シンフォギアの消えた世界で 作:現実の夢想者
今、私の目の前には所在なさげな男性が一人、正座して項垂れている。
場所は最近引っ越した部屋ではない。私が一週間強過ごした六畳間である。
「た、只野さん! その、無断でドアを開けた私も悪いとは思います! で、ですが、さすがにこれを見たのが立花や雪音だったらどうするつもりですかっ! せめて鍵は閉めてくださいっ!」
「返す言葉もない……。閉めた気になってた……」
私の手には裸の女性が表示されているスマートフォンがある。
時刻は朝六時半。私は目覚ましついでに散歩がてら只野さんの様子を見に来たのだが、やはりまだ意識が切り替わっていないのだろう私は何の躊躇もなくドアを開けたのだ。
鍵が閉まっていれば気付いただろうが、おそらく只野さんも先程の言葉を聞く限り気が抜けていたらしい。
何せ最近まで私が既に起きていて、只野さんは私と挨拶を交わしてから眠っていたのだから。
それにしても、ま、まさか開けたら只野さんがいかがわしい動画を見ているとは。
最初は何かを見ているとしか分からず……
――只野さん、おはようございます。一体何を?
――っ?! か、風鳴さんっ!?
まるでこの世の終わりが来たような顔をし振り向いた只野さんの手元にあったスマートフォンには、黒髪の女性が裸で映っていたのだ。
それと、一瞬だが見えたのだ。只野さんのズボンの一部が、その、盛り上がっているのが。
思い出すだけで顔が熱くなるのが分かる。とにかく今は事態を収拾しよう。
「と、とりあえず頭を上げてください。その、私ももう成人が近いですから男性のそういう事には多少理解があるつもりです」
「……本当にごめん」
顔の熱を感じたまま、私は視線を只野さんの傍にあるボックスティッシュへ向ける。
あ、あれがあんな場所にあると言う事は、私が来るのがあと少し遅かったら……っ!
だ、だめだ。考えないようにしよう。で、でも、そうしようとすると余計色々浮かんできてしまう!
「それで、俺はどうお詫びをすれば?」
「ひ、必要ありません。その、今後はえっと、そ、そういう事はちゃんと施錠して行ってください」
言った後で思わず頭の中にぼんやりとではあるがそういう光景が浮かび、私は反射的に顔を下へ向けた。
「そ、そうか。えっと、本気でごめん」
「……いえ、いいんです。私達があまり男性のそういう事への理解や配慮が無さ過ぎたのですし」
考えてみれば、只野さんは立花と出会ってからある意味で気が抜けなかったのかもしれない。
何せいつ立花が来るか分からなかったのだ。そして雪音が来てからは共同生活。そこからこの人は性欲を抑え込んでいたのだろう。
そう考えれば私達がこの人へ無意識とは言え我慢を強いていたと言える。それを発散しようとしても当然だ。
「そ、それで? 一体どうしてここへ?」
「あの、様子を見に来たのです」
「え?」
何故か理解出来ていない只野さんへ私は苦笑した。まったくこの人は。
「私のここでの役割は調査です。ただ、只野さんの予想から調査するべきは貴方本人だとエルフナインが」
「俺?」
「はい。その、只野さんが私達の事を覚えているからこそ今も私達は存在出来ていると仮定すれば、悪意は貴方を狙うはずだと」
「それは、まぁ分かるけど……」
「そして、物理攻撃だけでなく精神攻撃も注意するべきだとも」
私がそう言った瞬間、只野さんが訝しむような顔をした。
「精神って……」
「只野さんの記憶を消すか奪う。そういう事をしてくるかもしれないと」
「ど、どうやって?」
「分かりません。ですが、立花と接して会話した事が只野さんが変化の影響を免れた理由だとすれば、やはり毎日私達の誰かと接してもらうべきと思います」
「ま、まぁそれは分かるけど……」
只野さんの顔を覗き込むように体を倒す。そんな私の言葉に理解を示してくれる只野さんだが、どこか姿勢が前かがみなのはどうしてだ?
それとなく視線も外されている気もする。何か格好に不味いところでもあっただろうか? Tシャツとデニムのパンツだが、そこまでおかしくはないと思うのだが……?
