明くる日、朝から諸々の説明やら手続きのために色々なところを廻った。一日で終わるだろうかと思いながら家を出たのだが、ここでも瑞樹の爺さんの名前に助けられた。
地元の大病院の院長先生という肩書きは、大人たちにとってとても強いものらしい。いくつかの診断書を用意して、事情を説明しただけで用は済んだ。
オレにとっては、遊びに行ったらお高めのお菓子をくれる好々爺といった認識でしかなかったのだが、それは改めた方が良さそうだった。
しかしある程度やり取りが楽になったからといってもすべきことは山のようにあり、気がつけば一日が終わっていた。
翌日は思った以上に疲れていたのか、瑞樹に起こされるまで眠ってしまっていた。遅刻もしたことがなかったオレだというのに、まさか寝坊をするとは。
「すまん、すぐ着替える」
「いや、そんな焦るような時間じゃっ、うわあっ! 急に脱がないでよぉ!」
などというちょっとした騒ぎもあったが、無事に家を出た。いつもよりは多少遅い時間だが、十分学校には間に合う。
妹は学校が逆方向にあるために家の前で別れることになるのだが、その際に強く釘を刺された。
「いい? くれぐれも気をつけてね? 普段通りじゃダメだってことは理解してるよね?」
「おう」
オレは自信満々に言う。
「最初に一発かまして主導権を握れ、ってことだろ」
「違うわよこのバカ! っもう……」
怒られる。千歳は続けてなにかを言おうとしたが、瑞樹の方へ視線を向けると頭を下げた。
「ごめんなさい瑞樹さん! 学校まで付いてはいけないので、瑞樹さん一人にコレをお任せすることになってしまいます……」
「ああ、うん。たぶん、大丈夫だから、ね?」
「うう……常々アレだアレだと感じてはいましたけど、ここまでだったなんて」
「うんうん。そうだね。こっちは任せて。なんだかんだ十年以上の付き合いだから。もう慣れたよ」
曖昧な笑みを浮かべる瑞樹に対して、表情の申し訳なさが増す千歳。大きさの合わなくなってしまった腕時計をポケットから取り出すと、結構な時間になっていた。
「そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」
「今お兄ちゃんの心配したげてるっていうのに……!」
その後、二、三言オレに言いつけてから、千歳は小走りで去って行った。あの様子なら十分間に合うだろう。
「オレたちも行こうぜ」
「うん。……よし、気合いを入れろ、ボク」
なにやら小声で呟き、小さくガッツポーズをとっている。コミカルな動作だが、それがよく似合っていた。こういった愛嬌があるのは、瑞樹の才能といっていいかもしれない。
二人並んで歩き出す。いつも通るはずの通学路だというのに目新しく感じるのは、やはり体格が変わったからだろう。視線はいつもより低くなっているし、歩幅も違うためにいつもの歩き方では瑞樹と歩調が合わなくなるときも少なくなかった。
ようやく学校に到着したときには、いつもよりも疲れが溜まっていた。
「なんとか着けたな……」
「大丈夫? やっぱり、どこか体が悪いんじゃ」
「いや、そういうんじゃない。ただ疲れただけ」
肩が重い。胸に余計な重荷が増えたことも大きな要因ではあるのだが、もう一つ大きな要因があった。
「すごい視線を感じたぞ。なんでだ?」
「まあ、目立つから。服だって大きめの男子制服だし」
「そうか……」
これまでの人生で注目を集めるような機会はあれど、そのどれとも異なった類いの視線だ。おかげで登校中ずっと体が痒かった。
学校に着けば落ち着くかと思っていたが、よく考えればむしろ目立つことに気がつく。男子も女子も、それぞれの制服を着ているのだから、女の体で学ランな時点で結果は自明だった。むず痒さが背筋を撫でた瞬間、風が吹いた。何かが急に近づいてきたのだ。
「おっはよー!」
「へっ、わぁああああ!」
