ということで、パースさんと提督のお出かけです。
お砂糖は控えめでいきましょう。
「終わりそうね?」
万年筆を走らせる肩に、ふわりと、乗るものがあった。顔のすぐ横、優しく香る、太陽の気配。さらさらと絹のような髪が、鈴の音の声とともに、耳をくすぐる。
幸せの重さを感じて、サインの手を止めた。すぐ右にある、声の主の方を、俺は窺う。
パースの、深く透き通る紫の瞳と、目が合った。一足先に午前の執務を片付けた彼女は、お願いしていた資料の整理も終えたようだった。あなたはまだ終わらないの、とその目が尋ねている。
「ああ、もうすぐだ」
「そう。それじゃあ、先に戻って、準備してるわね」
答えたパースが、耳たぶにキスをして、離れる。微笑んでひらひらと手を振る彼女に、俺も手を振って答えた。ぱたり。穏やかな音とともに、執務室の扉が閉まる。
ゴールデンウィークの真ん中。即応状態の鎮守府にも、休暇は与えられる。かくいう俺とパースも、今日はこれから、半日の休暇をもらっていた。ついでに外出の許可も。
久しぶりの外出だ。二人揃っての休日をもらっても、鎮守府内や周辺施設で過ごすことの多い身としては、これほどありがたいこともない。
そのためにも、早々に執務を終わらせなければ。幸いにして、確認するべき書類は、あと数枚を残すばかり。いつものペースでいけば、十分もせずに万年筆を置けるだろう。
ペンを走らせ、判を押す。その間も、つい今しがた部屋を後にした笑顔がちらついて、頬が緩んで仕方がなかった。
「いってらっしゃい、司令官、パースさん」
ディーゼルエンジンに火を入れたところで、駐車場まで見送りに来た留守番役が、笑顔で手を振った。半日の間、秘書艦代理をお願いした吹雪へ、車窓から声をかける。
「ありがとう、吹雪。大淀と一緒に、よろしく頼むよ」
「はい、吹雪、任されました!ですから、司令官とパースさんは、何も気にせず、たっぷり楽しんできてくださいね」
親指を立てて自信満々な様子の吹雪に、パースと顔を見合わせ、笑う。彼女と、大淀の二人なら、安心だ。
助手席から身を乗り出して、パースも吹雪へ話しかける。
「私からも、ありがとうね、吹雪。お土産に期待してて」
「はいっ。甘いお菓子がいいです」
「わかったわ。明日はそのお菓子で、お茶にしましょう」
「楽しみにしてますっ!」
天真爛漫、という言葉のままの笑顔に、パースも頬を綻ばせていた。
ギアを入れて、ブレーキを離す。いよいよ、半日のドライブデートの始まりだ。
「いってらっしゃーい!」
ぶんぶんと手を振り続ける吹雪の姿が、正門を出るまで、バックミラーに映っていた。
「……ふふ。吹雪って、とっても可愛いわよね。子犬みたい」
パースの言葉には、大いに納得するところがあった。とにかく、何にでも興味を示す、明るい子だ。いつも、何かを見つめ、語る目が、宝石のようにキラキラしている。そういうところが、多くの艦娘に慕われる所以だ。
信号で停車しつつ、助手席のパースを窺う。
「パース、吹雪と仲いいね」
きっかけは、菱餅掃討作戦中に、吹雪へ秘書艦代理を頼んだことだろうか。以来よく、二人でランチを食べたり、お茶をしているところを見かける。
パースは頷いて、笑う。横目に見えたその笑顔は、友人を得た喜びと、何か良からぬことを思いついた悪戯心に染まっている。
「お茶の趣味も、お菓子の趣味も、お話の趣味も、よく合うのよ。吹雪、とってもお話が面白いの。――提督のお話も、たくさん聞いたわ」
うっ、と息が詰まる。丁度信号が青に変わって、アクセルを踏んだ。視界から外れた助手席で、まだクスクスと、控えめな笑いがしていた。
「あなた、やっぱり面白い人ね」
「それは、褒めてるのかな?」