まぁいい。とにかく只野さんが眠るまで家事でもしよう。もう私は今までの私ではないのだ。
「では、掃除でもします。只野さんは流し近くで待っていて」
「えっと、寝ちゃ駄目?」
腕まくりをして動こうとした私へ、只野さんの少しだけ申し訳なさそうな声が聞こえた。
振り向けば、そこには若干眠そうな只野さんが。おかしい。さっきまでは目が冴えていたと思ったのだが……?
「眠い、のですか?」
「その、言い難いけどエロい事しようと思ってたから起きていた訳で……」
「な、成程……」
顔が熱くなるが仕方ない。ま、まさか堂々と正面から言われてしまうとは思わなかった。
ある意味男らしいのかもしれない。いや、もしかしたら眠気で思考能力が落ちているからこそか?
「で、でしたらどうぞ。あ、いえ、少しだけ待ってください」
只野さんが布団を敷く場所だけまずコロコロで掃除する。そうすれば後で掃除する時に寝ていても構わない。
「……ああ、そういう事かぁ。風鳴さんは賢いね」
「こ、この程度でそう言われると逆に馬鹿にされている気がしますが……」
それと、何となくだが今の只野さんは叔父様のような感じがする。
褒め方がどこか幼い頃の叔父様に似ているからだろうか。くすぐったいような、照れくさいような、不思議な気分だ。
っと、これでいいだろう。そこで私は只野さんの使っている布団を見た。
長く使っているせいか本来よりも薄くなっただろうそれに、私は只野さんの過ごした年月を想う。
「……さぁどうぞ」
「ありがとう」
布団を敷いて呼びかけると嬉しそうに微笑んで只野さんは布団へと入って横になる。
思えば、こんな事を今までした事はなかったな。お父様にさえ、結局出来なかった。
「風鳴さん、可能なら一時過ぎにも様子を見に来てもらっていいかな? で、俺がそこで起きてなかったら起こしてくれると」
「分かりました。では、一応鍵は閉めて預かっておきます」
「うん、それでいいよ。さっきは本当にごめんね。あと、来てくれてありがとう」
「いえ、お気になさらず。おやすみなさい」
「うん、おやすみ……」
まるで少年のような雰囲気で只野さんは笑顔のまま目を閉じた。そこで少し静かにしていると、あっさりと寝息が聞こえてきた。
ふふっ、まるで子供だ。何となくだが立花が惹かれた理由が分かる気がする。
この人は大人を懸命に演じている人だ。叔父様やお父様のような感じではない。それが、どこか保護欲というか母性を刺激するのだろうか。
「……もしくは、私達の事を知った上で今のように接してくれるからか」
立花はあのライブで人生を大きく狂わせた人間だ。それを只野さんは知っている。
そしてあの日、ガングニールを訳も分からず起動させてからの事も。
それでも、この人は立花を一人の少女として受け入れ、心配し、支えようとしている。
自分の暮らしさえ危ないのにも関わらず、可能な限り私達へ配慮をしてくれる。
立花や雪音に自分など司令に頭を下げられる人間ではないと言ったらしいが、私はそうは思わない。
きっと司令も、そして立花と雪音もそう思っているはずだ。
「只野さん、この世界で立花が出会ったのが貴方で良かった」
立花は些か人を疑う事が苦手だ。そこへ付け込み、いかがわしい事をしようと思えば出来たはずだ。
にも関わらず、この人は良心と常識に従い立花へ忠告や注意を行った。
我々の個人的な事情なども知っていると明かしたのも、元をただせばこの世界が異常である事を伝えるのと同時に、立花の存在がこの世界で本来どれ程危険かを教えるためだったのだろうと今なら分かる。
出来るだけ静かに立ち上がり、鍵を手にして玄関へ向かうと外へ出て鍵を閉めた。
「……ここに来るのもあとどれだけか」
まだ私は半月にもならない生活だったが、正直楽しくもあった。
常に誰かがいて、しかも年上の異性がいるという状況。色々と思う事はあったが、少しだけ私の至らぬ点も改善された気がしている。
鍵をデニムのポケットへ入れ、私は部屋を後にした。
まずは駅へ向かおう。そこで念のために新聞やテレビのニュースを見ておくために。
だが、私の脳裏にはあの夜三人で戻った後の会話が色濃く残っていた。
「まさか、本当にあそこまで時間の流れが異なるとは……」
私が立花と雪音と共にここへ来て過ごした時間はけして短くはない。それなのに戻った時、向こうでは一週間どころか一日さえ経過していなかったのだ。
まず私達は司令へ只野さんの予想を報告し、そして今回の経過時間の差を告げたのだが……
――そうなると、やはり向こうに誰か一人装者を最低でも常駐させるべきか。幸か不幸かこちらと経過時間が大きく異なるなら一人いなくても対処は可能と言えるしな。
そうして私達は急いで戻る事にしたのだが、そこでエルフナインから忠告されたのだ。
――もし仮に只野さんと言う方の予想が当たっているのなら、必ず何らかの攻撃があるはずです。それも、その只野さんと言う方を狙って。
――ど、どういう事!?
