紅葉の君と、春まだきの君   作:瑞穂国

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タイトル通り、パースさんが夏休みを満喫するお話です。


パースさんは夏休み

 例年より長いという梅雨がようやく終わりを告げたのは、月を七月から八月へまたいだ日だった。晴れのマークが画面一杯に並んだテレビから、キャスターが梅雨明けを報じた。基地のどこかからは、梅雨明け大夫のモノマネが聞こえていた。

 待ち望んだ夏の訪れに心を弾ませ、私は全開にした窓から外の空気を胸一杯に吸い込んだ。梅雨の残した香りとお日様の匂い、セミのハーモニーすら心地よくて。朝の支度をしていた提督へ、嬉しさに任せて抱き着いてしまったほどだ。

 

「ねっ、ようやく夏が来たわよっ」

 

 飛び跳ねるほど喜んで、我ながら子供っぽいと思う。はしゃぎ過ぎだと呆れられたんじゃないかって、後から心配してしまったくらいだ。

 そんな私を抱き留めた提督は、ワイシャツのボタンをかける手を止めて、微笑んでいた。嬉しそうに目を細める彼に釣られて、私もこれ以上ないほどの笑顔を浮かべた。

 それが、一週間と少し前のこと。私は、日本で初めての夏を、満喫している。

 

 

 

 

 

 

 カンカン照り、なんて最近知った言葉が似合うほど、ともすれば強すぎるほどの陽光に、背中が焼かれている。作業用にしているTシャツは薄すぎて、突き刺すような光線はダイレクトに私の体表面温度を上げていた。首筋をじとりと汗が伝う。けれど不思議と、嫌な感じはしなかった。

 それはどうしてか。答えはとても簡単、今、私が向き合っているものにある。

 棚のように並ぶ、緑の合間。私の背中に照り付けるのと同じ、真っ直ぐで混じりっ気のない真夏の太陽を受けて、きらりと輝く宝石がある。まさに紅玉と言うのに相応しくて、その輝きに引き寄せられるように、私は身を屈めた。抱えていた籠を降ろして、その中から鋏を取り出す。

 丸々と大きなルビーの表面を、軍手をはめた手でなぞる。厚手の布越しでもわかる、どっかりとした存在感。瑞々しい曲面には、鏡みたいに私の顔が写っていた。

 

「……うん、よし」

 

 頷いて、鋏を入れる。ぱちんと、気持ちの良い手応えがあって、ルビーは私の手の中に落ちた。もう一度、全方向からその出来を確かめて、籠の中へ収める。傍らの籠にはすでに、同じような宝石たちが入っていて、お互いの輝きを主張していた。

 

「パースさーん!」

 

 丁度その時、私を呼ぶ、明朗快活な声が聞こえてきた。籠を抱えて、立ち上がる。この畑の主――山ほどのトウモロコシを抱えた吹雪が、ひょこりと、棚の間から私の方を窺っていた。

 

「トマト、どうですか?」

 

 私の抱えた籠の中身に目を移して、吹雪が尋ねる。麦藁帽子の影から覗く翡翠色の瞳に、私は笑いかけた。籠を傾けて、中にたくさん詰まったトマトたちを吹雪へ見せる。

 

「いい出来でしょう?」

「わぁー、すごい!とっても立派ですね」

「ええ。今から食べるのが楽しみだわ」

「どんなお料理にしましょうか。あ、まずはそのままがいいですよねっ」

 

 ウキウキと献立を考える吹雪へ、益々口元が緩んでしまう。真夏の太陽だって妬いてしまうような笑顔は、さながら畑の女神か妖精か。この畑で獲れる作物が、大好きで仕方がないと、輝く瞳が語っていた。

 そんな吹雪の影響から、私もこの炎天下での作業を、随分と楽しんでいる。たった今収穫したトマトたちも、春先に吹雪から任されて私がお世話をしてきた。

 

「次は、キュウリとナスかしら」

「はい、お願いします。私はゴーヤの様子を見てきますね」

 

 そう言った吹雪は、トウモロコシを抱えたまま、器用な小走りで去って行く。後頭部のしっぽを揺らす姿を見送った私は、もう二個トマトを選別して、抱えた宝石箱の中へ付け加えた。

 

 

 

 吹雪がこの畑で野菜を育て始めたのは、基地ができて半年くらいの頃だったという。縁あって仲良くなった農家の老夫婦から、よかったら使ってと、土地を譲り受けたらしい。以来、趣味の一環として、たくさんの作物を育てている。吹雪や私以外にも畑仕事を気に入った艦娘はいて、瑞穂あたりを中心に持ち回りで野菜たちの面倒を見ていた。秘書艦である私は、参加が不定期になってしまうけれど、だからこそこうして様子を見に来れる日は、一段と精が出た。

 今日は、待ちに待った、収穫の日だった。

 トマトで一杯になった籠を置いて、今度はキュウリとナスの収穫に取り掛かった頃。夏らしく青々とした植物たちと向き合う私を、それは嬉しそうに訪ねる声があった。

 

「――見つけた、パース」

 

 声の主は、顔を見なくたってわかる。うるさいくらいにこだまする蝉の大合唱がしていたって、その涼やかな声を間違えるはずなんてない。私に限って、それは絶対にありえないことよ。

 声の方へ顔を向ける。午前中は執務室で一緒だった提督が、そこにはいる。ナスとキュウリの間からこちらを覗く彼は、普段は生真面目な表情をクシャリと歪めて、私へ笑いかけている。畑の合間に、夏の下に、ただ私を見つけただけだというのに、それがこの上なく嬉しいのだと言わんばかりに、口元を綻ばせている。

 提督の微笑みはいとも簡単に私へ伝染してしまう。顔の筋肉が自然と緩んでしまう。気づけば私も、彼へ笑いかけていた。

 

「遅れたね」

「それほど多い書類ではなかったと思ったのだけれど」

「急ぎの案件が入ったから、それだけ終わらせてきたんだ」

 

