って来てしまった。どうしようか考えていると、女学生グループが順番待ちでもするように背後で足を止めた。扉が開くのを待っている、そういう圧迫感が背中を押した。
だからフェイトは急いで扉を開けて、身を滑り込ませた。
そんなつもりはなかったのに……。
――――――――――――――――
なのはは携帯電話を開く。
17時33分、家の前に車が止まった時刻を確認してほっと胸をなでおろす。ライブの開始時刻には間に合いそうだったから。
すると運転席の窓が開いて、隣に立っていた父の士郎が手を挙げた。
「忍さん、今日はよろしく頼むよ」
「ええ、任せてください」
車から顔を出したのはすずかの姉、月村忍。
これから向かうのはBAR≪シティ・セブン≫、今夜18時開催のライブイベントだ。なのはに許された門限ちょうどに開催されるため、士郎は当初反対の意を示したのだ。子供だけで夜の外出は危ないということで、なのははどうしたらいいかとアリサたちに相談した結果、引率役として抜擢されたのが忍だった。
「初代クレスタとは渋いねぇ、おじさん世代の憧れだよ」
「中身は違いますけどね。2JZエンジン積んで、電気回路も一新して――」
「あら、エンジン変えちゃったの? もったいないなぁ、あの音がいいのに」
車談義に花を咲かせているところに割り込むのは気が引けたけれど、話が長引きすぎるのは困るので、なのはもまた父に倣って頭を下げる。
「こんばんは。今日はよろしくお願いします、忍さん」
「今晩は、なのはちゃん。さぁ、乗った乗った」
促されるままに後部座席に載りこむ。隣には朱色のサロペット姿のアリサがいて、助手席からは白を基調としたワンピース姿のすずかが微笑みで迎えてくれた。
外の雑談が止むと、エンジンが音を上げて発進する。騒音というにはあまりにも控え目であったけれど、月村家の高級車とは比較にもならない騒々しさだった。反して、車内の振動は小さい。それもまた高級車と比較すべきではないのだけれどエンジン音ほど気にはならなかった。
「うん、思った以上ね。いいじゃない、なのは」
「すごく似合ってるよ、なのはちゃん」
「えへへ、ありがとう……」
「初めてのバサラさんのライブなんだから、やっぱりオシャレしないとね」
「いや、意味わかんないし」
「にゃ、にゃはは……。でも私、ライブ観に行くのって初めてなんだ」
「あたしも。アメフトのハーフタイムショーとかでしか観たことないわ。一応サイリウム買ってきたけど、こういうのって持ってかなくちゃいけないの?」
「義務じゃないけど、あると楽しいと思うよ」
「ふーん、すずかは経験あるんだ」
「うん三回ほど。最近、お姉ちゃんに連れてってもらうようになったんだよ」
尽きない話題を重ねているうちに車は街中へ入り、サブマリンストリートに差し掛かったあたりの路肩に停車する。東京なんかでは車の駐車スペースにお金を払わなければならないというけれど、海鳴市はまだまだ田舎のようだった。
サブマリンストリートの端には珍しく人通りがあった。日頃はまばらなそこには、学校帰りというわけでもないの忍ほどの年頃の女の子がわらわらと駅の方向からやってくる。それがBAR≪シティ・セブン≫に吸い込まれていくようであったものだから、すずかとアリサは目を丸くしているようであった。
「女のヒト、多いんだね」
「……ひょっとして、アイツって人気あるの?」
団扇やタオルなどの応援グッズを身に着けて店内に入っていく人々、色紙やカメラを構えて通りから店を伺う人々。その誰もが本日開催されるライブを目的としてきたのだろうから。
しかしそれらのグッズにプリントされた文字やイラストから、なのはは人々の関心がどこに集まっているかは理解していた。
「今日は≪ハミングバーズ≫が来るからじゃないかな」
「なにそれ?」
