怖い話   作:夜ノとばり

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ーシリアスー
祈り


 暴力は罪だ。

 道徳で習ったそのフレーズはやけに印象深く、幼い俺の心に刻まれていた。

 小学校の時の授業の内容なんてろくに覚えていない。

 けれど、その言葉が成人した俺の中でも未だ一定の信憑性(しんぴょうせい)を備えているのは、実体験が伴っていたからだろう。

 暴力の恐ろしさは、その身で実際に体感してみなければ知ることはできない。

 断片的な記憶に残る、無力という名の唯一絶対的な真実。

 理不尽な痛みに耐え、家族とはそういうものだと自分を納得させていた。

 年を重ねるにつれ、少年は世間一般に精通していくようになる。

 そうして直感した。俺の青春、暴力に支配された日々は異常だったと。

 世間に流布(るふ)している警句などというものはただの綺麗事だと気づいた。俺達の苦悩煩悶を静聴する能力のない、でかい頭と小さな耳をお持ちの大人紛いが声高に発する、熱のない絵空事、独り言だ。

 憎しみがむくむくと俺の心に根を生やし、巣食う。暴力支配の元凶に俺は、復讐を誓った。

 不思議だ、「巣食う」は「救う」とも読める。

「あの日々は異常だった」という単なる事実確認が、その後の俺の生きる理由となったのだ。ある意味では、虚無だらけの人生から「救われた」瞬間だったとも言える。

 ……あるいは、残酷な運命に足元を「(すく)われた」のか。

 代わりに俺の、短い復讐の人生が始まった。

 

☆ ★ ☆

 

 俺は(ひざまず)いた。捲れ上がった絨毯(じゅうたん)の裏側に額を押し付ける。「すみませんでした」

 牢屋のような室内で、蛍光灯がちかちかと点滅している。直視すれば眩しいのに、部屋は薄闇程度にしか照らされていなかった。

 聞こえねえんだよ、とあいつが怒鳴って、頭の横に添えた指が踏まれた。真っすぐ揃えたはずなのに。これでも気に入らないのか。

 痛みに顔をしかめる。でもあいつからは見えないはず、と安心する気持ちもあった。

 後頭部に衝撃が走り、足の裏と床に挟まれて鼻が潰れる。「お前みたいな出来損ない、死ねよオラァ!」

 脇腹に勢い良く蹴りが炸裂した。ほんの少し気を抜いた途端にこれだ。

 激痛で息もできず、倒れ、悶える。狭まった視界の半分を埋めるカーペットは淡い(だいだい)、所々にある紅色の染みは血の跡だ。

 数秒、一番痛いのは最初の数秒だ。そこを我慢できれば、今日はきっと終わり。

 そう思った直後、母さんが俺に覆いかぶさり、喚いた。「もうやめて、達行(たつゆき)!」涙声でまともに聞き取れない。

 面倒なこと言いやがって。静かにしていればあいつは部屋に戻ったかもしれないのに。

「黙ってろババア!」拳を振るう音がした。誰が何をしているのか、手に取るように分かる。

 今日も母さんが殴られる。

 何のために俺が率先して土下座したんだ。

 母さんのためだろうが。

 いくら馬鹿で出来損ないの俺でも、盾くらいにはなれるんだ。

 でしゃばるなよ。

「全部お前のせいなんだよクソババア……!」毛羽立った長髪を振り乱し、人かどうかも判別できないような狂気じみた音声がまき散らされる。

 まだ続くのか。

 赤く濡れたカーペットが歪んで見える。ぎゅっと目を瞑ると一筋、涙が目尻から頬に伸びた。

 皿が割れるような音と母さんの悲鳴が重なる。

 視線をやると、母さんが腕を押さえて蹲り、ぽたぽたと血が滴っている。

 白い破片が散乱しており、母さんの前にあいつの後ろ姿があった。肩で息をしている。

 振り向き様に目が合い、心臓が跳ねた。

 最後に俺を一蹴りすると、あいつは床を鳴らして部屋に帰っていく。

 やっと終わった……、と俺は胸を撫で下ろした。

雅彦(まさひこ)。鼻血が出てるわ」囁き声は掠れている。

 そう言って母さんは俺の顔をティッシュで拭う。

 既に日が暮れて久しく、外の景色は透き通った蒼から澱んだ紺に変わりつつあった。鉄格子にも似た窓の向こう、そびえる街路樹の梢はこちらを哀れむようで、目をそらす。息苦しい室内に視線を返すと、ため息が漏れた。

