ウィンターカップ決勝戦。洛山高校との一戦は、ボクたち誠凛高校の惨敗に終わった。
かつて全国三連覇を果たした帝光中学校。その中でも無敵を誇り、『キセキの世代』と呼ばれた空前絶後の天才達を率いていた主将、赤司征十郎。彼の前には全ての全てが見抜かれ、見透かされ、無力化されたのだ。全ての希望を砕かれ、さらに未来までも閉ざされる。それが帝王に歯向かった末路だった。
「これがボク達の限界なのか……?」
夕陽も落ちた、街灯だけが辺りを小さく照らす薄暗い空の下。そんな人気の無い道路の脇を、ボクは俯きながら歩く。他の先輩達とも失意のまま駅で別れ、誰一人言葉を発せないまま、それぞれが帰宅の途についていた。
はっきり言って悪夢だった。あの試合は思い出すことすらしたくない。できることならこのまま何もかもを忘れて眠ってしまいたい。夢であって欲しいと心の底から願った。絶望と諦念に心の中が満たされる。
――前方からトラックが擦れ違うように向かってくる。
道路の端に避けようと足を踏み出そうとして……
「あれ?」
試合による肉体的な疲れか、精神的なものか、おそらくは両方。足を踏み外した、ボクは車道へと倒れ込んでいく。視界を埋め尽くすヘッドライトの光。
ボクの意識は暗転した。
「…い……おい!大丈夫かよ!」
目を開くと、降り注ぐ太陽の光が網膜を焼いた。仰向けになっていたボクの目が強烈な刺激が襲い、慌ててまぶたを閉じる。
「……太陽?さっきまで夜だったはずじゃ……」
「ったく、びっくりしたぜ。リングに当たって跳ね返ったボールで。顔面打って気絶するんだからよ」
身体を起こしたボクの前には小学生くらいの男の子が座り込んでいた。いつの間にか明るくなった周囲を見回すと、線の引かれた地面にバスケットボール。顔を上げるとバスケットのリングが設置されていた。
「ここはどこですか……?というか君は……?」
「うわああああ!黒子が記憶喪失になったああああ!」
ボクの肩を掴み、泣きそうな顔でガクガクと前後に揺さぶる少年。
あれ?この声、それにこの場所は小学生の頃に毎日通っていたコート?
「もしかして、荻原君ですか?」
口を突いて出てきたのは、かつての親友の名前だった。
「……何だよ、覚えてんじゃねーか。驚かすなよな。ほら、バスケしようぜ」
一瞬にして笑顔に戻った彼は、楽しそうにボールを持って立ち上がる。まぎれもなくその姿は、小学生時代に毎日バスケットをして遊んだときのままだった。朝から晩まで二人でコートを駆けずり回った幸せな思い出が蘇る。
――ああ、そうか。これはボクの夢なのか。
小さく口元に笑みが浮かぶ。昨日の夜、皆の前で中学時代の話をしたせいだろう。現実ではバスケに絶望した荻原君との、かつての幸福な過去に浸りたくなったのか。まったく我ながら厚顔無恥にも程がある。あんな罪を犯しておきながら、辛いときには都合良く思い出そうだなんて。だが、今はその安らぎに抗えそうに無い。
「そうですね。また、一緒にバスケしましょう」
「おう!じゃあ今度はオレの攻撃からな!」
今日の決勝は色々なことがありすぎた。絶望も無力感も後悔も、そして敗北も。今のこの時間だけは、全てを忘れてただ甘美な誘惑に身を任せよう。
スティールに来た荻原君を、間一髪のタイミングでボールを背面に入れてかわす。ビハインドザバック。そのまま体勢の崩れた少年を相手にドリブル突破を仕掛けた。何とか半歩だけ身体を入れて抜くことに成功。そのまま放った変則レイアップは、リング上をクルクルと回ってからネットを通過した。
「おおっ!黒子、めっちゃ強くなってんじゃん!」
「……どうも」
嬉しそうに笑う彼に、しかしボクは小さく苦笑した。身体能力の差、拙いボールハンドリング。