「夕方のニュースで歌ってるグループだよ、結構有名なんだよ」
「確か去年≪うたうま≫に出演してから人気が出始めたんだよね」
すずかが関心をもって応えるのとは対照的にアリサは「へぇ」と一息つくように頷いた。そのまま≪シティ・セブン≫の店内に足を進める。
一階のBARもまた中高生から大学生ぐらいの女の子が、それぞれのテーブルで飲み物片手にライブの開催を待っているようだった。耳を澄ませなくとも聞こえてくる会話は ≪ハミングバーズ≫に関わるものだった。
「まっ、あんなデリカシーのない男が女受けするわけないか。で、アイツの出番はいつ?」
「『バサラさん』でしょ。失礼だよ、アリサちゃん」
アリサは店内に掲示されたプログラムを眺めた。
なのはもそれを確認したかったが、耳を掠めた忍の小さな笑い声の方が気になった。
「どうしたんですか」
「アリサちゃんの気持ちわかるなぁって。なんだか懐かしくなっちゃって」
「忍さんも、お兄ちゃんと一緒でバサラさんと同級生なんですよね」
「学校は違ったけどね。恭也から聞いたの?」
「いえ、すずかちゃんから。お兄ちゃん、バサラさんのことなんだか訊かれたくないようだったから」
春先に届いた国際手紙のことをもう一度訪ねようとしたけど、特訓に出るとかなんとかで逃げられてしまって。日常会話の最中でさえ、バサラのバの字が会話に登場するとあからさまに警戒心を見せるものだから。そういうことだろうとなのはは察していた。
すると忍は口の中で笑った。
「きっと照れているのね」
「照れ……?」
「そのうちわかるわ。……そうでなければ、たぶん嫉妬してるんじゃないかしら。なのはちゃんをバサラに取られちゃうんじゃないかって」
「お兄ちゃんまで、すずかちゃんみたいに……」
「すずかの熱っぽさとは違うのよ。恭也のはもっと陰険で……無自覚」
まるで慈しむような表情の忍。褒めているわけではない口ぶりとは真逆のそれに、なのはは「どういうこと」と首を傾げる。
「例えば、想像してみて。なのはちゃんがサブマリンストリートを歩いていて、たまたま見かけたアリサちゃんが、知らないお友達と手をつないで楽しそうにおしゃべりしてるの」
それは想像に難い状況だった。
アリサは同性のなのはからみても飛びぬけて可愛い。白い肌に黄金の髪の毛、まるで黄金比のように整った面持ちは美しいというべきだろう。しかも文武両道で勇ましい性格、クラスメイトからはよく頼られはするものの一目置かれるような孤高の存在でもあった。
アリサはそういう関係を学校内だけで完結させようとする節があった、そのアリサが顔も名前も知らない同年代の女の子と歩いている……考え辛い状況だった。
なのはは、張り出されたプログラムを確認するアリサとすずかに目を向けて、すずかの立ち位置に別の誰かを置き換えてみる――――。
「想像、できました……」
「そのアリサちゃんが、なのはちゃんに向けるような笑顔で、でも時々、なのはちゃんが見たこともないような微笑みを見せるの。とっても嬉しそうに。―――――どう思った?」
靄がかかった黒い影に微笑みかけるアリサの姿。つい頼みごとをしたくなる眼差しが、悪戯っ子のように細まるだけでなく、もっと無邪気に微笑む姿――。頭に過ぎった想像は、受け入れがたいモノだった。
「ちょっと、寂しいです……」
「恭也は、今のなのはちゃんと同じ気持ちを抱きたくないのかもしれないわね、本人に自覚はないでしょうけど」
「そういうものなんですか……」
独占欲。お昼のテレビドラマなんかで起きる愛憎のもつれの原因かな、と。なのはは真っ先にそんなイメージに行き当たる。それがそのまま兄の恭也に当てはまるとは考えられないが。
「気になるなら、この後本人に訊いてみるといいかもね」
「はい。……はい?」