瑞樹が襲われた。下手人は見覚えのある女生徒だった。下手人――加苅の手が縦横無尽に瑞樹の身体を這い回る。
いつもならオレが止めるか、加苅が満足するまで続くところだが、声をかける直前に手が止まった。
「ところでさー、この男装女子はどちら様? というか、やっチャンが一緒じゃないとか珍しいね」
つま先から頭の先まで、じっくりと観察される。オレだとは気づかないようだ。
「SNSで回ってきてたよ。二人の女の子が男装して学校来てるって」
「ボク男なんだけど!?」
「なっはは! まあ、瑞樹チャンが勘違いされるのはいつものことだけどさー」
「い、いつものこと……」
「この美人さんは誰? 流石にこの人は女の人だよねぇ」
「ええっとぉ、そのぅ」
瑞樹が言葉に詰まる。正体を知っているがために、女性と言い切ることができないのだろう。オレも自分で自分を女だと言うのには抵抗がある。
「え、まさか男なの?」
「いや、そういうわけでも……」
「ん~?」
要領を得ない答えに加苅が首を傾げている。どう説明したものかと瑞樹が困っているが、結局のところストレートに告げる以外にはないのではないだろうか。
そしてそう思ったので、
「オレが八千代だぞ」
即実行した。
「八千代ぉ!?」
「なにそれ、どゆこと?」
「いや、言葉通りの意味なんだが」
極めて端的に現状を説明する台詞だと思ったのだが、どうやら瑞樹は気に入らなかったようだ。
「確かにその通りなんだけど、だからこそもっと慎重にだね……!?」
「はー、君がやっチャン……」
瑞樹は取り乱し気味に、加苅は真顔でそれぞれ言葉を発している。
反応からは、彼女が話の真偽をどう判断したのかは分からない。しかし、何やら思考を巡らせているのは分かる。
やがて加苅が一歩踏み出し、オレのすぐ前に立った。そしてじっとこちらの顔を見つめてきたかと思えば、
「えいっ」
「おふっ」
胸をわしづかみにしてきた。
「加苅さん!? なにやってんのっ」
「いや、突拍子もないこと言われたから、突拍子もないことしたら何か分かるかなって」
「何かって……八千代も! どうして無反応なのっ」
「いや、あまりに急だったもんで」
こうしている間も、加苅は胸を触っている。千歳のときとは違い、痛さを感じるような触り方ではない。探るような手つきはくすぐったさがあり、背中がむずむずしてくる。
「はー、すっごい大きい」
「だろ? まさかこんな重いもんだとは思ってなかったぜ。それに、デカいから制服に収めるのも大変で……あっ」
ずれた。
「ん? なんか触感が変わっ、えっ」
加苅は事態に気づいたようで、顔色がさっと変わった。いつも余裕綽々といった様相のこいつが焦ったような表情を浮かべるのは、非常に珍しい。
「やっチャーン……。まさかこれ……」
「ん、そのままだと揺れて面倒だったから、タオル巻き付けてきた。流石に揉まれたら外れちまうか。覚えておかないとなぁ」
今度は瑞樹も顔色を変えた。同時に、周囲がざわつくのが分かる。
「どうっすかなこれ。すまん、ちょっとトイレで直してくるわ」
「待って」
校舎へ向かおうとしたところを、加苅に腕を引っ張られる。
「こっち来て」
そのままどこかに連れていかれるオレ。瑞樹もあとを追ってついてくる。
「なんか、キミがやっチャンだって話、信憑性が出てきた気がするよ」
「なんだよ、急に」
「うん、普段の瑞樹チャンの苦労がちょっぴり分かったような感じがしてさー」
「加苅さん……!」
瑞樹が感動したような顔で加苅を見る。しかし、まるでオレが悪いみたいに言われるのは心外だ。
「今回オレは悪くないだろ」
この体になったのは不可抗力だし、胸を抑えるためにタオルを使ったのだって、他にそれらしい物が無かったからだ。確かに歩いている最中にはもう怪しかったが、揉まれなければ外れなかった。
そう言うと、二人は複雑そうに眉をひそめた。
