この僕、赤司征十郎には2つの人格が存在する。
元の人格である『オレ』と、ストレスにより後天的に生まれた『僕』。両者がせめぎあい、いずれかが表の人格として現出するのだ。帝光中学で涼太との勝負で追い詰められたとき、『僕』は創られた。絶対的な勝利を得ることこそが存在意義。ゆえに、火神大我に敗北を喫することで、自身の根幹が揺さぶられ、それ以降、『僕』の人格は不安定となる。存在の消失はすぐそこまで迫っていた。すでに主導権は『オレ』が握りつつある。
そんな中、NYで再び『僕』達は敗北の危機に見舞われた。精神世界で、『オレ』が残念そうな表情で口を開く。
『理解しているだろう?今のままでは、ナッシュに勝てない』
「ああ、身体能力や技量もそうだが。問題は、眼の精度で劣っていること――」
『僕』は認める。だが、正面に立つ『オレ』は瞠目し、左右に首を振った。
「『天帝の眼(エンペラーアイ)』が劣っている訳じゃない。おそらく、オレ達が二人に分かれてしまったからだ」
「なるほど。ならばつまり、ナッシュに勝利するために必要なこととは……」
『僕』の有する――未来を見通す『天帝の眼(エンペラーアイ)』。
『オレ』の有する――究極のパスを出すための『コート視野(ヴィジョン)』
これらを統合させること。つまりは、人格の融合が必要なのだ。後天的な人格である『僕』の消滅。だが、いずれは訪れること。意外なほど僕の心は静まっていた。
「全てを返して、一人の人間に。だが、最後に頼みがある」
『何だ?』
心の奥から、どうにも湧き上がる熱。勝利を司る人格としての意地か、最期を迎える者としての懐古か。あるいは、バスケットへの情熱か。『僕』の全てを懸けて、かつてない強敵との勝負をしたいと欲が出た。
『いいだろう。赤司征十郎として、必ず勝ってこい』
『オレ』の激励に、微笑を浮かべて頷いた。自身との対話は終わりだ。意識を深く沈めていく。雑念が消え去り、精神が研ぎ澄まされる。そして、トリガーを引く。
――『僕』の手で勝負を決める覚悟
一転して、視界が塗り替えられた。
決勝戦、残り2分。コートを取り囲む金網の内側に、老若男女の歓声が渦を巻く。クライマックスを彩る絶技の連続。狭いケージが熱狂に包まれる。この場の全員の視線はただ一組のPGの対決に向けられた。
――ナッシュの手からボールが弾き飛ばされる。
「チッ……またか!?」
サイドチェンジの瞬間を見通し、僕の掌がボールを叩き落とす。舌打ちするナッシュ。
守備範囲、反応速度、そして予測精度が上がった『天帝の眼』。ゾーン状態のそれは、もはや人外の領域。先ほどまで手も足も出なかった脅威の実力者、ナッシュの猛攻を跳ね除ける。
「あの反応速度、イカれてるぜ……!」
「とんでもねえスティールだぜ!」
周りの声は雑音として脳内には入らない。ただ、目の前の強敵のみに専心。続いてこちらの攻撃。キレを増したドリブル、精度を増した眼力。冴えわたる知覚と肌がヒリつくほどに鋭敏な触覚。格段に上昇した突破力で以って、ナッシュの予測を上回る。クロスオーバーからのペネトレイト。瞬時に相手の右脇をドライブで抜き去った。
「させるか、クソがっ……!」
巨漢の黒人、シルバーが俊敏な反応速度でステップし、立ちはだかった。『天帝の眼』で未来を予測する。相手は高さと速さを兼ね備えた怪物。インサイドに向かうのは悪手。ストップからのフェイダウェイジャンプシュート。この男でもギリギリ届かない距離を見計らい、ボールを投げ放つが――
――背後から跳ぶナッシュに、弾き飛ばされる。
「うおおおおっ!今度はナッシュのブロック!」
「さっきからお互い、全部止めてやがる!」
奥歯をギシリと噛み締める。攻撃を阻んだ金髪の男と視線を交わす。抜かせる方向を誘導されたか……。行動を読み切られたようだ。
先ほどから、同じ展開が続く。一進一退の攻防。僕が止め、ナッシュも止める。双方、矛よりも盾の強さが勝っていた。ゾーンで性能強化した僕は1on1で。ナッシュは味方を巧く利用して。それぞれ相手の攻めを封じていた。戦況は拮抗する。ゾーンに入った僕を以ってしても。
やはりナッシュ・ゴールド・Jr。身体能力や技術だけでなく、バスケIQも非常に高い。一人の未来しか見通せない僕の弱点を上手く突いてきた。コートの全景を予測しながら、ヘルプに来る選手を利用して一瞬の多対一を作り上げる。さらに――
「ナッシュが、少し引いて守ってるぜ!?」
