――波間に君が笑うのなら、これ以上の幸せなんてどこにあるのだろうか。
「――綺麗だ」
ここ三十分ほどで何度目になるかわからない呟きは、ふと無意識のうちに俺の口から零れた。どこか夢見心地の呟きには、自分自身口から出て初めて気づいている。それ故にどうしても留めることはできなくて、我ながらどうしようもないなと思いながら、気恥ずかしさ由来で頭を掻いた。胸の辺りがくすぐられる感覚をごまかそうと、ぼんやり別のことを考える。この心地の正体は何なのだろうと、さして意味のない自問を繰り返した。一体何が、俺にそんなことを呟かせるのだろうと、わかりきった自答を繰り返した。
ふと風が吹く。夏の日暮れが近くて、景色は少しずつ茜色を帯び始めていた。その眩いオレンジを揺らめく波間に反射する海から、夏の香りを多分に含んだ海風が吹く。碧と橙の共演は、海と空の交わる水平線まで続いていた。海のすぐ側に身を置くようになって久しく、見慣れた景色であるはずだが、その壮麗さには何度も息を呑んだ。
「――綺麗だ」
けれど、その呟きを向ける先は、夕焼けを迎えようとする碧い海ではない。そんなことはわかりきっていた。
ひとひらの金砂が舞う。穏やかな海風にひらめく錦糸。こちらへ輝きを向けるアメジストには茜が一筋。潤んだ桃色が微笑みを紡ぐ。
コンクリートの堤防を、俺より三歩進んで歩き、玲瓏な声で歌を口ずさむパース。いい加減俺の呟きが耳に入ったのか、陽の光を一杯に宿す金糸の髪を揺すって、彼女はこちらを振り返った。太陽とは別の色に染まる頬。この間まで紫陽花色だった瞳は、今は紫水晶となって夏の輝きを見せる。艶やかな唇の端をふわりと持ち上げて、パースは笑った。
さっきからずっと、その美しさに心を奪われている。茜の空に響く麗しい歌声。碧海の輝きを受ける端整な横顔。夏という季節に心と体を躍らせる無邪気な佇まい。夕焼け間近の海辺という壮麗な景色の只中に身を置く彼女は、それ以外のすべてを背景に変えてしまうほどに綺麗だった。
この心は彼女に奪われたまま、ここにはなかった。それ故に心ここにあらずと、どうにも地に足のつかない心地がしている。俺の心を掴んで決して離してくれない波際の歌姫は、もしかしたら魔法で足を手に入れた人魚なのではないかと、ぼんやりそんなことを思った。船乗りを、その美しい歌声と容姿と微笑みで魅了して水底へ誘う、魔性の人魚姫。
俺を見つけた紫の瞳が、弓なりに細くなる。目を眇めるように微笑んだパースは、わかりきったことを確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「なあに、提督。そんなにしみじみと呟いて」
こちらを覗き込むようにして問いかけられると、我に返って急に気恥しくなった。魅惑の微笑みにどうしようもなく緩んだ頬を掻きながら、ごまかして答える。
「ああ、うん。海が綺麗だなって」
「……ふうん?」
嘘を吐いたことは、パースには一発で見抜かれてしまったようだった。けれど彼女はそれを指摘することなく、海の方へ瞳を向ける。風に吹かれる金の髪の間に見えた長い睫毛に、茜色の陽だまりができていた。やはりそれに息を呑んで、ああごまかしても意味がないなと、我ながら苦笑が浮かんで来た。
海を見つめていたパースが、ふっと頬を緩めた。へにゃりと力の抜けた笑み。綻んだ表情を俺に見せて、パースは言う。
「そうね。綺麗ね、海」
笑顔に映し出された
「……ごめん。本当は君に見惚れてた」