「うん、それは悪かったよー」
「まあ、忙しかったから仕方なかったかもしれないけど……」
「金曜日は男だったはずだからー……、土日かあ。それじゃあ確かにそこら辺までは手が回せないよねぇ」
「土曜の朝に目が覚めたら、だな。母さんには手続きやらなにやらをやってもらってたし、かといって妹はなぜか敵視してきて話が聞けないし。なんとかトイレのやり方だけは覚えたけど、それ以外はさっぱりだ」
「ト、トイレのやり方って」
瑞樹が顔を赤くする。まるで少女がセクハラを受けたかのような表情だった。
しかし、だ。
「お前、こっちはめちゃくちゃ大変だったんだぞ。アレがないから出すときにすごい手持ち無沙汰で違和感あったし、それに……」
「わああ! なに言ってんだよばかぁ!」
「いや、一回なってみれば分かるって。股の部分に何も無いと、すっごい落ち着かないんだよ」
「やめてよ! 外だよ!?」
「は~い、二人とも静かにする。目的地着いたからねー」
その言葉に顔を向ければ、大きな和風の建物――普通の学校には珍しい、立派な弓道場があった。
「弓道場? なんでまた」
「いいからいいから。失礼しまーす」
がらがらと引き戸が開けられる。中では朝練をやっているのか、何人かの生徒がいた。その内の一人、一番近い場所にいた女生徒がこちらに振り向く。
「加苅さんですか。それに坂井さんに……どなたでしょうか」
「智弥チャン、はよっす」
「おはよう佐々木さん」
クラスメイトの佐々木智弥だ。こちらを訝しげに見ながら近寄ってくる。まあ、見知らぬ女が男装して学校に来ているのだから当然か。委員長気質な佐々木ならばなおさらだ。しかし、聞きたそうにしている彼女に対し、加苅は上から言葉を重ねる。
「あのさー、使ってないさらしとかってない? ちょっと困ったことがあって」
「……さらし、ですか? ええ、まあ。予備の物がありますが」
「じゃあさ、貸してくれないかな? こういう次第で」
加苅がオレの胸を持ち上げた。タオルが取れて完全に支えを失っていたため、掴まれたままに形が変形する。重りを持ってもらっているような感覚だったのでこちら的には楽なのだが、周りの視線が一気にオレに集中した。全員が、信じられないものを見るような目をしている。
「なっ、なにをしてるんですか!」
佐々木が体で視線を遮るように前に立ち、加苅の手を退かした。一気に重さが戻ってくる。急に離されると、周りの肉が重力に引っ張られて痛いので止めて欲しい。
「貴女も貴女です! どうしてなにも着けずに……!」
「しょうがないだろ、持ってないんだから」
「持ってないって、貴女、本当になんなんです」
「はいはい、それは後で説明するから移動しようね。どの部屋使っていいの?」
「……一応、用具入れが空いてはいますが」
「んじゃ、そこだ。さらしお願いね~」
背中を押され、用具入れに連れ込まれる。
「なあ、さらしってなんだ?」
「胸を押さえつける布、かな。昔から使われてた下着みたいなものだよ。まあ、タオルよりは外れにくいし、着け心地もいいと思う」
「へえ……でも、よく佐々木が持ってるって知ってたな」
「うちの弓道部の子たちは着けてる子多いらしいよ? だから、和風趣味の智弥チャンなら持ってるかなって」
「へえ、そうなのか」
そんな会話をしていると、手にビニール袋を持った佐々木がやってきた。
「持ってきました。それで……事情を説明してくれますね」
「うん」
加苅はオレの肩に手を置き、
「これ、やっチャン」
そのように説明する。いや、これにはオレも、流石に唐突過ぎると分かった。佐々木も意味の分からなそうな顔をしていたので、口を挟む。
「それじゃあ分からないだろ。もうちょっと詳しく言わないと」
「それもそっか。この人、二日前に突然女の子になったやっチャン」
「よし」
「なにもよくないよ!?」
