二か月ぶりの投稿となりました。
雨の日に膝枕で提督を癒すパースさんのお話です。
雨の中でふと思う。
今頃あの人はどうしているだろうか、と。
時間的には、いつもならおやつ時のティータイムにしている頃合いで、もしかしたら一人でお茶を淹れながら息を入れているだろうか。私の艦隊がもうすぐ基地へ帰りつくことは知っているだろうから、書類を避けた机で湯気を漂わせながら、ふと窓を見たりするんだろうか。「早く帰ってこないかなぁ」なんて、曇天と波浪を見つめながら呟くだろうか。
そうだったら嬉しいなと思っている。私も同じ気持ちよと想っている。
春の雨はまだ冷たい。けれど雨の日は、遠いあなたを、いつもより近く感じる、特別な日。寒い中でも胸だけは暖かい、そんな日。
だから私、雨の日は……嫌いじゃない。
激しい雨で霞んだ視界に、コンクリート製の埠頭の影が見えてくる。白い靄の中にゆらゆらと現れる私たちの母港。港内に侵入して、波もやや穏やかになったのを確認しながら、私は後続の浜波に減速を命じた。艤装の出力を落とし、主機の回転数を絞っていく。
ふと私は、埠頭に傘を差して立つ人影があることに気がついた。それが一体誰なのか、そんなこと今更考える必要なんてなかった。弾む心と逸る気持ちを押さえて、最後まで気を抜かないようにと言い聞かせながら、埠頭の方へと近づいていく。
あちらからもこちらが見えたんだろう、影は動くと埠頭の縁までやって来て、傘の下から小さく手を振った。それに手を挙げて応えかけて、慌てて引っ込めた。旗艦が真っ先に気を緩めるなんて、示しがつかないものね。
霞のせいで、その人の顔をはっきりと見ることができたのは、随分と埠頭に近くなってからだった。「提督」と、主機を止めたところでそう呼びかけようとして、けれど開きかけた口を私は閉じる。
なんだか少し、彼の様子がおかしい気がした。
埠頭の端で速力がゼロになる。海面から埠頭の上へと続く石階段、浜波を先に海から上げて、それから私も続いて上がっていく。階段の一番上では、こちらを覗く提督が手を伸ばし、私たちを引き上げようとしてくれていた。
「――お手をどうぞ、レディ」
少し格好つけたセリフは、提督が私にだけかけるもの。浜波を引き上げた手が、今度は私に差し出される。雨の雫で濡れている大きな手。それが微かに震えている。私の手を重ねると、いつもはあるはずの温もりが感じられない。私を包む大きな手が、けれどか弱い子供の手のように、今は思える。
ハッとして提督の顔をマジマジと見た。制帽の下、微かに湿っぽい前髪から、彼の鼻筋に沿って雫が伝っていた。頬に色はなく、唇はやや青い。こちらへ笑いかける瞳も揺らいでいて、どこか弱々しかった。
海軍支給の外套が随分と濡れている。一体どれほどここに立っていたんだろう。何が提督にそうさせたんだろう。そう思うと、私を引き上げてくれた手を、なかなか離せなかった。
浜波を先に工廠へと下がらせる。彼女は少し戸惑うような様子を見せた後、ぺこりと一礼して工廠の中に入っていった。埠頭には私と提督だけが残される。
しばらく、お互いに言葉を発することもなく、提督と見つめ合っていた。艤装の加護のおかげで雨の冷たさをそれほど感じない私にも、提督は傘を差し出して滴る雫から守ってくれる。外套の肩に雨粒が跳ねていた。
「……ただいま。――ずっと待っていたの?」
「……おかえり。――今来たばかりだよ」
相変わらず嘘が下手なあなた。雨に濡れた頬へ手を伸ばして触れ、私はもう一度「ただいま」と彼に告げた。
「提督、すぐにこっちへ来て。今すぐよ」
艤装を工廠へ預け、出撃終わりのシャワーを浴びてから執務室へと戻った私は、備え付けのソファへ腰かけるなり提督を呼んだ。先に戻って書類仕事を再開していた彼は、顔を上げると困惑した様子で眉を下げる。
「どうしたんだ、パース」
「いいから、来て。膝枕してあげる」
手招く仕種のあとにポンと自分の太腿を叩いてみせる。大人数を受け入れられるようにと大きいソファを据え付けているから、背丈のある提督でも足を投げ出せば寝転べるくらいのスペースはある。だから時折こうして、彼を膝枕したり、逆に私がされたりしていた。
けれど提督は渋る様子を見せた。それも彼の性格を考えれば当然のことだと、私もわかっている。
「でも――」
「今、私に気を遣ったら、拗ねるわ」
提督の言葉を遮る。少しズルいやり方だって、わかっているわ。でもそうしないと、彼はきっと「君は出撃後で疲れているだろう」って遠慮する。だから少しズルくても、強引でも、彼を遮って言葉を重ねた。首を横には振らせない、その意志を込めて提督を見つめる。
しばらく迷う仕草を見せた後、提督は観念したように頭を掻いて、書類をまとめ、席を立った。
「それじゃあ、少しだけ」
「……ええ」
ソファに腰を落とした提督は、そのまま私の膝に頭を乗せて、仰向けに寝転がった。星空色の瞳が私を見上げる形になる。雨粒を受ける水面みたいに波立つ瞳を覗き込んで微笑んで、私はそっと彼の頭を撫でた。少し雨の香りがするかもしれない。
「……お疲れ様、提督」
「……疲れているのは君の方だろう、パース」
提督がこちらへと手を伸ばして、私の頬へ触れた。屋内に戻って随分経つから、大きな手のひらにはいつもの暖かさが戻っている。温もりに頬を預けると、親指が優しくさすってくれる。