頬の熱を自覚しながら告げると、パースの笑みは益々大きくなる。どこか誇らしげな口元。それと同時に、煌めく瞳に隠し切れない
「ええ、知っているわ。――素直でよろしい。ふふっ」
悪戯っぽい笑みを零し、指先で俺の胸を小突いて、パースはまた歩き始める。触れられたところから柔らかな熱が体中へ広がっていった。敵わないなと頬の締まりを失くしながら、歌姫のリサイタルを追いかける。
堤防が途切れると、その先は海になっている。コンクリートと海の境目、港の入り口であることを示す灯標の側で立ち止まって、パースは深呼吸をする。その横に並んで、俺も彼女と同じように潮風を吸い込んだ。夏の雰囲気を多分に含んだ空気は、お世辞にも爽やかとは言い難い。けれど不思議と、心が洗われていく気がした。
吸い寄せられるようにパースの方へ目線を向けた。すると丁度、彼女もこちらを向いて、目が合った。パースは瞬きをすると、何を言うでもなく破顔する。愛おしそうな微笑みに、胸が締め付けられるほどの幸福を感じていた。
「――この辺でいいかしら」
しばらく二人並んで海を見つめていると、パースがおもむろに呟いた。隣に目を向けると、彼女は制服のマントを取り外し、畳んで足元へ置いた。そのまま、ブレザーのボタンに手をかけ、制服を脱ぎ始める。ぎょっとして俺はパースへ尋ねた。
「ぱ、パース!? 何してるんだ!?」
「何、って……泳ぐから、服を脱いでるのよ」
ニーハイソックスを手にかけ、真っ白な生足の曲線美を披露しながら、パースはさも当たり前のように答える。服を脱がないと濡れてしまうでしょう、とまるで当然のように彼女は言った。
咄嗟に目を瞑った。と同時に顔を背ける。しかし反射的に取ったその行動がまずかった。視覚を閉ざした分、敏感になった聴覚は、周囲の状況をさらにはっきりと伝えるようになった。波の音、風の音、海鳥の声。しかしそんなものよりも遥かに鮮明に、衣擦れの音がよく聞こえていた。パサリ。スルリ。軽やかだが確かな質量を伴った布が一枚ずつ地面に落とされていく。パースが、その身に着けたものを一つずつ脱ぎ去っているのは間違いない。けれど目を閉ざした今、それを確かめる方法がない。そのせいで想像だけが否応なく掻き立てられた。陶器のような肌が、ほっそりとしてしかし出るところは出ている肢体が、ゆっくりと露わになっていく様を思い描いてしまう。
女神の気まぐれに、変な気分になりそうだ。
「――ねえ、いつまでそうしているの?」
心底可笑しそうな響きを伴う声がかけられたのは、時間にすれば三分ほどが経ってからだった。しかし俺にとっては、永遠にも近しく思える時間だった。しなやかな指先が俺の袖を摘まんで、クイッと誘う。逡巡の末、俺は恐る恐る目を開き、愛らしい声で呼びかけるパースの方を見た。
してやったりと、悪戯に満ちた目でこちらへ笑うパースの姿は、俺の想像したあられもない姿――ではなかった。
真昼の海と同じ透き通るような碧を基調として、波頭を思わせる白みの強い水色とのツートンカラーで統一されたトップスとボトム。数日前に、俺が「人魚姫みたいだ」と感想を漏らした新調のビキニを、パースは身に着けていた。ほっと胸を撫で下ろしかけたけれど、水着姿のパースがそれを俺に許してくれない。彼女自身のプロポーションの良さと、新しいビキニの愛らしさが相まって、息が詰まる。何より、思いついた悪戯が見事に成功して、妖艶に歓喜の笑みを浮かべるパースの表情から、目が離せなかった。
「ふふっ。あなたとの海デートが待ちきれなくて、着てきちゃった」
