いつもは二人で使うキッチンに、今夜は私だけで立っている。
二人部屋とはいえ、官舎の部屋の大きさなんて、たかが知れている。キッチンもしかりだ。二人並んで料理をするのは楽しいけれど、やはりどうしたって窮屈だ。せまっ苦しくて、けれどそれは、とっても幸せな狭さ。
今夜はそれがない。野菜を切っても、コンロに火をかけても、冷蔵庫を漁っても、ちっとも狭さは感じない。私より大きな提督とぶつかってしまうことも、肩が触れて笑ってしまうことも、味見と称して彼の料理をつまみ食いすることも、そんな私に彼が苦笑いしてしまうことも、ない。
ぽっかりと温もりの欠けた空間。それに、ふと、もの悲しさを感じてしまう時だってある。ああこんなにも、私の中の提督は大きな存在なのだと、思い知らされる。
でも、今夜に限って言えば――ふふ、そんなことは、微塵もないわ。むしろ心は踊るくらいで、両の足はステップを踏みそう。包丁のトントンという音すら、ダンスのリズムを刻みそうだ。
――「すぐに帰ります」
日帰りで司令部へ出張していた提督から電話が入ったのは三時間前、午後四時に差し掛かる前だった。予定通りなら、そろそろ帰ってくるはず。ついさっきも、最寄り駅に降り立った彼から、駅前でケーキを買ったというメッセージが届いていた。
だから、今私は、待ち遠しい提督のために、料理をしている。ふふ、そんなの、寂しいはずがないわ。楽しくって、仕方がないもの。
「お鍋の中身は何でしょう」
いつかの金剛を真似て、即興の歌を口ずさむ。私の後ろで、煙突みたいに、炊飯器が蒸気を噴き出している。今はその音色が、私の歌の伴奏だ。
「ほろほろ熱い、お豆腐でしょう」
一口より大きく切った木綿豆腐。以前は不揃いにしかならなかったのに、いつの間にか手の上でも均等に切れるようになった。ふふ、あなたの横で、何度も練習したものね。毎朝のお味噌汁に、綺麗なお豆腐を入れるのが、私の夢だもの。
「しゃっきりほろ苦、春菊でしょう」
山のような春菊。最初は茎は太いし苦いしで、食べられなかったけれど。これが今では、どうにも癖になってしまう。艦娘畑倶楽部でお世話になっている、山守さん夫妻が育てたから、というのも大きいかもしれない。
「しんなり甘々、ニンジンでしょう」
短冊切りで揃えた橙色のニンジン。旬の真っただ中なだけあって、とにかくおいしくって仕方がない。煮物、炒め物、スティック。どれも私が大好きなメニューになっていく。丹精を込めてお世話をしていた敷波の顔が浮かぶ。
「おいしさ満タン、鶏さんでしょう」
今夜の主役は、お皿一杯の鶏肉。さっぱりとしてしつこくない、それなのにおいしさのたっぷり詰まったお肉。お出汁も絶品で、じっくりコトコト煮込むだけでも、思わず溜め息が漏れる味わいになる。
「――最後はたっぷり愛情でしょう」
一番大切なことを、最後に口ずさむ。手間暇をかけるのも、一生懸命練習したのも、あなたにおいしいご飯を食べてもらいたい、ただそれだけだもの。
昆布の出汁に満足したところで、一旦火を落とす。具材を入れて煮込むのは、提督が帰って来て、ご飯が炊けてからね。きっと寒い中帰ってくるだろうから、出来たてで、暖かいところを、たっぷり食べてほしい。あなたの笑顔を思い描いて、そんなことばかりを考えている。
その時、カタリと玄関の扉が開く音がした。私の鼻歌と、BGMの炊飯器以外に音のなかった部屋だから、決して大きくない音でもすぐに聞き取れた。
「ただいま」
提督の声がする。ほんの一瞬だって待っていられなくて、私はすぐにキッチンを出て、玄関の見えるところまで駆けた。
「おかえりなさいっ」
