魔法少女リリカルなのはS.F.~お前にラブハート~ 作:どめすと
私は夢に生きている。
将来の事じゃない。
眠りについた時に見る夢。
思い出のリフレインの中に私は在る。
夢に見る、思い出の中に燦然と輝く日々が好きだ。
できたての湯気立つ朝食の向こうに座る母さん。ありったけのクレヨンで描き殴ったぐちゃまぜの絵を、目を丸くしてのぞき込む母さん。手入れの行き届いた庭園を駆けて振り向けば、微笑みと共に手を振ってくれた母さん……。目を覚ませば、いつもそこに母さんがいる。私は母さんと過ごす時間が好きだ。
中でも、母さんと一緒に大きな木の下で読む絵本の時間が、私は大好きだった。
『それじゃあ、始めるわね』
頭の上から注ぐ母さんの声に胸が弾み、木漏れ日の下に広げられた絵本をじっと見つめる。
≪海のこころ≫。
丸っこい文字でそんなタイトルが記された表紙をせかせかと開く。
『海はとっても広いのです――――』
当時の私には絵本のタイトルの意味はわからなかったけれど、音の響きが理由もなく好きだった事をよく覚えている。
私は母さんの腕の中で、母さんと一緒になって広げた絵本を楽しんだ。
色々な生き物が住んでいる海。魚だけじゃなくて犬や猫も、鳥や虫達、それに私たち人間。たくさんの生き物が描かれた絵本を、母さんの声に包まれて楽しんだ。
『海の心は、星の心。海はとっても優しいのです』
だけど、好きになれないページがあった。
『星の誰かの
怖い海、暗くてぐるぐると荒れる嵐の海が描かれたページ。みんなが悲しい顔をしているページ……。
悲しみで止まった世界は嫌だから、母さんの声が文字を読み終えるよりも先に私は次のページをめくっていた。
『みんなの気持ちが、海と空の源なのです』
そして飛び込んできた暖色の空。夕焼けに彩られた海で、星の生き物が踊っている。手をつないで、大きく口を開けて笑っている見開きの一ページ。
このページが私は大好きだ。喜びの瞬間で止まった時間、悲しみの瞬間が訪れることのない永遠に静止した世界。
『星のみんなの
悲しい事も辛い出来事もない世界を、羨ましく思う。母さんの優しさを感じられる時間が永遠であればいいと、私は羨ましく思う。
『海の心は星の心、星の心はみんなの心。さぁ、今日はどんな海が見られるのかな』
現実の私は願い、望んでいる。
◇
「――――……いッ!」
覗き込んだ穴から強烈な光が発せられたように視界がままならない。脳の奥底を金槌で打ち付けられたような激痛と衝撃から、フェイトは被弾を自覚してすかさず体勢を立て直す。
次いで迫りくる魔力弾を霞んだ視界に捉えて、右方向に推力を噴射して側転。紙一重の回避に成功する。
――――一瞬、気を失ってた……。
フェイトは束の間の幻を振り払い、バルディッシュを握る手に力を籠める。思うように力が入らない体の痺れ、体調の不良を思い出す。崩れた姿勢を立て直す。途切れかけた集中力を繋ぎ直す。弾幕の中に見失いかけた敵を探し出す――――忘れかけていた怒りを思い出す。
「なんで、戦わない……!」
後退と牽制射撃を繰り返す高町なのはを睨みつけて、重い体を目一杯に加速。意志を持って飛び交う魔力弾、その中を突き進む。
「どうした、高町なのは! 逃げるばかりで!」
もう一度ぶつかろう、と。決着を匂わせておいて、戦いの場まで指定しておきながら、なぜ弱みに付け込まないのか。なぜ気を失った隙を撃たない、なぜ戦おうとしないのか。
高町なのはは再度魔力弾を形成するが、所詮は豆鉄砲。痛いだけでいくら受けても問題にならないと、フェイトは直進を選択。強がりを通す。
直後、射出された魔力弾。
ぼやけた視界に散らばる光、それは夜空に散らばった星々の輝きに似ていた。
だからこそわかる。
魔力弾一つ一つの軌道は追えないけれど、一つの集合として視える。星空に伺える偏り――弾幕の中にぽっかりと空いた隙間が視えるから、フェイトは魔力刃を展開したバルディッシュを肩に担いで加速。
「……斬る」
風に置いていかれる呟きは宣言。
白いバリアジャケットを裂いて、その下にある肉を断つ。脳裏にありありと思い浮かぶ赤い光景。シミュレーションで幾度となく繰り返した結果。
――――よくやったわね、フェイト。
思い返すのは、訓練後に迎えてくれるモニター越しの母親。思い出に観る柔らかさには届かない、微笑みに似ているだけのどこかぎこちない表情。
……でも喜んでくれるから。
「できる……!」
思考が定まる。
理性が覚悟を決める。
間合いに、入った。
バルデッシュを握り締める。
滑り落ちないように。
しがみつくつもりで。
「ふっ――――」
腹の奥から力を引き出す。
担いだバルデッシュを突進の勢いに乗せて振りかぶろうと肩甲骨が始動、肘が前進を始める。魔力刃が振り降ろしの初速に乗り始める。敵を睨みつけて――――。
「――――――っ!」
フェイトは息を飲む。
正面、視界に飛び込んできたの高町なのはの表情に、息が詰まる。驚きと怯えに染まった、拳を振り上げられて竦む子供のような面持ちから。胸にこみ上げてくる悍ましい感覚から、フェイトは腕の脱力を覚える――――しかし。
――――……母さんの、為に!