 ここに帰ってくるしかないのだ。だから、逃げられない。

「……母さんの方が重傷じゃん。血、だらだら出てる」現実に目を向けなければ。

 棚から救急箱を取り、包帯や消毒液を床に広げる。

「私は構わないから」強がりながらも、母さんは弱々しい微笑を浮かべた。

 明々とクリーム色の光を降らす照明の下、お互いに黙々と傷の手当てをするのは惨め以外の何物でもなかった。

 壁を叩く音がして、家全体が揺さぶり、背筋の凍る思いがした。

 あの……(くそ)兄貴め。

 

☆ ★ ☆

 

 跪き、胸の前で両手を組む。

 十字を切り、清い心で神の御前に立ち、信仰を告白する。

 祈祷とは、神に願い事を押し付けることではない。

 すべてを神の御心に委ね、受け入れる覚悟をすることだ。

 のちに入院し、生死の境をさまよった際に、母さんはそう口にしたのだと言う。

 

☆ ★ ☆

 

 家族が寝静まってから、ランプを灯したリビングで毎晩、母さんは祈っている。

 ……まあ、俺はこの通り起きているし、もとより父親不在の母子家庭なので、寝ているのは兄だけだ。

 祈りという行為がどこまで効果を発揮するのか、当時の俺は疑問でならなかった。

 絨毯に膝をついて、肩だけでなく全身を震わせて祈祷している。クリスチャンの母には辛いことがあると神に祈りを捧げ、救いを求める習慣があった。

 母さんは一つの言葉をうわごとのように繰り返しているようだ。遠目で見物していた俺には何を呟いているのか判らなかったが、不規則な息遣いから涙を流していることはすぐに知れた。

 また少し、兄が憎くなる。

「あら。眠れないの?」

「……うん。トイレに行こうと思って」

 適当な嘘でごまかすと、手を引かれた。

「そーっと行こうね」唇に人差し指を当て、母さんは微笑んでみせる。

 口の周りの皺から目元にかけて一直線の筋があった。そこを涙が伝ったのだろう。

 じっと見つめていると、母さんが手で拭いて消してしまう。

 三十代後半の母さんは、心労のせいだろう、実年齢よりずっと老けて見えた。

「……そこ、(めく)れたままだから注意してね」

 顎で示された方向に視線をやると、カーペットが乱れた状態で放置されている。掃除はしたのか、血の跡は薄くなっていた。

 整えるたびに兄が荒らすものだから、最近は直すこともなくなってしまったのだ。

 トイレで用を足していると、ドアの向こうから声が聞こえた。

「……今日も、痛い思いさせてごめんね」

 答えようとしても、鼻がひゅうひゅうと鳴るだけで言葉にならない。トイレットペーパーを何枚か重ねて鼻をかんだ。

 ぱちりとトイレの電気を消して、手を繋いで寝室に向かった。二人とも無言で。

 (しわ)と血管の目立つ母の手を両手で握る。母さんは俺の側に半歩寄った。

 深夜、レモン色の暖かな光に満ちた廊下は、家にたった一か所の静謐(せいひつ)な空間だ。そこを母と歩くのは、唯一、しっとりと居心地のいい時間。

 暴力も理不尽も、しばらくの間、忘れていられた。

「一人で何を唱えていたの?」布団にもぐりこんでから尋ねる。

 同じ布団にゆったりと身を包むと、柔和な笑みを湛えて、母さんは答えた。

「……どうかお兄ちゃんを許してあげて下さい、と神様に祈っていたのよ」

 

