どうしてこうなったのだろうと、今でもふと思う。
私――パースにとって、提督の第一印象は、お世辞にも良いとはいえなかった。
「好きです。一目惚れです。ケッコンを前提にお付き合いしてください」
初めてお会いして、一秒とせず、提督はそう言ったわね。山々を覆う、美しいコウヨーへの感動は、その一言のおかげですっかり吹き飛んでしまった。
呆然とする私へ、片膝をつき、両の手を差し伸ばす男性。それが、私が初めて目にした、提督の姿だった。
困惑、焦燥、羞恥。色々な感情が次々に頭の中を駆け抜けて、ぐちゃぐちゃに混ざり合って。残ったのはふつふつとした怒り。
冗談だと、思ったわ。とても悪い冗談。だって、会って一言目に、そんな……プロポーズだなんて、普通はありえないもの。
「馬鹿にしないで頂戴」
提督の頬を張った感触は、今でもよく覚えているわ。あれ、痛かったでしょう。我ながらびっくりするくらい、いい音が鳴ったんだもの。鹿鳴く山に、平手の音がこだまして。コウヨーに負けないくらい、提督の頬は朱くなってた。
お互いに、きっと……いい出会いでは、なかったはず。だって、思ったもの。この鎮守府でやっていける気がしない、って。
でも、提督?あなた……図太いにもほどがあるのでは?
ビンタを喰らわせた翌日、廊下に張り出された「軽巡パース 秘書艦補佐を命じる」の文言には、さすがに面食らった。だって普通、初対面であんなことをしたら、積極的に関わるのを諦めるでしょう。
戦々恐々と執務室を訪れる私は、さぞ滑稽な姿に見えたはずよ。だって、厨房から拝借したフライパンを盾に扉を開いた私を見て、あのオオヨドが抱腹絶倒、全治三日の筋肉痛になったんだから。私の初戦果に「秘書艦撃破一」が付いた瞬間は、いまだに各方面からいじられるもの。その場に提督がいなかったのは、唯一の救いね。
「大丈夫ですよ。提督、お仕事は真面目ですから」
お腹を抱えて、涙まで浮かべるオオヨドの言葉に、説得力は微塵もなかったわけだけど。嘘偽りでないことは、すぐにわかった。
鎮守府のこと、艦隊のこと、一から十まで、丁寧に説明してくれた。鎮守府の施設を、端から端まで一通り、付きっきりで案内してくれた。筋肉痛でドック入りした秘書艦の分まで、書類の書き方や精査の仕方を、隣で教えてくれた。
後から知ったのだけど、新着任の艦娘に秘書艦補佐をやらせるのは、鎮守府のことを早く知ってもらうためだったのね。それならそうと、言ってくれればよかったのに。今思うと、妙な警戒をしてた私が、馬鹿みたいじゃない。
でも……本当にわからなかったわ。どうして、あんなことを言ったんだろう。誠実さの滲み出る提督の態度は、悪い冗談を言うようには見えなかった。意見書や要望書を熱心に読む姿は、嫌でも、艦娘を大切にしていることがわかった。
もしかして……本気、だったんじゃないか、って。ペンを走らせる提督の横顔に、そんなことばかり考えてたわ。
提督が私に、正式に秘書艦をオファーしたのは、着任から一か月くらいだったかしら。
「パースさえよければ、秘書艦、続けてくれないか」
執務後の紅茶と共に差し出された言葉は、なんだかそれまでと違う雰囲気だった。ええ、そう……モミジの中で、初めて提督の声を聞いた時みたいに。
答えはすぐに出た。いいえ、多分最初から、決まってた。
理由なんて……とっても簡単なんだから。
提督の淹れる紅茶は、とても暖かかった。おいしい紅茶を淹れられる艦娘は、たくさんいるわ。でも、ね。提督ほど暖かい紅茶を、私は知らない。波照らす太陽のような。夜映す月のような。艦導く星のような。その暖かさの名前を、私は知らない。
だから……そんな紅茶を出してもらえるのなら、秘書艦を引き受けるのも、悪くないかなって、思った。
「ええ、もちろん」
「そうか。……それじゃあ、これからもよろしく頼む」
差し出された手を握るのが、無性にこそばゆかった。
あなた、気づいていた?いいえ、きっと気づいてない。だって、私だって気づいてなかったもの。
こそばゆいのはどうして。動悸がするのはどうして。頬が熱いのはどうして。紅茶が暖かいのはどうして。
……ふふ、今ならはっきり言えるわ。簡単なことよ。私、その時にはもう、あなたに恋をしてたもの。
◇
どうしてこうなったのだろうと、今でもふと思う。
冬と春の狭間。差し込む陽の光。その中へ、私は左手を透かす。
春まだき。されど光は、
「紅茶が入ったよ」
給湯室から、執務終わりのティーセットを伴って、提督が現れた。思い出の鑑賞会を切り上げて、私は彼を振り返る。応接用ソファの前にティーセットを広げて、提督が私を待っていた。立ち上る湯気が、私をティータイムに誘ってる。
「ありがとう。いただくわ」
ソファで待つ提督の隣へ腰を降ろす。最近は、この位置が私のお気に入りだ。
二人分の体重で、ソファがキシリと、鈍い音を上げる。ソファがたわんだ分、私の体は提督に近づいた。万有引力って、ほんとにあるのね。引きつけられるまま、私の肩がぴたりと、提督の二の腕にくっつく。
ふふ、これってなんだか、仲良く並ぶ鳥みたい。
「パース、何かいいことあった?」
小さな笑い声を疑問に思ったのか、提督がそう尋ねる。いいえ、彼の想像するような、特別なことは、何もない。でも、ね。いいことは、あったのよ?
