――だって、ちょっと、特別な日だから。
陽も登らない時間から、暗い部屋でパソコンの画面を眺めていると、さすがに目頭の辺りが痛くなってくる。ブルーライト・カットの眼鏡を外して、固まり始めた目頭を解す。ついでに眉間の皺も伸ばす。大好きな人に皺を見せるのは、可愛く拗ねて見せる時と、二人仲良く歳を取った時だけでいい。
カタリ。目当てのものが見つからなくて、ブラウザ・バックのボタンを押す。……いいえ、正確には、目当てのものはたくさんあるのに、その中から私が選べずにいる。何か一つ、そう、私の琴線に触れるようなものが、見つからない。
焦っても仕方がない。あの人なら、きっと喜んでくれる。そう思うけれど、それだけではいけない気がして、結局またキーボードを叩く。キーワードを打ち込んで、検索のボタンを静かにクリックした。
――けれど、今朝も何かが決まるわけではなく。ともかく、めぼしいものを数点選んでチェックして、コピーをかける。コピー機が紙を吐き出す間、頬杖をついて画面を眺めていた。ぼんやりした視界に、溜め息が漏れる。
「チョコ……どうしようかしら」
私の悩みは、それに尽きた。
壁に掛けたカレンダーを見遣る。月が替わって二月。節分も終えると、いよいよバレンタインデーが迫っていた。
……去年も、提督にチョコレートは、渡した。吹雪と大淀に教えてもらいながら作った、初めての手作りチョコ。もちろん、込めた意味は「本命」で、提督も喜んでくれたけれど。今年は、結婚して初めてのバレンタインであるわけで、去年とはまた違った大切な意味合いがあると、思っている。
今年のチョコは、きっと、「本命」だけじゃ、足りないわ。伝えたいこと、たくさんあるもの。私なりに、一生懸命、伝えようとしているつもりだけど。そう思えば思うほど、チョコは選べない。手作りにするのか、いいお店で買うのか、いっそチョコ以外にするのか……それすらも、決まらない。
「こんなに、愛してるの」
呟いても、パソコンの画面は答えてくれない。ブルーライト・カットの眼鏡越しには、選択肢だけがたくさん並んでいた。
印刷が終わったことを、コピー機が告げる。今日はこの、トリュフチョコを作って試してみることにした。
印刷したウェブサイトの内容を確認した私は、そのままパソコンを閉じる。もうすぐ、提督を起こす時間だ。
◇
「ん、今回もうまくいってますね。パースさん、パティシエの素養があるのではないですか?」
お昼休み時間中の艦娘用休憩室・キッチン。本日の味見役を買って出てくれた大淀は、完成したトリュフチョコを摘まむと、蕩けた笑顔でそう言った。眼鏡の奥で両の目を細めて、頬を抑える彼女に、私もほっと息を吐く。秘書艦を私と交代して以来、お菓子作りに凝っているという大淀の評価は、何よりの励みになった。
「そう?よかったわ。――大淀に褒めてもらえると、私も安心よ」
「はい。丁寧に作っているのが、よくわかりますよ。――って、なんだか偉そうですね、私」
「いいのよ。私にとって大淀は、お菓子作りの師匠だもの」
「あら、師匠、ですか。なんだか照れてしまいますね。ふふっ」
頬を微かに染めて、大淀ははにかんだ。くすぐったそうに身をよじった拍子に、艶やかな黒髪が揺れる。蛍光灯の明かりでも、その長髪に宿る輝きは色褪せない。
二粒目のチョコを摘まみ上げた大淀が、今度はそれを品定めするように、矯めつ眇めつした。きらりと瞳を光らせた彼女は、また微笑んで私を見る。
「それにしても、去年から比べると格段に上達してますね」
「それは、もう。いっぱい調べて、練習して――大淀も、手伝ってくれているんだから。当然でしょう」
「はい。でもそれは、それだけパースさんが一生懸命だった、ということですよ。それは、実はなかなかできないことで……とても素敵なことです」
パクリ。二粒目も口にした大淀は、ゆっくりと味わって咀嚼する。目を閉じてチョコを堪能している彼女は、やがてころころと鈴でも鳴らすみたいな笑い声を零した。おいしくて仕方がないという様子の大淀に、私も自然と嬉しくなる。