しかし、思考で自制する。
躊躇いと感情を振り切り、バルデッシュを振り下ろす。
「うっ……!」
高町なのはは悲鳴を上げる。
けれど幸運にも、魔力刃はその掌に展開された防御魔法に阻まれる。フェイトは、喉の奥にまでこみ上げていた気持ち悪さが薄れた心地を覚えて、苛立つ。
「………どうしたッ」
体の反応が遅れた事、自分自身に対して声を荒げる。
けれど敵は目の前にいるから、フェイトは睨みつける。
「―――――どうしたッ! 高町なのは!」
「どうしちゃったの、フェイトちゃん……?」
「どうもしないッ!」
フェイトは何か核心を突かれた焦りに襲われて、体を動かす。鍔迫り合いに拮抗するバルデッシュを支点にした、体重を乗せた飛び蹴り。リニスの訓練で体が覚えた、咄嗟に出てしまった反射的な動作。
高町なのはは腕を折り畳み、鋭敏な反射神経でそれを防ぐ。
そしてあろうことか、蹴りの勢いをそのままに高町なのはが吹き飛んでいく……。
「しまった!」
高町なのはは蹴りの勢いを殺すのではなく、そのまま逃走への推力に変えて下降したのだ。海面付近まで落ちていった高町なのはは、飛行に専念する形に姿勢を正していた。
こちらの攻撃が距離を取る為のきっかけに使われてしまった、と。フェイトは頭を抱えたい衝動に駆られるが、それではジュエルシードが遠のくだけだと魔力刃を霧散させる。
「バルデッシュ! フォトンランサー連撃っ!」
海面すれすれを低空飛行する高町なのはを見下ろし、追撃をかける。
射撃魔法≪フォトンランサー≫の乱射による面制圧。
しかし、高町なのはは魔力弾一つひとつの軌道を予見しているかのように最小限の動きで回避していた。空戦で有利となる上空を確保して、背後を一方的に撃つという優勢でありながら、ただの一つも命中しない。
「どうして当たらないのっ!」
まともではない。
インテリジェンスデバイスによる軌道演算だけでは説明のつかない回避性能。迫りくる脅威を肌で感じ取っているのではないかという恐るべき天性の勘。
明らかに向上しつつある敵の集中力。
背筋に悪寒が走り、フェイトは射撃魔法の勢いを強める。バルデッシュの柄を両手で握り、高町なのはの背中を狙うが、照準はままならない。水飛沫が一層の激しさを増す、その直後の事。
『Attention.』
「――――えっ?」
どちらが先だったか。
絶え間ない連射音に紛れてバルディッシュが警戒音を発したとほぼ同時に、高町なのはの姿が水飛沫に覆い隠される。
フェイトは慌てて目下を注視して、事態の変化を認識する。
「なんの、つもりだっ」
高町なのはは、身を翻していた。
水飛沫の合間に伺える白い防護服、胸元の赤いリボンが風にはためいていた。低空飛行を続けながら、背中ではなく正面から見上げていた。さっきまでと違い、ただただこちらを見つめていたのだ。
何より目を引いた違いは――――。
「また、そんな目をしてっ……!」
何よりも目障りだったのは、鳴りを潜めたその瞳。
温泉地、山奥での戦い以来の、母との決別を予感させるストレートな眼差しを直視するや否や、フェイトは我が耳を疑った。
「〈レッツゴー つきぬけようぜ〉」
それは言葉ではなくメロディー。
高町なのはは、空気抵抗の増加による飛行速度の低下を修正することなく、歌を口ずさんでいた。面持ちは張り詰めている、勝負を捨てたわけではないようだが……。
ということは正面から撃ち合いをするということか、と。フェイトが察知すると同時に、高町なのはは体の周囲に魔力弾を展開する。
「〈おっれぇの歌をきけばぁ〉」
「馬鹿にしているの……?」
その言葉に応えるように、展開された魔力弾の合計三発が射出される。
感じられる力は小さい。そも大きさが違うのだ。これまで迎撃用に射出されたものの半分程度――ピンポン玉程度の大きさ――しかない。込められた魔力も見た目通りに弱々しい。
「馬鹿に、してるんだ……!」
戦う気がないのならば、と。
連射中のフォトンランサーの隙間をいとも簡単に抜けてきたそれらを目視して、フェイトは魔力弾の乱射を止める。