 他愛無い話をしながら、提督も私の方へやって来る。隣に腰を降ろした提督は、私の頭に乗っている麦藁帽子をチラリと見て言った。

 

「君は麦藁帽子も似合うね。可愛い」

「ありがとう。吹雪に借りたのよ」

 

 私の頭を陽射しから守ってくれる、つばの大きな帽子を指でつつく。風通しのよさが、今はとにかくありがたかった。

 今まさに収穫したナスを、私は籠の中へ入れる。キュウリと合わせて、今日の収穫分はこれくらいだろうか。

 それを察したのか、提督はひょいと籠を持って、立ち上がる。

 

「収穫は、これで終わり?」

「ええ、私の方はこれで終わりよ。吹雪はまだ残っているかも」

 

 今日の一番の大物、スイカがまだ残っていると、さっきは言っていた。

 噂をすれば影、と言うべきか、丁度その時、ゴーヤを抱えた吹雪が通りかかった。並んで歩く私たちを認めた彼女の表情が、パッと明るくなる。

 

「司令官、来てたんですね」

「ああ、ついさっきね。遅くなってごめん」

「いいんですよー。あ、でも、スイカの収穫は手伝ってくださいね」

「うん、任せて」

 

 胸を叩いた提督に、向日葵の笑みが零れ落ちた。

 畑の脇にある休憩所に、収穫した野菜を並べる。休憩所とは言っても、三人掛けのベンチに(すだれ)で庇をつけただけの簡単なものだ。それでも、こう陽射しが強い中では、日影があるだけでありがたい。

 ベンチの上には、収穫したばかりの野菜たち。夏に向けて育てていたのは、トウモロコシ、トマト、ナス、キュウリ、ゴーヤ、そしてこれから獲りに行くスイカの六種類。艶やかな野菜たちはまさに宝石みたいで、散りばめられた輝きに私はうっとりと溜め息を吐く。やはり、ここまで育ててきた身としては、感慨深いものがあるわね。どの野菜たちも、一つの例外なく、おいしそうだ。夜にはどんな料理になるのだろうかと、想像するだけでお腹の虫が騒ぎだす。

 

「ものすごい量だね」

 

 感心した様子で提督が呟く。それぞれの野菜を一つずつ手に取る彼の目が、夏の太陽のせいかきらりと光る。その横顔が、私と同じことを考えているのだろうと思い至って、自然と笑みが漏れた。

 

「鎮守府皆で食べるとなると、ね」

「三十人分ですからね」

 

 私と吹雪の言葉に、「趣味の域を超えてるなあ」と提督は微笑んだ。

 

 目を見張るほどに大きく成長したスイカを約束通り提督が収穫した頃、やや年季の入った軽トラックが、畑近くの路肩に停車した。すぐに車体両側のドアが開いて、二人の人影が降りてくる。こちらへ歩み寄ってくる二人はどうやら老夫婦で、一体誰だろうかと私は目を凝らしていた。

 真っ先に反応したのは吹雪だった。首に提げたタオルまで振り乱しながら、彼女は人影に手を振る。

 

「おじいちゃんっ、おばあちゃんっ!」

 

 天真爛漫そのものの挨拶に、老夫婦も手を振り返して応えた。タオルで汗を拭いながら、吹雪は二人の方へ駆けて行く。

 

「畑を借りている、山守さんだよ」

 

 内心の疑問に、提督が耳打ちで答えてくれた。山守さんという名前は、私ももちろん知っていた。吹雪に畑を貸してくれている農家のご夫婦で、ここ最近は日本全国を回る旅に出ていたのだとか。だから、春から畑仕事に加わったばかりの私は、名前は知っていてもお会いしたことはなかった。

 

「ご無沙汰をしています、山守さん」

 

 首に提げたタオルを手に持った提督が、ぺこりと老夫婦へ頭を下げる。その隣に並んだ私も、彼に倣って会釈をした。さっぱりとした白髪頭の男性が、日に焼けた顔をくしゃりと歪める。

 

「元気そうで何よりだぁ、提督」

 

 そう言ってパシパシと提督の肩を叩く様子は、なんだか孫を可愛がるお爺ちゃんみたいで、吹雪が二人をそう呼んだのも頷けた。

 

「日本一周はどうでしたか?」

「南は一通り見てきたんでね。これからは北を攻める」

「畑も娘夫婦に任せてるし、悠々自適ってもんさねぇ」

 

 答えた山守夫妻の大きな笑い声が夏の青空に響いた。その雰囲気は、夫婦というより、どちらかといえば戦友に近いような、そんな風に私は感じた。

 挨拶を終えた老夫婦の目が、今度は私の方へと向いた。妙な緊張を覚えて、背筋を伸ばす。

 

「お嬢ちゃんは、初めましてだね。新しい艦娘畑倶楽部の子かい?」

「まあ、綺麗な髪。外国の方?もしかして、ウォースパイトちゃんと同じ国の方?」

 

 畳みかけるような質問に一瞬たじろぐ。チラリと思わず助け舟を求めた提督が、私の代わりに口を開いた。

 

「彼女は、パース、です。――自分の、世界で一番大切な、妻です」

 

 ふいに告げられた言葉へ引き寄せられるように、もう一度提督の顔を見た。額に力が入るくらい、目を見開く。きっと、我ながら間の抜けた表情をしていると思った。

 やや姿勢を正した提督は、私をその手で指し示す。チラリとこちらを見た目に、心臓が一際大きな鼓動を返す。穏やかそのものの表情に、熱くなった頬を綻ばせた。

 そう、ね。私、提督の、妻なのよね。改めてその事実を認識すると、今更ながらにこそばゆい。何より、提督が私を「妻だ」と紹介してくれたことが、嬉しくて仕方がなかった。

 居住まいを正して、改めてお辞儀をする。ふふ、私、提督の妻だものね。

 

「初めまして。パースと言います。少し前から、こちらの畑のお世話をさせていただいてます」

 

 顔を上げて再び窺った老夫婦は、その温和な笑みを益々深くしていた。

 