「さあ、どうかしら?」
答えてくれないのは、意地悪だ。もう苦笑するしかない。一体、吹雪はどこまで、語ったのだろうか。
「やっぱり、嬉しいわ」
なおも笑みをこぼし続けるパース。ころころと澄んだ声が、車内に響く。左耳が幸せだ。
「私の知らなかった、あなたのこと。たっくさん、知れるもの」
五年分の俺を暴こうとする可愛らしい動機に、最早肩を竦めるしかなかった。
遅めの昼食に、パースのリクエストした蕎麦を食べ、俺たちは目的の場所まで辿り着いた。
パースのリクエスト半分、俺が連れて来たかったっていうのが半分。丁度いい機会だなと、思った。
「わぁ、すごい。ここまでいい匂いがするわ」
車から降りるなり、パースは感嘆の声を漏らす。反対側のドアから出て、鍵をかけた俺も、パースと同じ方へ目を向けた。
鎮守府からは、車で一時間半。この神社には、地元でも有名な、つつじ園がある。気木々の合間から垣間見える、なだらかな山の斜面一杯に、つつじの花が咲き誇る。その優しい香りが、麓の駐車場にまで、漂っていた。
俺たちと同じ目的なのか、多くの人が訪れている。駐車場も車で一杯だ。初々しいカップルや家族連れ、カメラを携えた集団、老夫婦。たくさんの人が、本殿とつつじ園へ続く参道を、行き交う。
「行きましょう、提督!」
パースに手を引かれるまま、俺たちもその人だかりに、加わった。
石畳の参道。頭上を覆う新緑の木立から、木漏れ日が差し込む。足元には見事な光のグラデーション。木漏れ日を追いかけて、子供たちがはしゃいでいた。
「とても幻想的な風景ね」
光の雨を手ですくい、パースが呟く。そう言えば、こういう場所に連れてくるのは、初めてだった。
木漏れ日が、パースの髪を輝かせる。金砂のように、サラサラの髪が煌めく。それを改めて、美しいと思った。
苔むした道を五分ほど歩く。木々の途切れた場所に、神社の本殿はあった。つつじの花園を背景に、厳粛な雰囲気を纏った木造建築が、それは静かに、佇んでいる。
パースと揃って息を飲む。なお華やかさを増す、つつじの香り。太陽の光を一杯に受け、高らかに咲く花は、その一つ一つが輝いて見える。あまりの光景に、言葉が、出ない。
「……まずは、お参り、しようか」
俺の提案に、パースがこくりと頷いた。
手水にて、手を清める。俺の作法を、パースが見様見真似で繰り返す。二人揃って鳥居をくぐり、いよいよ本殿の前へ。お賽銭を投げる列へ並んでいる間も、パースは興味深げに、境内のあちらこちらへ目を遣っていた。
いよいよ、俺たちの順番が回ってくる。揃ってお賽銭を入れ、鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼。願うのは――航海の安全と、パースの健康、二人の幸せ。
「……うん、よし」
隣のパースが顔を上げる気配を感じて、俺も顔を上げる。最後に一礼をして、本殿の前を後にした。
「帰りに、お守りをもらっていこうか」
「ええ、そうね」
二人で頷いた。
目の前にはいよいよ、つつじ園が広がっている。辺り一面、瑞々しい花々で彩られている。やや赤の強い、ピンクのグラデーション。時折混じる薄い紫。腰上ほどの低い木に、いくつもいくつも、花弁が開いていた。
植えられたつつじの合間を縫うように、人の通れる道が設けられている。花園の都、その大通りを、多くの人が賑やかしていた。お気に入りのつつじに見入り、思い出を残そうとシャッターを切り、花の香りに心を打たれる。
「まるで、つつじの国、ね」
同じような感想を、パースも口にする。うっとりと目元を緩める彼女は、一分ほどそうしてから、俺の方を向いた。キラキラと星を浮かべる瞳が、俺を見上げている。
