鎮守府名物だという桜が満開を過ぎ、はらはらと散り始めた、この頃。昼下がりの、ぽかぽか陽気な太陽が差し込む、執務室。自分の分の書類を全て終わらせた私は、じっと、執務机の提督を窺っていた。
意見書に目を通し、報告書を書き上げ、申請書にサインをし、全ての書類に判を押す、提督。引き締まった目元を、滑らかな手つきを、私はソファから見つめる。真剣そのものな表情に、ふと惚けて、息が漏れた。私は慌てて、首を振る。
いけない、いけない。見惚れるために、見つめていたわけでは、ないのだから。幾度目になるかわからないほど気を引き締めて、私はもう一度、提督の顔を窺った。
その時、顔を上げた提督と、ばっちり目が合った。
「あのー、パースさん?なんです?」
よっぽど私の動きが不審だったのか、訝しむように、提督が尋ねる。私は慌てて、口を開いた。
「な、何かしら?もしかして、お茶が欲しい?」
「あー……お茶は欲しいけど。さっきからどうしたんだ?」
普段の口調に戻った提督が、改めて私に尋ねた。何か問題があったかと、その目が訊いている。
「なんでも、ないわ」
問題は……ない。ええ、本当に、なんでもないことなの。ただ、私が少し、気にしているだけ。
曖昧な私の答えに、提督は明らかに納得していない様子だ。真っ直ぐな瞳に、思わず目が泳ぐ。
……観念した方がよさそうね。でも今は、お茶がお供に欲しくて、私はソファを立った。
「提督の考えていることをね、読もうとしてた」
「俺の考えを?」
ティーブレイクの紅茶に息を吹きかけながら、私はさっきの行動のわけを、提督に白状した。ソファの隣に腰掛ける提督が、どういうことだ、と首を傾げる。
「……くだらない、って笑って」
きっかけは、数日前。大量発生した菱餅(回遊種?だとオイゲンは言っていた)の掃討と回収のために、大規模作戦が立案された時のこと。執務の量が信じられないくらい増えて、私と提督では手が足りなくなった。そこで、提督は助っ人として、吹雪に秘書艦補佐を頼んだ。
吹雪は、提督の初期艦で、最初の秘書艦。大淀が来るまでは、ずっと秘書艦を務めていた。秘書艦の補佐として、これ以上適任はいないわ。
実際、吹雪が来てくれて、とっても助かった。でも……本当に、くだらないことだけど。私には、一つ、気になることがあった。
――「その書類なら、こっちにまとめましたよ」
――「そろそろ休憩にしましょう!」
――「探してる資料はこれですね?」
吹雪は、本当によく働いてくれたわ。それは、そうよね。提督とは勝手知ったる仲で、もちろん秘書艦の経験も、私よりずっと豊富だもの。私が難読漢字の羅列と、サインの山に苦戦している横で、彼女はテキパキと仕事を進めていた。その動きは、端から見ていてもわかるくらい、提督と息ぴったりだった。
阿吽の呼吸、というのかしら。お互いに、今何を欲しているかがわかる、そんな間合い。
それを、羨ましいと……そして、本当にほんの少しだけ、妬ましいと、思ってしまった。
「私は……半年間のあなたしか、知らない。吹雪みたいな、あなたの初めてでは、ないもの」
ことの顛末を語り終えて、私はそっぽを向いた。
自分でも馬鹿らしくなるくらい、拗ねている。ああもう、どうしたものだろう。どうしようもないことだって、理性ではわかってる。提督を困らせてしまうって、わかってる。
でも。私が歩めなかった五年間を、提督はどんな風に過ごしたんだろう、って。どんなことがあって、どんなことを思って、どんな人と、艦娘と出会って。……もしかしたら、恋も、したかもしれない。
その時間を、ずっと共有してきた吹雪が、羨ましい。
めんどくさい女ね、私。
「だから……俺の考えを、読もうと?」
提督の声が、優しい。その優しさに甘えて、私は頷く。唇を湿らせた紅茶が、少し苦かった。
提督が、テーブルにカップを置く音がした。カタリ。とても丁寧なその音に、内心で肩が跳ねた。あまりの呆れ具合に、声もないのではと、凍てつく考えがよぎる。
しばらくして聞こえてきたのは、やや困った様子の、微苦笑だった。私は恐る恐る、提督の方を振り返る。眉をハの字にした提督が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
「それは……困るなぁ」
「どういう、こと?」
尋ねた私に、提督は殊更真面目な表情で、左の拳を口に当てる。その薬指に、キラリと指輪の光。
「君に考えを読まれると、君のことしか考えてないことが、ばれる」
ぽかんと、自分の口が開くのが、わかった。表情と言葉のギャップに思考が追い付かなくて、しばらく目を瞬いた。提督はこちらを見つめたまま、再び首を傾げる。
……ああ、もう。これは、私の負け、なのかしら。
「……もう。私は真面目に悩んだの」
「俺だって大真面目だ。君のことなら、尚更ね」
「……今も、私のことを、考えてるの?」
「試しに、読んでみるか?」
ずいっと、提督が私に顔を近づける。瞳に移る、蛍光灯、金魚の鉢、窓の外の桜、陽に揺れるカーテン。それらに囲まれて、真ん中に、私がいる。
それだけで……十分、よね。
急に馬鹿らしくなって、私は提督の顔を、両手で挟んだ。潰れたモチみたいになる提督。彼の瞳の中で、私が相好を崩していた。
「提督って、わかりやすい」
「そうか?」
「ええ。――私のこと、大好きでしょう?」
「ばれた、か」
わざとらしく笑った彼を、タダで解放なんてしてあげない。
紅茶で湿った彼の唇に、私の唇を重ねる。微かに香るアールグレイ。愛しくって憎らしい下唇を甘噛みして、ゆっくり十秒を数える。その間、ずっと、あなたの熱と吐息を、感じてる。
小さな水音を残して、二人の唇が離れた。名残惜しい熱の続きは、また、夜にしよう。
「……俺の時間は、パースのものだ。これからの初めては、全部、君のものだ」
さっきまでの私の考えを読んだように、提督が頬に触れた。大きな右の手は、指先で私の頬を撫で、そっと包み込む。温もりが心地よくて、手のひらに頬を摺り寄せた。ごつごつとした甲に、左手を重ねる。
「……少し、違うわ、提督」
こちらを覗く彼の瞳に、私は言葉を重ねる。あなたが、私の考えを読めるというなら、それ以上の感情を、伝えられるように。
「あなたの時間も、私の初めても――私たち、二人のものでしょう?」
私が笑えば、あなたが笑う。あなたの瞳には、私が。そしてきっと、私の瞳には、あなたが。映って、煌めいて、微笑んでいる。
前髪越しの額に、彼の唇が触れた。それが、ティーブレイク再開の合図。私たちは、いつもの通り、二人並んで、カップを傾ける。少し冷め始めた、アールグレイの、芳醇な香り。お茶請けは、二人で焼いた、塩漬け桜のクッキー。
春来たりて。散り舞う花に、ティータイム。菓子の調べと、二人の初めて。
クッキーに頬を綻ばせる、提督。私はもう一度、愛しいあなたに、キスをした。
菱餅に関する衝撃の設定が明かされましたね…