――上位世界に存在していた僕らの物語が一斉に消えようとした。そんな中、只野さんだけが響さんと出会った事で戦姫絶唱シンフォギアという作品を忘れなかった。逆に言えば、その方の存在か記憶を消してしまえば……。
――あたしらそのものを消す事が出来る、ってか。
――はい。まず何があっても只野さんを守ってください。物理的にも精神的にも、です。もしかすれば今も静かに攻撃されているかもしれません。
あの時の立花は中々見た事のない表情をしていた。あれは、小日向に何かあった時ぐらいの顔だった。
それに気付いた私へ雪音が密かに耳打ちしてくれた。立花が只野さんへ恋心を抱いているかもしれない事を、だ。
言われて考えてみればそうと思える事が多々見られた。
コンビニでの勤務でシフトが重なる時は心なしか立花が嬉しそうにしていたし、帰ってきた時も嬉しそうに話題にしていた事が多かった。
炊事が苦手な私に代わり、雪音が勤務の時は立花が料理を作りながらも只野さんへ常に助言を求めていた。味見も只野さんへ頼んでいたしな。
「何より一番はあれか」
これは私しか聞いていない。だが、あの新居で過ごした初日の翌朝、立花は寝言で只野さんの名を呼んでいたのだ。
あれもそういう事だと思えば納得出来る。こう言っては何だが、立花の小日向離れが進んでいると言えるな。
「……恋、か」
思えばここに来てから私は生まれて初めての気持ちで過ごしている。
防人たらんとする必要もなく、歌女である必要もない。
こうして変装もせず街を歩け、サインも何も求められないというのは新鮮だ。
と、ふと足が止まる。視線の先には一軒のコンビニ。只野さんや立花達が勤める店だ。
「……少しだけ、私も只野さんと共に働いてみたいな」
立花はともかく雪音の話によると店員でありながら店長のような扱いを受けているらしい。
つまりあの人は信頼を寄せられる働きぶりと言う事だ。しかも深夜という中々大変な時間帯の要もしながら。
雪音や立花は年齢や学生を理由に断られたらしいが、私は学生ではないしじき二十歳だ。ならば深夜に働くのも不可能ではない。
「……動画配信は何も締切がある訳ではないし」
そうだ。もし只野さんが狙われるのなら勤務中も誰かが傍にいた方がいいのではないだろうか?
