「どこで着替えりゃいいですか?」
職員室でそう聞くと、体育の先生は困ったような顔を浮かべた。
加苅たちと下着を買いに行った翌日。この日は、オレの身体が変わってから初めて体育の授業がある日だ。授業前休み、女子たちが出て行き、さあオレも着替えるかとシャツのボタンに手をかけたとき、ふと視線を感じた。同時にざわめきも。
なんだ一体と思って辺りを見回してみると、不自然にこちらから顔を逸らしたクラスメートたちの姿が。
「ちょ、ちょっと八千代!」
焦ったように瑞樹が腕を押さえてくる。
「なんだよ、どうした」
「なに着替えようとしてるの!」
「いや、この後体育……」
「バカ! 自分の体のことを考えなよ!」
「そうは言われても。どこで着替えろってんだ」
「それは……先生に聞いてみよう。とにかく、ここで着替えるのはだめっ」
手を引かれて教室を出て、今に至る。
先生は持っていたペンで頭を突きながら、ううむとうなり声をあげた。
「着替え……まあ、そうだよなぁ。教室だと着替えられないよなぁ。女子更衣室は……」
「使えるわけないでしょ。女子が使ってるんすよ」
「だよなぁ」
「やっぱり、もう普通に教室で着替えちゃってもいいんじゃないすかね」
「ダメだってば! 周り見てなかったの!?」
しばらくして、先生は一つため息をこぼすと鍵を渡してきた。
「体育館の用具入れの鍵だ。とりあえずはそこかトイレで着替えてくれ」
「了解っす。んじゃ、行こうぜ瑞樹」
鍵を受け取り、着替えを取りに教室に戻る。がらりと扉を開けると、
「ウオオオオオオ!?」
野太い悲鳴が聞こえてきた。真っ先に振り向いた三馬鹿のものだ。手に持っていた体操服でなぜか上半身を隠している。女子じゃあるまいに。
「なんだ源……いや女子……いや源か」
喋っていることを二転三転させながら、声をかけてくる。
「どうしたんだよ、戻ってきて」
「いや、着替えは体育倉庫でやれって言われてな」
「ああ、そういう……。うん、よかった」
ほっとしたような空気が教室中伝播していく。なんだなんだ一体。不思議そうな顔をして見ていると、呆れたような顔を向けられた。
「お前……女子が同じ教室で着替えようとし出したら誰だって動揺するだろ」
「そうは言ってもオレだぜ?」
「だから余計に複雑な気持ちになってんだろうが」
相田の言葉に何度も頷く市川と岩瀬。
「元が男、しかも源なのはよく理解してるけど、それでも目に映るのは美少女なんだ……。脳が混乱して変な感覚に目覚めそうになるのが怖いんだ!」
「ええ……」
三馬鹿の残り二人が神妙な顔でいる辺り、こいつらもそう思っているようだ。だがしかし。
「オレでそうなるんなら、瑞樹の方はどうだったんだ。見た目で言うなら瑞樹だってその対象になるだろ」
咄嗟に出した反論に、瑞樹がぎょっと目を見開いた。
「なんでボクを槍玉に上げるの!?」
「坂井だってそうだったさ! けど坂井は完全に男だって分かってるから、一緒の空間で着替えることには納得できる。ただ実際に着替えてるところを見ると変な気持ちになりそうで、見ないように気を付けてただけだ!」
「そんなこと考えてたの!?」
一年間付き合ってきた級友からの告白に驚愕の色を隠せない瑞樹。しかしそんな反応に対しても三馬鹿の言葉は止まらない。
「正直体育のときも少しドキドキするんだ! たまにふわりと浮き上がった裾から素肌が見えたりすると、自分はとてもいけないものを目にしているんじゃないかって」
「プールのときなんかはもっと大変だよ。いざ授業が始まって水着の状態でいてくれたら、むしろ堂々としているから男子だと認識できるっ。けどシャワーを浴びるときとか、更衣室で着替えてるときに邪念が芽生えそうになるのを抑えて……っ!」
「そうして今なんとかやり過ごす術を身につけたんだ!」
あまりに必死なその様に、瑞樹どころか最初は同情的に見ていた男子の半数も引き気味の反応を見せている。
「流石にそれは言い過ぎじゃ……そんなことあるわけないよ、ねぇ」