「まあ。提督さんの奥さん?こちらこそ初めまして」

「提督も隅には置けんなぁ。いつのまにこんな別嬪の奥さん貰って」

 

 また、パシパシと提督の肩を叩くおじいちゃん。それに、照れたような、困ったような表情を浮かべる提督。頬を掻く彼と、また目が合った。八の字に眉を下げる彼に、太陽に負けないくらい、笑って見せる。

 

「末永くお幸せにねぇ」

 

 私の手を取って、おばあちゃんはニコニコ笑っていた。優しい祝福の言葉に、「ありがとうございます」と答えて、私は一つ大きく頷いた。

 

 

 

「私、あなたの、奥さんなのね」

 

 蒸し暑さの残る夜。収穫したばかりのスイカをかじりながら、私はふと呟いていた。

 二人だけのバルコニー。向かいの椅子に腰かけるあなたは、顔を上げてぱちくりと瞬きをする。

 

「急にどうした?」

「お昼のことをね、思い出してたの」

 

 種を避けてから、スイカを一口齧る。シャクリと歯触りの良い噛み心地がして、すぐに口一杯の甘さが広がった。舌を滑らかに包んでいくのは、太陽の香り。雨の多かったはずなのに、それでも少ない日の光を一杯に浴びて育った、逞しいスイカ。

 初めて体験する味に、心が弾む。夏の風物詩というのも、頷ける味ね。

 たっぷりとスイカを堪能してから、私は話を続ける。

 

「提督、山守さんに、私のことを『妻だ』って紹介してたじゃない」

「事実だしね。君は、世界で一番大切な、俺の妻だよ」

「ふふ、ありがとう。もちろん、知っているわ。――でもね。改めて言葉にされると、やっぱり嬉しくて」

 

 思い出すだけで、頬の筋肉が弛緩する。昼間と同じ、だらしない表情になっている気がして、なんとか顔に力を入れようとした。けれどそれは、徒労に終わる。この笑みは、どう繕おうと隠せるものではないし、隠す必要のないものだ。

 

「大好きで、恋しくて、愛しくて、大切な人の奥さんになるって、こんなに幸せなことなのね」

「……君はまた、そういうことを恥ずかしげもなく……」

 

 スイカみたいな色をした提督が、眉を八の字にして苦笑した。照れているあなたも可愛いくて、ちょっとした悪戯心が芽生える。

 

「ねえ。あなたは?――あなたは、私と結婚できて、嬉しい?」

 

 そんな、わかりきったことを聞いてしまうのだから。今の私は、ちょっぴり、意地悪な女かもしれない。

 私の言葉に、提督はまた笑う。さっきと同じ、少し困った様子で眉尻を下げて、照れている。けれどその苦笑はすぐに、陽射しの中で私を見つけてくれたあの時と同じ、優しく、柔らかく、穏やかな愛情に満ちた、微笑みに変わっていた。

 

「決まってるよ。――パースと結婚できた俺は、世界で一番、幸せだ」

 

 ……ええ、ええ、もちろん、知っていたわ。

 揃って笑ってしまった私たちは、締まらない表情をごまかすように、スイカをかじる。口一杯に広がった甘さに、二人分の幸せが溶けていった。

 

 

 

 

 

 

「――ってね。本当に、あの人ったら、可愛いでしょう」

 

 鎮守府では数少ない和室。海に面した縁側に腰掛ける私は、用意されたたらい一杯の冷水に足を浸しながら、つい先日の出来事を、隣の友人へ語っていた。

 普段は長くしている髪を、夏らしく頭の高い位置でまとめている金剛は、白い足先でたらいの冷水をパシャパシャと波立たせる。お昼過ぎの庇の影には、その名前のように、ダイヤモンドのような輝きの笑みが零れた。

 

「パースにこんなに愛されて、提督は幸せ者デスネ」

「ふふ、もちろん。私がたっぷり愛して、幸せにしてあげるわ。……あの人も、たくさんの愛で、私を幸せにしてくれるもの」

「んもぉーっ、パースはほんとに可愛いデースっ!」

 

 満面の笑みが、私へ迫ってくる。ノースリーブから見える腕が、私を絡め取った。そのまま、その豊満な胸に抱き締められる。柔らかな女性の体からは、鮮やかなお日様の薫りがしていた。

 ……というより、これは。

 

「こ、金剛、暑いわ」

「ンー、問題ナッシン!ハグは暑いくらいが丁度いいネ!」

 

 私の抗議は、さらに強くなった抱擁によってかき消される。戦艦の馬力に敵うはずはなく、私はもがくのを諦めて、金剛の為すままになっていた。お日様の薫りに包まれて、頭がぼんやりとしてくる。

 どれくらいそうしていただろうか。満足した金剛が腕の力を弱めて、私はようやく新鮮な空気を吸うことができた。乱れた前髪を整えながら、精一杯抗議の視線を送る。けれど、それでめげるようなら、彼女が吹雪と並んで艦隊の屋台骨と称されることはなかっただろう。

 

「もっとハグしてほしいんデスカ?」

 

 こちらの意図を理解しながら、意地悪にも笑う金剛の申し出を、ありがたくお断りさせてもらった。

 

「惚気話は終わったかしら?」

 

 金剛と二人、たらいの水で涼を取りながら海を眺めていると、この部屋の主が楚々とした振る舞いで現れた。ティーセットの並んだお盆を手に、私の隣へ腰を降ろしたのは、ウォースパイト。髪をロー・サイドテールにして左肩へ流す彼女は、最近お気に入りだという浴衣を丁寧に折って、縁側に正座する。

 

「今日は、少し趣向を変えてみたの」

 

 三人分のティーカップを並べながら、ウォースパイトはそう言った。彼女の言う通り、並べられたティーカップは、陶器を愛用する彼女に珍しくガラス製のものだった。刻まれた花の文様が、幻想的な煌めきを影に纏わせている。

 ウォースパイトがガラスのティーカップを選んだ理由は、すぐに判明する。いつもより大きなティーポットに用意されていたものは、紅茶とも緑茶とも異なった。

 