しばらくそうして、あなたの存在を確かめた。両の目を細め、安堵したように頬を緩めながら私の頬を撫で続けるあなたに、されるがままになっていた。
「……ねえ、提督。あなた、本当はどれだけ待っていたの」
彼が頬を撫でるように、私も頭を撫でながら尋ねる。提督はやはり困ったように眉尻を下げ、瞳を泳がせた。少し言い淀む間の後、彼はゆっくりと口を開く。
「どう、だろう。よくわからない。でも……すごく長く待った気がする」
「びしょ濡れだし、顔は白いし、震えてるし……子猫でも拾った気分だったわ」
「ごめん。心配かけたかな」
いいのよ、別に。まだ微かに湿っぽい髪を撫でる。短く切り揃えた提督の髪に、私の手を馴染ませる。ほうっと心地よさそうに息を吐き、提督は目を閉じた。私の太腿に乗る重みが、少し増したような気がした。
そうしてまた、静かな時間が流れる。目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返す提督の顔を、私はただじっと見つめていた。私が提督の髪を撫でるのに合わせるようにして、彼もまた私の髪に指を通した。太い指が視界の端で金髪を通っていく。くすぐったさに頬が緩んで、目を眇めた。
最後に頬を一撫ですると、提督は手を引っ込めた。重力に従って腕が折りたたまれ、彼の瞼に手の甲が落ちる。微かに身じろぎをしてから、提督はゆっくりと言葉を発した。
「雨の日は、執務室から何も見えないんだ」
瞼に乗せた手を提督が握る。言葉を語る唇が、感情で震えていた。まるで雨粒が彼を冷やしているみたいで、私はただひたすらに優しく頷き、彼の頭を撫でていた。
「いつもは窓からすぐに海が見える。君が……誰かが帰って来れば、すぐに見つけられる。手だって振れる。何もなくたって、そこに海があれば、君たちの存在を感じられる。でも……雨だと何も見えないんだ」
「……ええ、そうね」
震える声に努めて寄り添う。手の甲が何を隠しているのか、それがわかっても理解していないふりをする。それくらいの嘘は許されるでしょう。
「それが堪らなく不安になるんだ。そこにあるはずの海が見えなくて、それがなんだか君が遠くへ行ってしまった気がして。どうしようもなく不安になる。待っていることが堪らなく辛くなる」
「それで、ずっと待っていたのね。あの埠頭で」
「もう、それ以上が思いつかなくてね」
そこまで言い切って、彼は瞼の上から手をのけた。目頭のあたりを丹念に揉んで、ようやく目を開く。安堵の色濃い瞳に見つめられて、堪らず空いた右手を彼の右手に重ねた。いつもより強く力を込めて彼の手を握る。絡めた人差し指の先が微かに湿っていた。
私を見上げて、どこか自嘲気味に、力なく提督は笑う。
「かっこ悪いな。俺はただ待ってるだけなのに」
「……いいえ。いいえ、そんなことない。あなたは素敵な人よ」
その言葉に一つも嘘なんてないと伝わるように、彼の不安と寂しさが一秒一瞬でも早く払拭されるように、そう祈りながら微笑んだ。
「あなたの気持ち、わかるわ。――待っている者には、待っている者の戦いがあるもの。体よりも先に、心が疲れてしまうことだってある。私だって、それくらい知っているのよ」
それを嫌というほど思い知ったのは、思い出せば丁度一年ほど前の、雨の日だった。
戦うのはいつだって艦娘だ。そして待っているのはいつだって提督だ。それはもちろん、実際に深海棲艦と撃ち合っているのは艦娘だけれど。でも私たちは孤独じゃない、基本的には複数人で艦隊を組んで行動する。共に戦う仲間がいる。
提督はそうではない。いつでも待っているのは彼一人だ。戦闘指揮所で、あるいは作戦指令室で、はたまた執務室で、彼はただ一人、私たちを待っている。とても孤独な戦いだ。
優しいあなただから。真面目なあなただから。とっても素敵なあなただから。だからきっと、誰よりも心をすり減らしてしまう。体よりも先に心が疲れてしまう。そんな時もあるって、私だけは知っている。
提督はまた目を閉じた。ゆっくりと吸って、同じくらい時間をかけて吐いた息に、彼の心が弛緩していくのを感じた。疲れを自覚したからか、表情にはいつもの穏やかさが戻っている。
「疲れてるのか、俺」
「ええ。だから私に甘えていいの」
「ありがとう。――君は優しいね」
「あなたの真似をしているだけよ」
頑張ったのなら、労ってあげる。成果が出たのなら、褒めてあげる。疲れたのなら、休みを取って、甘やかしてあげる。それはいつも、あなたが私たちにしてくれることよ。
だから。あなたが頑張った時、成果を上げた時、疲れた時。私が労って、褒めて、甘やかしてあげる。だってそれは、提督の秘書艦で、あなたの妻である、私の役目だもの。私だけが独占できる、私とあなただけの幸せだもの。
「少し寝なさい。どうせ仕事は終わっているんでしょう?」
「ああ、終わってる。――それじゃあ、お言葉に甘えて」
「おやすみなさい」
提督がそうしてくれるみたいに、私も彼の額に唇を落とす。くすぐったそうに微笑んだ提督は、そのまましばらくすると穏やかな寝息を立て始めた。凛々しくも優しい提督の顔はどこにもない。私の膝枕で夢を見るのは、穏やかでどこか締まりのない私の旦那様の顔。この世界で私だけが知っている素敵な人。
眠り王子の頭を、愛しい心地で撫で続ける。大淀が書類を持って来るまでの一時間、そうして提督を寝かせていた。
前回とは対になるお話でした。