しかも深夜帯は私達も寝ている。そんな中、あの人は働いているのだ。そこを襲われでもしたら不味い。
「これは、相談してみる必要があるな」
結論を出して私はその場から動き出す。ふふっ、本当に現金なものだな、私も。
立花から色々と聞いても私は、只野さんの事をどうしても好意的に受け取る事は出来なかったのに。
それでも雪音さえ好意的な意見を述べたので直接会って判断しようと思い、初めて見た只野さんの印象は、まぁ素直に言えば冴えない男性だった。
物腰が柔らかいと言うよりは情けない感じもあり、年齢もあって正直どうかと思う部分もあった。
だが、それ故に立花と雪音は慕っていったのだと分かった。
あの人は強要をしない。強制もしない。まるで親のように二人を、今では私もだろうか。私達を優しく見守ってくれている。
異性というよりはどこか兄や叔父のように感じるぐらい、只野さんは大人であろうとしていると分かった。
資金に困っているのにも関わらず私達のためなら散財を厭わない決断力と行動力はまさにそれだ。
本人は男の見栄と言っているが、それが照れ隠しだと私は思っている。そう言う事で私達の罪悪感を弱めてくれているのだとも。
――こんな美人を三人連れて歩けるなら毎日九百円支払っても余裕でおつりがくるよ。
そんな事を言って笑う姿は無理して大人の男をしているようにしか見えなかったが、それ故に私は、いやきっと立花や雪音も彼を助けたいと思ったのだろう。
建て前だけではなく本音も告げ、弱い部分を隠す事なく見せているように感じさせつつ、本当に見せたくない部分は見せないようにする。
只野さんは叔父様や緒川さんとは違った意味で大人だと思う。あれでは立花が恋心を抱いても無理はないか。
「実際、そもそも私達の周囲は男性の影が少なすぎるからな」
特にリディアンは女子校だ。立花達は出会いそのものがないと言ってもいいだろう。
まぁ、私やマリアとてそれは同じなのだが……。
「……とにかく情報収集を終えたら新しい部屋へ戻ろう」
芸能界という華やかな世界に身を置きながら女子校通いの後輩達と同じような状況にどこか悲しさが漂ってきた気がして、私は速度を上げる。
今日もいい天気だ。帰ったら早速昨日使えるようになった洗濯機で洗濯でもするか。雪音も立花も寝ているだろうし、ここで私の成長を見せてやろう!
「で、こんな事したのかよ?」
クリスの目が若干呆れ気味に翼を見つめた。彼女の目の前には意気消沈する翼がいる。
「そ、その、だな? 私なりに」
「言い訳はいい。あたしはやったのかやってないのか聞いてんだよ先輩」
深くため息を吐いてクリスは翼を見る。その雰囲気は駄目な姉を叱る妹のようである。
「……私がやった」
実は下着を洗濯しようとした翼だったが、よりにもよってそのまま洗ってしまったのだ。
それで下着が一気に駄目になる訳ではないが、痛んでしまうのであまりオススメ出来ないのも事実。
実際、洗濯機が止まったので中を覗いたクリスが盛大なため息を吐いているのはそういう事だ。それでも、良かれと思ってやった翼のためにと怒りを抑えての現状となっていた。
「あのな先輩。こういうのをやってくれるのは助かるし嬉しい。でも、出来れば正しいやり方や方法でやってくれねーか? 下着は可能なら手洗いすんだよ」
「て、手洗い? だが、これまではたしか……」
「ああ、たしかにあの部屋の頃はまとめてコインランドリーだった。でもな? ひっそりとあいつが寝てる時とかに流しを使ってあたしが洗ってたんだよ」
「そうなのか。すまない。その、これまでは緒川さんがやってくれていたもので」
「翼さんの家事をやろうって気持ちは嬉しいですけど、今は共同生活なんですから色々聞いてくれていいですよ。まぁ、私も未来に頼ってるとこ多いんであまりお役に立てないかもしれませんけど」
「ま、そのバカが役立つかは置いといて、だ。とにかくそういうこった。その、助け合っていこうぜ」
「立花……雪音……」
しっかり者の次女と人懐っこい三女の心に触れて嬉しく思う長女。そんな表現がぴったりくる三人である。
新居は部屋の広さこそ狭いものの、洗濯機を置けるスペースが用意されていたりしてこれまでの部屋よりは三人の記憶にある暮らしにかなり近くなったと言える。
ただ、相変わらずテレビはない。これには理由がある。ズバリ仁志が不要と断言したのだ。
――下手にテレビのアンテナがあると集金に来る組織がある。悪いけど俺はテレビなんて一人暮らしになってから見ていないし、今更見たいとも思わない。
ネットで動画を見るか見たい物はレンタルや配信で済ませてきた彼にとって、テレビは必需品ではなかった。そのため、三人も特に見たいものがある訳ではなかったためテレビの購入は見送られたのである。
さて、次女に叱られた長女であったがそれでめげる程ヤワな心ではない。すぐに立ち直り、ならばと次は料理をしようとエプロンを手にしようとしたのだが、それはタッチの差で響に奪われてしまう。
「さてと、じゃあ、朝ごはんちゃちゃっと作りますね」
「ぁ……ああ……」
「頼む。あたしは洗濯物干してるから」
「あっ……」
やろうとする事を全て取られ、翼はどうしたものかと腕を組んだ。
(このままでは私の気が治まらない。何か、何かないだろうか?)