「綺麗……」

 

 カップと揃ったガラス製ポットの中身に、金剛がうっとりと声を漏らす。昼下がりの光を透かすティーポットには、琥珀色の液体。色とりどりの宝石が、その中に浮いている。

 

「フルーツティー、デスカ?」

「ええ、そうよ」

 

 紅茶とはまた違う、まったりとほのかな甘さの漂う飲み物を、ウォースパイトは三つのカップにそれぞれ注いでいく。傾けたティーポットの中で、多種多様なフルーツが踊っていた。軒下の光も相まって、あたかも宝石箱のような輝きを見せている。

 

「吹雪がね、最近ハマっているらしいの。それで、一緒に色々、試したのよ」

 

 ポットの蓋を開けたウォースパイトは、注いだ紅茶の中へ、さっきまで踊っていたフルーツたちを入れていく。キウイ、桃、ぶどう、ベリー、オレンジ。それらが盛り付けられていくところを見ると、ウォースパイトがガラスのカップを選んだのも頷けた。鮮やかに夏の光を屈折させる、果実の輝き。和風な縁側にはミスマッチに思えたそれも、暑い季節に涼やかな風を送り込んで、馴染んでいく。

 ことり。一通り盛り付けの終わったカップを、ウォースパイトがこちらへ進めた。ありがたく受け取って、膝の上でフルーツティーを眺める。まろやかな香りを溶かしこんだ琥珀色の液体が、縁側の陽射しでオーロラを作っている。たゆたう液面に、興味深げな私の顔と、朝顔の風鈴が映り込んでいた。

 

「さあ、召し上がれ」

 

 縁側に足を投げ出し、「冷たっ」と小さな悲鳴を上げて水の中へ足を入れたウォースパイトが、飲んでみてと笑う。私は早速、花園にも似た香りに、顔を近づけた。

 涼を取るにはぴったりの、冷えた液体に口づける。途端、頭は華やかな香りと、優しい甘さに支配された。どちらも強いものではない。果実の持つ甘さと香りが、アイスティーの中へ溶けだしている。紅茶独特の香りと甘み、苦みの中に、それらがアクセントとして混ざっていた。

 

「おいしい……」

「おいしいデスネ」

 

 金剛と揃って感想を口にすると、ウォースパイトは嬉しそうに笑った。小さなフォークで桃を刺し、頬張る横顔に喜びの色が浮かぶ。

 

「よかった。二人が気に入ってくれて」

「ウォースパイトのお茶会は、色々な趣向を凝らしてくれるから、毎回楽しみよ」

「二人が喜んでくれるから、ね。色々やってみたくなるの」

 

 金剛とパースのおかげよ、とウィンクを一つ決める彼女の気持ちは、最近私にもよくわかるようになった。誰かが喜んでくれるって、それだけで嬉しくて、「もっと喜んでほしい」って思うもの。

 二口目のフルーツティーを含む。舌の上に広がるまったりとした甘さに、ほっと一息を吐く。友人の想いが染み入る気がして、弾む心とともに冷たくなった足先で水を跳ね上げた。

 

 

 

「そうだ、パース。あなたに渡したいものがあるの」

 

 お茶請けのロールケーキを食べ終えて、二杯目のフルーツティーに口をつけていた私へ、ウォースパイトはそう言って柏手を打った。初めて聞く話にぱちくりと瞬きをする私をよそに、ウォースパイトはたらいから足を引き上げる。タオルで丁寧に足を拭いてから、彼女はパタパタと部屋の中へ消えていく。

 同じく残された金剛の方へ、私は首を傾げる。

 

「何かしら?」

「ンー、それはお楽しみデスネ?」

 

 金剛は人差し指を唇に当て、ウィンクをするばかりだった。彼女も一枚噛んでいるらしい。

 それほど時間を置かずに、ウォースパイトが戻ってきた。また私の隣へ腰を降ろすウォースパイトの手には、細長い桐の箱が握られていた。彼女はそれを、私の方へ差し出す。

 

「パース。私と金剛から、あなたの進水日祝いよ。遅くなってしまったけれど」

「……え」

 

 不意打ちの出来事に、言葉が出てこなかった。確かに、七月の終わりに、私の進水日があった。あの日は、提督が私のことを祝ってくれた。親しい艦娘から、お祝いの言葉ももらった。

 けれど……まさか、プレゼントをもらえるなんて、思わなかった。

 

「あ、ありがとう」

 

 やっと、ありきたりな感謝の言葉を述べて、桐箱に手を伸ばす。作りのしっかりとした箱には、確かな重みがあって、中身の存在を感じさせる。表面には焼き印で字が入れられているけれど、いわゆる行書体という書き方で、私には解読できなかった。

 

「開けてみても、いいかしら」

「ええ。きっと気に入ってもらえるわ」

 

 微笑むウォースパイトと金剛。桐箱の蓋を開いて、中身を包む絹の布を左右に開く。

 そこに鎮座していたのは、銀の色が眩しい、一刺しの(かんざし)。つまみ細工で作られた紫色の花が、雅な雰囲気を醸し出している。

 

「これ……」

「パース、この前浴衣を選んだでしょう?それなら、簪をプレゼントにしようって、金剛と話したの」

「選んでた浴衣に似合う色にしまシタ。普段使いもできるヨ」

 

 そういえば、金剛はよく、赤い玉簪で髪をまとめていた。簪と言うと、着物と合わせるイメージだけれども、単純に髪をまとめるのに使っても素敵だと思ったのだ。

 簪を胸元へ抱き締める。友人の気持ちが嬉しくて仕方ない。

 

「ありがとう、ウォースパイト、金剛。とても――とても嬉しいわ。大切に使うわね」

 

 満面の笑みを浮かべた超弩級戦艦に、両側から抱き締められる。幸せな息苦しさを感じる私に、「きっと提督も喜ぶわ」と、ウォースパイトが囁いた。

 

 

 

 

 

 