「ありがとう、大淀。――そうね。たくさん、練習したわ。だって、あの人に喜んでほしいもの」
「パースさんなら、そう言うと思いました。ふふっ。――愛のなせる業ですね」
「愛……」
大淀の言葉を、反芻していた。
パレットの上に並んだトリュフチョコ。大淀と同じように、その一つを摘まみ上げる。つやつやに仕上げた表面は、まるで鏡みたいに私の顔を映していた。大淀が言う通り、丁寧に丁寧に、作ってきたチョコ。しげしげと見つめていれば、食べて欲しい人の顔が自然と浮かんできて、思わず頬を緩めた。
普段のお料理も、こうして試行錯誤するチョコも――そのたった一人に喜んでほしいだけ。ただ、それだけの動機なの。
「……そうね。こんなに、愛しているわ」
大淀に倣ってチョコを口に入れる。噛んでみると、チョコの風味と一緒に、ほんのり苦味が口の中へ広がる。コーヒーを混ぜ込んで、ちょっと大人な感じに仕上げてみた。狙い通りの出来栄えに、満足して息を吐く。
そんな私を、大淀は微笑みながら見つめていた。
「自分で振っておいて、なんですけれど。ナチュラルに惚気ますね、パースさん」
「そうかしら?私はいつも通りよ」
「はい。ですからいつも、惚気ています」
強いお酒が欲しいです、と大淀は苦笑いする。けれどすぐに、「でも嬉しいです」とも付け加えた。
「パースさんも提督も、とても幸せなのが、伝わってきますから。――周囲にお砂糖を振りまくのは、やめて欲しいですけれど」
「そ、そんなこと、してないわ」
「無自覚とは恐ろしい」
糖分を振りまく口はこうです、と大淀が私の頬を両の手で挟んだ。そのまま、お正月のお餅でも伸すみたいに、私のほっぺをこねくり回す。自分でもわかるくらいおかしな顔になっていて、半ばふざけた態度で抗議しながらも、されるがままに笑っていた。そんな私に、大淀も堪えきれなかった様子で噴き出す。しばらく、キッチンスペースに私と大淀の笑い声が響いていた。
満足したらしい大淀が手を離した。散々弄ばれた頬を膨らませて、さすってみせて、拗ねたふりをする。バレバレです、と言わんばかりに、大淀は私の頬をつついた。
「チョコレートは、これで決まりですか?」
「……どうしようかしら」
大淀の言葉に、私は考え込む。
十分、満足できる出来だ。とても美味しくできているし、見た目も綺麗で申し分ない。大淀も太鼓判を押してくれている。
けれど……やっぱり私は、今朝と同じことを悩んでいる。琴線に触れたわけではなくて、これが一番いいと確信できるわけではなく――私が本当に渡したいものかと言われると、わからない。
どうしたものだろう。私は結局、そのまま黙って考えてしまった。
「……珍しいですね。パースさんが悩むなんて」
大淀が心配そうに私の顔を覗き込む。「艦隊の相談役」としての、面倒見のいい大淀の性格が顔を覗かせていた。その厚意に甘えて、私は彼女を頼る。
「……よく、できているとは、思うわ。自信作よ。大淀も褒めてくれたし。……でも、よくわからないの」
「よく、わからない?」
「これが、私の一番渡したいものかしら」
だって。……だって、バレンタイン・デーよ。――だって、ちょっと特別な日よ。いつもより特別なことをしてあげたい。それは、たくさんの思い出をくれる、あなただから。何気ない一日一日を、素敵で掛け替えのない日にしてくれる、あなただから。
だから、ちょっと特別な日は、ちょっと特別なやり方で、あなただけの特別な私を、届けたい。あなただけの特別な想いを、伝えたい。
「きっと提督は、私が何を渡しても、喜んでくれるわ。……でも、そうじゃないの。私が一番特別だと思うものを渡して、それで提督に喜んでほしいの」
ああ、私、わがままだ。とても面倒くさいことを考えてる。すごくすごく、贅沢なことを言っている。
あなたが喜んでくれる。ただそれだけで嬉しいのに。もっと、もっとと、さらに嬉しいことを望んでいる。