「バルディッシュっ!」
魔力刃を展開しつつ、掌に展開した防御壁で向かってくる魔力弾を全て叩き落として加速。掌に痺れが生じはしたが、フェイトは難なく高町なのはの懐に飛び込むことができた。
「やああぁぁッ!」
振りかぶったバルディッシュが、レイジングハートの柄に受け止められて金属音が弾ける。いつかのような鍔迫り合いの状況。
高町なのはの瞳がすぐ目の前にあったけれど、フェイトは目を逸らさない。もう、惑わされないと睨み返す。
「(簡単なことさぁ)」
「歌えば、私がひるむとでも思っているの……?」
ぐつぐつと沸きあがる苛立ちを力に変える。
腕に力を籠めて押し込むと、高町なのはの背中が海面へと接触する。摩擦の振動が腕に伝い、高町なのはの後ろから水飛沫が左右に広がる。
しかし、高町なのはは狼狽えない。
「〈ふたつのハートをクロスさせる なんて!〉」
「無防備を晒せば、油断するとでも思っているの……?」
腕の力、或いは飛行の出力をもう一段強めれば、高町なのはは海面との摩擦でクラッシュする。
例えバリアジャケットを纏おうとも、時速200kmを超える戦闘速度のままクラッシュしたなら致命的な傷を負う。致命的な隙を生む。とどめを刺すには充分な隙……。
高町なのはとてわからないわけではないはず。
だというのに、高町なのはは身をよじって脱出しようという素振りも見せず、迎撃用の魔力弾を展開するでもなく、ただ飛んでいた。じっと見つめてくる。まるで、そんなことをできるわけがないというような確信が瞳に現れているようで……。
「もう一度、躊躇うとでも思っているの……!」
勝てるのならば。
母さんの喜ぶ顔を見ることができるのならば、他の何を捨てても構わない。正しさとかだとか、自分の気持ちだって捨ててみせる。言葉を交わして、顔も名前も知っている同い歳ぐらいの女の子であろうと、躊躇わない。
――――嫌なことはちゃんと言わなきゃだめだよ。お母さんに、ちゃんと言わなくちゃ……。
言葉を交わした時、高町なのははそう言い切った。知ったふうな口をきいた。それこそが苦痛の元凶とでもいう風に言い切った高町なのはは、歌っていた。
「〈夜空を駆ける らぶはぁーと!〉」
苦しむことも悩むこともなく家族や友達に囲まれて……。幸せだから、偉そうな事が言える。
幸せだから、なんだって言葉にできると思っているんだ……。
その高町なのはが、反撃をするでもなく、ただただ歌うだけで。そのくせ表情だけは真剣なものだから――――。
「ふざけないでよっ!」
フェイトは自分の覚悟を嗤われた気がした。
飛行魔法の推力を背後から噴射する。高町なのはを海へ押し込む為に、腕の力を強めようと息を吸って――――それが、誤りだった。
『Flash Move.』
「なにっ!?」
力を発揮する直前の力の溜め。
押し付けていた力が緩んだ刹那の隙に。レイジングハートの電子音が鳴る。同時に、高町なのはの体はまるで磁力の斥力が生じたように翻身、フェイトと海面との間から抜けて上空へと跳び上がっていたのだ。
「しまっ――――ッ!」
次いで押し付けていたバルディッシュが勢い余って海面に接触。高速回転する車輪に袖を取られたかのように、体が腕ごと後方へ持っていかれる。それほどの摩擦を辛うじて耐える。
「〈悲しみと憎しみを 撃ち落としてゆけぇ!〉」
『Divine Shooter. Set up.』
「くっ……!」
飛行魔法のコントロールをバルディッシュに委ねることで辛うじて姿勢を維持するも、見上げた先、高町なのはの周囲には魔力弾が五つ展開されていた。
――――――不味いっ!
上を取られ、体勢を崩す。
以前の街中における戦いとは違う、勝負の流れを掴む初動の駆け引きで後れを取った程度とは違うのだ。精神的な動揺ではなく肉体への損傷。魔力弾の掃射を受け、海面へと
水飛沫。
飛散する水の一粒一粒が徐々に浮き上がっていくように鈍い。上から見下ろす高町なのはの唇の動きが妙にはっきりと目で追える。
―――――やられるッ!?