炊事は響に、洗濯はクリスに取られた。残るのは掃除だ。そう考えた翼はならばと掃除をしようとして、はたと気付いた。
「……さすがに食事前に埃を立てる訳にはいかないな」
良識はしっかりと持っている翼は何とか自分の暴走を止め、大人しくテーブルを拭くだけに留めるのだった。
やがて響作の簡単な朝食がテーブルに並ぶ。今朝はハムエッグにトースト、そして昨夜の野菜の残りを使ったコンソメスープである。
「「「いただきます」」」
仁志のいない食卓は、何故か少しだけ寂しさがあった。普段も彼が夜勤の時はそうなのだが、それでも部屋の中にいたというのがやはり大きいのだろう。
特に響は自分達が寝ていた四畳半の部屋へ目を向けて寂しそうな表情を浮かべていた。まだしばらく朝の時間にここへ来ない存在を幻視するかのように。
「そういや、先輩は今朝あっちに行ったんだろ? あいつはもう寝てたのか?」
「っ?! い、いや、起きていたぞ」
明らかに動揺した翼に響とクリスは疑問符を浮かべる。そして同時に確信するのだ。
((何かあったね(な)……))
(い、言えない。これはさすがに只野さんの名誉に関わる……)
かくして仁志のために口を閉ざそうとする翼と、それを何とかして割らせようとする響&クリス連合軍の戦いが勃発する。
「翼さん、只野さん、何してました?」
「っ?! ど、動画を見ていたな」
「動画?」
「あいつが動画、ねぇ。夜勤明けでんな事するなんて珍しいな。どんな動画だ?」
「っ!? そ、それは……すまないがタイトルまでは覚えていない」
どうやら勝負はあっさりと勝敗が着きそうである。それも、仁志のいない場所での公開処刑という形で。
(よし、上手く誤魔化したぞ)
((タイトルは……か。じゃあ、他は覚えてるんだ(な)))
何とか凌いだと思う翼と、むしろここからが攻め所だと感じて目付きを鋭くするクリスと響。
「なぁ先輩。タイトルは分からねーなら、何なら覚えてるんだ?」
「な、何も覚えてなど」
「あれれ~? 翼さん、自分の言った事忘れちゃったんですか? さっき、タイトルは、って言いましたよね?」
その瞬間翼が息を呑み、クリスと響の目が光る。
「大体妙なんだよなぁ。先輩もあいつが明けの日にさっさと寝る事は知ってるだろ?」
「そ、それはそうだが……」
「なのに、動画を見るなんて行動を見て、その動画の事を覚えてないなんてちょ~っとおかしくないですか?」
「そ、そうだろうか?」
「百歩譲ってタイトルは覚えてないにせよ、だ。どんな内容かは覚えてるんじゃねーか?」
「翼さん、教えてくださいよ。隠されると余計気になりますって」
チェックメイト。いや、翼相手だから詰みと言うところだろう。
こうして彼女は一言成人指定の内容だと告げて真っ赤な顔で食事を再開する。
ただ、その言葉で二人の少女は一瞬の間の後揃って真っ赤になってしまったが。
「なっなっなっ……」
「せ、成人指定って……ぁぅ」
「せ、先輩? マジでそうなのかよ?」
「……あまり言いたくはないがこれまで只野さんはそういう欲求を解消出来ない環境だった。その、どうやらそれを発散しようとしていたらしい」
「そ、そうか……」
真っ赤な翼に感化されたようにクリスも真っ赤な顔で俯いて食事を再開する。
「あ、あの、それって私のせい、ですよね?」
「そんな事はない。その、むしろ私のせいだ」
「先輩……」
「私が常に部屋にいるようになったからな。おそらくそれが決定打だったのだろう」
「いや、あたしらと一緒に暮らし出したのが一番でけーよ。その、こう言っちゃなんだけど、あたしらみたいな歳の女と一緒にいるんだ。スケベな気持ちが強くなっても仕方ねーよ」
「私達、知らない間に只野さんへ辛い事させてたんだ……」
赤面していたのも一変、今や沈んだ顔をする三人であった。
ただ、きっと仁志がこれを聞けば恥ずかしさと申し訳なさでのた打ち回ったであろう。
それでも、この事は今後も考えないといけない問題だと三人は思っていた。
何せあの部屋を借りているのは後半月程。その後はこの新居で彼も寝泊りをするのだ。
そうなった時、彼は性欲をどうするのか。また発散させるとして自分達はどうすればいいのか。そんな事を考え始めた。
(只野さんは男の人、だもん。仕方ないよね。で、でも、エッチな気持ちになってたのに私と寝るのを嫌がったって事は……わ、私の事を大事に思ってくれてるって事かな?)