私の一番が、あなたの一番だったのなら。これほど嬉しいことはない。それ以上に素敵な事なんて、この世にはありはしない。けれどそれは……きっと、とても贅沢なことなのだと、わかっている。とても得難いことなのだと、わかっている。
今更ながらに自覚する。私、とてもわがままなのね。
「――パースさん、提督のことが、大好きなんですね」
私の吐露した言葉に応えることなく、大淀はしみじみとそんなことを呟いた。今更、といえば今更な言葉に、私は彼女を見遣って、瞬きをしてしまう。大淀は、そんな私に微笑むばかりだった。ただしその眼差しは、真っ直ぐで真剣そのものだ。
「どうしたの、改まって」
「いえ。パースさんが、こんなに一生懸命、想っているんですから。提督は幸せ者です」
「……ふふ、そうね。――でも同じくらい、私も幸せ者よ」
そうですか、と大淀は満足そうに笑った。滑らかな手が、私の頭を優しく撫でる。その仕種は、彼女がお手本にしているという金剛に、よく似ていた。
「パースさんが納得するまで、作ってみましょう。微力ながら、お手伝いします」
「――ありがとう。助かるわ」
「お安い御用です」
頼もしく胸を叩いた大淀に、金剛の真似をして抱き着く。週末はガトーショコラを作る約束をして、お昼のコーヒーを淹れるべく、やかんを火にかけた。
◇
――結局、調べたレシピを試作したり、有名店のチョコを見てみたり、近くの洋菓子店で試食したり、色々やってみたけれど、提督に渡すチョコが決まらないまま、私はバレンタイン直前の土曜日を迎えていた。
昼食後の、小休止状態にある、食堂の厨房。司厨部の方たちが遅めの休憩を取る中、私は愛用のエプロンの腰紐を結んだ。頭には三角巾を留める。
厨房にいるのは、私だけじゃない。同じようにエプロンと三角巾姿の艦娘が数名、厨房に立つ。そして、彼女たちを取りまとめるように前に立つのは、すっかり体に馴染んだ様子で割烹着を着こむ吹雪だった。
柏手を打った吹雪が、気合を入れるように、面々の笑みで声を張り上げる。
「それでは!『バレンタインチョコを手作りする艦娘の会』、今年も頑張りましょう!」
ガッツポーズを握る吹雪に、「おー!」という声が応える。こうして、毎年バレンタイン直前に召集・結成される謎の組織、「バレンタインチョコを手作りする艦娘の会」の、今年の活動が始まった。
レシピを検討・作成したという敷波が、参加メンバーに指示を飛ばす。今年はチョコタルトを作るらしい。そのタルトを切り分けて、バレンタインお茶会を開催すると、敷波は言っていた。食堂仕様の認可は、先々週末に私がサインをしている。
市販のチョコを、私と敷波でザクザクと刻んでいく。残りのメンバーは、タルト生地やフルーツを準備している。三十人弱というお茶会参加者のことを考えれば、なかなかに重労働になる。板チョコ一枚を刻み切る頃には、額に喘が浮かんで来た。パーカーの袖でそれを拭う。
ふと、私は厨房の外、カウンターの向こう側を見遣った。そこには、こちらをニコニコと微笑ましそうに見つめながらココアをすする、四人の艦娘。
「……ねえ、金剛。金剛たちは、何をしているの?」
「ンー?」
マグカップから唇を離した金剛が、丁度昼下がりの暖かな陽射しみたいに、笑った。白い歯を輝かせ、彼女は答える。
「『チョコを手作りする艦娘を微笑ましく見守る会』会長としての責務をまっとうしてマース!」
「……『チョコを手作りする艦娘を微笑ましく見守る会』?」
最早何が何だかわからない。そんな会、存在していたかしら。活動申請を受けた記憶もないのだけれど。
金剛はニコニコと楽しそうに、嬉しそうに、笑うばかりだった。
「私が会長で、メンバーはここにいる四人で全員デス」
「会員二号、ウォースパイトよ」
「会員三号、瑞穂です」
「会員四号、大淀です」
「……ええっと」
ニコニコと微笑みながら手を振る四人に、適当な返答が思いつかない。曖昧にはにかんで頬を掻くと、隣の敷波が助け舟を出してくれた。