間延びした一秒にも満たない時間の中で、フェイトは避けようのない敗北を強烈に予感する、が。
「〈おまえの胸にも らぶはぁー!〉」
それは杞憂に終わった。
高町なのはは、先行していく。
射撃魔法を射出することもなく、フェイトを置き去りにするように高度を上げて先行していったのだ……。
「―――――なぜ?」
フェイトは充分な減速の後で海面から跳び上がり正面を見据える。射撃魔法を射出しないままに歌うことをやめた高町なのはは、数十メートル先の沖合に滞空していた。
「どうして、撃たないの……?」
勝ち負けを決する最大の好機を見逃したことへの疑問。尋ねる必要なんてないとわかっていながら、思わず漏れでてしまった言葉に、高町なのはは首を横に振った。
「戦うために、歌ったわけじゃないから」
高町なのはは、展開していた魔力弾を霧散させる。
デバイスを下ろしていた。
「自分のために口ずさんだの。フェイトちゃんの強い気持ちに負けそうだったから、私に勇気をくれる歌を口ずさんでみたの。そしたら、体が動いてくれた。気持ちが楽になったの」
「気持ちが、楽に……?」
何故か、羨ましく思えたその言葉。
すると、高町なのはは力強く微笑んだ。
「うん、だからもう迷わないよ」
地平線が見える広大な海を背負った高町なのはの瞳が、真っ直ぐに向かってくる。
「もう怖がらない、引き込まれない。私が私のまま、フェイトちゃんを引き寄せる。フェイトちゃんの気持ちに、私のままで――――私のハートを、正面から伝えるよ」
要領を得ない言葉。
だけど、その声も、その眼差しも真っ直ぐで。
「フェイトちゃんの為に、私、歌うよ」
フェイトは心の底から
いつかの嵐を前に、熱気バサラを見かけた時の怖気にも似た感情がこみ上げてくる。まるっきり嫌な感覚というわけではない。熱気バサラと同じだ。
「だけど、私には……」
心地よさをくれる存在はひとつだけ。母さんだけなんだ、と。
フェイトは眉を顰める。受入れ難い、拒否しなければならないと後退る。空に浮いていながら足がもつれそうになるけれど。
転びそうになった背中に圧を感じた。
「……風?」
風を、感じた。
嵐から隔絶された時封結界内部だというのに、風に背中を支えられる。退くなと妨げられる。両脇で結った髪の毛が突風になびく。雲が逆巻き、波が高さを増し、それらは次第に嵐の様相を呈してきて、感じ取る。
ジュエルシードの強大な波動、二つの反応が互いに反響し合うように高まっていく止揚の力。結界内部に充満した魔法の力と、どこからか入り込んできた分厚い雲が、遠く離れた海岸のある一点に吸い込まれていき―――。
「なっ―――――」
高町なのはの驚愕を容易に覆いつくす程の――――大気が張り裂ける轟音と共に、波が天を衝く程に打ち上がり、それは現れた。
「で、でっかい……!」
遠目でもわかってしまう程に。
雲を飲み込み、荒波を纏った山のような巨躯が海岸に聳える。懐に抱えられているのは、光を放つ板状のなにか。波と雲と風から生まれた怪物、その懐の光の板。それぞれが別々のジュエルシードから発生した暴走体であった。
その後姿に、フェイトは思わず口を開く。
「熱気、バサラ」
どうしてか、その姿が暴走体に重なる。どうしてか、時封結界内部にそんな感覚が広がる。嵐の日の衝撃が頭をもたげる、が。
「バ、バサラさんっ!?」
それを遮ったのは高町なのはだった。
暴走体が出現した方向とは真逆の沖合方向から、高町なのはが
無防備だった。
戦いの時とはまるで違う。大きな瞳を丸くして年相応におどおどしていて、けれど他のことなど目に入らないと懸命で、毒気を抜かれる。その姿を傷つけるのは何かが違うと思えて、フェイトはバルデッシュを握る力が抜けていくのを自覚する。
どう呼び止めようか迷った、どうやって戦いを続けようか考えてわからなくて、見送ろうとさえ思った。そうすることで気持ちが楽になると思った。
だけど……。
―――――これが最後のチャンスよ。高町なのはと戦い、勝ちなさい。
だけど。
それでいいのか不安だった。
見放されるのではないか、と。
「どうしよう……」
口の中で呟く。
このまま高町なのはを見送れば。
きっと、帰れなくなる。
戦いが打ち切られて決着がうやむやになったら、ジュエルシードは手に入らない。きっと、母さんは失望する。たぶん、もう褒めてはくれなくなる。もう、思い出の日々には帰れなくなる……。
