マシュを誘えばよかったかな。
窓からもう見えなくなったカルデアの方を見つめてマスターがつぶやいた。
私は、その隣で、横顔を見つめながら何も言えなかった。
人理保障機関カルデアにおいて発された全てのオーダーは完遂された。
世界は正しく動き始め、緩やかに日常がかえってきた。我らがマスター……人類最後のマスターとして戦ってきたマスターも、その任を解かれ、故郷に帰ることになった。
サーヴァントの多くは退去したが、中には、カルデアに赴任する新たなマスターとの契約を待つ者や、カルデアという組織そのものをマスターとしてここでの仕事に従事することを決めた者、カルデアに協力するつもりではあるが、けじめとして一度退去し、新たな召喚を待つことに決めた者と、さまざまであった。
……死者の影である我々サーヴァントは、生者の介在なくして世界には関われない。多少の差異はあれど、ほとんどのサーヴァントはそういう認識を持っているだろう。
かつて、既に、自らの時代を生きて世界に生きた証を刻んだもの。それが今を生きる人間を差し置いて世界を変えるなど、あってはならないことなのだから。
……私は、サーヴァント。使い魔であり、マスターの兵器。だから戦いが終われば、用済みの存在である。
カルデアへの協力は惜しまない。これからも、飛沫のごとき、「揺り戻し」の特異点が発生する可能性はある。そのためならば、いくらでも使ってもらって構わないのだ。けれど──会えてよかったと、そう、何度口にしても尽きないほどの感情を持ってしまった。新しいマスターを迎えたとき、私は……きっと、今のマスターと、新しいマスターを比較してしまう。……そんな不誠実は、できない。したくなかった。
だからマスターがカルデアを去る、それを最後にして、私は「今ここにいる私」の霊基を廃棄する。座に持ち帰った記録を、座の私がどうするかはわからない。だが私のことだ。きちんと整理して、次に召喚される私と新たなマスターに不要な禍根を残すような真似はしまい。……本当なら、記録ごと廃棄するべきなのだろうが、どうしても──どうしても私には、この旅の記録を、マスターとした旅の記録を棄てることなどできなかった。どれだけあさましくいやしい男と言われようと、この記録だけは、手放したくはなかったのだ。
マスターの退去が数日後に決まった時のことだった。噛みしめる様に日々を過ごしていた私は、マスターと廊下で会った。
「その聖杯は……どうされたのですか、マスター?」
手には聖杯があった。大聖杯未満の杯。訊くと、どうやら旅路の報酬としてもらったらしい。別に欲しかったわけじゃないんだけど、そう笑うマスター。
なるほどと思った。通常、聖杯は聖杯戦争を行い、マスターとサーヴァントが戦って勝ち取る願望器。マスターが勝ち取ってきた聖杯のほとんどは魔力リソースとして、戦況を良くするための霊基強化素材として費やされてきた。つまりマスターが勝ち取ってきた聖杯は、カルデアの資産として使われてきたのである。戦いが終わり、マスターが帰る段階になって、ようやく聖杯戦争の勝者として正しく聖杯が与えられたということなのだろう。
「正直……持っていても仕方がないし、一人で勝ち取ったものじゃないから、欲しい人がいるならあげてしまうのも手かなって思ってるんだ」
アルジュナ、これいる?