「金剛さんたちには、去年まで
言われてみれば、そうだ。手先が器用、というか。秋に栗ご飯を作った時や、クリスマスパーティー、お正月もそうだった。何かこうして、皆でご飯を食べたり作ったり、という企画を考えると、大抵は今ココアで息を吐く四人が駆り出される。思い出せば、去年のバレンタインもそうだった。
刻んだチョコをボウルへ移しながら、敷波はカウンター越しの四人をちらりと見た。唇を尖らせるその横顔は、どこか拗ねているようにも見える。
「今回はホストじゃなくて、完全なゲストとしてお茶会を楽しんでほしかったの。私たちだけで、おもてなししたかった。――だから、お願いして、今年は参加しないでもらったの」
「なので、こうして外から、皆さんを見守ってマース」
そう言ってピースサインを作る金剛。それに、敷波は染めた頬を掻きながら、さらに答えた。
「あたし、そんな、器用じゃないけど、さ。でも、明日は四人に楽しんでもらえるように、頑張るよ。――特別な日だから、ちゃんと感謝したいし」
特別な、日。敷波の言葉が、妙に私の心へ響く。「ついに言ってしまった」と言わんばかりに金剛たちから目を逸らす敷波の、真っ赤な耳と頬をぼんやりと見つめていた。
特別な日だから。敷波は真っ直ぐに、頑張っている。
ココアをすする四人が、真っ赤に頬を染めて照れてしまっている。身悶えするように体を揺すっていた金剛は、ダイヤモンドみたいに瞳をキラキラさせて、興奮気味に訴える。
「今すぐそっちに行って敷波を抱き締めてあげたいデス!」
「だ、ダメだからねっ。今日は、金剛さん、厨房への立ち入り禁止だからっ」
「ううー、そんナー……」
お預けを喰らった犬みたいにシュンとする金剛。そんな彼女を、隣のウォースパイトがよしよしと慰めていた。
直後、「金剛さんの代わりに私が抱き締めます!」と抱き着いた吹雪を皮切りに、厨房内の艦娘全員からハグされた敷波は、真っ赤な顔で叫ぶ。
「も、もうっ。作業に戻ってってば!」
生クリームとともにチョコを溶かして、タルト生地に流し込み、フルーツやナッツを盛って冷蔵庫へ入れた。お茶会参加者と、丁度夕食の準備を始めた司厨部のおばちゃんたちの分、合わせて五つになったタルトを満足げに眺めて、扉を閉める。三角巾を取り去り、額の汗を拭いながら、「バレンタインチョコを手作りする艦娘の会」参加メンバー全員でハイタッチを交わした。少女たちの笑い声が、厨房の一角に響く。それに、おばちゃんたちと、「チョコを手作りする艦娘を微笑ましく見守る会」の面々が、微笑まし気な視線を送っていた。
「明日は素敵なお茶会になるわね、敷波」
「――うん。パースさんも、ありがとね。手伝ってくれて」
「どういたしまして。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
冷蔵庫を見つめる敷波にそう言うと、彼女は口の端をちょっと緩めながら、こくんと頷いた。キラキラした瞳が、嬉しさに染まる頬と相まって、とても綺麗だと思った。同時に、なんだか仕草も声音も可愛らしくて、抱き締めてしまいたくなる。私も、金剛のハグ癖が、順調に
使った道具の片づけをしていると、ふと思い出したように、敷波が私に尋ねた。
「そういえば、パースさんはバレンタインのチョコ、決まったの?」
うっと言葉に詰まる。洗ったボウルの水気を拭きながら、首を振る。
本番は明日なのに、まだ自分の渡したいチョコは、決まっていない。そう告げると、敷波は「そっか……」と、少し考える素振りをした。
「ねえ、あれは?ほら、去年パースさんが作ってたやつ。ええっと、なんだっけ、らみ……」
「ラミントン?」
「そう、それ。ラミントン。司令官、すごく喜んでたじゃん」
「そう、ね……」
正直、一番最初に思い付いたのは、そのラミントンだった。初めて、提督のために作ったもの。提督に食べてもらいたくて、不器用なりに試行錯誤して、大淀や金剛に手伝ってもらいながら、一生懸命作った。当時から、もう、彼のことが好きだった私は、言葉にできない分まで一生懸命、「本命」の意味を込めていた。
