パースさんをお姫様抱っこしたかっただけです。
「――やっぱり。まだここにいたのね」
ノックもそこそこに開いたドアから、諦めたような、どこか拗ねたような声がした。玲瓏な響きに惹きつけられて、俺は自然と顔を上げる。後ろ手にぱたりと執務室の扉を閉め、お風呂上がりで肩に流す髪を揺らしながら、寝間着姿のパースはこちらに不満そうな顔を見せた。
「出撃、お疲れ様。先に寝ていてよかったのに」
「いやよ」
一も二もなく、明確な拒絶の言葉が返ってきた。彼女がそう返すのは、俺にとってはわかりきっていたことで、そしてどうにも、俺がそんな風に結果のわかりきったことを言ったのが、パースにとってはさらに不満らしかった。
季節外れの桜色をした唇を尖らせ、パースはつかつかと歩み寄ってくる。執務机の前、いつも二人でお茶をするソファに、細い体が収まった。澄んだ紫の瞳が、夜の気配を反射して、俺を見つめている。
「今ならまだ、言い訳を聞くわ」
「言い訳かぁ……」
最早、苦笑いしてしまう他ない。結局のところ、パースには敵わない。それに、わかりやすく頬なんて膨らませて、「私、拗ねてますよ」とアピールしてくる彼女を、放っておくという選択肢はなかった。
ペンを一旦机に置き、俺は頭を掻いた。
「急な出撃だったから。まだ、終わっていない書類が、残ってるんだ」
「……明日では、ダメなの?」
「明日に回せる書類は、回したよ。それでも、工廠関連の書類は、朝一に出しておかないといけない。それから、出撃の報告書も、今日中に作らないと」
むむむと、愛らしい表情の眉間に、皺が寄る。もうすぐで秘書艦の経験が一年になるパースなら、俺の言っていることはわかっているだろう。
林檎色の頬から空気が抜ける。すーっと唇の間より息を吐き、パースは細い指で肩の髪を弄る。その拍子に、柔らかなシャンプーの香りが漂った。
長い睫毛を震わせて視線を下げ、パースはなおも言葉を重ねる。
「私に手伝えることは、ない?」
「今はゆっくり休んで。また明日から、たくさん仕事をお願いするから」
「私は、提督にも、ちゃんと休んでほしいわ」
「もちろん。だから今やってる仕事は、本当に今日やらないといけない分だけだ。終わったら、俺もすぐ休む」
それで、パースはようやく納得してくれたらしい。彼女は「わかったわ」と呟いて、小さく頷いた。
けれど、パースはソファから立ち上がることなく、ジッと、俺の方を見つめてきた。
「……パース?」
「私、あなたの奥さんよ。あなたが仕事を終わらせるまで、ここで待ってるわ」
「でも、」
「私がここにいれば、あなたも無理はしないでしょう?」
パースの言葉にハッとして、思わず言葉に詰まった。真剣な眼差しの、アメジストの瞳に、返す言葉はない。ただただ、俺は大切な妻からの心配の言葉に、可能な限り誠実に、神妙に頷くしかなかった。
「すぐ、終わらせるよ」
「ええ」
首肯に込めた意味は、確かにパースへ伝わったのだろう。端正な顔は、一転して相好を崩し、波間の煌めきに似た微笑みを零す。
彼女が最近読み耽っている本を開いたのを見て、俺は改めてペンを取る。実際、大した量の書類ではない。この調子なら、あと一時間もしないで終わるだろう。
ペンを走らせる軽快な音と、本をめくる落ち着いた音がこだまする。その合間に、ぽつりぽつりと、他愛もない会話を挟んだ。パースとの話はいつものように心地よくて、自然と言葉が口から出てくる。ゆるるかなメロディーを奏でる言葉に耳を澄ます。パースはこちらの仕事を邪魔しないような話題を選んでくれて、お陰でペンを止める必要はなかった。
最後の一枚を書き上げると、時計の針は丁度夜の十一時を報せていた。一度大きな伸びをして、俺はソファを見遣る。
「パース――」
側で待っていてくれた人のことを呼ぼうとして、俺はすぐに口を噤んだ。
ソファの背もたれに、金砂の髪が寄り掛かっている。輝く紫の瞳はまぶたの裏に隠れてしまっていて、細くしなやかな睫毛に蛍光灯の光が宿るばかりだった。春の色を宿す唇に微かな隙間があって、そこからすーすーと楽器でも奏でるみたいな寝息がしている。
「……お疲れ様。付き合わせて、ごめん。心配してくれて、ありがとう」
疲れていたのは、お互い様だった。だからこそパースは、俺に早く休んでと、無理はしないでと、そう言ったのだろう。
パースがいなかったら、俺は彼女の言うところの「無理」を、していたのかもしれない。「真面目も過ぎれば毒」とは、いつだか大淀が忠告していたことだったか。
手早く執務机を片付ける。明日やれる仕事は、明日やればいい。今の最優先は、こうして俺を待っていたパースを、部屋まで送り届けることをおいて他になかった。
読みかけの本、パースの指が挟まっていたページに、藤の栞を残しておく。それから、眠り姫の膝下と肩に手を入れて、力を入れる。相変わらず、パースの体は軽くて、大した抵抗もなく持ち上がった。すっぽりと腕の中に収まってしまったパースは、少し身じろぎしただけで、なおも穏やかな寝息を立てていた。
どうかそのまま、よい夢を見てほしい。寝室まで、ちゃんと運ぶから。見慣れたはずの寝顔にそんなことを願っていると、自然に頬が緩んできた。
