中学最後の大会が幕を下ろし、オレの中学バスケは終わった。去年、散々に敗北した帝光中学に勝つために、皆で特訓を積んで臨んだ大会だが、結果的に彼らと当たる前に敗退してしまった。
『無冠の五将』などと呼ばれても、その程度なのだ。悔しさはもちろんある。しかし、内心に浮かんだのは安堵。あの異常なまでの、埒外の化物集団と戦わなくて済んだ。その弱さこそ、最も悔いるべきことだった。そして、後悔と共に卒業するはずだった。
「奇跡を起こしてみたいと、アナタは思いませんか?」
――あの男と出会うまでは。
9月のある日。夏の暑さも和らぎ、初秋の色が見え始める。快適な日差しの中、オレは広い敷地を進み、とある中学の体育館の前に足を運んでいた。存在感のある建物だ。そう感じるのは、ここが因縁の場所だからだろうか。脇目も降らずに入口の扉を潜り、室内へ入る。
玄関で待っていたのは、小柄で存在感の薄い少年。オレを勧誘した、得体の知れない後輩の男だった。
「お待ちしていました、木吉先輩」
――黒子テツヤ
それが少年の名前だった。全国最強の一員。オレ達のような敗残者を集めて、あの怪物集団『キセキの世代』に挑む。それを聞いたとき、オレは驚くこともできず、説明できない感情に包まれた。想像すら困難な夢想。実現など不可能としか思えない。だが、それが彼の目的だった。
ここは帝光中学。キセキの生まれた場所。
連れられて向かった先には、すでに4名の男達が待っていた。馴染みの顔だ。この1か月、時間を作っては彼らとの連携に費やしたのだ。
『悪童』花宮真
『夜叉』実渕玲央
『剛力』根武谷永吉
『雷獣』葉山小太郎
そしてこのオレ――『鉄心』木吉鉄平
かつて『無冠の五将』と謳われ、帝光中学に惨敗した者達。帝光中学のロッカールームに集結した。ベンチに腰を下ろし、イヤホンで音楽を聴く実渕。花宮はびっしりと文字と図の書き込まれたノートに目を通している。根武谷はカロリーメイトを口に入れ、物珍しそうに葉山は辺りをキョロキョロと見回す。各々の方法で試合前の緊張をほぐし、精神を高めていた。
通う学校も信念もスタイルも異なる。だが、共通するのはこのまま、敗北者のまま卒業したくないという気持ち。
彼らの顔には不安と恐れと、自信が浮かんでいる。対策は練ってきた。練習も積んだ。そして、彼らもいる。
「あちらの準備は済んでいますか?」
「うん。大丈夫だよ」
「待ちに待ったぜ。ようやく、アイツらをぶちのめせる」
小柄な少年、黒子テツヤの声と共に現れたのは一組の男女。見慣れた顔ぶれ。帝光中学からの協力者。灰崎祥吾と桃井さつき。目付きの悪い少年とロングヘアーの少女。幾度も顔を合わせる機会があったが、彼らの能力は群を抜いている。帝光中学でレギュラーを張る主力選手と、その頭脳たるマネージャー。
「何だよ、お前ら。ずいぶんテンション低いじゃねーか。ビビッてんのかよ」
「うるせえ、コッチは集中してんだ。黙ってろよ」
「あん?」
苛立たしげに花宮が口を開き、灰崎の視線が鋭くなる。
「よしなさいよ、みっともない。元気が有り余ってるなら、試合に向けなさい」
「そーそー。もうすぐ試合じゃん」
実渕がたしなめ、葉山も軽い口調で尻馬に乗る。暴発寸前の2人が矛を収めたタイミングで、影の薄い少年が声を発し、周囲を見回した。
「相手は埒外の天才集団、『キセキの世代』。才能と性能は、アナタ達を遥かに上回るでしょう。ですが、弱点もある」
全員がその声に耳を傾ける。視線を合わせ、意識を向けた。まるで吸い込まれるような、飲み込まれるような、虚無の深淵を連想する。無色透明な存在感と塗り潰された暗黒。矛盾する感覚に、ざわりと背筋に怖気が走った。
「スタミナの不足。ボク達が勝利するとしたら、唯一有利なそこを突くしかありません。詳しい戦術はすでに桃井さんから授けられていますね。格上だからといって、固くなる必要はありません」
