思いついてしまったパースさんの短いお話をば。
――嫌な予感がして目を覚ますと、背中にジトリと伝う汗に気づいた。
無理に剥がした瞼の隙間から窺う寝室には、まだ宵闇が満ちている。半分だった月はもうどこかへ姿を隠したらしく、カーテンから透けているのは小さな瞬きだけ。だから何も見つけられない。
ぼんやりした視界と思考で、俺は予感の糸を手繰った。嫌な夢でも見ていたのだろうか、とも思ったが、思い当たる節はない。ただ息苦しいほどの焦燥感を感じている。予感は本物だ。何か、よくないことが起こっている――あるいは起ころうとしている。その正体を、横たわるベッドの中に探っていた。
ふと、自分のものではない、微かな衣擦れの音を聞いた。寝間着の袖から伝うのは、感覚を研ぎ澄まさなければわからないほど小さな感触。それに気づいてしまえば、意識が覚醒するのはあっという間だった。そしてその覚醒した聴覚で、布団の隙間より漏れ聞こえる声を見つける。
慌てて左腕で掛け布団の縁を持ち上げ、中を覗き込んだ。光なんて微塵もない夜の部屋では、胸元にある物すら見ることが難しい。けれど少しずつ暗順応してきた俺の目は、まるで洞穴みたいな宵闇の中に、微かに震える金糸を見つけていた。
小さくて細い指先が、あたかもそれだけを頼りにするように、俺の寝間着を摘まんでいる。揺れた小麦色の隙間に見えた唇から、押し殺した嗚咽が漏れていた。コンコンと隠すような涙の声があまりにもか弱い。
嫌な汗が一時に吹き出す。乾いた唇で、俺は必死に彼女の名前を呼んだ。
「パース。パース、どうしたんだ」
俺の声にパースが反応を寄越す。けれどその動きは、いつもとは比べ物にならないほど緩慢で、たどたどしい。解いた金砂の髪をベッドの上へ零しながら、パースはやっとの様子で俺の方を見上げた。
アメジストが大粒の雫で濡れている。ただでさえ淡い光が、水滴で歪んで散乱して、儚くすら映る。弱すぎる光は少しでも目を離せば夜闇に消えてしまいそうで、胸を締め付けられながら見つめ続けた。
「てい……とく」
震える唇が、湿った声で俺を呼ぶ。涼やかで甘やかな、普段の彼女らしい玲瓏な響きはどこにも残っていない。俺にしか届かない声は、布団の洞穴から外に出ればすぐに夜へと溶けてしまった。
パースは、そのまままた顔を伏せた。指先で摘まんだままの袖を引き寄せて、俺の右手に額をこすりつけ、縋りつく。零れる嗚咽が大きくなって、それに合わせて細い肩の震えも増した。月明の髪が揺れる拍子に、白い頬を涙が流れてマットへ吸い込まれる。
よかった。掠れて聞き取りにくい声は、微かにそう呟いたように、俺には思えた。
「パース」
金糸の隙間から、零れた雫を指先ですくう。パースの頬を流れた涙は、燃えるように熱かった。その熱が俺の胸をも焼いている。彼女をこんな風に泣かせているものが許せなくて、けれどその正体がいまだ掴めなくてもどかしい。
結局俺にできたことは、震えて弱々しく縋るパースを抱き寄せ、その背を可能な限り優しく撫でることだけだった。胸板に額を擦りつけるパースは、堪えたものを吐き出すように、嗚咽を激しくした。小さな唇から漏れる涙声が、例え寝間着越しでも熱く感じられる。
「大丈夫。大丈夫、だよ」
背をさすり、囁いた。それでパースの涙が収まるかはわからなかったが、ともかくそう言わずにはいられなかった。苦し気な嗚咽の一割でも減らすことができるのならと、彼女の安寧を祈りながら手を動かし、語りかけ続けた。その度にパースは精一杯の様子でこくりと頷いた。何度も何度も、寝間着の袖を摘まんで手繰り寄せて、泣きながら。
どれくらいそうしていただろうか。嗚咽はゆっくりと収まって、すすり泣きに変わる。目元を拭う仕草、鼻をすする音、浅いけれど確かな呼吸。少しずつパースが平常心を取り戻しつつあることを、さする背中と擦りつけられた額越しに感じていた。小刻みに震えていた肩は、落ち着いてゆったりとした息遣いにシンクロし始めていた。
「……あり……ひっく……がとう」
胸元からようやく届いた言葉に、可愛らしいしゃっくりが挟まった。一瞬上げかけた顔をまた寝間着に擦りつけ、パースは「もう、いや……」と身をよじった。笑ってはいけないとわかっていても、安堵のせいで堪えきれずに吹き出してしまった俺に対し、パースは抗議するように右手をつねる。微かな痛みは彼女が普段の調子を取り戻しつつある証で、安心した俺は結局微笑んでいた。