提督を見つければ、声が弾んでしまう。だって、嬉しくって仕方がないもの。玄関で靴を脱ぐ外套姿。制帽を取り去った下からは、寒さでほんのり赤い顔。身震いを一つして、そうして私を見つける瞳。優しい眼差し。
「ただいま、パース」
提督の声も弾んでいる。いつもいつも、私を見つけて、私を呼ぶ時、その声はスキップみたいに跳ねている。軽やかな響き、甘い音色。春にはまだ早いけれど、野原一面の花を思わせる声と微笑みを目にすれば、否応なく胸が高鳴った。
提督のもとへ駆け寄る。パタパタとスリッパの音が響く。そのメロディーすら、今は楽し気だ。
駆け寄った勢いをそのままに、提督へ両の手を伸ばす。そんな私を、彼も両腕を広げて迎え入れた。提督を抱き締める。提督に抱き留められる。彼を包む外套が、冬の冷気で少しひんやりとして、けれどその冷たさすら心地よい。優しい腕の感触に、しばらくこの身を預けていた。
十秒ほど抱き合って、提督を解放する。霜焼けを残して眦を下げる提督が、左手を靴箱の上に伸ばす。彼がひょいと掲げたのは、よく見知ったケーキ屋さんの箱だった。
「お土産。あとで食べよう」
「ええ、ありがとう。――さあ、早く上がって。あなた、凍えそうよ」
両の手を、赤に染まった提督の頬へ差し出した。ぴたり。いつもは暖かい頬は、外套と同じかそれ以上に冷えている。いつもは私が手のひらを暖めてもらう側なのに。今日に限っては、私が提督の頬を暖めている。
「パースの手、暖かい」
目を閉じて、私の手のひらに頬を預ける、提督。緩み切って、全てを委ねて、まるで子供みたいに呟く声に、胸のところがキュンとする。預けられた頬を撫でる。可愛くって、愛しくって、どうにかなってしまいそうだ。
部屋に上がり、外套をかけに行った提督から、ケーキの箱を預かる。こっそり覗いた中身は、私の好きなショートケーキ、提督の好きなフルーツタルト。一緒に、ゼリーとプリンも入っている。無性に嬉しくって、鼻歌が零れた。
「先にお風呂へ入るでしょう?」
「ああ、できればそうしたいな。外が寒くって」
「ふふっ、そうだろうと思った。沸かしてあるから、入ってきて」
「……パースさんも一緒に入りません?」
「ご飯を用意するから、遠慮しておきます。――また明日、ね?」
答えのわかりきった質問をする提督に、わかりきった答えを返す。提督は「ありがとう」と笑って、私の額にキスをした。
お風呂へ向かった提督とは反対に、私はキッチンへ戻る。受け取ったケーキの箱は冷蔵庫へ。食後のお茶が楽しみね。
お風呂場から、シャワーの音が聞こえてきた。それから、調子がうろ覚えの、お米を研ぐ歌。命の洗濯をしている提督の、幸せそうに暖まった顔を思い描いた。
そんな彼に、もっと笑顔になってほしい。
「――よしっ」
気合いを入れ直す。さあ、提督のために、お鍋の用意をしないと。
私のよそった一杯目を、提督はぺろりと平らげてしまった。口一杯につみれを頬張って、満面の笑みを浮かべる提督。普段の数割増しの食欲に、思わず笑ってしまう。
「ふふ、そんなにおいしかった?」
口を開けない様子の提督は、それでもこくこくと何度も頷いた。何だかその様子が、しっぽをぶんぶん振り回す犬みたいで、つい可愛らしくてまた笑ってしまう。料理人冥利に尽きる、というものだ。
今夜の献立は、水炊き風のお鍋と、ほうれん草のお浸し、それから白いご飯。やっぱり、寒い日には、これに限るわね。年末から導入したテーブルタイプの炬燵とも、相性ばっちりだ。体が冷えた時には、足元と、お腹の中から、暖めないと。
布団の中、炬燵でぬくぬくと暖められる足を、知らず知らずのうちにばたつかせていた。