(ったく、男が基本スケベな生き物だっての忘れてたぜ。おっさん達みたいなのが周囲にいるもんだから勘違いしてたな。……あ、あたしの目をしっかり見るようにしてんのもそういう事かよ……)
(私の下着を片付けてもいいと言った事があったが、あれは本音だったとそういう事か。それに以前など私を可愛いと評したし、も、もしかして只野さんは成人に近い私ならと、そう思っているのだろうか?)
嬉しそうに笑みを零して食べる響。複雑そうな表情で食べるクリス。難しい顔で食べる翼。そんな風に三者三様の様子で朝食は進む。
食べ終わると三人は後片付けを始め、それが終わると今度はトレーニングウェアへと着替えてその場で軽い柔軟を行い、それぞれタオルを手に部屋を出た。
「では、行くか」
「はい」
「おう」
引っ越すに際し周囲を散策した結果小さな公園を発見した彼女達は、引っ越しを機に毎朝訓練代わりにランニングをする事にしたのだ。
歩いて大体十分程の距離ではあるが、それは最短距離で向かった場合だ。まず彼女達は新居のアパートから仁志達が働くコンビニまで向かう。
そこを折り返し地点として三人はぐるりと一周するように新居のある方へ戻り、公園まで向かうのだ。
装者としての訓練はこの世界では出来ない。だが、仁志を狙って襲撃者が現れないとも言い切れない以上、最低限の事はしておこう。
そう決めた彼女達なりに始めたトレーニングがそれだった。しかし、どこかでそれを楽しんでいる自分達がいると彼女達は気付いていた。
(何だろうな。以前立花に付き合う形で叔父様や雪音としたものよりも軽いというのもあるが……)
(何て言うか、部活みてーだよな、これ)
(楽しいなぁ。体動かすのは嫌いじゃないけど、何だろう? 昔未来の自主練に付き合ってた頃を思い出すからかな?)
揃って笑みを浮かべながら無理のないペースで走り続ける三人。
その視界に、つい最近まで住んでいたアパートが見えてくる。
(あっ、アパートだ。只野さん、まだ寝てるかな?)
翼とクリスが普通に通り過ぎる中、一人響だけが仁志の部屋へ目を向けて走り抜ける。
その時、響の脳裏に朝食時の話が甦った。
「っ……」
頭の中に浮かんだのはいかがわしい動画をスケベな顔で見ている仁志。それがとても許せなくて、そして悲しくなったのだ。
(そ、そういう事したいならちゃんと彼女さんを作ってお願いするべきです! って、そ、そう言ったら只野さん、どうするんだろ?)