パースを抱えたまま、肘で電灯のスイッチを押し、部屋の明かりを消す。同じ要領で執務室のドアノブを回そうとした時、かちゃりと、扉は向こう側から開かれた。一歩下がると、空いた隙間から目が覗く。エメラルド・グリーンの瞳が、こちらを窺っていた。
「こんばんは。戦艦のエスコートはいるかしら」
小さな笑いを伴い、押し殺した声で尋ねた声の主は、ウォースパイトだった。彼女はそのまま、扉を開いてくれた。ありがたく執務室の外へ出る。
「驚いた。どうしてウォースパイトが?」
「そろそろかなと、思っていたの」
俺とパースの私室へ向かう道すがら、ウォースパイトは種明かしをしてくれた。何でも、一緒にお風呂に入っていた間、パースがずっと俺の心配をしていたのだという。
「『今日は書類が多かったのに、急な出撃が入ってしまって、だからきっと無理をするに違いないわ』、ですって。それはもう、心配していたのよ」
「そう……だったか」
「パースのことだから。提督が寝てくれるまで、絶対に動かない、って言いだしたでしょう。それで、提督の仕事が終わった時には、寝てしまっていた」
「まあ……大体、そんなところだね」
やっぱりねと、ウォースパイトは控えめに微笑んだ。寝てしまったパースを俺が運ぶだろうと予想して、ウォースパイトは執務室を訪ねたのだという。さすがの慧眼だった。
なおも穏やかに眠り続けるパースの顔を覗き込んで、ウォースパイトは益々笑みを深めた。
「こんなに、預け切っちゃって。――提督、愛されてるわね」
「それは、もう。毎日幸せだよ」
この腕に抱いたパースに目を落とす。穏やかな彼女のリズムに合わせて、胸が上下する。制服越しに感じるのは、暖かな体温。秋桜の香りが漂う。ともすれば折れてしまいそうなほど細い体を、だからこそしかと抱き締め、幸せを感じていた。
「ふふ。パースと揃って、とことん惚気るわね」
口元に手を当ててウォースパイトが笑う。コロコロと切子を打つような微笑みは、とても優しい響きを伴っていた。
言葉通りに、私室の前までエスコートしてくれたウォースパイトに頭を下げる。生粋の英国淑女は、優雅に微笑んで手を振った。ぱたりと丁寧に閉じた扉からは、パースを起こさないようにという気遣いが感じられた。
部屋の電気をつけて、寝室を目指す。部屋の真ん中に鎮座するふかふかのベッド。その側まで行って、細心の注意を払いながら、パースの体を降ろす。抱き締めている間感じていた温もりと香りが離れていくのを、少しばかり名残惜しく思った。そんな自分に、改めて苦笑いが漏れる。
「……起こしたら、悪いか」
いつもの癖でお休みのキスをしそうになって、思い留まる。せっかく気持ちよく寝ている彼女を、起こすようなことはしたくない。しかし、それはそれでまた寂しい気がして、頬ならば起こさないだろうかとそんなことを考えた。今更ながら、自分が随分とわがままになっていることに気づく。
残念な気持ちを押さえて、ベッドに背を向けた。俺も寝る支度をしないと。
その時ふと、小さな衣擦れの音がベッドからした。
「……あなた?」
キャラメルのように蕩けた声に振り向く。普段の、鈴の音を鳴らす声とはかけ離れた、形の定まらない甘えた音色。寝返りを打ったパースの、明らかに焦点のあっていない、ぼんやりとした寝ぼけ眼が、こちらを見つめていた。
「起こした?」
「ううん……まだ、眠っているわ」
力の抜けきった微笑みを頬に浮かべる、パース。夢と現の狭間、曖昧な境界に横たわる彼女が、うっすらとした目だけで俺を呼んでいた。
「お仕事、終わった?」
「ああ、終わったよ」
「そう。お疲れ様。……あなたは、頑張り屋さんね、偉いわ」
へにゃっと微かにパースは笑う。その拍子に、ひらりと薄明の髪が流れて、キラキラした光をベッドに零した。
パースに誘われるまま、ベッドの縁に腰掛ける。マットへついた右手に、パースの手がゆっくりと伸びて、触れた。細くてしなやかで柔らかい指先が、二、三と手の甲を撫ぜる。
「心配をかけたね」
「……ううん」
「ありがとう」
「……ふふ、どういたしまして」
会話の焦点も定まっていない。目を動かすほど意識が覚醒していないのか、彼女はただ俺の手を見つめている。まるでそれが俺自身であるかのように、優しい手つきで撫で続ける。
「……寝る支度をしてくる。パースも、早くおやすみ」
「ええ。……続きは、夢の中で、ね」
まったく君は、夢の中でまで、俺を愛してくれるのか。
重なっていたパースの手をわずかばかり持ち上げ、その手の甲に、唇を押し当てる。それから、前髪を上げて、額にもキスをする。それで満足したのか、一際穏やかに口元を緩めて、そのままパースは目を閉じた。浅い呼吸は、すぐに寝息に変わっていて、彼女が言った通り、その意識は眠りについたままだったんだろう。
「おやすみ。良い夢を」
囁いて、今度こそベッドから離れる。
急いで寝る支度を済ませてしまおう。
ソファで俺を待っていてくれた、君のために。
夢の中でまで、君を待たせる訳にはいかないから。
よく考えたら、パースさんのお姫様抱っこを書くの、これで三回目くらいでは???
何回やったっていいですよね、お姫様抱っこ!(開き直り)