歩行者用信号機が鳴いていた。
眩い太陽光が照り返すコンクリートジャングルに、人っ子一人いないのに明滅を繰り返す青のライト。
ぷつんと途切れる電子音が、街が無音になったのかと錯覚させる。
あ、赤になったのか。
僕は昔から人よりどうでも良いことが気になってしまう人間らしい。今も景色を脳内に描き直してる合間に、この交差点を渡るチャンスを逃した。実はこの行為を2度繰り返したところだ。
僕が向く方向に対し、垂直な横断歩道の信号がまた鳴り響く。これでは渡れない、大人しくもう一度待とうか。
「くすくすくす、ふふふ」
からんころんと、ラムネ瓶を振ったような声が響く。笑われたのは、僕だろうか。
声の主を探そうと辺りを見渡すが、人影は見当たらない。僕が見つけられないのを面白がっているのか、声はまたひとしきり笑ってから僕に問いかけてきた。
「ふふふ、あなた、本当におかしいわね。 向こうに行きたいんじゃないの? そこで立ち止まってから、もう5分くらい経ったわ」
「タイミングを逃してしまったんだよ」
「変なの。そもそも、車なんて滅多に来ないのだから、無視して渡ってしまえば良いのに。私が見た他の人はそうしていたわ」
「他に人が通ったんだ、珍しいこともあるんだね。こうして誰かと出会うことなんて稀なんだ。折角だから姿を見せておくれよ」
僕の質問に、すぐには答えてくれなかった。ぴっぽ。ぴっぽ。信号機が相槌を打つ。
ふと、ビルとビルの間を季節の変わり目を知らせる春風が1度凪いだ。声はそれを待ってたかのように告げる。
「上よ」
凛と響く声の主は、僕の頭上でふわりと飛んでいた。パジャマみたいな薄ピンク色のズボンとシャツをはためかせて、風に乗るかのようにくるりと回ってみせる。黒髪と衣服がキラキラと日光を反射して輝いて見えた。
「……わあ、空飛ぶ人は初めて見たよ」
「あらそう? 私は毎朝鏡で見るわ」
彼女は得意げな顔をすると、僕らが地面でするみたいに、空をスキップして高くへと上がると、そのまま僕から遠ざかっていく。余りに神秘的だったので何もせずに小さくなっていく背中を眺めていた。
「きみー!! 名前はーー?!!!」
くるりと振り返って、こちらを向いた彼女が
両手をメガホンみたいにして口に当てた。よく通る声だ。
はっとしてこちらも大声で返す。
「ゆーや!! 優也っていうんだ。 君は!?」
彼女はふむふむと言った具合でまたもこちらに背を向けて、顔だけ振り向いて言った。
「内緒!!」
今度は大きく1度宙を蹴ると、本当に飛ぶようにして離れていく。既に小さくなっていた人影がどんどん小さくなって、物陰に隠れて消えてしまう。
あっという間だった。
正に風のように唐突に吹き、消えていった。
しかし、気付かぬ内に握りしめた拳は汗でびしょびしょで、心臓の音がやけに五月蝿かった。春風は僕の心にまで、雪解けを告げたのかもしれない。
ぴっぽ。思い出したかのように信号機が再び鳴く。
信号は、青になっていた。