「どうすればいいの……?」
このまま高町なのはを斬りつけてしまえば。
きっと、戻れなくなる。
シミュレータで繰り返した幻が現実のものになってしまう。拭っても拭っても、消えない感覚が手に染み付く。二度と忘れられない気持ち悪さを、抱えてしまう……。
―――――……私は、どうすればいいの。
気持ちと考えが一致しない。
視界がブレる。揺れる。回り、かき混ぜられるようだった。
内臓が別の生き物のように蠢きだす。肺が内側からパンクしそうで、逆流してくる圧に喉が詰まるようで息苦しい。ドクドクと速まっていく動悸に、全身から汗が吹き出る。
だというのに、寒い。
体の内側がすっぽり抜け落ちたように、寒くて震えてしまう。
何が正しいのかわからない。何を実行すべきなのがわからない。何を信じるべきかわからない。どうして私の周りには誰もいないの、と。フェイトは呆然と立ち尽くしてしまう。
そして、今まさに高町なのはとすれ違い―――――安堵した。
感じたからだ。
記憶の中、いつも寄り添ってくれた感覚の到来。現実の今、縋り付くべき寄る辺の到来に、フェイトは心の底から安心した……。
◇
暴走体の影響だろうか。
灰色の世界のままに。薄明の空、穏やかな海が広がっていた。
――――みんなの気持ちが、海と空の源なのです。
絵本の意味、≪海のこころ≫の意味が今ならわかる。
沖合に広がる海が、私の心を表してくれている。彩を抱くことのない凪の海が、私の心の現れだと理解できる。変わることのない平坦な光景こそが私の望みだと理解できる。
なぜならば。
「あの魔法……母さんの……」
暴走体の上空に次元跳躍魔法を示す強大な魔法陣が現れたのだから。
『フェイト』
母さんの声が、現れたのだから。
思念通話を通して伝わる、記憶の中と同じ柔らかい母さんの感覚に安心する。心が安らぐ。
「……やっぱり、来てくれたんだ」
来てくれると、信じていた。
辛い時はいつも傍に寄り添ってくれたその声。寒い時には包み込んでくれたその感覚。わからない時にはいつも叱りつけてくれたその魔力が、来てくれた。
『退がりなさい』
だから、その言葉は受け入れられない。
だって、それは母さんが本当に望んだことではないから。母さんの本当の気持ちではないから。――――だから。
「大丈夫だよ、母さん」
振り返る。
海を眺めるのではなく、敵の姿を見据える。私に、母さんを裏切るよう誑かそうと企んだ敵。私に、母さん以外の“なにか”を示そうとした高町なのはの小さな背中を、じっと見つめる。
「私は、もう昔の“私”じゃないから」
今の私は、母さんの優しさに甘えてばかりの“記憶の中の私”とは違うから。昔みたいに、辛がっている母さんの力になれなかった頃の“体験ある私”でもないから。
もう一度バルディッシュを握り締める。
海岸に残ったアルフもまた、私の思惑を察して動いてくれている。
「――――そうだ」
私が欲しいのは不安な未来じゃない。母さんとの思い出の日々……。そこに帰る為に、やるべきことは決まっていたのだから。
思い出さなきゃ。
もっと深い所に気持ちを沈めなきゃ……。母さんがくれる痛みは優しさで、それ以外は全部ウソ。体の痛みも、気持ちの辛さも全部が間違っている。私の考えも感じたことも全てがまやかしで――――もう、迷うことはない。
「……母さん、見ててね」
今度は迷わないように。
強く、血が滲むくらいにしっかりとバルディッシュを握り締める。リンカーコアの力を冷たく沈めて、鋭い刃に変えて、笑う。
「私、できるよ」
精一杯に。母さんに私の気持ちを伝える為に、笑う。母さんの為に何でもできると、わかってもらう為に、高町なのはの背中へと振り向く。
音を静めて。
息を潜めて。
心を沈めて。
暴走体上空、巨大な魔法陣を構成する母さんの魔力。紫電に込められたその意図を汲み取るつもりで――――私もバルデッシュを振り降ろす。
涙は、我慢した。
――――――――――――――――
神社に打ち付ける雨、木々を掻き分ける程の風も勢いを増していく。バサラが嵐の騒々しさをアラーム代わりに目を覚ましたのは、クロノが発ってから三分と経たない頃であった。
「……痛ぇじゃねぇか」
賽銭箱に腕をかけて体を起こす。背中を打ち付けたからだろう、体の節々の痛みよりも息苦しさが抜けない。ふらつくままに立ち上がる。
「おし、切れてねぇ」