それが、届いたのかどうかは、わからないけれど。提督はすごく喜んでくれた。いつもよりたくさん笑ってくれた。嬉しさが堪えきれなくて、頬の緩みを抑えきれなくて、思わず彼の前から逃亡したことを、今でもよく憶えてる。
……でも。真っ先に候補から外したのも、ラミントンだった。去年と同じなんて、きっと飽きてしまう。だから今年は別のものにした方がいいと、思った。その方が、提督も喜んでくれるんじゃないか、って。
私の考えに、敷波は「そうかなぁ」と首を捻った。
「なんだかさ。七面鳥とか、ケーキとかさ。毎年同じ日に、毎年同じものを食べるって、……代り映えはしないかもだけど、特別な感じするじゃん。今年もこの日が来たんだなぁ、って嬉しかったりするし」
それに。敷波は真っ直ぐな瞳で私を見る。それから、彼女には珍しく、白い歯を覗かせ、満面の笑みを見せた。
「おんなじ料理に、たくさん思い出が詰まっていくのって、素敵だよ。『去年はこんなことあったな』とか、『前はこんなだったな』とか。――そういうことを想える料理って、すごく、いいと思う。嬉しいし、幸せだよ」
濡れた手を拭って、エプロンの腰紐を解く敷波。その横顔を見つめながら、瞬きを数度。
とくり。微かに高鳴る胸に手を当てる。目を閉じて――想いたい人のことを、想う。
ああ。ようやく、わかった気がする。
「そうね。――明日、ラミントンを、作るわ」
「……私も教わっていい?」
「ええ、もちろん」
ニカッと笑った敷波に、私も頬を緩める。
厨房を出た敷波は、そこで待ち構えていた「チョコを手作りする艦娘を微笑ましく見守る会」のメンバー四人に、たっぷり三十秒ほど、抱き締められていた。
◇
――だって、今日は、ちょっと、特別な日だから。
「おはよう、あなた」
特別な一日は、いつもより特別な起こし方を。冬になって、随分朝に弱くなって、布団を抱えたままもぞもぞ言ってる提督に、そっと、優しい口づけをする。まだ整えていない髪を耳にかけながら「おはよう」と告げると、蕩けた瞳の、私しか知らないあなたが「おはよう、パース」と応えた。それがいつもより、ちょっと特別な朝。
「あなたの好きな、スクランブルエッグよ」
朝食の席に出すのは、提督のお気に入り、私特製の、ふわふわとろとろスクランブルエッグ。この一年ほどで、色々な料理ができるようになったけれど、彼はやっぱりこれが一番のお気に入りだと言う。そんなスクランブルエッグを、今日はトマトとチーズを入れて、スペインオムレツ風にしてみた。少し、特別な、二人の朝食。
「はい。どうぞ、提督」
敷波が主催したお茶会で、私は提督に紅茶を差し出す。普段淹れてくれるのは、大抵提督の方で、私が淹れることはたまにしかない。だからこれも、ちょっと特別。あなたには、皆で作ったチョコタルトを、おいしい紅茶と一緒に楽しんでほしいから。ちょっと特別な紅茶を、あなたの前に出す。
――そうして、たくさんの、特別を重ねてきた。ちょっと特別な日だから。たくさんたくさん、ちょっと特別なことを、あなたに届けてきた。
でも……ふふっ。今から、とびきりの特別を、あなたにあげる。
「ねえ、提督。お茶にしましょう」
仕込みをすべて終えた私は、執務室――という名の憩いの場になっている部屋に顔を出す。艦娘チェス同好会の白熱した試合を見つめていた提督は、顔を上げて私を見つけ見つけると、すぐに相好を崩した。
「そうだね。すぐ行くよ」
立ち上がった提督に、同好会の面々がひらひらと手を振る。ウォースパイトなどは、私の方をチラリと見遣って、ニマニマと怪しい笑みを見せた。
彼が廊下へ出てくるのを待って、歩き出す。向かうのは、食堂の一角にある、喫茶スペース。金剛とウォースパイトの要望が通って、つい先日完成した、ちょっと大人な雰囲気の空間だ。