「ねえ、私たちも写真を撮りましょう」
「いいね。そうしようか」
パースの提案に賛同して、スマホを取り出す。つつじ園を背景にして、パスと並んで映るように、一杯まで手を伸ばす。二人の顔が入るように、パースがぴったりと、くっついた。
画面に映るパースが、花園にも負けないくらい、満面の笑みを浮かべる。瞳を細め、眦を下げ、口角を緩める微笑みに、俺もつられて笑顔になる。
二回、三回とシャッターを切る。撮った写真は、すぐにパースと共有した。
「自撮り棒とか、あるとよかったね」
写真を確認しながらの呟きに、パースが首を傾げる。
「どうして?必要ないわ、そんなの」
当たり前みたいに言ったパースが、スマホの画面を見せてくる。ホーム画面には、花園で揃って笑う、パースと俺。
「こっちの方が、あなたとぴったりくっついて、写真が撮れるじゃない」
不思議そうな表情に、完全敗北を認めて、俺は頬を綻ばせた。
パースを連れ立って、つつじの花園へ足を踏み入れる。見渡す限りの、花々。穏やかな春の香りを漂わせる、つつじの国。夏へ、そしてその前の梅雨へ歩む季節に、微笑みをたたえて咲いている。
その、一つ一つの花を確かめるように、パースが覗き込む。花に顔を近づけ、目を閉じ香りを嗅ぎ、白い指で花びらに触れる。
パースの横顔を、写真に収める。花園の君が、つつじと戯れる様子は、随分と素敵な絵になった。花弁と並ぶパースの微笑みが、液晶画面の中でも眩く輝く。
つつじの敷き詰められた道を、ゆっくり歩いていく。パースはよく足を止めて、花に見入った。それを一緒に眺め、あるいは写真を撮りながら、俺も花園の虜になっていく。
花の中に、見返り美人が一人。俺がシャッターを切るタイミングを、パースは完全に把握している。つつじに囲まれ咲く花の、虜になっていく。
いけない、いけない。見惚れているのはいつものことだが、本来の目的を忘れてはいけない。確かに、つつじもパースに見せたかったものではあるが。もう一つ、彼女をここへ連れてきた理由は、別にある。
なだらかな斜面を登りきると、つつじ園を一望することができた。でも、ここで終わりではない。
「パースに、見せたいものがある」
「?つつじではないの?」
「もちろん、つつじもだけど。君を、ここに連れてこようと思ったのは、もう一つ理由があるんだ」
つつじ園のさらに奥へ、パースを招く。見せたかったものは、もうすぐだ。
陽のよく当たる場所。つつじとはまた別の趣がある花が、そこには咲いている。太陽へ目一杯に花弁を広げるつつじとは違う。小さな花たちは、陽光と同じように、天から人々へ向けて降り注ぐ。正しく、高嶺の花、だ。誰もがその優雅な咲き方に、感嘆の息を吐く。
それは、パースも同じようだ。
「すごいわ……!こんな咲き方をする花があるのね」
紫の花を、同じく紫の瞳に映すパースへ、俺は答える。
「藤、という花だよ」
「フジ?」
「綺麗な紫だろう?」
「ええ――とても綺麗だわ。これが、提督が見せたかったもの?」
パースの問いに、首肯する。嫋やかさ、優雅さ、奥ゆかしさ、儚さ、たくさんの雰囲気を纏う小さな花たちへ、俺は手を伸ばす。さすがに、触れることは憚られた。
「藤の花が、パースにぴったりだと思ったんだ。だから、見せたかった」
「私に?」
俺の言葉に、パースはしげしげと、藤の花を見つめる。その隣に顔を並べ、俺も同じ花を見つめる。
「君の瞳と、同じ色をしてるだろう?」
それは、輝くアメジストの色。優雅と優美を兼ね備えた色。気品と気高さを秘めた色。パースに宿る煌めきの色。
パースがぱちくりと、目を瞬く。藤の花の瞳が、その暖かな色で、俺を見つめている。やがて、穏やかな太陽の笑みを、パースが浮かべた。
「素敵なことを言うのね」