それでも高校で全国の決勝まで勝ち進んだ身としては、本気で戦って小学生と互角というのはむしろ軽いショックだった。経験や読みを総動員してこんな状態だなんて。自分の才能の無さは笑うほかない。とはいえ、そんな勝ち負けとは無関係にこの遊びは嬉しかった。
「よっしゃ!こんどはオレの番な!」
「わかりました。どうぞ」
ボールを荻原君に投げ渡す。受け取ると同時に全力で走り出す。無邪気な笑みを浮かべてドライブを仕掛ける荻原君に、腰を落として対応する。右と思わせて左。身体能力に任せたクロスオーバーだが、しかしそれゆえに対処しづらい。
「うおおおっ!」
先読みによって相手の動きを読むが、ボクは決して速度や高さがある訳ではない。無理矢理ゴール下まで侵入されて、ゴリ押しで放ったシュートが決められる。
「こんな適当なシュートにやられるなんて……」
苦笑しながら溜息を吐く。この地域にミニバスのチームはない。少し遠くの学校に行けば別だろうが、家の近くにバスケットコートがあるのだ。わざわざ所属する必要を感じなかった。なので、荻原君もバスケについては独学にすぎない。
「ひでえな、黒子。だったらオレに教えてくれよ」
「え?」
その言葉に、ボクは驚いて見つめ返す。それもそうだろう。かつて、ボクは目の前の少年にバスケットを習ったのだ。そんな彼に教えるなんて思ってもみなかった。
「はい。もちろんです」
一瞬だけ複雑な感情が内心で渦巻いたが、すぐにボクは微笑みながら返事をした。過去とは違う展開に戸惑ったが、これが未来を知ったことによる変動なのだろうと前向きに受け入れる。恩返しできると思えば、願ってもないことだ。
「さっきのなんですけど。あれはまず半身になって……」
「こ、こうか?」
「そうです。そこから背中側に腕を回してドリブルを……」
見様見真似でボクの技をやってみる。何度かの試行錯誤の末、だんだんとスムーズになってきた。嬉しそうに喝采を上げる荻原君。
そんな彼の姿に、失意と絶望に飲まれバスケをやめてしまった彼の、幸福だった頃の夢に、ボクの目元が涙で潤んだ。それを袖でぬぐって、心を込めてドリブルの技を指導する。
「よっしゃ!できた!できたよな!?」
技が成功したと大声ではしゃぐ。それはこちらも同じ気持ちだった。ボクらは互いに右手を上げ、ハイタッチをかわした。
この夢はいつまでも終わらないで欲しい。
たとえ一時の夢幻だとしても、ただこの幸福な世界に留まりたかった。しかし、そんな黒子の願いも虚しく、幸せな時間は過ぎていく。夕焼けに染まる空は次第に薄闇に沈んでしまう。
「おっと、もう暗くなってきたな。そろそろ帰ろうぜ、黒子」
「荻原君……。もっと、もう少しだけ、バスケしましょうよ。……あと少しでいいですから」
それは現実に疲れた自身の懇願だった。全国制覇させると誓った先輩達を敗北させてしまったこと。夢破れ、二度と同じチームで試合をできなくなった無念。自身の全てが否定された洛山高校との試合。そして、あまりにも無惨で凄惨な仕打ちの前にバスケットを捨てさせられたかつての親友の絶望。あの現実にはもう戻りたくなかったのだ。
「ほら、まだボール見えるでしょう?もっと、この場所で……」
悲壮な表情を浮かべて言い募るボクの姿に、彼は困ったように笑った。そして、転がっていたボールを手に取り、両手でこちらに投げ渡す。
「明日、またやろうぜ。明日も、あさっても、これからずっと。毎日バスケやろうぜ。だから、今日はお別れだ」
その顔は未来への希望に満ち溢れていて、明日の自分をまるで疑っていない前向きな姿だった。終わってしまったボクとは違う。それを眩しさを感じながら見つめ、涙を我慢して微笑した。
「はい。また明日。きっと、必ず」
未練を隠して、別れの言葉を返したのだった。