まるでこの後すぐに会えるかのような物言い。なのははどういうことかと忍を見上げてみるが、彼女は「ほら」と戻ってきたアリサたちへと目をやっていた。
「なのはちゃん、バサラさんの出番は一時間後だって」
「それまではライブを楽しむことにするわ」
「それ以降は楽しまないの……?」
アリサはフンと鼻を鳴らした。
◇
「すごーい!」
演奏がまたひとつ終わり、ステージ上のバンドグループになのはは惜しみない拍手を送る。遅れて周囲からもまばらな歓声とパチパチとした拍手が上がった。
がんばって演奏した人たちに対して盛り上がりに欠ける気がするけれど、会場内の人たちは≪ハミングバーズ≫目当てなのだからそういうものなのかな、と。なのはは小さな不満を飲み込むことにした。
ライブハウスの音響空間はやはりすごいとなのははホール内を見回す。ステージの両脇には大型スピーカーが設置されており、ビブラートの効いた歌声を漏らすことなく放出してくれる。拡声されたサウンドを余すところなくホール内に響かせるホール内の壁。視覚的な楽しみをもたらす色彩豊かな照明の数々は、演奏の浮沈をより際立たせるように点滅し軌道を描いたのだから。
「うん! すごかったね!」
すずかもまた興奮冷めやらぬ様子で両手のサイリウムを揺すっている。途切れ途切れの呼吸に、体はまだリズムを刻んでいるようだった。こんなにはしゃぐすずかは初めて見た、と。なのはも大きく頷き返す。
「んで、次ね」
アリサはすでに次のステージを眺めていた。
つられてなのはも顔を上げる。
退出していくグループと入れ替わりに、ノースリーブのステージ衣装に身を包みエレキギターを下げた男が悠然と出てきた。
「バサラさん!」
パチパチと控えめな拍手がバサラを迎える。それがなんだか許せなくて、なのはは目いっぱいの拍手を送るが、別段ホールを盛り上げるには至らなかった。拍手が止み、なのはは力不足を申し訳なく思いつつステージを見上げる。バサラさんががっかりしていたら声援を送ろう、と。
けれど、バサラは動じてなどいなかった。
スタンドに固定されたマイクに手をかけたバサラと目が合った。背が低いために人ごみに紛れてしまい、ステージ上から探し出すのはとても難しいはずなのに。なのはは、はっきりとそう認識する。バサラと目が合ったのだと。
混じり気のない真白の光を宿した瞳が、自身を見つめていた。一本の剣にも似た眼差しに、なのはは思わず後ずさってしまう。
「ハートをビンビンにしてやるぜ」
恐れたからじゃない、踏みとどまるために。熱気バサラの、ひたすらに真っ直ぐで開かれた眼差し――――太陽のように眩しいのに、ブラックホールのような強烈な引力を発するそれに引きずり込まれないよう踏ん張るためだった。
しかし、その瞳の意図がわからなかった。威嚇されているわけではないから怖くない。嬉しいとか悲しいという正負の感覚も強く感じられないが、無感動というわけでもない。
しかし、はっきりとわかることはあった。熱を感じる。磨きぬかれた鏡面のような瞳には自分が映っていて、胸の奥の感覚が煮えるような熱だけがはっきりと感じられた。
だから、なのはは真っすぐに見つめ返す。
その瞳から溢れる全てを受け漏らさないために。意図は読めない。けれどはっきりと感じられる熱気だけは真実なのだから。そのハートには応えたい。だから、真剣に見つめ返した。
すると、バサラは口角を釣り上げた。
胸の奥に火が付いた。無邪気な喜びの色がそこに現れ、マイクを握る手に力がこもるのが見て取れた。
「いくぜ、≪Power To The Dream≫!」
◇
なのはは、一つ目のサビを超えたあたりでわき腹に違和感を覚える。肘で小突かれたようだった。いいところなのに、と。若干の不満を込めてステージから目を離すと、そこにいたのはアリサだった。
「な、なのは……」