抜かれないことを最優先にした構え。先ほどより懐が深い。無理にスティールは狙ってこないだろう。しかも、パスに関しては無警戒。
厄介な男だ。早くもこちらの特性を見切り、対応してきた。さすが、と表情には出さず、内心で驚嘆する。
僕がパスを出さないと、いや出せないと分かっている。僕のゾーン没入のトリガーは『自力で勝負を決める覚悟』だ。氷室ならともかく、火神に回せば、どうしても頼る気持ちが芽生えてしまう。ゾーンは解け、この試合もう没入できなくなるだろう。そこまで相手が理解しているとは思えないが、パスを出さないと推測してはいるはずだ。
「さすがにここまで引かれては……」
ゾーンといえど、抜ききれない。さすがに、僕と同等以上の眼を持つ男。ボールを前後左右に振り回すドリブルも、体勢を崩すには至らない。そして、ご丁寧にパスコースだけは空けてある。
「抜けるモンなら抜いてみろよ、クソザルが!」
ならば、とボールをキャッチし急激なバックステップ。瞬時に追いすがるナッシュ。距離の空いた隙を狙って、火神大我へのパス。と見せかけて、ノータイムでのロングシューを放つ。しかし、――
――寸前で手元からボールを弾かれる。
「くっ……やはり読まれたか」
「なるほどな。これで確信したぜ!」
顔を歪める僕と、対照的に口元を吊り上げるナッシュ。このパターンはもう通じない。
攻守入れ替わり、チーム『Jabberwock』。とはいえ、ナッシュの側も突破口は薄い。理由は、コート最深部に控える世界最強――火神大我の存在。試合終盤に至り、すでに彼の野性は解放済み。マンツーマンでシルバーを抑えながらも、コート全体に目を光らせている。神速のヘルプによる防御力。
1on1で僕を突破してからの、シルバーと連携した2対1。火神大我の守りを超える方法はそのくらいしかない。当然、ロングシュートは最警戒。
低く腰を落とし、慎重に制空権に足を踏み入れるナッシュ。相手も遠間からパスで逃げる気はないらしい。左後方にボールを残しながらドリブルで近付いてくる。互いにクロスレンジ。一閃で決まる距離。両者、共に開眼。
――バックチェンジから右。
未来予測と同時に僕は左手を伸ばす。だが、ナッシュの読みが深い。バックチェンジは囮。瞬時に背面で手首を返し、通常のドライブに移行する。これまでのストリートの派手なスタイルではない。正統派の、丁寧で無駄のない、最適化された技術。
「鋭いっ……!?」
誰かが叫んだ。前傾するこちらを抜きにかかるナッシュ。確かに駆け引きで敗れた。だが、そのパターンは想定内だ。抜かれる瞬間に上体を反転。ナッシュの背後から手を伸ばし、バックチップ。
「チッ……テメエ…!」
憎々しげに怨嗟の声を漏らす。ゾーン状態ならば、敏捷性(アジリティ)はこちらが上だ。ボールを弾き飛ばし、相手の攻撃を止める。
一進一退の攻防。だが、点差は2ゴールビハインドだ。残り時間は約1分。次で決めなければ、実質敗北が確定する。
センターライン上に立ち、視線を左右に彷徨わせる。左には氷室、右には野性的な雰囲気を放つ火神大我。彼の纏う威圧的な空気は群を抜いている。
そして正面に視線を戻す。金髪の男、ナッシュ・ゴールド・Jr。やはり隙が無い。油断も無い。この土壇場で、さらに集中力を高めてきている。しかも、先ほどのロングシュートで、パスは無いと確信された。1on1に選択肢を絞ったため、ドリブル突破のハードルはさらに上がる。
意を決して、最終決戦に臨む。細かなフェイクを入れ、最速のドライブを仕掛けた。狙うは左からの突破。だが、崩れない。横に並ばれ、進行方向をゴールから外にそらされる。
「ダメだ、抜けないぞ!」
「さすがにナッシュ、終盤でさらに上手い!」
ロッカーモーション、クロスオーバーでの切り返し、ストップからのジャンプシュート。全速力のドライブの最中、複数の選択肢が生まれ、瞬時に成否を判断させられる。『天帝の眼』による予測結果――すべてのパターンで敗北。
抜かせないこと、多対一に持ち込むこと。ナッシュほどの選手にこの方針を徹底されては、いかにゾーンでも厳しい。即座に導かれた思考に、僕の息がかすかに止まる。方法はひとつしかない。決心は刹那。勝利を司る人格である『僕』。最後まで、それに殉じよう。
――背面越しにボールを右へ放る。
「なっ……パス?」
虚を突かれ、ナッシュの顔が固まった。個人の勝利よりも、こだわるべきはチームの勝利。これが、僕の最期のプレイ。目指すはコート最深部。火神大我へ向けたラストパス。