まあ、結論を言えばこれは夢でも何でもなく、まぎれもない現実であった。翌日、ボク達は再び同じバスケットコートで出会うことになる。
記憶よりもわずかに若い両親。机の上の小学校の教科書など。夢見心地で自宅に帰ったボクを待ち受けていたのは、まるで過去に戻ったとしか思えない状況だった。いや、それは荻原君と再会したときから分かっていたが、いつになれば目が覚めるのだろうと困惑を感じたのを覚えている。
そのまま翌朝になり、小学校に通い、そして一年が過ぎていた。
「本当に、どうなってるんでしょうか……」
「ん?どうしたんだ、黒子?ぼーっとして」
「……いえ、何でもありません。今日は何をやりましょうか」
「あれやろーぜ。シュート勝負」
いつものコートで、ボク達はバスケを楽しむ。日常になった光景。今ではあの未来こそが夢だったのではと疑うくらいだった。
「よっし!8-6でオレの勝ちー!」
ガッツポーズをする荻原君。さすがに将来、全中決勝までエースとして勝ち上がるだけのことはある。一般のレベルで言えば、十分才能溢れる部類であろう。感嘆の溜息が漏れる。
「上手くなりましたね」
「だろー!黒子もその変な投げ方を直せば、もっと入るんじゃねーの?」
「……ボクはこっちの方がいいんですよ」
最適なフォームでこの成功率なのだ。掌で弾くように放つ固有のシュートフォーム。かつては『幻影の(ファントム)シュート』と呼ばれた必殺シュートも、正確さにおいては小学生にも及ばない。しかし、悔しくはない。
「もう、荻原君には勝てませんね。本当に上手くなりました。もう教えることはありませんよ」
ホッと肩の荷が下りた気分だった。この一年間、とても楽しく、夢のような時間だった。しかし、かつて自分の犯した間違いは、どこかで頭の片隅に残っていた。
荻原君との再会は喜びと郷愁と、そして罪悪感が混ざり合った感情だった。バスケットを教えることでボクはその贖罪としていたのかもしれない。だけど、それもこれで終わる。
「荻原君、もうすぐ転校するんですよね」
「ああ、そうなんだよ。何かうちの親、転勤ばっかでさ」
沈んだ表情を隠しきれずに小さな声に変わる。だったら、とボクは意を決して口を開いた。
「中学に行ったら、またバスケをしましょう。――今度は公式戦で」
「……そうか。そうだよな!いいじゃん!次は敵同士でやろうぜ!」
荻原君が興奮した様子で拳を上げる。それに呼応してこちらも同じ動作をする。
かつて、ボク達は同じ約束をした。二人の間の大事な約束だった。だが、その思い出は、どす黒い絶望に塗りつぶされている。
――失意の末、荻原君はバスケをやめた
敗北という結果のせいではない。惨敗の苦渋のせいでもない。勝利とか敗北とか、そんな結果ならば彼は受け入れただろう。それだけの心の強さを持っていた。原因はひとつ。思い出したくも無い、あの試合の過程にこそあった。
そして、それは高校に入っても同じだった。
赤司君の率いる洛山高校との決勝戦。結末は敗北。さらに、無理を重ねた木吉先輩の足は限界を超えた。それによって選手生命は絶望的となったそうだ。試合終了と共に先輩は顧問の先生の車で病院に運ばれ、高校生の間に試合に出ることは不可能との診断が下った。慟哭の嘆きだけが残ったそれが、先輩の最期の試合である。結果を求めたがゆえの、最悪の結末。
勝利なんて求めるものじゃない。大事なのは結果ではなく、過程だ。そう、ボクは悟っていた。
「絶対勝つからな。覚悟してろよ」
無邪気に笑う荻原君に一拍置いて、ボクは決意と共に見つめ返す。
「……良い試合にしましょう」
コツンとボク達は互いの拳を突き合わせた。
完成した『幻の六人目』の加入は、帝光中学に、『キセキの世代』に、以前と異なる軌跡を辿らせることとなる。しかし、その過程はともかく、約束の結果については、残念ながら変わることはない。