――料理は愛情、とは言うけれど。おいしく食べてほしい、という作る側の愛情もあれば。おいしく食べる、という食べる側の愛情もあると思う。
こうして二人で食卓を囲むと、いつもそれを実感する。「おいしい」と呟く声に、嬉しそうな笑顔に、動き続ける箸に、どうしようもなく頬が緩む。まるでその仕種一つ一つが、私へ愛を囁いているようで、柔い抱擁と同じくらい、胸が高鳴っていた。
この愛しさを、きっとあなたは知らないわ。
「おかわり、よそうわ」
空になった提督の取り皿へ手を伸ばす。それを、口の中身を空にした彼が、やんわり断ろうとした。
「――いや、自分でやるよ」
「いいの。あなたは大人しく食べてなさい。今夜は私が鍋奉行なんだから」
「……わかった。それじゃあ、お任せしますよ、お奉行様」
「うむ、お任せあれ」
おどけて見せて、お皿を受け取る。お玉を手にして、卓上コンロの上、ふつふつと煮えているお鍋に突っ込む。いい具合に火の通っているお肉とお野菜、お豆腐をお皿一杯に盛りつけて、提督へ手渡した。
受け取ったそばから、提督は箸を動かし始める。ニンジンが熱かったらしくて、はふはふと慌てて、口の中身を仰いでいた。ふふ、そんなに急がなくても、無くなったりしないのに。
そんな提督を見ながら、私も自分のお皿に手を付ける。一口目のつみれで失敗したから、慎重に冷ましておいた。息を吹きかけて、恐る恐る、白菜を口に運ぶ。
鳥のさっぱりとしたうま味が染み込んだ、極上の一品。お鍋の定番になるのも頷ける。個性は強くないけれど、その分どんな味ともよく馴染む。色んな具材のおいしいところを余すところなく吸い上げて、それ一品でお鍋全てを味わえるような気さえした。
お鍋の具材なら、やっぱり私は、白菜が一番好き。
「この春菊、山守さんのところのかな?」
「そうよ、わかる?」
「これだけおいしいとなあ。苦味もマイルドだから、癖になる」
「まだまだあるわよ」
「いただこう」
提督のリクエストに応えて、春菊を追加投入。それから、ものすごい勢いで減った鶏肉と、あと私が食べる分の白菜。お豆腐も足しましょう。
蒸発した分のお出汁を足して、また煮込む。ふと、視線を感じて顔を上げると、箸を止めた提督が、締まりのない表情で私を見つめていた。弓なりに細くなった星空の瞳に、私は首を傾げる。
「なにかしら、あなた?」
「――いや。幸せだなぁ、って」
しみじみと言うものだから、もう可笑しくって、吹き出してしまった。お腹を抱えて笑ってしまう。目尻から涙まで出てきた。
「もう、急に何を言うのよ」
「急じゃないよ。――いつも思ってる」
「――ふふっ、そうね」
目元の雫を、人差し指で弾く。そうした右手を、そのまま机の上に乗せ、ゆっくり提督の方へと伸ばした。それに応えて、提督の左手が伸びる。卓上コンロのすぐ横で、指がお互いを探り当て、そしてしかと繋がった。
冷えていた手が、今は暖かい。
「幸せじゃない日なんてないわ」
「そうだね。――でも、会えない日は、違うかも」
「あら。会えなくたって、私はずっとあなたを想ってるわ。そんな風に思われるなんて、あなたは幸せ者でしょう?」
「なるほど、違いない。――俺も、毎日君を想ってる」
「ええ、知っているわ」
ええ、ええ、よく、知っているわ。
だって私、毎日幸せだもの。それはあなたが、こんなにも私を想ってくれているからでしょう?
二人で笑う。締まりのない提督の笑顔と、きっと同じくらい緩み切った私の表情。でも、ええ、それが私たちの幸せの証。
繋いだ手を解く。もうすぐ、お鍋の第二弾が出来上がりそうだ。
こんなに投稿が遅くなったのは、パースさんの原稿をやっていたからだと、言い訳などしておきます…