確信犯として微笑み、パースはその場でくるりと器用に回ってみせた。しなやかな肢体が惜し気もなく披露される。豊満な胸のすぐ上で金糸の毛先が揺れていた。小首を傾げて「どうかしら?」と俺へ笑いかけるパース。艶やかな日中の残光が宿る紫水晶を、熱中症にでもなってしまったかのように、放心状態でぼうっと見つめていた。
「……綺麗だ」
やっとのことでそれだけ呟くと、パースは益々笑みを深くする。白い指先が伸びてきて、俺の鼻先を小突いた。触れられたところに甘い感触が残る。
「ありがとう。――ところであなた、さっきは何を想像していたのかしら?」
うっ、と今度はそれまでと別の意味で息が詰まった。答えに窮する俺に目を細めると、これで悪戯は完成と言わんばかりのパースは、満足げに口角を吊り上げた。彼女はそれ以上問い詰めることなく、くるりと踵を返す。
タン。彫刻のように滑らかな筋肉の曲線で構成されたパースの脚が、堤防の端を蹴った。人魚姫の体が宙を舞う。そのまま美しい放物線を描き、ぴしりと頭上へ伸ばした手の先から、パースは海へと還っていった。タボンと小さな飛沫が上がる。静かだった海面に波紋が広がって、映り込む夕暮れの景色を揺らした。膝を折って海面を覗き込む。十秒ほどして、パースが上がってきた。
解いた金の髪が海面に広がっている。ひとしずくの海水が夕陽を閉じ込めて彼女の前髪から零れ落ちた。アメジストの瞳が海面からこちらを窺っている。余裕がある様子で海に浮かび続ける彼女は、あたかもその場所こそが本来あるべき場所であるようにすら思えた。
……ああ、本当に、人魚姫のようだ。
「ねえ、あなたもいらっしゃい。とても気持ちいいわ」
パースは微笑んで、両の手を堤防の俺へと差し出した。桃色の唇が紡ぐ言葉は正しく玲瓏な音の連なりで、さながら船乗りを誘う魅了の歌のように聞こえる。
その響きに誘われるまま、水面の彼女を見つめている。その美しさに魅入ったまま、言葉も忘れてここにいる。
「……わかった。今行く」
観念したのか、それ以上の思考を放棄したのか。水面より誘う人魚姫に導かれるまま、制服を脱ぐことも忘れてその手を取った。
トプン。久方ぶりに体感する、水中へと飛び込んだ感覚。音で溢れていた世界は、突然すべて遮られた。一瞬の静寂。深い蒼の世界のみが広がっている。けれどすぐに、飛び込んだ時に巻き込んだ空気と、乱れた水の音が聞こえ始めた。もう少しその静けさに身を置いていたかったけれど、残念に思いながら海面を目指す。
海面に飛び出せば、また音が溢れる。息を吸って頭を振り、手で顔を拭った。瞼を開くと、すぐ目の前にパースがいる。彼女と同じように、さざ波の上へ顔だけ出して、見つめ合った。
「ね、気持ちいいでしょう」
俺の腕を取って胸元へ引き寄せ、パースは笑う。楽し気で、嬉しそうで、愛しさのままに、何より幸せそうに微笑む。夏とはいえまだ冷たい海中でも、触れた胸から彼女の温もりをしかと感じていた。
この心は彼女に奪われたまま。それ故心はここになく。けれど彼女に抱かれた心が何よりも温かく幸福だ。
「ああ。最高に気持ちいいね」
「ふふっ。ええ、そうでしょう」
波間に浮かぶその笑顔以上の幸せなんて、俺は知らない。
夕暮れの海に、パースと二人で戯れる。水平線へ近づくほどに眩さを増す夕陽に見つめられながら、愛しき波間の君と笑い合う。
陽が暮れるまでたっぷりはしゃいで遊んで、ずぶ濡れの制服で帰ったのを大淀に怒られたところまで、掛け替えのない夏の思い出だ。
水着パースさんがすっごい綺麗だし可愛いし美しいし人魚姫みたいだし麗しいっていう話。