 定時よりも一時間早く課業を切り上げた私は、傾き始めた太陽の差し込む部屋の中、姿見に映る自分自身と向き合っていた。部屋の中には、私と監修の吹雪だけ。その吹雪も、一歩引いた位置から見守るばかりで、手出しはしない。

 提督と夏祭りへ行く約束をした今日、私は初めて自分一人で、着付けを完成させていた。そうして着付けた浴衣の全身を、姿見で確認する。

 まだ梅雨が明けきっていない頃、吹雪と大淀と出かけたショッピングで選んだのは、深い藍色の下地に薔薇の柄が入った浴衣。それを、赤の帯で締める。髪をまとめる位置もいつもより低くして、編み込みも入れてみた。

 姿見の前で、一つ、深呼吸をする。頭を右、左へと振る。それから、体も同じように右左と捻る。頭の先から、足の先まで。一つの乱れもないか、確かめる。

 見える範囲の確認を終えた私は、姿見の前に再び直立不動となる。やや不安げな表情の私は、鏡越しに背後の吹雪へ問いかけた。

 

「どう、かしら」

「完璧です。練習した甲斐がありましたねっ」

 

 間髪入れずに、吹雪から返答があった。向日葵みたいな明るい笑みに、ほっと胸を撫で下ろす自分がいる。

 

「似合っているかしら」

「もちろんです。言ったじゃないですか。パースさんは絶対、浴衣似合いますよ、って」

「そう、ね。そうだったわ。ふふ、吹雪が言ってくれると、説得力あるわね」

 

 ようやく、肩から余計な力が抜けた気がする。ええ、大丈夫。吹雪と大淀が、一緒に選んでくれた浴衣だもの。結った髪には、金剛とウォースパイトのくれた簪だってある。

 鏡に向かって、意味もなく二、三と頷く。そんな私に、吹雪はとても柔らかな微笑みを見せた。この基地では、吹雪だけが見せる、色んなものを見守っている視線。

 

「大丈夫です。あとは、パースさんの素敵な笑顔さえあれば、司令官もメロメロです」

「――こう、かしら」

 

 鏡に向かって、笑顔を作ってみる。それに、吹雪はまた笑って、両手でオッケーサインを出した。

 丁度その時、課業終了を告げるチャイムが庁舎に鳴り響いた。提督との約束の時間だ。

 

「行ってくるわ。吹雪」

「はいっ。夏祭り、楽しんできてくださいねっ」

 

 下駄を履き、部屋の扉を開ける。見送ってくれる友人に手を振って、私は彼との待ち合わせ場所に急いだ。

 

 

 

 基地の正門に、提督は立っていた。深い紺色の浴衣に身を包む、私より頭一つ背の高い後ろ姿。和服に袖を通す彼を見るのは初めてで、胸が一段高く跳ねる。私を待っている立ち姿に見惚れて、駆け寄る足を一瞬止めた。

 ……ええ。これはきっと、何度目かの、恋の予感。

 下駄の音で気づいたのか、提督がこちらを振り向いた。夕焼けには少し早い景色の中、何だかいつもより柔らかな彼の顔が、瞳に映る。

 

――「パースさんの素敵な笑顔さえあれば、司令官もメロメロです」

 

 なんて、ついさっき、吹雪は言っていたっけ。それは、そうかもしれないわ。私が笑うたびに、提督は嬉しそうに頬を緩める。大事そうに口元を綻ばせる。愛おしそうに目を細める。きっと、吹雪が言った通り、私の笑顔が彼をメロメロにしている。

 でも、それだけじゃないわ。

 

「お待たせ、あなた」

「ううん、そんなに待ってないよ。今来たところ」

 

 柔らかく、和やかで、暖かな彼の目を見るたびに、私は自然と笑っている。作るまでもなく、心は、想いは、感情は零れ出て、私の顔の締まりをなくしてしまう。

 私と彼。先にメロメロになっているのは、果たしてどちらなんだろうか。

 提督の前に立つ。私の姿を見つめる彼は息を飲んで目を見開き、しばらく動かない。私を捉えて離さない瞳が、彼が私に見惚れているのだと確信させる。それが嬉しくて、私はまた、頬を緩めた。

 

「素敵な浴衣だね。とてもよく似合ってる。君は何を着ても、本当に綺麗だ」

「ふふ、ありがとう。吹雪と大淀にも手伝ってもらったんだもの。たっぷり見惚れてね」

「パースにはいつも見惚れてるよ。――その髪飾りも、浴衣によく合ってるね」

「これはね、金剛とウォースパイトが、進水日のお祝いに、ってくれたの」

 

 浴衣に簪、思えばたくさん友人の助けを借りている。本当に、果報者だわ、私。

 

「あなたの浴衣も素敵ね」

「ありがとう。――浴衣デートっていうのも、夏っぽくていいね」

「そうね。夏の特権だわ」

 

 きっと今夜も、素敵な夏の思い出になる。

 提督が手を差し出す。照れた響きを残しながら、彼は少し格好つけた声で、私を(いざな)った。

 

「お手をどうぞ、お姫様」

 

 角ばった彼の手に、私の手を重ねる。彼の手はやっぱり大きくて、すっぽりと私の手を包んだ。手を繋ぐなんて、もう慣れたはずなのに、今日は何だかこそばゆい。それは浴衣を着ているせいかしら、それとも夏という季節そのもののせいかしら。

 夏祭りの会場は、鎮守府近くの停留所からバスで十分ほどの場所にあるという。特別ダイヤで運行中の巡回バスには、私たちと同じように夏祭りへ向かうのだろう人がたくさん乗り込んでいて、もちろん浴衣姿の人も珍しくなかった。家族連れ、学生たち、若いカップルに、老夫婦。そんな人たちの中に、私と提督も、自然と溶け込んでいく。

 バスに揺られる間、人だかりから守るように、提督が私を抱き留める。掴まるつり革のない私は、彼だけを頼りにバスの床へ足を踏ん張った。提督の浴衣を摘まむ私へ、彼は時折「大丈夫?」と問いかける。見上げる位置の彼に、私は「大丈夫」と微笑む。

 

