ついにマスターが帰る日が決まった。
長い旅路だった、と思う。「私」が生まれたオルレアンから、クリスマス、偽物たちの宴を経て、このカルデアに現界した。在って無いような縁を楔に。差し出した契約書に、にっこり笑ってサインしたあいつの顔を思い出す。新宿、ルルハワ。悪性を以て燃え尽きるように駆け抜けた戦いも、きらめく夏の思い出も、何もない私にとっては至上の宝物だ。
──ああ、長い旅だった。短い人生だった。
あぶくの様に生まれた私の人生も、ここで終わり。マスターのカルデアからの退去をもって……私は、どこにもたどり着かず消滅する。最初からそう決めていた。あいつは五体満足で、思い出を胸に帰っていく。寂しいけれど、それは正しい形だ。……偶然によって人類最後のマスターとして担ぎ上げられてしまったあいつ。滅ぶ世界を許せなくて、自分で決断したこともあっただろうけど、選択肢を与えられた善人が、戦う選択を自由意思で捨てられただろうか。……ああ、よかった。あいつが帰ることができて。誰かさんの様に、用済みになって燃える炎にまかれたりはしないのだ。
どこにも刻まれないのに、私は名残惜しむようにぶらぶらとカルデアの中を歩いていた。すると、反対側からマスターが歩いてくるのが見えた。
「……? どうしたの、ソレ」
手には聖杯があった。大聖杯未満の杯。訊くと、どうやら旅路の報酬としてもらったらしい。
霊基強化素材として私がいくつかもらったものとは違う、本物の願望器としての聖杯。もちろん、万能には程遠いが、ささやかな願いなら叶えられる……ホーリーグレイル。何度も死ぬ目に遭いながら、ついには走り切った聖杯探索。こいつみたいなちっぽけな善人が願うものなんてたかが知れているわけだし、あの旅の報酬としてなら相応というところだろう。
「手土産? それとも手切れ金? なんにせよ──いいじゃない。叶えたい願いの一つくらい、あるんでしょ?」
家に帰りたい、とか。
「それはもうすぐ叶うから、聖杯にかけるほどでもないよ」
それはそれは幸福そうな、喜びが隠し切れない顔で笑った。そうだ、こいつの唯一の願いはもうすぐ叶うんだった。終わりが近付いて、私はずいぶんとポンコツになったらしい。
「じゃ、取っておきなさいよ。生きていれば、いつか、奇跡にすがりたくなる時も来るかもしれないし」
「それはそう……かも、しれないけど」
「なによ」
「……生きてここまでこれたのは、みんなのおかげだから。自分だけの願いのために使うのは、気が引ける」
何それ。もったいない。おかしくなって笑った。おうちに飾るトロフィーにでもする気かしら。折角の旅の証を、いつかこいつが死んだら埃をかぶって捨てられかねないような、そんなものに?
「じゃあ、ソレ、私に頂戴よ」
いつもみたいに! 冗談めかして笑いながら言ってやると、マスターはぱちぱちと瞬きをして、聖杯をとんと私の胸にあてる。
「いいよ、あげる。……だから、一緒に来てくれる?」
続いた言葉に、私は何も返せなかった。
消えると決めていたから、身辺整理はとっくの昔に済ませていた。だから私の荷物はとても少ない。
あれからとんでもなく言い合って、ついに私が折れた。
馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの。馬鹿よ、アンタ馬鹿なの。受肉になんて使っちゃったら、その聖杯ホントにただのトロフィーになっちゃうわよ。いやパワーストーンくらいの力はあるかもしれないけど、そんなのあってないようなものじゃない。折角数年ぶりに家に帰るってのに連れ合いに復讐の魔女選ぶなんて縁起悪いにも程がある。声をかければアンタと一緒に第二の生を送ってもいいなんて言うやつはごろごろいる。それなのに、私を?
──消えるって言ってたし、それは十分にわかってるつもりだった。
でも、とうつむき、私の手を握りながら言った。
──もうちょっとだけ、一緒にいたい。
消えるのが怖くないといえば嘘だった。でも、仮初の生を謳歌することが出来たのだから、それくらいのことは、飲み下すべきだと思った。
……消えるのが怖かったから、手を取ったわけじゃない。私にとって唯一無二のマスター。私に喜びも、楽しみも、怒りも、悲しみも与えたマスターの……ちっぽけな願いを、サーヴァントとして叶えてやりたくなってしまった。
カルデアには、二度と来れないわけではない。けれど、マスターを辞めて一般人に戻るこいつが、そう簡単に来れるような場所ではない。持ち出せる物しか持ち出せなくて、思い出はすべてここに置いていく羽目になるこいつが……寂しさを紛らわせたくて縋れるのが正当な英雄ではない私なら?