「でも」半泣きで俺は反論する。「あいつは悪いことをしているのに」

 諭すように母さんは布団の中で俺の頭を()でる。「あいつではなくて、お兄ちゃん、ね」

「兄ちゃんは、ずるい」母さんの腹に抱きついた。

「どうして?」

「……受験とかなんとか知らないけど、母さんを殴ったらいけない。……殴った分だけ、先生に叱られたらいいんだ」

「そっか、お母さんまで心配してくれるんだ。……いい子」

 背中に手が回された。触れた個所からじんわりと熱が伝わってくる。

「あら、泣いているの」

「泣いてない」ぶんぶん首を振った。暖かい手が背中をさすっている。

 俺の顔面も母さんの腹も、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

「大丈夫よ。お兄ちゃんが早く改心するように、とも祈っているから」

 母さんは俺の背中をぽんぽんと叩いた。そして、俺の頭上で両手が組まれる。

 そうやって毎晩、気が付けば一生、祈り続けることになるのではないか。

 眠気で徐々に薄らいでいく意識の中で、望まぬ未来に思いを()せていた。

 

☆ ★ ☆

 

 俺、二十三歳。兄、三十歳。

 母が亡くなった。五十歳。九時になっても起床してこなかったので見に行くと、四角い布団の真ん中に穏やかな表情で冷たくなっていた。

 横で号泣する兄を尻目に、大勢の親戚でにぎわう葬儀場の席で額縁を抱いて、ただ乾いた空気を吸って吐いて、……何も考えられなかった。

 

「達行ちゃん、あんたはお母さん思いな子やね」

 母の訃報に大阪から駆け付けたという母の姉の沙苗(さなえ)さんが、涙ぐみさっきからしきりに兄の短髪を撫でつけている。

「それに比べて……」朗々と言い放つと、沙苗さんは盛大にため息を吐く。この人は昔から一言多いのだ。

 涙は出ない。

 焼香や念仏といった一通りの儀式が終わり、二部の食事会のため参加者は別室へ移動し始めていた。

 親類一同、友人各位、雑誌記者までが母の葬式の席に集まっていた。大半は「社長の母の葬式」に来ていることもあり、束の間の自由時間の今、兄の周りに人口が集中している。

 地元で最大の葬儀場の大ホールを借りて。華やいだ空気などこれっぽっちもなく、主催者の兄が号泣する中ではあったが、持てるだけの資金をつぎ込んだおかげか、式は盛大に、滞りなくとり行われていた。

「社長、来月の自伝出版に関してなのですが……」出版社の人間までいるようだ。

「そのことだが、しばらく待って頂くのは可能だろうか。追悼と感謝の辞を……追加したい」

 言葉を詰まらせながらも、手短に打ち合わせを済ませていた。

「社長……」

 兄を挟んで反対側で戸惑っている色白の女性は社長秘書だそうだ。

香奈(かな)さんだ。良い名だろう」と、そう紹介してくれた兄は社長で、オンラインショップを経営している。企業当時から社員の不祥事や投資の失敗など紆余曲折(うよきょくせつ)あったが、今では立派に名をはせる一部上場企業だそうだ。

 一方、香奈さんは、曲線美を体現したようなそれはもうスタイルの良い美人だった。端正な顔立ちは凛と引き締まっていて、そこから繰り出される極上の微笑みは天下無敵、魅惑的な煌めきを放つと同時に人柄の良さをも(うかが)わせる。