アリサの様子がおかしかった。これは震え、口元を押さえていて、肩は小刻みに震えている。顔色も真っ赤で熱があるようだった。
「ど、どうした!? アリサちゃん!」
「なのは、ホントごめんね。……いいとこなのに」
「具合悪いの!? お医者さん呼ぼうか……?」
「今になって、きっ、気付いたのっ……。あのドラムのヒトっ」
「ドラム……?」
アリサが指さした先はバサラが演奏中のステージ。なのはは自分よりも背の高い人垣の隙間からステージを眺める。ギターを弾くバサラがいて、ショルダーキーボードを弾くBAR≪シティ・セブン≫のマスターであるレイがいて、その奥にはドラムセットが鎮座している。
なのはは背伸びをして凝視するが、角度が悪いのかよく伺えない。人垣の隙間を探して背伸びとジャンプを繰り返す。
ドラムセットには黒い髪の青年が座っているようだった。二十代に差し掛かるかという爽やかな青年が、音に身体を預けるように全身を揺すり、ビジュアル系バンドマンさながらに汗を光らせていた。
なのははようやく人垣に邪魔されることなくステージを眺められるポイントを見つけてもう一度目を凝らす。そして、アリサの異常の意味が理解できた。
アリサは大爆笑していたのだ。
なのはは眩暈に襲われながらもステージから目を離せなかった。
「お、お兄ちゃん……?」
なぜなら、熱気バサラのロックバンド、そのドラムを担当しているのは兄――――高町恭也だったのだから。
放心していた――のだろう。
いつの間にか演奏が終わってしまう、観客がステージに詰め寄るように喝采を上げていた。それにバサラたちが手を振って応えていた。恭也は忍に向けてだろう、視線を送り手を振っていたが、その勢いが段々と削がれていく。
目が合ったからだ。
なのはは、恭也と目が合って、恭也の表情が愕然としたものに変わっていく。そして逃げるように控室への扉へ飛び込んでいった。間もなくして、ステージから離れたところの非常口が開くと、恭也が血相を抱えて出てきた。
「おい、どういうことだっ! 忍!」
恭也は真っ先に忍へと詰め寄った
なんで言ってくれなかったんだ。いいサプライズでしょ。馬鹿を言うな。でも嬉しいんでしょ――――などなど、言いたいことを一通り言い切った後で、やっとなのはは恭也と向き合えた。
「き、来ていたのか……なのは……」
脂汗がありありと見て取れた。
なのはは迷った。素直に頷いていいものか迷うけれど、現行犯を目の当たりにした警察がとぼける余地がないように、妹として兄の晴れ舞台を目の当たりにした以上、頷かないわけにはいかなかった。
「う、うん」
「み、観ていたんだよな?」
「…………うん」
「そうだよなぁ……」
はぁ、と。恭也の肩の力が露骨に抜けた。虚し気に天井を見上げていたものだから、気分でも悪いのかとなのはがその背中をさすろうとした矢先のこと。
「――――お、お兄ちゃん!?」
ガクンと恭也の頭が前のめりに沈んだのだ。
――――ぐあぁああああぁぁぁ。
などと、そんな声が聴こえてきそうなほどに腰を折っていた。握りしめた手はギリギリと革のベルトが引き絞られたような悲鳴を上げていた。
「すごいことになってるよ、なのはちゃん」
「にゃ、にゃはは。……どうしよう?」
「とりあえず褒めてみたら? 男なんてそんなもんだって美由希さん言ってたし」
「ウソだよね、アリサちゃん!?」
ウソかホントかもわからないウソはやめてほしいのだけれど、アリサははっきり頷いたかわからない様子で腕を組んだ。姉の美由希ならばそんなことを口走りそうではあったけれど、やはりなのはには真偽の判断がつかなかった……。
ともかく事を納めなければとなのはは恭也の背に手を添える。
「なのは」
ホール内に充満する歓声の下に滑り込むような低い声に次いで、なのはは肩を掴まれる。恭也の得も言えぬ羞恥心を浮かべた面持ちがなのはの視界を埋める。