見つめたギターは弦を含めて損傷はない。音程に狂いはあるがすぐに直せると、バサラは腰を落ち着けるべく賽銭箱を眺めるが「罰当たりだな」と濡れた階段に腰を下ろす。
すると、向日葵のような黄色がちらついた。
『やっぱり無事だった』
「よう、アリシア」
夢の外なのにどうした、と。
降り注ぐ雨の中に揺らめくことのない光の塊を見つめる。それがアリシア・テスタロッサの外形を模り、アリシアは子供特有の満面の笑みを浮かべた。
『バサラはすごいんだね』
「何が?」
『さっきの
「何を怖がんだよ。アイツは俺の歌を聴きに来たんだぜ?」
『でも、ケガしてるよ?』
「青アザは怪我の内に入らねぇよ」
メロディーを発する喉が潰れたわけでも、ペグを調整する為の指が折れたわけでもないのだから。バサラとしてはその程度の認識でしかなかった。
「そもそも、じゃれつく蛇を怖がる理由なんかねぇだろ」
更に言うなら、故意にやられたわけではないのだから。
大蛇は、暴れたくて暴れたわけじゃない。アレは身悶えしていただけ。初めての快感、得体の知れない高揚感にどうしていいかわからなかっただけなのだと、バサラは胸の奥の感覚で直感していた。
「それに、もっとデケェ奴が来る」
それに、まだ終わってなどいないのだから。
それを想えば、九つの頭も巨大な牙を前にしても物足りない。ざわつく神経、次第に熱を増していく血管、脈動強まる心臓を鎮めるには、まだまだ物足りなかった。
「俺は、
地球上のどこにいても呼びかけてくる感覚。
それに似た、渦巻く嵐に充満した巨大な感覚に。地球上のどこにいても満ち足りなかった“なにか”を満たす存在に、会わなければならない。
ギターを弾くと思い通りの音程が再現されて、バサラは立ち上がる。
『海、行くんだよね』
「ああ。そっちから感じる」
『そっか。……じゃあ、先に行ってるね』
すると、アリシアはまるで浮き上がるように階段から飛び降りた。うきうきと雨の中に飛び出し、ふわりと金色の髪を靡かせて。
『きっと叶うよ、バサラの願い。
五才児には似つかわしくない、大人の色を帯びた笑顔を残して。アリシアは光の粒へと姿を変えて、まるで吸い込まれるように嵐の方へと消えていった。
「俺の、願い……」
バサラもまたその後を追った。
◇
――――アメリカはどうだった?
四年ぶりに顔を合わせたレイに問われた時。
バサラの胸を過ぎったのはかつての高揚感であった。アメリカの大地に降り立ち、地平線まで広がる荒野を眺めた時の喜びであった。
『うおおぉぉぉぉ!』
アメリカに渡った当初、バサラは喜びに打ち震えた。
バサラの言葉を借りるならば、凄い奴がたくさんいた。ハートを形に変えて。広大な大地に、広大な
そして仲間を見つけた。
≪Fire Bomber≫は、バサラにとっての新天地だったのだ。メンバーは、最高のサウンドの持ち主ばかりだった。そのハートをサウンドに変えて、人生をメロディーに乗せることのできる凄い奴らばかりだった。
同時に彼らは皆、無邪気なエゴイストであった。
自己の根っこにある独自の感性を絶対のモノとして、それこそ本音を偽らずに語るものだから、メンバー同士の仲はお世辞にも良いとは言えなかった。顔を合わせればやれ陰気臭いだの、香水が鼻につくだの、テーブルマナーがなってないだの、家具の向きが風水的に受け付けないだの……。傍目に見たら何故同じ空間にいるのかもわからないような、ギスギスと波風の絶えない日常を共にしていた。
だが、そのような反発し合う個性も、ひと度ステージに上がってしまえば思いがけない化学反応を起こし――――爆発する。
『やるじゃねぇか!』
彼らと共にストリートを駆け上がった日々は興奮の連続だった。
メンバーのサウンドが背中を打ち、腹の底から止めどなくエネルギーが噴き出て、観客の歓声と歌声が一体化する高揚感は何物にも代え難い。演奏を重ねる毎に、音を重ねる度に望んだ“なにか”に近づいていく。胸の奥に訴えかけてくる声に近づいていける。
そういう予感が、かつて、その時々のバサラの中に確かに存在した。その時々のバサラは間違いなく、彼らと共に世界のステージに上がること、大観衆を前で歌い上げることの中に“望み”を見出していたのだが。
予感は、確信には変わらなかった。
『バサラ、喜べ! すげぇステージだぞ!』