「ねえ、夏祭りって、どんなところかしら」

「色んな屋台が出てるんだ。きっとパースも気に入るよ。今日の夏祭りは、この辺りでも大きいものらしいし」

 

 私の質問に答えた提督は、期待に満ちた表情を浮かべている。そういえば、今日のお祭りに参加するのは、彼も初めてだと大淀が言っていた。去年までは、艦娘たちが夏祭りに行けるよう、提督は基地でずっと留守番をしていたらしい。

 

――「本来、こういう役目は持ち回りでやるべきなんです。去年まで全部提督がやっていたことがおかしいんですよ。ですから、今年は私に任せて、提督も楽しんできてください」

 

 数日前に、大淀はやや語気を強くして提督にそう言っていた。今年は彼女と、それから吹雪が基地の留守番役だ。

 

――「楽しんできてくださいね。パースさんと提督が楽しんでくれたら、私たちも大満足ですから」

 

 大淀の微笑みを、ありがたく受け取ることにした私たちは、今こうして夏祭りへ向かっている。

 

「きっと、素敵な思い出になるわ」

「君と一緒だから、ね」

「……ふふ、そういうこと」

 

 カーブに差し掛かり、バスが揺れる。人の波も揺れる気配がして、車内に微かなざわめきが生じる。それに巻き込まれないように、私は浴衣を摘まむ手に力を込めて、提督との距離を縮めた。私の体は、すっぽりと彼の腕の中に収まる。

 ……こういうのも、何だか新鮮ね。そう思って緩めた表情は、提督には見えていなかったはずだ。

 

 

 

「神社前」という停留所で降りると、日中の余熱とともに喧騒の気配が辺りを支配していた。漂うのは熱気ばかりでなく、例えばソースの香りであったり、煙の臭いであったり、砂糖かシロップの香りであったり。調理中の厨房の雰囲気を、何十倍にも拡大したような、そんな香りが私の鼻孔をくすぐる。

 数メートルは背丈のある大きな鳥居の向こう側、境内へ続く参道を挟んで、ずらりと出店が並んでいた。夜が広がりつつある中、参道に連なる提灯が、色とりどりの屋台と合間を行き交う人々を照らす。厳かな雰囲気の鳥居とは対照的な別世界が、そこには広がっていた。

 バスから降り立った人たちも、次々に喧騒の中へと吸い込まれていく。後ろ姿はすぐに人だかりへ溶け込んで、わからなくなった。

 

「すごい数の人ね」

「一番大きいお祭りっていうのも、頷けるな」

 

 私たちはといえば、しばらく目の前の光景に圧倒されて、鳥居の前から動けずにいた。この夏は、色々と出掛けたりもしたけれど、これほどの人だかりを目にするのは初めてだ。少し油断したら、提督とはぐれてしまいそう。そんなことを考えると、右の手に力が入った。バスを降りる時に支えてくれた彼の手を、強く握る。

 提督の手が動く。重ね合わせて、「手を取っていた」彼の手が、私の指を絡めて「手を繋ぐ」に変わる。いわゆる、恋人繋ぎと言う手の繋ぎ方だ。

 提督の顔を見上げる。

 

「はぐれないように、ね」

「――ええ。絶対に離さないでね」

「約束する。……行こうか」

 

 初めての恋人繋ぎ。初めての夏祭り。初めての浴衣デート。ふわふわと不思議な感覚に捕らわれて、けれど少しずつ、この感覚の正体を掴んでいる。

 二人の下駄が揃って鳴る。ゆっくりと訪れる夜の喧騒に、私たちは足を踏み入れた。

 鳥居をくぐって参道を歩くと、より鮮明な祭りの風景が飛び込んでくる。立ち並ぶ屋台は、食べ物だけでも、焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、ミニカステラ、チョコバナナと多種多様で、こちらの視覚を飽きさせない。さらに、金魚すくい、射的、くじ、輪投げ、遊びの要素が強い屋台も合間合間に並んでいる。

 興味をそそられるものしかないというのが、正直なところだ。あれやこれやと目がついて、視線を行ったり来たり。新しい屋台を見つけるたびに、興味と関心が募っていった。

 せわしない私に、提督が尋ねる。

 

「パース、どんな屋台が楽しそう?お腹が空いてないなら、少し遊ぼうかと思ってたけど」

「ええ、ぜひそうしたいわ。でも、これだけ多いと、迷ってしまうわね」

「どれも、お祭りじゃないと、なかなかお目にかかれないしね。それなら、片っ端からチャレンジしてみようか」

 

 提督の提案に頷く。そしてそれならと、私はすぐ側の屋台を指差した。棚にお菓子やらぬいぐるみやらが並ぶのは、射的の屋台だ。

 

「ね、あれをやりましょう。あれなら私もできそう」

「射的か。……でも、普段使ってる艤装とは、違うと思うよ?」

「似たようなものでしょう。見てなさい」

 

 提督の手を引っ張って、出店の前に立つ。お金を払うと、店員さんがコルクのような弾を十発渡してくれた。初めて射的をやる私は、銃の打ち方をレクチャーしてもらって、いざ本番と相成った。

 

「頑張って」

 

 背中の声援に、神妙に頷く。教えてもらった通りに銃を構え、狙いを定めた。銃口の先に捉えたのは――コアラの柄が印刷された、チョコレートのお菓子。軽いあのお菓子なら、最初の獲物には丁度いいはず。

 引き金に指をかける。主砲を撃つ時と同じ、呼吸を整えて、引き金を引いた。銃口に詰めたコルクは真っ直ぐ飛んでお菓子に――当たらなかった。

 

「……あら?」

 

 今のは、絶対当たったと思ったのだけれど。首を傾げながら、二発目のコルクを装填する。一発目と同じ行程を繰り返して、発射。けれどそれも、狙いを外れる。

 結局、十発中三発が目標を掠めただけで、私は残念賞の飴玉をもらうことになった。

 

「……お、思っていたより、難しかったわ」

「初めてなんだから、百発百中とはいかないよ」

 