頬を赤くし、響は頭を左右に大きく振って視線を前へと戻す。知らず速度が落ちていたようで翼達と少しだけ距離が出来ていた。
「いけないいけない……っ!」
少しだけ速度を上げ、クリスの後ろへと迫る響だったが彼女は気付いていない。
先程の想像で抱いた気持ちは紛れもない嫉妬である事を。
そして、その相手に自分を選んで欲しいという欲求でもあると、まだ響は自覚する事が出来ないでいたのだ……。
「のさん……」
「ん……?」
体を揺さぶられて目をゆっくり開ける。視界に飛び込んでくるのは綺麗な青みがかった黒髪と美しい顔の女性。
「起きましたか?」
「……ああ、凄く良い目覚めだよ」
「そうですか。それなら良かったです」
そう言って優しく微笑む様は本当にため息を吐きたくなる程綺麗だ。
「大和撫子って、こんな感じなんだなぁ」
「はい?」
「いや、風鳴さんって本来は良いとこのお嬢様だからさ」
「……そんな事はありません、と言いたいですが、そうですね。たしかにそう取られてもおかしくない環境で育ちました」
困ったような風に笑う風鳴さんだけど、その表情には若干の影も見える。風鳴、か。それが彼女には一種の重石になってるんだろうな、やっぱり。
「それでは只野さん。起きたのなら布団を片付けますので出てください。私はそのまま掃除をします」
「いや、それぐらい俺が自分で」
「それと、相談したい事も出来ました。なのでまず顔を洗って目を覚ましてきてください」
有無を言わせない感じの風鳴さんに逆らえるはずもなく、俺はいそいそと布団から出て流しとへと向かった。
冷たい水で顔を洗って蛇口を締めると同時に差し出されるタオル。
「どうぞ」
「ありがとう」
タオルを受け取り顔を拭くと完全に目が覚めた。
「ふぅ……今何時?」
「一時……七分ですね」
「そっか」
どうやら本当に一時ちょうどでここへ来たらしい。こういうところは本当に几帳面というか真面目だな。
そのまま風鳴さんは部屋の掃除を始めたので、俺はその様子を流しから眺める事に。
コロコロを手にカーペットを綺麗にしていく姿を見ていると、本当に風鳴さんが彼女になったかのような錯覚を覚える。
というか、よく考えたらこれってエロい、かもしれない。こっちへ向けてお尻を突き出しているんだ。それも、それが細かに動く。
「……やばい」
下半身に血が集まり出したのを感じ取り、顔を上へ向ける。そこで今朝の事を思い出す。
あの時は本当に自分の失態を呪ったけど、不幸中の幸いは風鳴さんだったってとこだよなぁ。
もしあれが響なら俺は彼女の心に大きな傷を作ったかもしれないし、雪音さんなら当分口を利いてもらえなかったと思う。
そういう意味では風鳴さんは大人だしそういう事への耐性もある方、なんだと思う。実際、今もこうしてここへ来て俺を起こしてくれたぐらいだし。
「そうだ。風鳴さん、二人はどうしてるの?」
「立花は留守番をしています。雪音は夕食の買い物です。初任給が入った事もあり今夜は引っ越し祝いをしようと」
「そっか。引っ越し祝いかぁ」
「只野さんは勤務ですが、雪音と立花は休みです。今日を逃すとまた面倒なシフトだからと」
「成程ね。じゃ、六時ぐらいから?」
「そうなるかと」
雪音さんらしいな。でも、一体何をやるつもりなんだろ? おそらくそこまで高い物は出来ないはずだ。
でもお祝いと言うからには多少の贅沢さも出すだろうし……ダメだ想像出来ない。
「風鳴さんは何か聞いてる?」
「いえ、特には何も。ただ、楽しみにしていろとは言われました」
小さく苦笑する声に俺も笑みが浮かぶ。不敵に笑う雪音さんを想像したのだ。
「……よし、これでいいでしょう」
「ありがとう。お疲れ様」
コロコロの用紙を数枚使っての掃除は終わったようだ。新しい部屋はフローリングだからここより掃除は楽だけど、その分目立つだろうから考えものかもしれない。
掃除機、必要だよな、やっぱ。そういえば、本当に冷蔵庫や洗濯機は使えるようにしたのだろうか?
