紅葉の君と、春まだきの君   作:瑞穂国

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お久しぶりです。

唐突に思いついて煮詰まったパースさんのお話です。


名月を取ってくれろと願う君

「ねえ、あのお月様を取ってはくれないかしら」

 

 一週間ぶりに澄んだ夜空を見上げていると、隣のパースがそんなお願いを投げかけてきた。

 星海に浮かぶは満月。それも一際美しい輝きを放っている。雨のおかげで空気が綺麗なのか、いつにも増してその光は鮮やかだ。思わず目を眇めて、溜め息が漏れるくらいには、風情のある眺めだった。

 その月を、パースは取ってほしいと、そう言った。

 

「月を、取る?」

 

 お願いの趣旨がよく理解できずに、俺は隣へ腰かけるパースを見た。二人の部屋のバルコニー、ロッキングチェアに体を揺らす彼女と目が合う。最近お気に入りの浴衣を着てゆったりとした様子のパースは、お風呂上がりで解いて肩に流した金砂の髪に指を通しながら、俺の方を見つめている。細くなった紫の瞳が、妖艶でどこか悪戯っぽい。その色に見覚えのある俺は、これは何か試されているなと理解できた。

 

「ええ、そう。お月様を取ってほしいの」

 

 パースはもう一度そう言って、天上の月を見た。透き通る白い光。そこへかざすように手を伸ばすパース。端から見ると、それはあたかも絵画のように幻想的で、しばらく息を詰まらせ、心を奪われていた。

 ゆったりとした浴衣の袖から、パースの腕が伸びる。まだ日に焼けていない白い肌が、冷たい月光に透けてしまいそうだ。あたかもそのまま天まで手を引かれてしまいそうな気がして、胸の辺りが不安で締め付けられる。けれどもちろんそんなことはなく、パースは月へかざした手を矯めつ眇めつしたあと、引っ込めた。ギイッと、浴衣の彼女を受け止めたロッキングチェアが揺れる。月明を宿すアメジストの煌めきが再び俺を見た。先程と同じ、どこか妖しげで艶やかな目線がこちらを捉える。

 

「届きそうで手を伸ばしても、私では届かないみたい。だから、ね。お願い。あなたなら届くかも」

 

 パースはそう言ってクスリと笑う。「さあ、どうする?」と問いかけるような表情が、意地悪で気まぐれな女神のようだ。正しく無理難題を持ち掛けられた俺は、頬を緩めながら「そうだなぁ」と考える。

 

「月には届かないかなぁ」

 

 試しに手を伸ばして、二度三度と開いて閉じてみる。もちろん、届くはずはなかった。夜空を支配するように大きな月は、確かにふと手を伸ばせば掴まえられてしまいそうな気がする。けれど実際には、俺たちのいる場所からは遥か彼方、三十八万キロを隔てた宇宙にある。目一杯伸ばしても精々一メートルという俺の腕では、掴みようもなかった。

 

「そう。……それは残念だわ」

 

 本当に残念そうに、パースは眉尻を下げた。手にしたロックグラスを傾ける。カラコロと溶けかけの氷が涼しげな音を奏でた。

 もちろん、彼女だってそれが無理難題だとわかって言っているだろう。けれど名残惜し気に月を見つめ続ける横顔に、果たしてこのまま無理なものとして片付けいいものかと思う。きっと何か思うところがあって、「お月様を取ってほしい」なんて、わざわざ言ったのだろうから。

 そこでふと、俺はあることを思いついた。

 

「パース、ちょっと待っててくれるか」

「?ええ、もちろん」

 

 ロッキングチェアから立ち上がり、俺は一旦部屋の中へ戻った。点いていた電灯を一つ一つ消して回り、すっかり宵闇に支配された世界に目を慣らしながらバルコニーへ戻った。さっきよりも格段に暗くなった夜の中で、爛々と輝く紫水晶の瞳が不思議そうにこちらを見ていた。余計な光が無くなったからか、より一層その美しさが増している。

 二人の前に置かれたテーブルに手を伸ばす。ガラス製のポットに入っているのは、パースと作ったフルーツサイダー。炭酸水に、甘い蜜と果実を溶かした、これからの季節にはぴったりのさっぱりとしたドリンクだ。今夜はキウイとラズベリー、マンゴーを入れている。

 空になっていたパースのグラスを受け取り、二杯目を注ぐ。炭酸の弾ける爽やかな音が、静かな夜に響いた。パースはその様子をとても穏やかな表情で見つめていた。

 フルーツサイダーを注いだグラスを、けれどすぐにはパースへ渡さなかった。彼女の隣に腰を落とし、目線の高さを合わせてグラスを見つめる。その場でグラスを掲げてみせた。衣擦れの音がして、俺の視線が上がるのと一緒に、パースの視線も上がったのがわかった。

 

「――あ」

 

 パースが小さな驚きの声を上げる。

 掲げたグラスの向こうには月が見えている。それは丁度、グラスの中へ月が収まっているように見えた。大きく削った氷の代わりに、淡い色合いの望月がサイダーに浮かんでいる。蜜のせいか、冷たく感じた白い月光も、どこか穏やかで暖かだ。

 

――「ねえ見て。お月様を捕まえたわ」

 

 以前、二人で温泉旅館へ行った時、パースがそう言ってはしゃいでいたのを思い出したのだ。部屋備え付けの露天風呂から俺を呼ぶ声がして覗いてみると、湯船の彼女は頬を染めて手のひらに掬ったお湯を示した。湯煙の彼女の手のひらには確かに月が映し出されていて、パースの言う通り月を捕まえたように見えた。

 隣のパースを窺う。グラスを見上げる横顔が、キラキラと嬉しそうに笑っていた。幾千の宝石みたいな瞳に月が映る。今にも鼻歌を奏でそうな表情が、彼女の喜びを如実に物語っていた。

 

「どう、だろう?」

「……ええ、ふふっ。お月様の入ったサイダーなんて、素敵ね」

 

 パースの白い腕がまた天へ伸びる。けれど今度は、遥かな夜空を捉えようとするのではなく、俺の持つグラスをそっと掴んだ。俺が手を離した後も、パースは飽きる様子なくグラスを見つめていた。その横顔を見つめながら俺も自分のグラスへ二杯目を注ぐ。それから同じように、月を自分のグラスへ浮かべてみた。

 

「ありがとう。――それと、ごめんなさい。意地悪なお願いだったわ」

「どういたしまして。――かぐや姫みたいだなと思った」

「日本の御伽話ね。ふふ、確かにそっくり。でも、あなたは合格ね」

 

 だってお月様を取ってくれたもの。こちらを蕩かすように満面の笑みを浮かべて、パースは言う。満足げにサイダーを堪能する横顔へ、俺は一つ問いかけた。

 

「もし月を取れなかったら、どうなってた?」

 

 パースはぱちくりと瞬きをした。その目がニマリと、また妖しげに細くなる。桃色の唇が楽しそうに持ち上がる。夜闇の中でもわかるほどに頬を染めたパースは、やはり悪戯っぽい笑い声と共に答えた。

 

「ふふっ、そうね。その時は、あなたがお月様を取ってくれるまで、ずうっと隣にいるわ」

 

 ああ、なるほど。これは一本取られた。あまりに可愛らしい物言いに何も言えず、俺は自分のグラスへ口づけた。

 フルーツのさらりとした甘さと、サイダーの刺激的な爽やかさが、舌と喉に心地よかった。




めんどくさい女の子が好きです。
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