帝光中学の内部ですら畏れられる怪物。得体が知れない。それがオレの印象であり、『キセキの世代』という光を塗りつぶすには最適なのだと直感していた。彼は隣に立つ灰崎に視線を送る。
「なにせボク達は、こういった試合に慣れています。大船に乗った気持ちで臨んでください」
帝光中学が誇る第一体育館、一軍専用コートにオレ達は足を踏み入れた。意外にも二十を超える帝光1軍の面々が勢揃いしていた。今日は午前練のみで、他の部員は帰るだろうと黒子は話していたのだが。興味深そうに異邦人であるこちらに視線が集中する。
「……予想外でした。こんなに野次馬がいるなんて」
「そりゃそうだろ。オマエがわざわざチームを作ってくるんだから。誰だって試合を見たいに決まってる」
黒子のつぶやきに、色黒の少年が愉快そうに答えを返す。
「そんなことより、早く始めましょーよ。楽しみにしてたんスから」
「そうだな。誰かさんは、風邪を押してまで出場するらしいからな」
メガネの少年がジロリと灰崎を睨み付ける。どうやら、体力温存のために午前の練習を仮病でサボったらしい。何てヤツだ。素知らぬ顔で彼はコートに入り、ジャンプボールの配置につく。
「あ、ボクは監督の許可をもらって休みましたので」
平然と黒子も片手を上げて答えた。お前もサボったのかよ。まあ、今回の戦術は相手との体力差に依存している。勝機はその一点の優位性のみ。よく考えれば練習に出ないのは、当然の選択と言える。オレもセンターラインの円の中心で相手を待ち構えた。
「ん~?アンタがマッチアップ?誰か知らないけど、大したことなさそうだね~」
息を呑む。目の前に現れた巨体。間延びした声とは裏腹に、押し潰されるような圧迫感。ただ在るだけで撒き散らされる、あまりにも強烈な威圧。これが『キセキの世代』紫原敦。
「ヒネリ潰されないように、がんばってよ。少しくらいは手ごたえがあるといいんだけど」
眼中に無い。どころか、オレのことを忘れているらしい。1年前の全中以来だが、当時は散々にやられたものだった。そして、力の差は埋めがたく広がったらしい。中学生のCとしては大柄の部類に入るオレだが、この男とは比較にならない。天賦の肉体としか、言いようがない。身長差は大きく、筋力も速度も段違い。別次元の存在であると、本能が理解してしまっている。
「……これはマズイな」
周りを見渡すと、スタメンで出場する花宮と根武谷の表情が硬い。明らかに委縮していた。自分自身も手足が重く感じる。その間に他の選手達もコートに集結し、試合開始の準備が終わった。
――先取点を取れなければ、序盤を持っていかれる
そんな予感と共に始まったジャンプボール。
「なんて高さだ……!」
思わず声が漏れる。自分の伸ばした手より、遥か上方でボールが叩かれる。せーので跳んで、ここまでの差が出るのか。絶望に目の前が真っ白に染まった。ボールの向かう先は、狙い通りに帝光チーム。『キセキの世代』最強のドリブラー、青峰大輝に渡る。
「よっしゃ!行くぜ、速攻……っておい!」
ドリブルに移行しようとした瞬間、出現した黒子にスティールされる。攻撃の態勢に入っていた帝光に対するカウンター。この展開を予測して、灰崎がすでに駆け出している。ボールが渡り、そのまま単独速攻。
「させないッスよ」
唯一、自陣に戻れたのは金髪の少年、黄瀬涼太。1on1で相手を止めに掛かる。対抗するように、灰崎はドリブルの速度をさらに上げた。互いの視線が交錯する。
――ストップからのジャンプシュート
「なっ……この技は氷室の!?」
黄瀬の身体が一瞬硬直する。滑らかに洗練された一連の動作。繋ぎ目の一切が消えた連携。流麗なダンスのごとく。ネットを揺らす音と同時に、時が動き出す。思わず魅入ってしまった。それほど完成度の高い技術だった。
「……アンタの技量じゃあ、使えなかったはずッスよね」
「ハッ!いつまでもそのままにするかよ」