 一言で言って、目を合わせればこちらが霧散してしまうほどの完璧な容姿を持った女性だった。

 しかし、俺が不覚にも彼女に見惚れたのは、その美貌に惹かれたからだけではない。

 彼女の面影に母を見たからだ。

 雰囲気か目元か輪郭か、どこか彼女は母に似ていた。

 兄周辺の一団の外へ追いやられ、手持無沙汰にしている様子の彼女にこっそりと耳打ちする。

「社長とは上手くいってますか」横手から話しかけたのだが、物凄く驚かれてしまった。「失礼。俺は達行の弟で、雅彦と言います」

「弟さんですか。……社長は私をとても大切にしてくれます。まるで家族みたいに」

 頬を赤らめて(うつむ)かれてしまうと、俺もそっぽを向いて黙るほかない。

 秘書を「さん」付けで呼んでいるあたり、兄は香奈さんに惚れており、どうやら彼女もまた兄に好意を抱いているらしい。

 家族。彼女の言った言葉が胸に引っ掛かった。

 彼女は学生時代に兄が犯した愚行を知っているのだろうか。

 兄は話したのだろうか。……兄のことだ。何も伝えていまい。

 無垢な彼女は何も知らされず、やがては俺や母のようになるのではないか。

 それなら教えてやろうか。

 ぞわぞわと沸き上がる嗜虐的(しぎゃくてき)な感情。同時に、(せき)を切ったように、凄惨な記憶が脳裏に次々と蘇る。底の見えない濁った沼から一瞬のうちに浮かび上がり、心臓を一突き。一旦沈んだかと思えば、また浮かんでくる。ひどい倦怠感(けんたいかん)に襲われ、しゃがみこんでしまう。脂汗が体中、額にまで滲むのが分かる。

 フラッシュバックが起こった。過呼吸にならなかったのが不幸中の幸いだ。

「雅彦……さん?」

 俺は相当青ざめた顔をしていたに違いない。

 心配そうに俺の顔を覗き込んでくる彼女に、俺は平静を装う。「すいません。大丈夫です」

 トイレにでも逃げようとそそくさと立ち去ろうとした俺の、礼服の裾が引かれた。

 何ですか、と無理くり笑顔を作って振り返る。彼女の真剣な眼差しに、射抜かれたように固まってしまった。

 黄色や白の花々が前方の棺桶を中心に、ホールの四隅にも供えられている。参加者には厳粛な、当事者にはしんみりと切ない光景だ。

 正面から見据えた彼女の綺麗な細面はやはり、棺桶の中に横たわる、母に似ていた。

「……知ってます」

「え」

「達行さん、昔は荒れていたんですよね」

 動揺と頭痛を押し隠し、「兄から聞いたんですか」

 胸に隠してきたものがひとりでに騒ぎ出すような、引き出されるような、焦燥感を覚えた。

「その頃からしたら、大分丸くなったと思うんです。親戚の方も仰っていましたけど、信じられないくらいにお母さん思いな方ですし。全国の老人ホームや介護施設に寄付をなさったり……、ああして頭も丸めていますしね」香奈さんはふっと破顔する。兄にこっそりと流し目を送るのも丸見えだった。