「……いいわよ、一緒に生きてあげる」
その手から、聖杯をひったくる。私はなるべく凄惨にほほ笑んだ。
「その代わり、覚悟しておくことね? 私を選んだんだから──何があっても、承知しないわ」
……転がり込んできた、一緒に生きていける幸運への喜びを押し隠しながら。
「なんだか可哀想なことしちゃったかしら」
小型飛行機の座席について、ベルトを締めながら言ってみる。
「マシュも誘ってあげればよかったわ」
というか、隣のこいつが誘ったと思っていたので、何も言わなかったのだ。そういえば1週間ほど前に、カルデアに残ると言っていたのは聞いたような気がするけど、最後まで決定は変わらなかったとは思わなかった。だって、声を掛けたら一緒についてきそうな筆頭じゃない、彼女。
「なんで誘わなかったの?」
ベルトを締めた隣に聞いてみる。しばらくの沈黙の後、マシュが自分で決めたことだから、と小さく言った。マシュ自身の選択に口を出したくはなかったということらしい。……まあ、そうか。声をかければ、その選択をいともたやすく取り下げさせてしまう、というのはお人よしマスター的にはあまりしたくないことだったと。マスターちゃんらしい。ずっとべったりだったんだから、互いに依存しないためにもマスター離れマシュ離れしておきたかったというのもあるんだろう。やだ、マスター離れできてないのって私じゃない? 少なくとも外面的には一番私が「そう」っぽくない?
……本当はもう「マスター」ではないのだけど。長年呼び続けたのだし、名前に呼び変えてしまうとなんだか一線踏み越えてしまいそうで、ためらってしまう。
「……そ。でも、落ち着いたら日本に呼んであげなさいね」
マシュは……マシュも、きっとマスターと居たかっただろう。だから、あの見送りの段で泣いていたのだし。こいつがカルデアに行くより、マシュが休暇取って日本に来るほうが断然簡単だ。 まあ、もしかしたら多少恨まれてるかもしれないけど、それは構わない。やきもちのようなかわいらしい憎悪なら、それはそれでいい。人間らしくて、いい。
でも、それまでは、私の時間。
これからマスターちゃんの家まで行って、ちょっとは挨拶して、先にカルデアから送っておいた荷物整理を整理して、あとは、あとは──。あれよあれよとこの飛行機の乗るまで物事が進んで、考えようと思っていた未来のことを今の今まで後回しにした。
それで、いろいろ考えようと思ったのに、どうしよう、思い浮かばない! 根底に浮かぶ憎悪の炎は消えず、くすぶるように私の心を焼き続ける。そうして、いつか──私が人間としてダメになって無残な死を迎えるか、それとも、不相応なくらい幸福な末路になるか。それはわからないけど。今は別に考えなくてもいい、そういうのは全部──隣のマスターにぶん投げてしまおう。
息を吐いた。口角が自然に上がった。
……ねえ、向こうに着いたら何をするの?
口を開こうとして、私は眉を顰める。
……何か、おかしくない? 肌で感じる空気に、嫌な物が混じったような。
機体が大きく揺れた。機内放送にノイズが走る。二人の間に嫌な空気が流れた。……知っている気配がした。──死の気配だ。
『当機体は──……!』
……ふざけた末路だ。
…………打てる手はない。
私には憎悪を吐き散らす口しか残らず、マスターには奇跡を起こすほどの魔力なんてこれっぽちもない。完全に詰みだ。あーあ。
「ねえ──」
揺れた瞳が閉じられて、何度も聞いた、覚悟を伴った声が聞こえた瞬間、黙らせるように強く手を握った。死ぬつもりなんて毛頭なくとも、命を懸ける覚悟は何度もしてきた。そんな時にいつも出してた張り詰めた声。
「……これ以上馬鹿なこと考えないで。アンタの命使ったって、生き残れる確証はないの」
「それでも!」
「それ以上何か言うなら、その口塞ぐわ」
生まれて、生き延びて、死ぬ覚悟なんてとっくの昔にしていた。けれどこうしてまた生き延びて……また失うのはすこし怖い。それよりも、悔しくて悔しくて涙が出た。
憎悪が燃える。でも、今、それを口にしている暇はない。……最後に聞かせるには、醜いにもほどがあったから。
「ねえ……私、アンタと生きてみるの悪くないって思ったのよ」
耳障りな金属音がそこかしこから聞こえてくる。館内放送は、さっきのを最後に切られていた。……ああ、彼らもお人よしだったんだろう。死を呪う声を、聞かせないようにしてくれた。
「それ以上に今……二人で死ぬのも、悪くはないか、って」
死にたくはないし死なせたくはないけど、死んでしまうなら受け入れるしかない。ありもしないはずだった未来を見せてくれたこの人と、うたかたの夢を見せてくれたこの人と──せめて、二人で死にましょう。
「私を選んだ罰よ、マスター」
二人分のベルトを外す。こんなものはもういらない。機体の揺れで傾いだ体をその勢いのまま抱きすくめる。
「貴方の最期が、こんな女の腕の中なんて──最悪の罰でしょう?」
腕の中で、小さくマスターが笑って私の背に手を伸ばした。私も笑って、頬にキスをした。二人で目をつぶって──轟音と熱が全てを閉ざした。
エンド1(ジャンヌ・ダルク〔オルタ〕差分)
しがふたりをわかつとも?