切っ掛けは、ファーストシングル発売の勢いに乗った≪Fire Bomber≫のもとに舞い込んできた大きな仕事だった。かつて、時代を代表するバンドグループの数々が立った大舞台、緩やかな丘が繋ぎ合わさって作られる天然の
万を超える観客を前に、バサラは嬉々としてステージに上がった。
そして最高の仲間達と共に、最高のサウンドを奏でた。
『 』
その演奏がどれほどのものだったかは、天を衝き上げる万雷の喝采に現れていた。
≪Fire Bomber≫はその瞬間、ひとつの世界の頂に到達した、と。歓声を受けたメンバー達は自らの演奏の達成感、冷めやらぬ鼓動、観客への感謝を、ステージの上で惜しげもなく露わにしていた。
バサラもまた同じ気持ちだった。演奏をやり遂げた瞬間、バサラの喜びはメンバー達と遜色ない程であった――――。
『だが……』
その興奮はすぐに消えてしまった。
肌に打ち付ける観客の熱気、背中に迫るメンバーの興奮を受けながら、バサラはとある感情から動けずにいた。今にも破裂しかねない鼓動の奥にある感覚、胸の奥に燻る感覚が消えない。せっかく灯った火が、消えてしまったような感覚……。
それは落胆に似ていた。「こんなものか」といった、最高のメンバーや、彼らと共にやり遂げたステージに対する落胆ではない。熱いハートを漲らせる観客に対するものでもない。
それは恐らく、自分の内側に向けられた感覚……。
『こんなもんじゃねぇはずだ……』
“なにか”が足りなかった。
満ち足りなかったのだ。
何がと訊かれても、わからない。ただただ、器が満ちないのだ。胸の奥が満たされないのだ。虚無感に似ているが違う。飢えにも渇きにも似ているが何かが違う……。
その時のバサラの思考は筋道立ったものではない。
その胸中を正確に言葉にすることはできない。
その時の心の動きを正しく形にすることはできない、が。
バサラが導き出した答えはシンプルだった。
『俺の歌は、こんなもんじゃねぇはずだ』
そしてバサラは≪Fire Bomber≫を脱退した。
そして求めた。歌うべき相手、歌うべき場所、歌うべき刻を。時には安寧の中に身を置き、時には危険の中に飛び込んで歌い続けた。その果てに戻ってきたのだ。
海が鳴る街へ。
知性ある声の波動を感じる場所へと。
――――――Basara.
そして出会ったのは。知性も知能も、形すら持たない暴走体――――ジュエルシードであった。
形も定かではない化生に出会った時、バサラは願いの到来を予感した。
だが、彼らは皆消えてしまった。
暴れ狂う大樹、夢に見た妖狐、無数の頭部を持つ大蛇……。それらは皆、かつての嵐のようにどこへともなく消えてしまった。自信を根底から揺さぶる無力感を突き付けられた。掴みかけた願いが、指の隙間から零れ落ちる喪失感を幾度も突き付けられた。
だが、バサラは諦めなかった。
歌い続けた。
どこにいるかも、実体があるのかもわからない存在に歌い掛けた。もがき続けたのだ。夢幻の存在であろうと構わない、知性どころか知能も持たない存在であろうとも構わない。なぜならば、胸中の信念が語るからだ。
―――――俺の歌は、こんなモンじゃねぇ。
例えどのような存在であろうとも、自らのサウンドは通じると、届くと信じ続けたからだ。引き寄せられると確信していたからだ。
そうして。
その一つの答えが、海岸に張られた不可視の壁。時封結界の内部に踏み込んだバサラの目の前に現れたのだ……。
◇
世界が変わった。
踏み込んだ先、不可視の壁を抜けて入り込んだ空間は、これまでの全身を打ち付けていた暴風雨、その一切が消えた海岸であった。バサラの目の前には、嵐が襲う現実とは違う世界が広がっていた。
そのような怪奇現象を前にして違和感を覚えない者はいないはずだ。バサラとてそれは例外でないはずなのだが、バサラの関心は別の存在に引き付けられていた。
「――――」
バサラは息を呑んだ。
自覚なく踏み出した足は渇いた砂浜を踏みしめる。
どこからともなく吹き込んできた風と雲がある一点に集中していく。そこは渦潮、海にぽっかり空いた穴へと、それらが渦を巻きながら飲み込まれていく。
肌が泡立つ。心臓が高鳴り、胸の奥がゾワゾワと掻き立てられるような感覚にバサラは口元を緩ませる。
次第に力強さを増していく2つの塊、21個の感覚。
それらが地響きと共に海中で膨張していくのを感じ取り、とうとう渦が反転する。海面が盛り上がり始め、海底が爆発したかのように高く打ちあがった波の中から“それ”は姿を現した。