 相思相愛ぶりにしみじみと頭を掻く。

「……いい人ですね」

 無論、彼女がだ。

「そんなことありません。雅彦さんもさっき普通に達行さんと会話なさっていたじゃないですか。仲直りはされているんでしょう?」

「……」

 二の句が継げず、俺は黙った。

 彼女は理不尽な暴力を受けることなく育ってきたのだろう。

 俺のような経験をしたことなど無いはずだ。

 もちろん無いに越したことはない。幸福な青春を謳歌する権利は誰にでもある。

 しかしだ。

「お前は気絶するまで殴られたことがあるのか」「知らないくせに」と大声で叫びたくなってしまうのはなぜだろう。

 どうして俺の拳は震えるのだ。頭に血が上り、ずきずきと痛む。

 悪いのはどう考えてもあいつ、暴力の元凶は兄なのに。自己嫌悪が止まらない。

「あ、あの……」

 深く深く湿った息を吐いて、彼女から離れ、自分の席に着く。額に手を当てうなだれる。部外者に手を上げる必要はない。

 想像以上に激しく腰を下ろしたらしく、備え付けの椅子の座面が沈んだ。椅子の骨組みが(きし)む音まで頭痛の一部みたいだ。

 兄の取り巻きの一人の男が嫌な顔をする。

 深呼吸をした。冷房の風が肌寒い。まるで冷蔵庫、いや、霊安室にでもいるような気分だった。

 大理石の床は俺を映している。ぼやけた輪郭が、俺かどうかも判然としない不定形な鏡像をかたどっていた。

 汗が床に垂れる。スーツの胸を握ると、固く冷たく(わだかま)るものがあった。

 凍りついてうずまって、溶けて自由になることを許さない永久凍土。

 それはおそらく、踏みつける足の下の、大理石の紋様に似ている。

 仲直りなんてできるわけがないのだ。

 天井が高い。いくつも設置されたシーリングライトが白い光を降らせている。まるで太陽がいくつも天井に張り付いているかようだった。

 太陽の数が増えたら世界は焼け尽いて滅びてしまう、と何年か前に専門家がテレビで言っていたのを思い出した。少年少女の素朴な疑問にその道のプロが答えるという番組だった。

「太陽は私たち人間に大きな恩恵を授けてくれます。君たちが朝、外に出ると眩しいのは、太陽があるからです」子供向けに平易な言葉を選びながら、初老の天文学者は説明する。「太陽のおかげで、毎朝日が昇り、世界は暖かくなります」

 すると、客席にいた少年が元気に手を挙げた。

「たいようがなくなったらどうなるんですか?」

 いい質問だと頷き、神妙に学者は答えた。

 太陽が消滅したとしたら、地球は熱を失い、人類は到底生き延びられないだろう、と。

 今、太陽は消えた。

 世界は終わりだ。

「お母さんもあんたみたいな息子を持って幸せだろうよ」取り巻きの中央では、涙も吹き飛ばす勢いで豪快に笑い、沙苗さんが兄の肩をバンバン叩いている。

 そうだろうか。ストレスだ何だと言い訳をつけ、あらゆる失敗を全て親になすりつけ、自分と弟を散々いたぶった息子を、誇れるものだろうか。

「聞いたよ、どっかの老人ホームに何千万も寄付したんだって?」「ええ、まあ……」激しいスキンシップに兄はたじたじだ。

 寄付の理由を知っているか。

 母が膝を痛めて、半年の入院を余儀なくされた過去があったからだ。

 達行、お前がやった。

 母の膝を強く蹴ったことがあったな。直接の原因だ。右膝だよ。覚えているだろう。

 床で頭を打って脳震盪(のうしんとう)を起こし気絶した母は、救急車で搬送される途中、うわごとで祈りの文句を呟いていた。

「神に全てを委ねます」

 無責任だとは言わせない。俺と母はそれぐらい切羽詰まっていた。命の危険を感じていた。

 神に(すが)るしかなかったんだ。

 毎晩必死で神に頭を垂れていた母さんの気持ちを考えたことはあるのか?

 入院後はあまり母に手を上げなくなったのは認めよう。

 DVの標的を俺に絞っただけだった。暴力の矛先は俺に向いたが、暴言や恫喝(どうかつ)は以前と変わらず、見境も遠慮もなく湯水のごとく浴びせてきた。 

 俺達についに念願の平和が訪れたのは、兄が起業して家を出てからだ。

 席を立った。ハンカチで頬を拭っている兄を見やると、向こう側にいる香奈さんと目が合う。彼女は気まずそうに大理石の床に視線を落とした。

 母さんごめん。でも俺、耐えられないんだ。面影の母に心中で語りかけると、兄に焦点を合わせる。

 沙苗さんは兄を「母親思い」だと言った。

 笑わせるな。

 母さんの膝はとうとう完治しなかった。いつも引きずって歩いていた。辛かったろう。達行、逃げ出したお前には分かるまい。

 寄付で傷んだ膝が治るか?

 離れて無視して解決した気になっているだけなんだ。

 隔離病棟(かくりびょうとう)が心の傷を癒すか?