「父さんたちには内緒だぞ。無論、美由希にも」
なのはは反射的に頷く。
未知との遭遇にも匹敵する恭也の形相は脂汗にまみれていたが、恭也はほっと胸をなでおろす――とまではいかないが、ほのかな安堵からか深い息を吐いた。
なんとなく、その気持ちには共感できた。
なのはとて歌詞を綴ったノートが家族に見られてしまったのなら、兄の恭也と似たような反応をするだろうから。せめてその気持ちを和らげたいと思い、なのははいつになく浮足立った恭也を見上げる。
「お兄ちゃん、カッコよかった。……すごい演奏だったよ」
やはり恭也は頷きはしなかった。
しかし羞恥心が薄れたのか「そうか」と口元に笑みを浮かべた。しかし、その体が背中を小突かれたように揺れると控え目な女の子の声が恭也の向こうから上がった。恭也はそちらに振り向いた。
「あぁ、さっきの……。どうだ、楽しかったか?」
「……はい。とても楽しかったです」
細くて消えそうな声だった。声変わり前だと思う、小学生ぐらいの女の子の声が聞こえた。誰だろう、知っている子かな、と。なのははしばらくそのやり取りを眺めたのちに恭也の後ろから顔を出す。
目に映ったのは黄色。既視感のあるしとやかな黄色で、左右で結んだ長髪が揺らめいた。胸の奥が痛むほどに、透明な瞳がそこにはあった。
なのはは唾を飲み込む。
「フェイト、ちゃん……⁉」
フェイト・テスタロッサ。
叱られているように縮こまった姿の、追い求めた彼女がそこにいた。
なぜ、どうして、なんで今なの、と。いくらかの疑念が浮かぶが、フェイトがしまったと目の色を変えた。走り出していた。人ごみの隙間に身をねじ込み、掻きわけて逃げていく……。
「フェイトちゃんっ!」
だからなのはも走り出した。後ろから恭也の声がしたけれど、気にしていられなかった。
ホールから飛び出し、店の扉を押し開けて、路地裏へ飛び込むように逃げていくフェイトを追った。足の速さはそれほど変わらないようだった。街中と住宅街の間、暗くも明るくもない道路をかけていくけれど、それも長くは続かなかった。
街中の公園にフェイトが飛び込んだ。というのも公園の出入り口、車両の進入を防ぐなのはの腰ほどの高さのフェンスを、フェイトはハードル越えの要領で飛び越えていったからだ。
――――このままじゃ追いつけなくなる。
少しでも時間のロスがあれば間違いなく。そう思ったなのはも、フェンスを前に速度を落とさず、同じように右足を膝を曲げずに上げてから左足を踏み切る。
右足がフェンスを越える。
飛び越えられると確信して視線を前に向ける。フェイトの後姿を捉えた――――かと思うと、彼女の姿が空と一緒にぐわんと暗転した。
「ぎゃふん」
そんな間抜けな声が自分の口から漏れた。ジャリジャリと公園の砂が音を上げる――――転んだのだ。奥歯を噛みしめる、目に涙が溜まる。額に生じた痛みが全身の神経にまで広がっているようだった。
両手をついて上体を起こす。周りに足音は聞こえない。
「……また、逃げられちゃった」
フェイトを見失った。
えぐれた地面を見下ろして実感がこみ上げる。もう会えるチャンスがあるかもわからないのに、と。苦手でももっと運動を頑張っておくべきだったと悔しさがこみ上げる。
砂利を踏みしめる音が近づいてくる。誰か街の人に見られてしまったのかと、なのはは慌てて涙を拭う。単に転んだだけだと言い張るために。しかし、なのはは顔を上げてみてその心配はなくなった。
「――……大丈夫?」
フェイトに会うチャンスを失ったわけではなかったのだと。
小さい声、差し出された小さい綺麗な手。顔を上げた先で見下ろすフェイトの姿に、なのははもう一度涙を拭い、差し出された手を握り返す。
初めて、フェイトの体温を感じた。