背に回していた左手で、今度はパースの頭を撫でる。ポンと優しく叩いて、乱れた髪を梳いて、そして包むように撫でた。小さなしゃっくりが収まるまでずっとそうしていた。
「……眠れそう?」
しゃっくりをようやく飲み込めたらしいパースに尋ねると、フルフルと髪を振り乱して否定した。言葉を語ろうとする唇が震えている。漏れ出る生暖かい吐息に、パースの不安と動揺をありありと感じた。
「夢を、見たの。……とても怖い夢よ」
呟いたパースが、いっそう強く俺の袖を摘まむ。細い指先に力を一杯込めて、ただその一点で俺を繋ぎ止めようとしている。壊れてしまうのではと不安になる人差し指から、決して離しはしないという強い意志が伝わってきた。
……もしかして。パースの夢の内容に思い至った俺は、恐怖を語る体を抱き寄せて、また尋ねる。
「どんな夢、だった?」
「言えないわ。……言ってしまったら、本当になってしまいそうだもの」
そう答えて、パースはさらに身を寄せた。しなやかな脚が俺の腿の間に滑り込んで、絡め取る。冷たい足先が震えていた。それを少しでも暖めようと、俺もパースに脚を絡める。俺の体温の幾ばくかは彼女に流れたのか、パースはようやく安堵した様子で小さな息を吐いた。
そうして、またしばらくそのままでいた。眠れないパースを残して眠れるはずもなく、彼女が満足するまで背をさすり、髪を梳いて、求められれば抱き締めた。その間、さてどうしたものだろうと考える。
子守歌でも歌おうか。
「……遠慮するわ。あなたの子守歌、なんだか可笑しくて、眠れないもの」
「……ひどい言われようだ」
「褒めてるのよ? 睡眠向きではないだけで」
つまり子守歌としては失格ということだろう。率直なご意見をいただいた奥様には、額にキスのお礼をしておいた。パースはようやく、小さな笑い声を漏らす。
そう言うパースは歌がうまい。俺が疲れている時には、いつも優しい子守歌を口ずさむ。暖かな体で俺を抱き、穏やかな手つきで頭を撫で、甘く柔い歌声で微睡みへと誘う。その歌にいつも安らぎ、癒され、救われている。
同じように俺もパースを癒すことができたのならと。不安な夜の中にいる彼女に安らぎを与えられたのならと。そう思っていたけど……どうも、パースと同じやり方は、俺にはできそうになかった。
代わりではないが、俺はまた別の方法で、パースに安らぎを与えようと思う。いつも温もりをくれる君が、恐れと寂しさで心を寒くしないように。
パースの頭を一撫でして、ベッドに身を起こす。掛布団をめくると、涙の光を残す紫水晶の瞳が、不安げに揺れていた。微かに開いた唇から、言葉にならない声が切なく漏れる。大丈夫だよと念じながら頬を撫で、目尻に残った雫をすくった。パースは惚けたように微笑んで、瞳の輝きを戻していく。
「……温かいものでも飲もうか」
俺の提案に、パースは無言のまま、小さく頷いた。絡めた足を解くと、パースも同じように身を起こす。
枕元の明かりをつけてベッドから抜け出し、今度は部屋の電灯をつけるべく壁際に向かおうとした。しかし、白い指先に袖を摘ままれて、それを思い留まる。パースはまだ、俺が離れることを許してくれない。口にはしない不安を、けれども震える指先が如実に訴えていた。
小さな手を握る。一回り小柄なパースの手は、夜のせいかいっそう冷たい。その手を温めるのは俺の役割だったのだと、そんな約束を今更ながらに思い出した。
「手、繋いでるから」
安心させようと、いつも以上に優しく聞こえるよう、語りかける。けれどパースは首を振る。もう片方の腕も伸びてきて、俺の首を絡め取った。抱き着く彼女の鼓動を、重なった胸に感じている。
「……暗くて歩けないわ。だから抱っこして?」
パースが甘えている。可愛らしいわがままを垣間見せる。それが堪らなく愛おしい。気づけば求められるままに甘やかしてしまう。けれどもそれに、この上ない幸福を感じていた。
君のそういう、可愛らしい甘え方は、世界中で俺だけのものだから。
心と体が凍えそうになって甘える時、君は俺だけに温もりを求めるから。
俺もそんな君を――
軽い体をベッドより抱き上げる。羽根でも抱えるようで、パースの身はふわりと浮いた。腕の中にすっぽりと納まる彼女は、安心したように笑って、全てを俺に預ける。
囁く声で甘えて、パースは甘く暖かいココアを所望した。
思いついてしまったお話が後三つくらいあるんですよね、どうしよう…