冗談めかして言うマスターに、ご冗談を、私の願いはもう貴方もご存知のはず。そう言おうとして──欲が出た。サーヴァントとして、使い魔として己を律してきたはずの私には、信じられないほどの欲だった。どうしてそんなことを考えたのかはわからない。あるいは──半受肉状態という、生者と死者の間でふらふらするよう状態が、私の欲を育てたのかもしれない。
「私は──貴方と、共に在りたい」
そう、最後まで。
「これ、急だよね。気を付けて」
「……はい。ありがとうございます」
先にタラップを昇ったマスターが、差し出してくれた手を掴んだ。サーヴァントであればなんてことのない階段も、私には楽しかった。
サーヴァントとしてのほとんどの力を失った。真の大聖杯であれば、私は戦士アルジュナのままで正者になれたのかもしれないが、マスターが得た聖杯に、それほどの力はなかった。今ここにいるのは、正真正銘、ただの人間アルジュナだった。
狭い機内に二つしかない座席に隣合いながら座ると、短い館内放送のあと、離陸した。短いながらも小粋なトークに私とマスターは小さく笑った。人里から遠く離れたカルデアに、しかも極秘の便として遣わされたにもかかわらず、操縦士たちはまるで気にする風でもなく、たった二人の乗客にまで放送で語り掛ける。きっとマスターの寂寥をわずかながらに癒してくれようとしたのだろう。
マスターは、見えなくなるまで、窓から手を振っていた。
カルデアが豆粒ほどに小さくなって、そしてそれも見えなくなったころ、ようやく、マスターは手を下した。けれど視線は窓から離れず、ついにはひとりごちたのだった。
見送りの際の彼女を思い出す。無垢であり続けた少女のことを。
彼女がいれば、それはそれで、きっと楽しい旅になるだろう。それは私の、本心からの思いだった。
「……マスター」
もう契約もなく、マスターとサーヴァントの関係でもないのに、私はそう呼んでいた。役職もなく、ただの■■として改めて名前を呼ぶのは……少し、気恥ずかしかったのだ。
呼びかけると、今にも泣きだしそうな顔が振り向いた。
「アルジュナ……」
「……一時の別れです。二度と会えなくなるわけではありませんから」
マスターは少し黙っていたが、袖で目元をぬぐって、そうだよね、と言った。
「落ち着いたら……今度はマシュに、故郷を案内したい」
「その時は私もお付き合いしましょう。ああ、それとも……二人きりにして差し上げた方が、よろしいですか?」
「アルジュナってば!」
照れ隠しのように肩を小突かれて、私は笑った。これだ。こういうところが、とても好ましいのだ。
今でこそ、私はマスターとともにここにいるが……少しでも何かが掛け違えば、ここにいたのは私ではない。きっと、私以外の誰とでも、マスターは旅に出るし、マスターの育った地を案内してくれる。それこそ、マシュ・キリエライトかもしれないし、また別の誰かかもしれない。ただ、ここにいるのは──このアルジュナ。それだけ。
未来に思いをはせながら、着いてからのことを口にしようとし──私は、眉をひそめた。
何か……何かが、私の胸をかきむしる。胸騒ぎがする。
機体が大きく揺れた。機内放送にノイズが走る。二人の間に嫌な空気が流れた。……知っている気配がした。──死の気配だ。
『当機体は──……!』
……それは、間違いなく、絶望だった。
「──!」
……マスターの考えは手に取るように分かった。だから、怯えのはしった顔が、こらえる様に目を瞑り、何かを飲み込んだのを見て、その手に自らの手を重ねた。……もう令呪のない右手。魔力の痕跡すらない只人の手に、無力な人間の手を、重ねる。目を伏せ、首を振った。
「貴方を贄にしてまで──生きたくはありません」
マスターは、深い息を吐いて、視線を落とした。
「……ごめん、巻き込んで」
「自分で選んだ結果です。悔いはありません」
「……そっか」
「はい。……どうか最期まで、貴方と共にいさせてください」
神々からの祝福も、父からの祝福も、戦士としての誉れも。すべてを失って得た先にあるものがこれだとするなら、それはそれで良いように思えた。出会ったこと、それだけでさいわいだったと思える人との未来を選び、ただの人間として共に死ねるなら。その未来がどれだけ短いものであったとしても──私は、それを喜ぼう。
機体が軋む。金属同士が擦れあう不愉快な音がそこかしこから聞こえた。
マスターが小さく笑った。
せめてマスターを守ろうとして、抱きしめるように手を伸ばし──轟音と熱が全てを閉ざした。
エンド1(アルジュナ差分)
しがふたりをわかつとも?