 慰めるような言葉に、頬を膨らます。まるで、こうなることがわかっていたみたいな、そんな物言いが気に入らない。痛くない程度にパンチしようかしら。

 

「彼氏さんもやるでしょう?」

 

 そんな私の考えをよそに、店員さんが提督へ声をかけた。柔和な笑みの奥に、商魂たくましい、決して逃がしはしないという意志が見える。

 その声に、ありがたく乗らせてもらう。

 

「ほら、あなたもやってみせて」

「……それじゃあ、やろうかな」

 

 苦笑いする提督の背中を強引に押して、銃を取らせる。同じように、十発分のコルクを受け取った彼は、慣れた手つきで弾を装填。妙に様になっていて、ほうっと思わず見惚れてしまう。

 

「パース、どれが欲しいの?さっきのお菓子?」

「ええ。それと、できるなら、あのぬいぐるみ」

 

 指差したのは、明らかにメインの景品らしい、コアラの親子のぬいぐるみ。さっきから、何人も挑戦者が現れては、惨敗していた。

 

「承知しました、お姫様」

 

 標的へ向き直る横顔が、彼には珍しく、挑戦的な笑みを浮かべていた。少年の残り香を感じてハッとする。提督はすでに銃を構えていた。

 パタン。迷わず引き金を引いた次の瞬間、私がリクエストしたお菓子が、棚から落ちた。提督の放ったコルクの弾が、狙い違わず、お菓子の箱を撃ち抜いたのだ。

 

「……うそ」

 

 流れるように装填作業を終えて、二発目を撃つ。再び命中。今度はガムの箱が落ちた。三発目、四発目。放たれた弾が、ことごとく景品に命中していく。磁石でも仕込まれてるんじゃないかと、本気で疑ったくらいだ。

 最後の十発目が、私のねだったぬいぐるみを撃ち落とす。店員は脱帽と言う様子で苦笑いを浮かべて、大きな袋に景品を詰めてくれた。

 

「昔から、兄に仕込まれてね。射的だけは得意なんだ」

「……なんだか、納得いかないわ」

 

 種明かしをする提督に、私は益々頬を膨らます。これ以上空気を送り込んだら、破裂するのではというくらい、頬はパンパンに張っていた。

 そんな私に、提督はなおも笑いかける。景品の袋をごそごそとやった彼は、その中からあのコアラのぬいぐるみを取り出した。

 

「ごめん。拗ねてるパースが可愛くて、つい」

「……拗ねてなんていないわ。ふんっ」

 

 そっぽを向いてみせると、提督が苦笑いする雰囲気が伝わってきた。手にしたぬいぐるみを、彼は私へと差し出す。

 

「君にかっこいいところを見せたかったんだ。許してくれ」

「……許さないわ。ぬいぐるみ一つで、許してなんてあげない」

「それなら……なんでも、君の言うことを一つ聞く、っていうのはどうかな」

「……なんでも?」

 

 差し出されたぬいぐるみを、受け取る。くりくりとまん丸い目をしたコアラの親子を、抱き締める。私を覗き込むように目線の高さを合わせる提督は、「ああ、なんでも」と頷いた。

 そう、ね。なんでも一つ、私の言うことを聞いてくれるのなら。それなら、許すことを、考えてあげなくもないわ。

 

「いいわ。それじゃあ、早速一つ、聞いてもらおうかしら」

「もちろん。なんでも、どうぞ」

「……ふふっ。今夜の夏祭り、絶対に忘れないくらい、私を楽しませて頂戴」

 

 何の躊躇も、遠慮もせずに、私は私のお願いを口にする。なんでもと、そう言ったのはあなただもの。だから私は、私の一番叶えてほしいお願いを、素直に口にしただけ。このお願いを叶えてくれたのなら、許してあげるわ。

 提督は真ん丸に目を開いた。それから、また違った色の苦笑いを浮かべる。

 

「君には敵わないよ、パース」

「当たり前よ。奥様には一生勝てないんだから。――わかったかしら、旦那様?」

「ああ、それはもう。骨身に染みたよ。――わかった。絶対に忘れられない夏祭りにするよ、奥さん」

 

 もう一度差し出された手に、私の手を繋ぎ直す。反対の手には、提督の取ってくれた、コアラのぬいぐるみ。

 ……ふふ、まずは一つ、忘れられない思い出ができたわ。

 

 

 

 その後もあれやこれやと屋台を回って遊び尽くした私たちは、空いてきたお腹を満たすためにご飯の出店を数軒回って、休憩スペースに腰掛けた。とうに夜が包んだ会場内、何か所か設けられた飲食用のスペースは、私たちと同じような考えの人たちで溢れている。奇跡的に空いていた席を見つけた私たちは、買ってきたご飯を摘まんでいた。

 

「ほら、あなた。あーん」

「あ、あーん」

 

 私の言うことに従って、大きく開いた提督の口に、箸で摘まんだものを運ぶ。屋台のおじさんが「焼き立てをサービスしよう!」と言っていた、アツアツのたこ焼きだ。歩くうちに少し冷めたし、今しがた私が息を吹きかけたから、口に入れられる温度にはなっていると思う。

 たこ焼きを、提督が口に含む。まだ少し熱かったのか、はふはふと慌てた様子の彼は、半開きの口を手で仰いで風を送っていた。どこか滑稽なその姿に、思わず押し殺した笑い声を上げる。彼からは軽い抗議の目線が返ってきた。

 

「熱かった?」

「熱いよ。――でも、おいしい」

「焼き立てだものね」

 

 提督のものより念入りに熱を冷まして、私もたこ焼きを口へ運ぶ。けれど、とろっとした中身はまだ熱くて、結局彼と同じように、風を送ることになった。そんな私へ、提督は温かな笑みを向けていた。

 

「この後は、花火があるのよね」

「うん。会場は少し離れてるから、早めに行こう」

「ええ、そうしましょう。……その前に、リンゴ飴を買ってもいいかしら」

 