「なるほど。さすがに前と同じ、とはいかないッスか」
小さく息を吐き、黄瀬は表情を引き締めた。
先制点を奪い、オレは肩をなでおろす。まずは一安心か。手も足も出ずに終わりはしない。圧し掛かっていた錘から解放されたようだ。自分の身体が軽くなった気分。仲間達も同じらしい。続いて相手の攻撃ターン。
すぐに過酷な現実が襲い掛かる。
「ふーん。そんなもん?」
つまらなそうな紫原の声が耳に届く。だが、それに応える余裕はない。両足を踏ん張り、全力で力を込めてなお、ビクともしない。まるで巨大な岩を押しているよう。ここまで能力に差があるのか。頭では理解できていたが、実感するとさすがに辛いものがある。
「じゃあこっちも、お返しッス」
黄瀬がドリブル突破を試みる。マッチアップは灰崎。高速のドライブを仕掛けた。そして――
――ストップからのジャンプシュート
先ほどの灰崎が披露したものと寸分違わず。流麗な舞のごとき。だが、今回はその技に魅入る余裕はなかった。リバウンドのために、紫原に対してスクリーンアウトしなければならない。ゴール下で優位な場所を奪い合う、Cの主戦場。今回はディフェンス側。ポジション取りはこちらが有利。だというのに……。
「やばい!木吉が全然止められてねえ!」
ベンチの葉山が発する、切迫した声音を耳の端で捉える。必死に押し返すが、何の障害にもならず、半ば無抵抗でリングの真下まで追いやられた。何もできない最悪の位置。
パサリとボールがリングを通過した。
リバウンドの必要はなかった。だが、もしも外れていたとしたら、そのまま紫原に捻じ込まれていたはずだ。それが続いたならば。背筋が凍る思いだった。
リバウンドを支配されれば勝ち目などない。この要衝に求められるのは、彼を自由にさせないこと。そして、オレでは明らかにパワーが足りなすぎる。
「うおおっ!また灰崎のドリブル突破だ!」
反撃の速攻。こちらで唯一戦える彼が駆け抜ける。電光石火の一閃。黄瀬をかわし、コートを縦断する。だが、さすがは帝光。尋常でなく戻りも早い。直後、青峰が正面に現れる。悔しいが、こちらはハイスピードの攻防についていけない。1on1の勝負。
「おらよ」
そう思いきや、灰崎はあらぬ方向にボールをバウンドさせた。ドリブルではない。一瞬の虚をつくことに成功する。突如、出現するのは神出鬼没の黒子テツヤ。
「チッ……しまった」
気付いたときにはもう遅い。ワンツーでボールの軌道が変化。驚愕に顔を歪めた青峰の脇を、アイツはすり抜けている。ノーマークで高く跳び上がる。空中へと浮かされたボールを、アリウープでリングに叩きつけた。
「すげえ!一進一退じゃねーか!」
観客と化した帝光中の部員達が興奮した様子で叫んだ。だが、状況はこちらが不利。小手調べの帝光に比べ、こちらは灰崎と黒子で喰らいついているだけ。すぐに差は開く。
続くこちらのディフェンス。相手は、誰も彼もが余力を残した表情だ。そして、最も容易に勝てるマッチアップがココ。背中越しに押し合うが、圧倒的な膂力にまるで対抗できない。
「頼んだよ、紫原」
「了解~」
主将の赤司からボールを受け、反転して跳躍する。負けじとオレもブロックを狙うが、身体をぶつけ合った瞬間に敗北を確信した。これまで経験したことのない、未曽有の破壊力。圧倒的なエネルギー。自分の身体が軽々と吹き飛ばされるのを感じた。コートに背中から落下する。衝撃と痛みに、思わず顔をしかめた。
床から見上げると、両手持ちダンクを決めた紫原の巨体。
なるほど、と彼らの言葉を思い出し、諦念と共に息を吐いた。コートに大の字で寝そべって、静かに瞠目した。
黒子と桃井の両者が口を揃えたことだった。オレでは彼に対抗できないと。認めるしかない。わがままを言って雪辱の機会を貰ったが、これ以上はチームに迷惑を掛けるだけだろう。根武谷に目線でコンタクトを取る。