あった。こちらを信じるような目で見てきた瑞樹には悪いが、中学のときにそういう奴から相談を受けたことがある。
そいつは体育の着替えの際に、ちょうど悪い角度から瑞樹のことを“見て”しまったらしい。まるでホラー映画の悪霊じみた扱いだが、あのときの話のトーンからするとそう間違ってもいなかった。それ以降瑞樹に対する感情が膨れ上がり、どうすればいいのかとオレに聞いてきたのだ。
結局紆余曲折を繰り広げ、彼も自分の感情にうまく折り合いをつけた。後遺症として性癖が一つ増えたくらいで済んだのは僥倖だと言えよう。
とにもかくにも、そういった事例があることを知っているオレはただ口を噤むことしかしなかった。
「八千代? ……ねえ、八千代? どうして黙ってるの?」
「そろそろ移動しないと着替えられないな。どうせだから瑞樹も用具入れで着替えちまえばいいさ」
「ちょっと? まだ答えてもらってないんだけど?」
後ろから聞こえてくる瑞樹の問いをはぐらかしながら、体育倉庫へ向かった。
中休みだけあって、体育館に人は少ない。奥まった場所にある倉庫内は、そこそこ大きな窓がついていて以外と明るい。頻繁に換気しているからかあまり埃っぽさは感じず、着替えるにしても不快感は覚えずに済みそうだ。
「それじゃあ、先に着替えなよ」
結局体操着を持って着いてきた瑞樹が言う。
「ボクが表で見張ってるから」
「そんなん必要ないだろ」
「いるってば。もし誰かが入ってきたらどうするつもり?」
別に問題ないと思うんだがなぁ。とはいえもう時間も押しているし、さっさと着替えて瑞樹と変わろう。
ささっと制服を脱ぐ。加苅たちに選んでもらった下着は、一応運動のときもそのまま着けていて大丈夫な代物らしい。流石にさらしを毎度毎度着けるのは時間がかかるから、これ一着でなんとか出来るのはありがたい。
そんなことを考えている内に着替え終わった、のだが。
「着替え終わったぞ」
「ん、じゃあボクも着替え……うわあ」
体育倉庫から出てきたオレを見て、瑞樹が声を上げる。
「サイズが……」
一言で何が言いたいのか即座に伝わった。ずり落ちそうになる短パンの紐をぎゅうぎゅうに締めながら、自分の格好を見る。やはり、男の頃の体操着ではでかすぎた。
袖は肘近くまであるし、短パンの方は膝が完全に隠れている。シャツの裾は少し長い程度に見えるが、それも胸が前面を押し上げているからで背中の方は尻まで隠れている。
今の背も女性の平均身長よりは高いというのに。常々妹から無駄にデカいと言われてきた元の体がどれくらいのサイズだったのかを客観視する機会となった。
「それで体育できるの?」
「まあ、大丈夫だろ。躓くほどあるわけでもないし、なにかに引っ掛けるような運動をするわけでもないんだし」
色んなところが余ってひらひらとしてしまうから、動きにくさはままあるが。
「とにかく平気だって。ほら、お前も着替えてこいよ」
授業まであと三分しかない。幸い、授業は体育館でやるし先生も事情は知っているから、情状酌量の余地はある。
瑞樹の背中を押して倉庫の中に入れ、今度はオレが入り口に立った。
「すいません、ちょっと遅れました」
クラスに合流すると、準備運動を始めているところだった。
「これ、鍵です」
「ん、あ、ああ……。ちゃんと準備運動するんだぞ」
なにか言いたげな顔をする先生に鍵を返すと、集団の後ろについて体を動かす。
そうしていると、同じく体育館を使う他学年の生徒から視線を向けられているのを感じる。なぜ女子が混ざっているのか、あるいは事情を知っているものからすれば、あれが噂の、といったところだろうか。
だがしかし、だいぶ視線に慣れてきた今のオレに動揺はない。準備運動もそろそろ終わりだ。体育委員のかけ声に従ってジャンプを始めた――瞬間、視線の質が変わった気がした。
今まで横目でチラチラとこちらを窺っていたのが、横目なのは変わらぬまま、チラ見がガン見に変化している。バレていないと思っているのかもしれないが、見られている側からすると露骨にもほどがあるぞ。と、気づけばクラスの面々もこちらを盗み見ている始末。お前たちもか。