 焼きそばに手を伸ばしながらの私の言葉に、提督はにこりと頷いた。

 ややソースの濃いお好み焼きを二人で平らげて、リンゴ飴とアンズ飴を買った私たちは、神社のある山を高い方へと登っていく。正面の鳥居と本殿との中間あたりにある開けた場所が、花火を観るための会場だった。当然、会場は人で一杯で、私は提督の手だけを頼りに、はぐれまいと彼へついて行く。提督は、そんな私のことを何度も振り返っていた。繋いでいた手からも、彼の意識がずっと私へ向いているのがわかる。

 人の波に押しやられるようにして、何とか会場へ辿り着いた。改めて「大丈夫?」と尋ねた提督に、「大丈夫よ」と私は答える。

 

「思ったよりも、時間がかかったね。早めに来て正解だった」

 

 腕時計を覗き込んで、提督が言う。人の波に乗る必要があったせいか、時刻はいつの間にか、花火が打ち上がる三分前に迫っていた。スピーカーからは、まもなく花火が打ち上がることを告げるアナウンスが流れていた。

 会場の喧騒は、ピークに達している。

 

「楽しみだね」

「今年はどんな花火かな」

「告白のジンクスってほんとかな」

 

 そんな声が、会場に溢れていた。顔を見合わせる人々は、口々に花火への期待を語る。その度に、会場の熱気が増していく。

 ピロリン。丁度その時、スマホの着信音が鳴った。私のスマホに入る連絡といえば、大抵は吹雪か大淀、金剛からのものだ。

 提督と私の写真をスライドし、トーク画面を開く。案の定、吹雪からメッセージが入っていた。

 

『花火、楽しみです!こちらは庁舎の屋上から観ます』

 

 メッセージとともに、写真も送られていた。留守番組の艦娘たちが、屋上にブルーシートを張って、お酒や軽食を持ち寄っている様子が、そこには映っている。

 

「ねえ。見て、あなた」

 

 送られてきた写真を、隣の提督にも見せる。写真を見た彼は、どこか嬉しそうに、苦笑を浮かべていた。

 

「特等席だね」

「ええ。あっちも楽しそうで、よかったわ」

「うん。そうだね」

 

 花火は海上から打ち上げると聞いている。提督の言う通り、基地の屋上は、花火を観るには一番いい場所かもしれない。

 ……ふふっ、でも、ね。

 返事をしてスマホを仕舞った私は、繋いだ手の握力を強くする。それから半歩、提督の方へ身を寄せた。ぴたりと彼にくっつくと、さっき食べたアンズ飴の匂いが、微かに漂った気がした。

 こちらを見た提督に、私は笑いかける。この夏何度目になるかわからない。数えるのが馬鹿らしくなるくらい、あなたは私を笑顔にしてくれる。

 

「私の特等席はここよ。いつでも、いつまでも」

「……不意打ちで可愛いことを言うのは、ずるいよ」

 

 八の字になった眉は、提督が完全降伏した証だ。もしも二人きりだったのなら、そんな彼に私はキスをしただろう。彼もそれに応えただろう。でも、さすがにそれは憚られて、なんだか少し、残念な気がした。

 代わりに、私はあなたの瞳を見つめる。星を宿したような煌めきを、夜を導く輝きを、じっと見つめている。そしてきっと、あなたも、ただ私だけを見つめている。

 その時、提督の瞳に、強烈な光が走った。今まで見てきたどんな光とも違う、長い尾を優美に引く光を、彼の瞳が映している。

 瞳だけじゃない。私を見つめる穏やかな彼の表情をも、光は映し出した。夜空を丸ごと照らすような光の正体を悟り、私は視線をずらす。

 

 

 

 光の花弁を開く大輪の花が、夜空一杯に咲いていた。

 

 

 

 蛍のような星の光を背景に、たった一輪の、けれど向日葵のように大きな花が、咲いていた。橙色をした光の粒を、夜の黒へと溶け込ませながら、たった数秒の夏を目一杯に咲き誇らせる。その生命力に、誰もが息を飲む。ハッと我を忘れる。魂という魂を奪われる。

 気づけば会場に喧騒は残っていなかった。誰一人例外なく、夜空を見上げていた。今しも闇へと消えていこうという花火の余韻を、目に、記憶に、心に、焼き付け残そうとする。

 たった一輪の花。けれど、その一瞬に過ぎない輝きが漆黒へ吸い込まれた頃には、誰も彼もが花の虜になっていた。

 遅れて、腹の底へ響く音が届く。花火が咲いた時の音だろう。けれど、その音が届く前に、花火はすでにこの世から消えていた。

 美しい。この上なく、形容しがたく、言葉などで語ることなどできない、美しさ。しかしそれは、あまりにも一瞬で、短くて、儚い、それ故の美しさ。決して、もう一度見えることのない、華憐さ。

 二発目、三発目。夜空という花園に、夏の花が咲く。パッと散って、かと思えば流れて、光の尾を引いて、光の粒を飛ばして。ほんの一瞬、闇と私たちを照らして、消えていく花火。

 

「パース」

 

 彼方の輝きに意識を奪われそうになったその時、私を呼ぶ声があった。提督からの呼びかけに、私は再び彼の方を向く。「なあに」と問いかけようとする。

 けれど、短い問いを紡ごうとした唇は、彼の唇に塞がれていた。ほんの数秒のキス。次の花火が横顔を照らすまでの、短い口づけ。甘い香りの、優しい接吻。

 

「今なら、誰も見てない」

 

 離れた唇が、私だけに聞こえるように、囁いた。こちらの考えを読まれていたのなら悔しいような、けれどあなたも同じことを考えていたのなら嬉しいような。結局私は、星と花火の混じる瞳に、微笑んでいた。ただただ、このふわふわとした心地を――幸せという感情を、伝えようとして。

 

「ええ、そうね。――今は私しか、あなたを見ていないわ」

 

 花火の合間に、ただ一つの、愛を囁く。光の合間に、もう一度、キスをした。




お盆終了ギリギリの投稿でごめんなさい…

お詫びと言っては何ですが、たっぷり甘くしておきました。
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