それは無人の空間をふわりと飛んでいく。一秒にも満たないはずだが、僕にとっては何十倍にも感じられた。届け。
「ナイスパスだ、赤司!」
マークを振り切った火神大我がそれを掴む。互いの視線が絡み合い、意思が通じ合う。勝利をあの男に託した。その瞬間、ゾーンのトリガーが戻され、極限の集中状態が霧散する。だが、構わない。
――火神大我のダンクが炸裂した。
勝利をもぎ取れるのならば。
「お疲れ様でした」
「……あとは頼むよ」
黒子と右手をタッチさせ、コートを去る。ゾーンが解け、疲労困憊のままベンチにもたれ掛かった。感慨と共に深く息を吐く。『僕』の人格が急速に霧散し始めている。『オレ』と『僕』はひとつになりつつあるのだ。後悔も未練もない。ただ、この試合だけは結末を見届けたいと思う。
「おいおい。交代した選手、さっきのヤツよりも小さいじゃねーか」
「しかも強さを感じないぜ。マズイな、完全に人数合わせのメンバーみたいだ」
観客の落胆や失望の声が耳に届く。全く、知らないというのは恐ろしい。僕は確信している。彼こそが、帝光中学の怪物、黒子テツヤ。スケールを全世界に広げようとも、厄介さは随一。
「ハッ……終わったな、テメエら。ここで雑魚しか残ってねえとはな」
黒人の大男、シルバーが凶暴性をそのままに嘲笑する。しかし、マッチアップする火神は期待の籠った表情で首を横に振る。
「分かってねーな。強いとか弱いとか、そんなんじゃねーんだよ」
「あん?」
チーム『Jabberwock』の攻撃でリスタート。ポジションは変更。ナッシュのマッチアップを務めるのは氷室。高水準の性能を誇る選手だが、さすがに未来を視る相手には敵わない。お互いにそれを理解している。
残り時間は30秒もない。ナッシュの思考をトレースする。たった今詰められた点差を、改めて引き離せば、試合は終わる。しかし、焦る必要はない。十分に時間を使って、そう彼は考えただろうか。残念ながら、彼を前にしては関係ない。
――ナッシュの手元から、ボールが弾かれていた。
「何だと……!?]
奪ったのは、交代して入った地味な選手、黒子テツヤ。神出鬼没によって、開始早々にスティールを成功させた。伏兵の活躍にどよめく試合会場。
さすが、と感心する。
十分に時間を残して、再びこちらの攻撃。何が起きたのか、相手は理解しているだろうか。無謀なスティールが決まっただけと思っていないか?あるいは油断だと?
「だが、ここで止めれば終わりだ」
動揺を押し殺し、冷静にナッシュが口を開く。最大限の警戒を以って、ラストプレイに備える。他のメンバーも同様。バスケの本場、アメリカで世代最強を誇るチーム『Jabberwock』。細心の注意を払った鉄壁の構え。
だけど、そんな常識で測るのはやめた方が良い。彼こそは、異端のスタイルで猛威を振るう突然変異の怪物。相手の『眼』の範囲外に逃れつつ、氷室がボールをあらぬ方向へと放り投げる。
「何だぁ?どこに投げてやがる……って、オイ!?」
――突如、ボールの軌道が変更される。
「こちらには『幻の六人目(シックスマン)』がいる」
鋭角に方向転換されたパスは、一気に最深部へと走る火神の手元に届く。タイミングは完璧。予想外の連携に虚を突かれ、シルバーの反応も遅れる。再び豪快なダンクが叩き付けられた。これで同点に追いつく。
「テメエ、何をしやがった……!」
「アナタの動きは、ベンチで観察させてもらいました」
「答えろ!」
淡々と返すテツヤの言葉に、ナッシュは激昂する。それほどに、理解外の出来事だったのだろう。性能で勝るのでなく、読みで勝るのでなく。気が付いたら負けている。闇夜に迫る亡霊のごとく。
僕にも気持ちは分かる。彼はときおり、『オレ』のコート全景(ビジョン)からも逃れ得る。無表情をかすかに崩し、微笑する。
「――『影の視線誘導(シャドウミスディレクション)』」
試合時間終了のブザーが鳴った。決着はつかず。同点により延長戦に突入。仕切り直し。だが、追いついた時点ですでに勝利は確定している。なぜなら――
「良いモン見せてもらったぜ、黒子」
「どうも」
「こっからは、オレの見せ場にさせてもらうぜ」
火神の雰囲気が一変する。寒気を覚えるほどの、研ぎ澄まされた鋭利な刃を思わせる雰囲気。没入した究極の集中状態――ゾーン。
延長戦は、呆気なく終わる。世界最強と謳われる火神大我の全戦力。神域の怪物が蹂躙した。