 罪滅ぼしなら結構。社会貢献? うるさい、俺は母さんの話をしている。

 結局、暴力は止まなかった。その状態で出て行ったから、母さんの心配の種は尽きなかった。

 母さんは兄がいなくなってからも、毎日、気が付けば一生、祈り続けていた。深い皺が刻まれた両手を力一杯、震えるくらいに握りしめて。

 若き俺の懸念は現実となってしまった。

 鼻息は湿り気を帯びて暖かい。頬に真っすぐ縦筋が伸びていた。大理石のタイルに出来た小さな水溜まりを靴で広げる。

 寒い。相変わらずこの部屋は冷房が効きすぎている。

 いつの間にかこのホールには兄周辺の一団以外の人がいなくなっている。スーツ姿の女性が入ってきて「申し訳ありませんが、他のお客様もBホールの方で席についておられますので、お早めにご移動をお願いします」と丁寧に誘導する。

 母さんの祈りは神に届いたのか。そもそも祈祷という行為に意味はあったのか。

 そんなことはどうでもいい。一つ確実なのは、兄が家にいるうちに改心していれば、母は一生祈り続ける必要など無かったということだ。

 達行、お前が母さんの必死の祈りを無駄にしたんだ。

 それが無念で。

 無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で無念で

 だから俺がお前の人生を無駄にしてやる。

 母さん、これは悪いことかな。

 兄は背の低い沙苗さんに頭を撫でられながら、出入り口に歩を進める。「本っ当に、いい子だねえ」沙苗さんは繰り返す。

 そんなことをしてもお母さんは帰ってこない。母の幻聴が俺を(さと)そうとする。

 正にその通り。百歩譲って、兄が実際、母親思いに変貌を遂げていたとしても、母さんはもういない。

 だからこそ、俺は兄を許すことができない。

 誘導に従い、兄を追って食事会が行われるBホールに向かった。廊下を進んでいくと、視界が急に開けた。煌々(こうこう)と照る人工照明よりはるかに明るい自然光が廊下全体に満ちている。

 大窓の外は庭園となっていた。青々と葉を伸ばした松や梅が美麗に切り揃えられ、下方には薄く青黒い岩が積み重なり、その隙間をちょろちょろ水が流れ、沢を形作っている。

 爽やかな風景に感嘆の吐息が漏れ、小さいころに見たテレビで天文学者が発した台詞が思い出された。

「太陽は言うなれば、母親です。大好きなお母さんが突然いなくなったら、君達は何を感じるでしょうか。ぎゅっと抱きしめて、温めてもらうことはできないのです。太陽はそういう存在です」

「太陽が無ければ世界は暖かくなりません。夜が来て、ずっと夜です。朝が来ないのです。するとどうなるでしょうか。真っ暗なまま、気温が上がらず、僕も、君達も、寒くて死んでしまいます」

 放送を目にした時、兄も母も外出していて俺以外は家に誰もいなかった。俺は一人孤独にテレビの画面を見つめていた。実体験があった。道理でよく覚えているわけだ。

 俺は庭園を眺めるのに夢中で、歩みが止まっていたのに気づく。慌てて駆け足に廊下を進んだ。

 そうとも、この世界は寒すぎる。

 Bホールと見受けられる一室から香奈さんが顔を出していた。俺の姿を認めると、数歩こちらに踏み出し「雅彦さんもいないと始まらないんですから」と笑みまじりにむくれて見せる。

 彼女は見れば見るほど母に生き写しだ。兄は良い女性を仕留めたものだ、と素直に感心する。

 だが、故に、彼女と母は決定的に異なっている。年齢も性格も、容姿を除いたほとんどが母とはかけ離れているのだ。

 それが、母は二度と還らないと、受け入れがたい事実を突きつけられているようで。

「香奈さんは、学生時代は楽しかったですか」意味のない質問を、引き返す彼女の背中にぶつける。

「普通ですよ。友達とバカみたいにはしゃいで、羽目を外してばかりでした」香奈さんは半身で振り向き、可愛らしくはにかむ。

 直視するには眩しすぎて、俺は目を伏せた。

 彼女に続いて入室すると、参列者の視線が俺に集中した。軽く会釈をして謝罪の代わりにする。

 職員の前説が終わり食事が順々に運ばれてくると、会場はにわかに活気づく。故人談議に興じているのか、和食の品々に舌鼓を打っているのか、とにかく皆めいめいに(たの)しげな様子だ。