頭上から落ちてくる影。
見上げた先に在る者を見上げて、バサラは胸中に抱いた感覚を自覚する。
「―――――へッ」
それは喜びだった。
それは好奇の心であり、恋との出会いに似ていた。全身の細胞が歓喜に打ち震えるように収まりが付かない。ドクドクと速まる脈動は燃えるように熱い。爆発しかねない程に熱い。
「へへっ……!」
“それ”は人の形をしていた。嵐と波と雲によって模られた巨人である“それ”は、懐に陽光が凝縮してつくられたような光るギターを抱えていた。
打ちあがった潮水がひとしきり雨のように注ぎ落ちてから、“それ”は目を開いた。“それ”がバサラを見つめる。目が合い、互いに示し合わせたように口元に笑みを浮かべ――――。
「うおおおおおおォォォォッ!!」
『 ッ!!』
バサラは昂ぶりに任せて声を張り上げる。
“それ”もまたバサラと同じように叫び声を上げたのだ。
言葉ではなく感情を声に乗せて、互いに声を重ねて、メロディーを奏でる。
「〈Power to the dream〉」
燃えるような熱気を歌声に込めて、バサラは歌う。
「〈Power to the music!〉」
『 !』
バサラのサウンドに合わせて、嵐の巨人もまた歌う。
それは人間の声ではない。囂々と吹き荒れる風と波の音をメガホンで無理矢理纏め上げたような轟音ではあったが、その音の調子はバサラのメロディーそのものだった。
「〈新しい夢が欲しいのさ!〉」
バサラはかつてない高揚感に震えた。細胞の一つ一つが燃焼するように、しかしシャープにリズムを刻んでいく。喉の奥、心臓の奥から噴き出る感情を乗せて、バサラは巨人を見上げる。遥か彼方に位置するその眼差しと歌声を見上げて、バサラはその胸中の感覚を発露する。
――――――嵐が、俺の歌に応えた!
かつては振り向くことなく過ぎ去っていった嵐が、自分と声を重ねている。かつて桃色のハートに連れていかれた強大な存在が、自らのサウンドを奏でている。その自覚、その高揚感がどこからともなくエネルギーを引き出しているようだった。
〈やっと掴んだ希望が 指の隙間から逃げてく〉」
待ち望んだ”なにか”に匹敵する存在。
「〈ブラックホールの彼方まで ずっとお前を追いかけてく!〉」
胸の奥の不可思議な感覚を満たす存在に向けて、バサラは歌い続けた。巨大な存在も応えるように歌い、奏でる。バサラはその澄み切った轟音を受けて、理解する。
そこには感情があった。
そこには意思があった
そこにはハートがあった。
セッションを通して、バサラは巨人の胸中ともいうべき感覚を共有しているようだった。自らのサウンドに対する巨人の感激を理解できるようだった。硬質な氷の棺に閉じこもっていた存在が、初めて炎に触れたような衝撃を共通し、バサラは心の底から打ち震えた。
注ぎ込まれていく感情、満ち満ちていく器。
至福の時間が、確かにそこにはあった。
しかし、永遠などあり得ないのだ。
見上げた巨人の頭上、灰色の空に現れた紫の光にバサラはその終わりを予感する。
「―――……なんだ」
光は文字を描き、文字は円を描き、円は次第に光を増していく。高貴にして純粋でありながら醜悪に彩られた紫電――――その感覚に、バサラの脳裏にある女の姿が浮かぶ。
「あのおばさん……」
いつかの夜に出会った女性の姿。底なしの純粋を抱きながら、目も当てられない自棄の果てに向かう母親の姿。世の全てから目を背け、あるべき過去に楔を打ち込まれた瞳を思い出し、その光が何をしようというのか。
不意に、バサラは直感する。
「おい、やめろっ!」
紫電に込められた力。
大気が震え、臓物の底をも刺し貫こうという重圧が降り注ぐ。それはクロノという少年が放った光の塊に似ていた。黒々とした銃口、鉄の弾丸を彷彿とさせる意志……。
「撃つんじゃねぇ! 撃ち合ったって何も始まらねぇ!」
だから、バサラはギターを弾いた。
そんなことしなくとも、
分からせる為に、バサラはメロディーを叫び上げた。
「俺の歌を聴けェェェッ!」
けれど、引き金は引かれる。
紫電が落ちる。
嵐の巨人に降り注ぐ雷。魔法の力によって剥がれ落ちていく強大な存在感。統制を失った嵐の肉体が剥がれ落ちていき、バサラもまた滝のように降り注ぐ波へと呑まれて、海の底へと意識が呑まれていった……。
「バサラさんッ!」
その時、桃色の光が視界にちらついた。