「……ええ、その通りです」
瑞樹のツッコミに、まるで頭痛を抑えるように額に手をやり同意する佐々木。とはいえ、これが事実だし、それ以上に分かっていることもないのだから仕方がない。
「つっても、この体になってからまだ三日目だし、他に説明できることもないんだが」
「まずその、貴女が源八千代さんであるという、説明そのものの意味がよく分からないのですが」
「あの佐々木さん、信じられないだろうけど、彼女……は八千代なんだ。金曜日まではなんともなかったんだけど、翌朝にはこうなってて。色々話を聴いてみたら、本当に本人みたいで……」
「それを信じろ、と」
「一応、学校には話を通してる……んだよね、八千代?」
「ああ、昨日やってきたぜ」
「はあ……、加苅さんも知っていたんですか?」
「いいや? 今朝、瑞樹チャンが見知らぬ男装少女と連れ添って歩いてるな~、って近づいてったらそう言われた」
「よく信じる気になりましたね」
「まー、短時間でもやっチャンだなぁと感じられるくらいにはやっチャンだったからねー」
加苅の笑顔に毒気を抜かれたのか、険しかった表情が崩れて呆れを含んだ曖昧なものに変わる。
「結局のところ、証拠を出せと言われても、今の段階だとオレの証言だけだからな。病院でいくつか検査を受けはしたけど、詳細な結果はまだ出てないし。信じてもらう他ない」
「そうは言っても……、なにをしているんですか」
「タオル抜き取ってる」
服の中でごわごわして気持ち悪いんだ。シャツをスラックスから引っ張り出し、中に手を突っ込んでタオルを取り出す。
「バスタオル……よくこれで抑えられましたね」
「けど十分じゃなかったってことだな。加苅に揉まれたくらいで外れたし」
「加苅さん、貴女はまた」
「まー、まー。本人確認のためにちょっとね?」
「胸を揉んで何が分かるって言うんですか。……はあ、もういいです。とりあえず、貴女が源さんであるということで話を進めます。さらしを使いたいという理由も分かりましたから」
佐々木は疲れ切った声を出した。朝練が原因ではないのは流石に分かる。責任感の強い、厄介ごとに巻き込まれがちな性格だから、今後も面倒をかけることになってしまうだろう。
「悪いな。後でお代は返すから」
「ええ。それで、着方は……分かりませんよね」
「さっぱりだ」
「あたしもー」
「では、私が手伝います。時間もあまりありませんし」
「頼む」
「あ、じゃあボクは外に――」
「よいしょ」
ささっとボタンを外す。少しきつかったからか、外し終われば自然を前が開いた。
「わあぁ!?」
「ちょっ、なにしてるんですか!」
「時間ないんだから急がないといけないだろ?」
「それはそうですがっ、そんないきなり服を脱ぐなんてはしたない!」
「そ、そうだよ! ボクもまだ外に出てないのに!」
「え?」
「えっ」
一瞬の沈黙。少しして、はっとした顔をした佐々木が慌てだす。
「す、すみません! 坂井さんがいることに違和感がなくて……!」
「そんなことだろうと思ったよぅ!」
叫んで外に飛び出していった瑞樹。当事者である佐々木はばつの悪そうな表情をしていたが、一連の流れを見ていた加苅は納得したように頷いていた。
「しょうがないって。男装した女がいるんだから、もう一人も女だと思っても」
オレも加苅の言葉には同意だった。ただでさえ常日頃から少女だと勘違いされているのに、その隣に男装した女がいたら言わずもがなである。
「瑞樹のフォローは後でしておくから、気にすんな」
「でも……」
「なんだかんだ、瑞樹チャンも慣れてるからねー。咄嗟のあれこれで勘違いされるくらいだったら、そこまで怒らないよ」
「そう、でしょうか」
「気になるならあとで一言言っておけばいいよ」
「……分かりました。では、手早く着けてしまいましょうか」
佐々木は袋からさらしを取り出した。