 はす向かいでは秘書の香奈さんが隣の兄を労っている。兄は固辞しつつも礼を言い、互いに朱色の微笑を交わす。

 豪勢な食事に手を付けることなく、俺はホールを出た。

 向かった先は便所。辺りを見回すが、清掃員はいない。鏡の前で胸に手を当てると、冷たい感触があった。

 スーツの胸ポケットから、隠し持っていた包丁を取り出す。

 電灯に刃先をかざす。滑らかな加工が施された切り口に指を押し当てると、ぷつりという音とともに痛みが走り、手の平から手首へ血が伝った。 

 包丁を胸にしまいなおし、血の付いた手を洗った。ハンカチで大雑把に手を拭う。

 会場に戻ると、兄と香奈さんが仲良く談笑していた。

 白く美しい、ふんわりと包み込むような笑みには母の面影がある。

 ……羽目を外して。友達と騒いで。普通。学生時代は楽しかったですか。

 鈍い圧迫感が頭の中に起こった。それは疼痛に変化し、頭蓋骨を内側から乱暴に叩く。

 ――普通。

 俺もそんな青春が送りたかった。子供じみた嫉妬心が芽生えてしまう。

 肺の底から、溜まりに溜まった澱んだ空気を吐き出す。

 香奈さん、あなたにはどんな矮小な罪もない。羨ましくはあろうと、恨めしくはない。

 ただ、あなたには運がなかった。

 ごめんよ。

 胸に隠した凶器を鷲掴みにして、俺は断頭台の下へと進む。自分の席のある列を通り過ぎ、兄の背後まで。

 狂気はそっと胸に秘め、誰にも気づかれないように。

 それこそ、祈るような気持ちで。

 果たして届くのだろうか。

 数ある来訪者の頭に紛れ、兄が垣間見える。その横顔に学生時代俺や母に剥き出しにしていた棘は見受けられない。

 香奈さんと言葉を交わしているせいでもあるだろう。彼女は母に似ているから、話していると自然と落ち着く。

 ……ということは、兄も俺と同じなのかもしれない。

『お兄ちゃんが早く改心するように、とも祈っているから』行き場のない涙が頬を濡らす。

 母の祈りは無駄ではなかったのかもしれない。

 百歩譲って、今は。

 だが、兄が改心したかどうかは問題ではないのだ。

 俺は、死ぬまで母さんを不安に苛ませたお前を許さない。

 号泣しようが寄付しようが自伝を出そうが、犯した罪を無かったことにはできない。

 お前が母さんを不幸にしたんだ。

 

 だから、償え。

 

 涙を受け止めてくれる母はもういない。

 兄に怯えて夜闇に救いを求めたあの日、俺の居場所は監獄のような自宅のみだった。

 母を失った今、俺には帰る場所すら無いのだ。

 こつ、こつ、とおろしたばかりの革靴が軽快なステップを踏む。

 俺の席には母さんの写真が大事に置かれている。

 懐に手を入れ、包丁を握る。冷え切った胸は期待でほかほかしていた。

 天井から降るまばゆい光に目を細める。明るいが、温かくはない。だってここに、太陽は無いのだから。

 たどり着いた兄の背後、包丁を振りかぶり、兄が振り向く前に。

 ……ラップにくるまれた熱々のおにぎりをお手玉しているときのような、得も言われぬ高揚感。そう、何でもないのんびりとした日常なのに、なぜか妙に幸せな……。

 お母さんが椅子でくつろいでいて、テレビでは騒がしいバラエティ番組が小さい音で流れていて。俺がおにぎりの上空を漂う湯気をすうすう吸いこんでいると、お母さんはくすりと微笑む。

 あれはいつのことだったっけ。

 母さんはとても信心深かったから、きっと天国にいる。俺はどうせ地獄だろうから、会えないかもしれないけど。

 母さんを棺桶の中に一人にしておくのは忍びないから。

 俺も行くよ。

 兄さんと二人きりにしておくわけにもいかないしね。だって羨ましいじゃない。

 もうすぐ会えるから。

 待ってて。

 もう、心配しなくていいんだ。

「良い子だね」どこからか、母さんの声が聞こえた気がした。


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