「ポジションチェンジだ。次から計画通りに戻してくれ」
「ああ、任せろ」
根武谷が頷いた。彼でなければ、押し合いの土俵にすら上がれない。無念はあるが、オレはPFの位置に変更せざるを得ない。だが、最後に一噛みくらいはしてやるさ。
速攻を止められ、ハーフコートの攻防に移行する。PGの花宮がボールを保持。周りのメンバーが動き回り、攻撃の隙を狙う。しかし、磨き抜かれたセンスはディフェンスでも健在。どこにも穴などない。オレも紫原を相手に、全力で押し合いを挑む。
「はぁ~。パワー違うって分かんないの?」
「やってみなきゃ……わかんないだろうがっ…」
必死に肩越しに圧力を掛け、ハイポストを奪おうと試みる。腰を落とし、低い重心から渾身の力を籠める。だが、いつも通りビクともしない。紫原はつまらなそうに溜息を吐いた。ああ、そうだ。十分理解しているとも。だからこれは囮。パワー勝負を挑むと思わせるための。
「しゃーねえ。オレが撃つしかねーか」
速攻ならともかく、万全の陣を敷かれた状態で切り込むのは困難。いくら彼でも『キセキの世代』2人以上に囲まれれば敗北は必至。顔をしかめ、灰崎がその場でジャンプシュートを放つ。ボールが宙に舞う。
「チッ……リバウンド!」
外すのを予感した灰崎が叫ぶ。ゴール下はすでに陣取り合戦が始まっていた。今回はこちらが不利なオフェンスリバウンド。普通にやれば、紫原の怪力で外側に押し出されるだけ。だが、ここだけは絶対に取る。決死の覚悟と裂帛の気合と共に雄たけびを上げる。
「うおおおおっ!」
その声に反応して、彼は後ろを見ずに反射的にスクリーンアウトの態勢を取る。肩を広げ、腰を落とし、両足を大きく広げる。この試合が始まってから、ひたすらパワー勝負を挑んでいたことは頭に残っているはず。そう、お前はオレのことを忘れている。オレの本領は力押しではなく――
――駆け引きなのだということを。
「えっ……なんでそっちに!?」
一瞬の隙を突く。大回りして、紫原の前に跳び込んだ。背中越しに、一気に後方へ押し出す。初めて、岩のような巨体が揺らいだ。背中に掛かる圧力がわずかに緩む。ガツリと、シュートがリングに弾かれる。宙空に浮かぶ。方向はオレの真上。リバウンド勝負。2人が同時に高く跳び上がった。
「駄目だっ!やはり紫原の方が高い!」
有利な位置を取ってさえ、相手の方が高い。身長差に加え、特有の腕の長さも。その両腕がボールを掴む寸前、オレは右腕を高く伸ばした。肩を入れることで最高到達点を伸ばす。これは去年の全中で、紫原のやった技だ。
――『バイスクロー』
右の掌でボールをがっちりと掴む。この1年間、ひたすら握力を鍛えることで可能とした。背後で紫原の驚く気配があった。そのまま着地し、ボールを懐に抱え込む。顔を横に向け、パスの態勢を取る。
「いくぞ、灰崎!」
「させない……って、アレ?」
投げ渡す寸前で、ボールが止まる。パスはフェイク。右掌で保持したまま。だが、相手はカットのために手を伸ばし、態勢が崩れている。やはり、オレのことは覚えていないらしい。
「出たっ!木吉の『後出しの権利』!」
――オレは相手の動きを見てから、行動を選択できる。
乾坤一擲。渾身の力を込めたダンクが炸裂した。
二度と通用しないだろう。駆け引きなど無関係。やろうと思えば、この男は選択肢すべてを網羅できる。裏をかいても、さらに後出しで止められる。それほどに圧倒的な反射神経とリーチ。だが、オレのことを忘れていた代償は払わせてやった。それで充分。
「……思い出したよ。去年の全中でやった無冠の何とかだよね?」
静かに紫原が問い掛ける。その眼には、先ほどまでの油断はない。意識を切り替えたと、身に纏う雰囲気のみで理解する。
全国最強どころか、史上最強の呼び声高い帝光中学の『キセキの世代』。ここまでの展開、彼らにとっては様子見に過ぎない。
歴史上でも類を見ない化物との戦いは、まだ序盤。