しかし跳ぶ運動を移ったとき、その理由に気づいた。ジャンプすると、質量が慣性に従って動く。つまり、胸だ。
下着で支えているはずなのにこの動き方。激しい運動をするときは相当な注意や準備が必要になりそうだ。そして、
「いってぇ……」
思わずしゃがみ込むくらいに胸の付け根が痛い。千切れるんじゃないかと思うほどだ。いつものようにやっただけなのに、こんなことになるなどと誰が予想できただろう。女子か。
「ちょっ、大丈夫!?」
急にうずくまったオレを心配して、瑞樹が近寄ってくる。
「どうしたの? もしかして、体のどこかがおかしいとか……」
「胸、胸が……」
「胸? もしかして心臓!?」
「違う……、胸が痛い……」
「え?」
付け根部分をさすりながら、そう答える。瑞樹はなにがなんだか分からないといった表情だ。まあ、しょうがないだろう。これは持たざる者には分からない痛みだ。
「そのままの意味だよ……胸、乳、おっぱいが痛えんだよ」
「おっ……!?」
瞬時に顔を真っ赤にし、ちらりと胸を見る瑞樹。そしてそれに便乗するように、同じく視線を送ってくる男子たち。お前らほんとに分かりやすいから気を付けろよ。
胸を抱えて立ち上がると、すごく気まずそうな表情をした先生が声をかけてくる。
「あー……、調子が悪いようならしばらく休んでていいぞ」
セクハラにならないようにという、過剰なまでの気遣いがうかがい知れる。こっちも元は男なのだから、先生の気持ちも理解できる。だが元男にそこまで気を遣わなくても。
「気をつけるんで大丈夫っす」
「そ、そうか。なにかあったら言うんだぞ」
「うっす」
一先ず、探り探りで体を動かしていこう。早めに慣れないと今後大変なことになりかねないからな。
チーム分けを済ませビブスを着る。が、予想通りにビブスがきつい。元の体のときとはまた違った窮屈さだ。ヘソの辺りまでしかない丈を引っ張りつつ、コートに入る。
今日の体育はバスケだ。週末の球技大会の一種目で、オレが出る競技でもある。いつもならガンガン前に出てボールを運んでいくのがオレのやり方だが、今回は後ろで機会を窺いながらといこう。
「あれ、こっちにいるの?」
「ああ。対策を考えないと激しく動けないしな」
同じチームになった瑞樹の隣に立つ。いつもは視界に瑞樹が映らないから、この視点も新鮮なものだ。
全員がポジションについて、試合開始のホイッスルが鳴らされる。ボールは相手チームに渡り、フォワードが忙しく動き始めた。オレはその様子を見ながらゴール下で待つ。
思わず足がボールを追いかけようとしてしまうが、ここは我慢だ。少しばかり待っていれば――、
「よしきた」
フォワードを突破しゴールへ迫る相手選手の前に躍り出る。走り回ることはできないが、ボールを奪うことくらいはできるだろう。身長が低くなったとはいえ、これで男子平均くらいはある。身長はイーブン、あとはこの体がどこまで動いてくれるか。
相手に触れないように、けれど大胆に距離を詰める。さっと手を伸ばしスティールを狙うと、
「うわっ」
相手は大きく体をひねって避け、そのままボールを取りこぼしてしまった。ボールは追いついてきた味方が拾い、こちらを一瞥するとそのまま攻撃に転じる。
オレはその背中を見送りながら、なんらかの違和感を感じていた。
それの正体に気づいたのは、授業が終わってからのことだ。
ボールを片付けてから着替えようと思い、体育委員に近づく。すると彼らはそれを遮り、着替えに時間がかかるだろうから、先に着替えてこいよ、と言った。
そのときの表情で彼らの意図を察した。同時に、授業中の彼らの態度も。なるほど、オレは気遣われていたのだ。それに気づくと、なんとも形容しがたい感情に襲われるのだった――、
「ってことがあってな」
「なっははは! 男子ってほんと、あっはは!」
ということを昼休みに話したら加苅に笑われたのだった。