「思ったことを、言っただけだよ」
「そう。――ふふ、ありがとう」
パースが再び、藤の花を見上げる。小さな花の房をまじまじと見て、それからぽつりと呟いた。
「香りも、つつじと全然違うわね。穏やかで、でも情熱を秘めた――恋の香りがするわ」
そんなことを、不意に、振り向きざまに、言うものだから。思わずドキリとしてしまった。いいや、パースにはいつも、ドキドキさせられっぱなしだけど。
太陽を透かす藤の、風を揺らす花の、胸を燻る香りの、その只中。陽光に瞳を輝かせ、そよ風に髪をなびかせ、この胸をくすぐる君に、何度目かわからない一目惚れをした。
春深く。藤棚満たす、恋の香に。振り向く君に、忍べぬ想い。
藤の花棚の奥へと、歩んでいく。降り注ぐ紫の中へ、現と幻想の狭間へ、花園の君が足を踏み入れる。高鳴る鼓動を押さえ、俺はシャッターを切る。
「ほら、提督。何してるの。一緒に藤の花を見ましょう」
藤の君が、俺を呼んでいる。咲き誇る幻想の中へ、俺も足を踏み入れた。
美しい
◇
(おまけ)
俺は、しがない、蕎麦屋の亭主だ。
蕎麦を打つこと半世紀。ありがたいことに、ここまで自分の店を畳むことなく、やって来ることができた。贔屓にしてくだすってるお客さんもいる。嬉しいことだ。
……女将でもある女房には、色々と苦労を掛けた。今だってそうだ。「死ぬまで蕎麦屋でいたい」なんてえ俺のわがままに、「そんなら、あたしも死ぬまで、女将でいようかねえ」なんて言いやがる。あん時は、情けなく、涙なんて流しちまったもんだ。感謝したってしきれねえ。俺にはもったいない女房だ。俺にできることは、女房に恥じない、旨い蕎麦を打ち続けること。それをおいて他にはねえ。
だから、俺は今日も蕎麦を打つ。俺の理想の蕎麦、ってえのは、たくさんの人に感謝する蕎麦だ。感謝の心を、忘れちゃいけねえ。
「いらっしゃいませ」
店の扉が開けば、女房の声が響く。俺もそん時だけは、釜の前で顔を上げる。お客さんの顔を見ないで、蕎麦は打てねえ、切れねえ、茹でれねえ。
昼も遅い時間にやって来たそのお客さんは、普段見ない顔だった。一人は、やたらと姿勢のいい、すらりとした背格好の、優男。そしてもう一人が、見頃の藤みてえな目をした、金髪の美女。
目が合って会釈をすると、あっちも会釈を返してきた。きびきびとした動きに、ははあん、さては軍人さんだなとわかった。近くには、海軍さんの施設もあることだし、別段珍しくもない。
女房が案内した席は、俺の立つ釜の前から、よく見える机の席だった。優男の方が、椅子を引いて、美女をエスコートしている。なるほど、見た目通りの、王子様らしかった。
仲良く頭を突き合わせて、二人がお品書きを見始めた。丁度そん時、奥の厨房から、声がかかる。
「じいちゃん、これでいいか?」
暖簾を掻き分けて、孫が顔を覗かせている。その手には、今日初めて任せた、天麩羅を乗せていた。いい景色だ。教えた通りにはできてるな。上手いじゃないか。
長女夫婦のところの孫は、昔から「じいちゃんの跡を継ぐ!」が口癖だった。最初は子供の言うことだからなんて思ってたが、どうも本気らしいと最近わかってきた。今は少しずつ、俺の技術を教え込んでる。
最近の若いモンは気難しい。怒るのがいけねえってんだろ?だから、優しく教えてたんだが。「そんな、怒られて一々凹むような、柔には育ってないよ、じいちゃん」なんてぬかしやがる。今は早く、俺の技術が盗みたいんだと。そこまで言われりゃ、遠慮はしねえ。客商売、特に飲食店なんてのは、真剣勝負だ。生温いことしてると、迷惑をこうむるのはお客さんだからよ。だから、蕎麦を打つ俺たちは、誰よりも真剣でなくっちゃならねえ。それを、孫には理解してほしい。