廊下を歩きながら、ふと隣の提督を窺った。私の目線に気づいたのか、彼もまたこちらを見て、微笑んだ。星空みたいな瞳が、私をその内に宿しながら、細くなる。
そんな彼に、私も微笑みかける。唇の端を上げて、この幸福を伝える。――でも、今日は特別だから、それだけで終わりじゃないわ。
「――ていっ」
揺れる提督の腕に、するりと私の腕を絡めた。そのままぴたりと、私の体を、彼の二の腕に押し付ける。
提督が少しよろけたのは、きっと私が急に引き寄せたからじゃない。
「ぱ、パースさん?ここ、廊下ですよ?」
動揺を伝えるように、提督の口調が大惨事になっている。いつも思うけれど、その妙に丁寧な言葉遣いは何なのかしら。やっぱりおかしくって、クスクスと笑ってしまう。今更照れて頬を赤くしている提督が、可愛くって仕方ない。
「いいでしょう、別に。今日は休日なんだし、基地で腕を組んじゃいけない理由なんてないわ――あ、な、た」
二の腕をつつきながら微笑んで見せると、提督はまたよろめいて、空いた右手で顔を覆った。しかし、漏れ聞こえてくる「パースが可愛すぎる」という言葉は、まったくもって隠せていない。それが益々、私の頬から締まりをなくす。
照れを隠せない様子で、真っ赤な頬を妙な感じに綻ばせる提督の横顔を、食堂まで辿り着く間、ずっと見つめていた。彼に「どうした?」と聞かれるたび、「あなたが可愛いから見ているわ」なんて、ちょっと意地悪な答えを返す。その度に身悶えする提督が、本当に可愛くて仕方なくて、唇の間に笑い声を零しながら、なお強く逞しい腕を引き寄せた。
「さ、こっちよ、あなた」
喫茶スペースに提督を案内する。初めて使うという彼は、驚いた様子で部屋を見回していた。金剛とウォースパイトが監修しただけあり、予算という制約がありながら、かなりいい仕上がりになっている。落ち着いたお茶会をするには申し分ない、大人な雰囲気。
「待っててね、すぐにお茶を淹れるから」
「パースが淹れてくれるの?」
「私が誘ったんだもの。当然でしょう」
ウォースパイトが探して来たという、シックなデザインをした電気ケトルのスイッチを入れる。すぐにお湯が沸き始める。その脇で、私は先に用意しておいたカップとポットを並べた。
それから――とっておきは、備え付けの、小さな冷蔵庫の中に。
「……なんだか、落ち着くね。デートの時に入った、カフェを思い出す」
ソファへすっかり身を落ち着けている提督は、気の抜けた息を漏らしながら、そう言った。ええ確かに、この雰囲気は、少し前に二人で入った喫茶店のものに、似ているかも。コーヒーとか紅茶とか、そうした温かい香りに包まれ、心なしか時間がゆっくり流れるような感覚。微睡みに似た空間に、私と提督だけがいる。
「それなら、今日はカフェ・デートね。私とあなた以外誰もいない、秘密のカフェ・デート」
茶葉をティースプーンですくいながら答える。提督は、「それも素敵だね」と、私へ笑いかけた。
カタリ。電気ケトルのお湯が沸く。ゆっくりとポットへお湯を注いで、茶葉を躍らせる。茶葉を蒸らす間に、私は冷蔵庫の扉を開いた。
中から取り出したのは――ラミントン。
「パース、それ……ラミントン?」
提督の反応は劇的だった。ソファに預けていた上体を前のめりにして、星空みたいな瞳をさらに輝かせ、私に問いかける。
その反応だけで、もう、どうしようもなく、愛おしい。たった一度、去年のバレンタインに出しただけなのに。もう、彼に「本命」を渡すことだけで精一杯で、ラミントンという名前以外まともに紹介だってできなかったのに。それを憶えていてくれたことも、まるで宝物でも見つけたみたいに瞳を輝かせていることも――たまらなく、嬉しいもの。
自然と笑っていた。私は頷いて、「そうよ」と応える。
「バレンタインだけの――特別なラミントン、よ」
去年用意していた言葉を、今年はちゃんと、伝えることができた。