「あなたとお茶を飲んでるんだもの。嬉しいに決まってるじゃない」
「……そうか」
嬉しそうに目を細める提督。穏やかなその表情が、彼も私と同じことを思っているのだと、確信させる。それがまた一層嬉しくて、私は紅茶に口をつける。暖かい紅茶の薫りがゆっくり染みて、とても幸せな気分だ。
だからこの幸せを、少し、あなたにお裾分け。
目線と同じ高さに、提督の首筋が見えている。冬でもやや日焼けしたその首に、ほんの一瞬、唇を押し当てた。
くすぐったかったのか、提督がわずかに肩を跳ねる。私が触れた部分を手で隠し、目を見開いてこちらを見る表情に、悪戯心がくすぐられて、思わず笑みがこぼれた。
「な、何かな、パースさん?」
驚きのせいか、やや口調のおかしい提督に、首を傾げてみせる。答える声は、あくまで平然と、ね。
「幸せのお裾分けよ。それが何か?」
「いえ……パースさん、意外と積極的っすね」
「あら、積極的な女は嫌い?」
「……まさか。大歓迎だよ」
ようやくいつもの口調に戻って、苦笑と共に答える提督。私は目を細める。
「……そう。提督は積極的な女の子が好みなのね」
「俺の好みはパースだね」
「ふーん?」
それは……ふふ、悪い気は、しないわね。
紅茶をもう一口。温まった息をほっと吐き、背もたれと提督に体重を預ける。紅茶の後味が、さっきよりも少しだけ甘口だったのは、気のせいかしら。
丁度いい高さの提督の肩へ頭を預けると、彼もコツンと頭を合わせてくる。短く揃えられた提督の髪が触れて、くすぐったい。
「パースの髪は、お日様の香りがする」
「あなたと同じシャンプーよ。それに、レディの髪を嗅ぐなんて、一人前の紳士のすることじゃないわ」
「それは失礼した」
「……ふふ、いいわ。
私はもう一度、左手を光に透かす。煌々とした蛍光灯の光が、薬指に嵌るリングを、銀色に輝かせた。小さな輝き、けれど、眩いばかりの煌めき。ためつすがめつして、二人の誓いを、大切に胸元で包む。
「色々とね、思い出してた。あなたと出会った時から、色々」
一目惚れだと、プロポーズされて。そんな彼をビンタした、思い出深い出会い。
第一印象とは大違いな彼を垣間見た、秘書艦補佐としての日々。
暖かな紅茶に恋をして、そしてあなたに恋をした。
クリスマスを。ニューイヤーを。ハツモウデを。セッツブーンを。短いようで長い半年が過ぎて。
そしてあなたから、二度目の告白をされた。
「ねえ、提督。どうして私だったの」
何度目になるかわからない質問。その度に提督は、苦笑を浮かべ、照れてはにかみ、けれどはっきりした口調で、答えてくれる。
「一目惚れだよ。紅葉を眺める君のことを、『ああ、この人が、運命の人だ』って、思った。そして思った通り、君は美しく、気高く、素敵な人だった」
「まあ、随分ロマンチックなことを言うのね」
「一人前の紳士ですから」
「出会ったばかりの女性に求婚するのは、紳士としてどうなの?」
意地悪を言わないでくれ、と提督は苦笑する。どうしようもなく出てきた言葉だから、許してほしい、と。
おかしな人。許すも何も――
「あなたは、この半年間で、あの言葉に嘘偽りがなかったって、私に思わせてくれた。ええ、だから私は、一回目の告白も、二回目の告白も、あなたを信じている」
好きな人から「あなたが好きです」と言われることほど、嬉しいことはないのよ?だから私にとってはもう、あの秋の日の出会いさえ、いい思い出だから。
それに……許しを乞うのなら、提督の頬を思いっきりはたいた私も、同罪。それで、お互いにチャラでしょう?だから絶対、ずっとずっと、忘れない。
体を起こし、提督と向かい合う。真っ赤なモミジを作った左頬に、今度はそっと、触れてみた。季節の境目で、少し冷えた手のひらに、提督の体温が暖かい。
愛しい人の瞳に、私だけが映っていた。
「ねえ、提督。私ね、きっと最初のことがなくても、あなたのことを好きになったわ」
これ以上ない確信をもって、断言できる。
あなたを好きになれてよかった。あなたの隣が楽しくて仕方がない。あなたとならきっと幸せだ。
私を幸せにしてくれるあなたを、私も幸せにしたいもの。
頬に触れたままの私の手に、提督が手を重ねる。大きな手。私の小さな手を、すっぽりと包む手。コウヨーの中で、震えながら差し出された手。こそばゆい握手を交わした手。私に指輪を嵌めた手。
重なった手には、私とお揃いの、シルバーリング。
「冷たいな、パースの手」
「あなたが暖めてくれるから、問題ない」
「そうか」
答えた提督の顔が近づく。お互いの唇をついばむ、軽いキス。それから、残った紅茶を飲み干した。もうそろそろ、ディナーの時間だ。
「パース」
執務室の戸締りを終えて、食堂へ向かう道すがら、隣の提督が私を呼ぶ。
「愛してる」
私が一番知っていることを、提督はとても真剣な目で、口にした。これからも、幾度となく語るのだろう言葉を。そして、私が幾度となく伝えるだろう言葉を。真っ直ぐな眼差しで。
あなたの姿が――夕焼けの紅に染まるその姿が、愛しくてたまらない。
だから私も、あなたの瞳に、言葉に、想いに、負けないくらい真剣に笑って、応えよう。
「ええ、知ってるわ」
どうしてこうなったのだろうと、今でもふと思う。でも、思うだけ。答えはもう、出てるから。
「だって私も、大好きだもの」
春色の夕陽に包まれるあなたこそ、私の運命の人だもの。
パースさんが可愛い