でもって、その努力の結果が、この天麩羅だ。いいもんを作りやがる。
「おう。ばあちゃんにも確認して、オッケーが出たら、お客さんにお出ししな」
「わかった」
まだまだ幼いが、一端の職人の顔をしてやがる。店に立ってる時だってのに、頬が緩むのは、親馬鹿ならぬ、じじ馬鹿だと思って許してくれや。常連さんでもいれば、「いいお孫さんだなぁ」なんて、からかわれるんだろうが、幸い今は姿がない。
茹で上がった蕎麦をざるに盛り付ける。全部で四枚。こいつは、さっきの天麩羅と合わせて、座敷のお客さんだ。
「すみません」
その時、すっと、例の海軍さんが手を挙げた。会計中の女房に変わって、若女将(孫の彼女だ)がパタパタと駆け寄っていく。
「天ざる一つと、」
「私は、鴨せいろをお願いするわね」
二人が揃って、注文する。何とも仲睦まじげじゃねえか。恋人同士か、ご夫婦か。何だか、女房との若い頃を思い出して、そんなことを勘ぐっちまう。いけねえ、俺も歳かねえ。
「お蕎麦、とっても楽しみね。ここのお店も、吹雪が教えてくれたのよ」
美女の方が、サラサラの金髪を揺らして、笑っていた。優男の方は、その笑顔に見惚れてるらしく、ニコニコと締まりのない口元をしてやがる。若いっていいねえ。熱くってしょうがねえや。
そういや、美女の言った「吹雪」って名前には、憶えがある。五年くらい前から、月に一、二回、来てくれる少女だ。何でも確か、艦娘とかいう、海軍さんの所属らしい。あの、深海棲艦と戦ってる、艦娘だ。
なるほど。てことは、今、優男へ花みたいに優しい笑顔を向ける美女も、艦娘なのか。
とすると、職場婚、ってやつかね?益々、女房とのことを思い出していけねえ。女房とは、俺が修行した蕎麦屋で、見習いの女将だったころに出会ったんだ。
「大将、天ざると鴨せいろです」
「おう」
注文を取った若女将が、俺に告げる。すでに、二人前、蕎麦は準備済みだ。アツアツの窯の中へ、踊るように蕎麦を入れる。厨房じゃあ、今頃孫が、もう一度天麩羅を揚げてるだろ。
十分もせずに、天ざると鴨せいろが準備できた。その間、夫婦はずっと、楽しそうに会話をしていた。
若女将が、目の前の二人の元へ運んでいく。
差し出された蕎麦に、夫婦が揃って、目を輝かせる。ったく、なんてえ、嬉しそうにしてるんだ。まるで宝物でも見つけた子供見てえじゃねえか。
優男の方が、先に蕎麦へ手を付ける。ずるりと、器用に蕎麦をすする彼の、見様見真似で美女も蕎麦をすする。こっちは、爽快とはいかねえ音がした。だが、一生懸命すすろうとしてるところが、可愛くっていけねえ。初めて蕎麦を食べた時の、孫の顔が浮かんでくる。
それからは、夫婦揃って、夢中で蕎麦をすすってやがる。天麩羅と鴨を交換しながら、一口すするたびに、旨い旨いなんて呟く。こっちが照れ臭くってしかたねえ。
「おいしそうに食べてくれますねえ」
通りがかった女房が、小声でそう呟いた。笑う女房も、とても嬉しそうだ。その顔に、またしても、頬が綻んじまう。
食べ物ってのは、愛だ。おいしく食べてもらおうと、作る。おいしく食べることに、感謝する。
だから、ありがとよ。そんなに、満面に笑って、そりゃあおいしそうに食べてくれてよ。
「ごちそうさまです。とってもおいしかったです」
夫婦は、最後も揃って、そう言った。暖簾から顔を覗かせる孫も、お盆を抱えて片づけをする若女将も、たった今会計を終えたばかりの女房も、釜の前で立ってるだけの俺も、それが嬉しくってしかたがない。
「また、来てくれよ」
俺がかけた声に、夫婦は顔を見合わせて笑い、
「はい。また来ます」
清々しい返事を残していった。
おまけは完全に作者の趣味です。
お蕎麦が好きなんです。