ステイルは、ゆっくりと振り返る。
一体どうして体の内側が小刻みに震えているのか、そんな理由も分からずに。
上条当麻が、そこにいた。
(……何だ? 自動追尾の『魔女狩りの王』は一体どうしたんだ?)
ステイルの中でぐるぐると思考が空回りする。『魔女狩りの王』は戦闘機に積んだ最新鋭のミサイルと同じようなものだ。一度でもロックしたら最後、絶対に逃げ切る事はできないし、どこへ逃げようが隠れようが、3000度という炎の塊は壁や障害物──そう、鋼鉄さえ溶かして一直線に進んでくる。普通に建物を走り回るだけで振り切る事なんてできるはずがない。
なのに、上条当麻はそこにいた。
不敵に。無敵に素敵に宿敵に、そして何より天敵として────立っていた。
「そーいや、ルーンってのは壁や床に『刻む』モンだったんだっけな」
上条は冷たい人工の雨に打たれながら、
「……ったく、参ったぜ、アンタすげぇよ。正直、ホントにナイフ使って刻まれてたら勝ち目ゼロだったよ、こいつは周りに自慢したって構わねーぜ」
言いながら、上条当麻は右腕を上げて、人差し指で自分の頭上を指差した。
天井、スプリンクラー。
「……、まさか。まさか! 3000度の炎の塊が、こんな程度で鎮火するものか!」
「ばーか。炎じゃねぇよ、テメェは人ん家に何ベタベタ貼っつけてやがった?」
ステイルは思い出す。学生寮に何万枚と仕掛けた『ルーン』はコピー用紙だった事を。
紙は水に弱い。幼稚園児でも分かる理屈だ。
スプリンクラーを使って建物中を走り回る必要もなく、ボタン一つで全ての紙切れを殺す事ができる。
魔術師は思わず顔面の筋肉を痙攣させて、
「──────『魔女狩りの王』!」
叫んだ瞬間、上条の背後から───エレベーターの扉をアメ細工のように溶かしながら、炎の巨神が通路に這い出てきた。
しゅうしゅう、と。炎の体に雨粒がぶつかるたびに獣の吐息のような蒸発音が響く。
「は、はは。あははははははは! すごいよ、君ってば戦闘センスの天才だね! だけど経験が足りないかな、コピー用紙ってのはトイレットペーパーじゃないんだよ。たかが水に濡れた程度で、完全に溶けてしまうほど弱くはないのさ!」
ギチギチと。両手を広げて爆発するように笑いながら、魔術師は『殺せ』と叫んだ。
『魔女狩りの王』は、その腕をハンマーのように振り回して、
「邪魔だ」
一言。上条当麻は、振り返りすらしなかった。
ずぼん、と。裏拳気味の上条の右手に触れた炎の巨神は、正直笑ってしまうほど間抜けな音を立てて爆発、四方八方へ吹き飛ばされた。
「な!?」
その瞬間、ステイル=マグヌスの心臓は確かに一瞬だけ驚きで停止した。
吹き飛ばされた『魔女狩りの王』が、復活しない。重油のように黒い肉片は辺り一面に飛び散ったまま、もぞもぞとうごめくのが精一杯のようだった。
「ば、か────な。なぜ、何故! 僕のコピー用紙はまだ死んでないのに……ッ!」
「インクは?」
上条当麻の声がステイルの耳まで届くのに、五年はかかるかと思った。
「コピー用紙は破れなくっても、水に濡れりゃインクは落ちちまうんじゃねーか?」
上条は、むしろのんびりとした調子で、
「……ま、それでも一つ残らず潰す事はできなかったみてぇだが」
もぞもぞと動く『魔女狩りの王』の破片。
スプリンクラーが生み出す人工の雨が降り注ぐたびに、黒い肉片が一つ、また一つと空気に溶けるように消えていく。まるで建物中に貼り付けたコピー用紙のインクが一つ一つ雨に溶けていき、どんどん力を失っていくように。
一つ一つ肉片が消えていき……ついには最後の一つまで、溶けるように消えていく。
「い、いのけんてぃうす……『魔女狩りの王』!」
魔術師の言葉は、まるで一方的に切られた電話の受話器に叫ぶような声だった。
「おーい、天才の上条くーん、ソイツをぶん殴る役目はお前に譲ってやるよ!」
蒼空の言葉に上条は分からないぐらいに小さく頷く。
「さて、と」
たった一言。上条の言葉に、魔術師は体全体をビクンと震わせた。
上条当麻の足が一歩、ステイル=マグヌスの元へと踏み出される。
「い、の……けんてぃうす」
魔術師は告げる。────けれど、世界は何も応答しない。
上条当麻の足がさらに、ステイル=マグヌスの元へと歩き出す。
「いのけんてぃうす…………イノケンティウス、魔女狩りの王!」
魔術師は叫ぶ。────けれど、世界は何も変化しない。
上条当麻の足がついに、ステイル=マグヌスの元へ弾丸のように駆け抜ける。
「ァ、────灰は灰に、塵は塵に。吸血殺しの紅十字!」
魔術師はついに吼えた。けれど、炎の巨神はおろか、炎の剣さえ生まれなかった。
上条当麻の足はそして、ステイル=マグヌスの懐まで飛び込み、さらに奥へと突き進み、拳を、握る。
何の変哲もない右手。相手が『異能の力』でない限り、何の役にも立たない右手。不良の一人も倒せず、テストの点も上がらず、女の子にモテたりする事もない、右手。
だけど、右手はとても便利だ。
何せ、目の前のクソ野郎を思う存分ぶん殴る事ができるんだから。
上条当麻の拳が魔術師の顔面に突き刺さる。
魔術師の体は、それこそ竹とんぼのように回転し、後頭部から金属の手すりへ激突した。