敷波の言っていた通りね。去年と同じラミントンなのに――いいえ、去年と同じラミントンだからこそ。たくさんのことを思い出す。あなたのことを、好きになっていたこと。言えずにいた「本命」を、一生懸命伝えようとしたこと。受け取ってくれたあなたの笑顔に、胸に穴が開くんじゃないかってくらい、ドキドキしたこと。
今も、あの時と同じ高鳴りを、感じている。
あなたの喜んでいるところが見たくて、作ったわ。去年も、今年も……きっと、これからだって変わらない。毎年同じだと、変わり映えはしないかもしれないけれど。でもその分、たくさんの想いを込めるわ。色んなあなたを思い出しながら、毎年毎年、増え続ける想いを編み込んで、作るわ。
あなたのためだけの、特別なラミントンを、作るわ。
淹れた紅茶と合わせて、ラミントンを差し出す。少年みたいに瞳を輝かせる提督が、頬をラズベリーソースみたいにして、私を見た。
「パース、これ……」
提督がラミントンを指差す。
そうそう、確かに去年と同じラミントンだけれど、一つ変えたところがある。ラミントンの上に乗った、大きなハートのチョコレート。ホワイトチョコで書いたのは、「I LOVE YOU」の文字と、ハートマーク。
「深い意味はないわ。ふふっ」
ええ、深い意味なんてないわ。だってそのままの意味だもの。そのままの私の気持ちを、そのまま書いただけだもの。深い意味なんてないから――だからどうか、ストレートに受け取ってほしい。
提督は、それはもう、表情がそのまま崩れてしまうんじゃないかってくらい、頬と目元を緩めていた。優しさと愛しさたっぷりの笑顔が、私だけに向けられた特別だと、知っている。
「ありがとう、パース。すごく嬉しい。――早速、食べていいかな」
「どういたしまして。――ちょっと待って。やりたいことがあるから」
待ちきれないという様子の提督に、少しだけ待ってもらう。彼のすぐ左隣へ位置を移して腰掛ける。執務室よりさらに柔らかいソファが、二人分の重さをふわりと受け止めた。
フォークを取り、ラミントンに入れる。一口サイズに切れたそれをフォークで刺した。
「はい、あなた。――あーん♡」
「……やりたかったのは、これかぁ」
ええ、そうよ。こうしてあげたかった。本当は……勇気があったら、去年だってこうしてあげたかった。だってこれが、私のラミントンを食べるあなたを、一番近くで見れる方法だから。
提督が口を開ける。彼の唇に、私のラミントンが吸い込まれる。フォークから離れていく顔を、私はずっと見つめていた。
「どうかしら?おいしい?」
「――うん。今年も、すごく、おいしい」
「ふふ、よかった」
そのまま、二口目も提督の口へ入れる。おいしい、おいしい、と笑う彼に、私もまた笑顔になる。どうしようもなく、喜びが口から零れる。
ラミントンを傍らに置き、天にも昇りそうな心地のまま、私は提督に尋ねた。
「ねえ、提督。このラミントンは……何チョコだかわかる?」
「え?」
「本命か、義理か、それ以外か、ということよ。――正解したら、ご褒美をあげる」
わかりきったことを、意地悪にも訊く私に、提督は苦笑する。けれど彼の方も、「そうだなぁ」なんてとぼけて、ちょっと考えるようなふりを見せていた。
十秒ほど思案したらしい提督が、私を真っ直ぐに見る。柔らかな眼差しを、私も見つめ返す。
「本命……かな」
「――ふふ、半分正解、よ」
見つめる提督に、顔を近づける。一応正解だから、ご褒美をあげるわ。
唇を重ねる。甘いキス。ラミントンに挟んだラズベリーソースの酸味も少し。ココナッツパウダーの独特なまろやかさも。
ああ、きっと、来年また、思い出す。またこの、ちょっと特別な日に、ちょっと特別なキスのこと。それだけじゃない。今日積み重ねてきた、ちょっと特別なこと、たくさん。そうして、思い出したたくさんのことに、また彼への愛しさを募らせていく。
唇を離す。今日という特別な日の仕上げに、私は特別な言葉を、告げることにした。
「ただの本命じゃないわ。大本命よ。――愛してる」
私は元気です。尊さで何回か川を渡りましたが、元気です。