「風鳴さん、その、聞きたいんだけどさ」
「何でしょう?」
「もう洗濯機は使える?」
「ああ、その事ですか。はい、もう大丈夫です。昨日電気屋の方に来て頂き使えるようにしてもらいました。既に今朝私が使用し洗濯したんですよ」
「へぇ、そうなんだ。なら良かった」
持ってきたはいいけど配線などがあるので素人には無理だからなぁ。
「性能は折り紙つきですよ。何せ緒川さんに同行してもらいましたので」
「納得」
あの人なら抜かりなく色々と指示及び助言出来るだろう。で、きっと風鳴さんではなく雪音さんへ諸注意を行ったはずだ。
「本来は買った店の人間にやってもらうのがいいのですが、そういう訳にも行かないですから」
「まぁそうだよね」
「工事費などがかかってしまいましたが、本当に良かったのですか?」
「それぐらいなら構わないよ。俺も使う事になるしね」
全て買う事を考えればまったくもって安いものだ。
でも近未来でも家電が勝手に動いたりはしないんだなとがっかりしたのも事実。
まぁ、もしそうなら電気屋なんて呼べないけどさ。
「それで、相談をしても?」
「ああ、そうだったね。どうぞ」
「実は、今朝話した事に関連するのですが……」
風鳴さんの話は俺にはやはり現実味のないものだった。何せ姿のない悪意というものがどうやって俺に危害をと思うからだ。
でも、そういうのをアニメやゲームで見た事があるし、何だったら小さい頃から好きな特撮ならそれこそよくある話と言える。
だからって、風鳴さんを深夜勤務として店に入れるのは抵抗がある。何も色々とミスをしそうだからじゃない。単純に彼女はコンビニの、それも深夜に来るような客と相性が悪いと思うからだ。
「だ、ダメですか?」
「仕事内容だけで考えれば何も問題ないと思う。でも、深夜は少ないけど客も来る。で、そういう時間帯の客は総じて厄介な傾向が強いんだ」
「そ、それでも私は」
「酔っ払って君へいかがわしい事や言葉をかけても手を出さずにいられる?」
そう、そして俺には心配いらないような事が女性の風鳴さんには発生する事も。
「……それは、分かりません」
「まぁ今の時勢なら過剰じゃなければ問題ないと思うけど、それでも店やオーナーの事を考えると揉め事は避けたい。風鳴さんの気持ちは分かるし嬉しいけど、これは止めておいた方が良い」
「ううっ、そう、ですね。私は接客がそもそも向かない気がします」
「うーん……客層にもよるんじゃないかなぁ。例えば料亭とか老舗旅館とかなら似合そうだよ」
綺麗な着物を着て楚々と出迎える風鳴さん。うん、実に絵になる。
「そ、そうでしょうか?」
「そうそう。美人女将とか呼ばれて、時折お客さんに頼まれて歌を披露なんかして」
「ふふっ、そうですね。それは楽しそうです」
「小料理屋の女将なんかも似合そうだなぁ」
「りょ、料理は苦手ですが、将来像の一つとしては考えてみるのもいいかもしれません」
「きっと人気店になるよ。あの風鳴翼の店だもの」
「そうなったら、只野さんを雇ってあげましょうか?」
「そりゃあいい。家庭料理なら頑張って練習すれば出来るようになるしね」
「では、歌唱小料理屋にでもしましょうか。私が時々客の頼みで歌い、只野さんが一品料理などを作って、お客様はそれを食べながら、酒を飲みながら誰もが楽しく過ごす」
「うん、いいね。カウンターだけの小さな店で、壁にはきっとツヴァイウィングや風鳴翼の楽曲のジャケットが飾られて」
俺がそう言うと風鳴さんは目を閉じてその光景を想像したのか、柔らかな笑みを浮かべたままで息を吐いた。
「……いっそ、向こうでの活動を辞めた後はこちらでそんな風に暮らすのもいいかもしれません」
告げられた言葉はそれまでの楽しげなものとは違って何か諦めるようなものだった。
どうして急にそんな事をと、そう思っていると風鳴さんは微かに哀しげな表情で瞼をゆっくりと上げた。
「ご存じなのですよ、ね? お父様の事も……」
「……うん、娘を守って亡くなった事は」
もう、それだけで分かった。やはり風鳴八紘の、戸籍上の父であり精神的な父の死は風鳴翼にとって未だ癒える事のない傷である事が。
「向こうにいれば、嫌でも私はお父様の事を思い出します。それを乗り越えて強く生きていかなければならない。それがお父様の望みである事も分かっています。でも、でも……」
「風鳴さん……」
「ここで過ごしていると、私は風鳴の名から解放される。お父様のいない世界を忘れていられる。強くある事を止める事が出来る」
「それは……」
今にも泣きそうな声と顔。それがきっと今の風鳴翼の真実の表情なんだと、そう思った。
「もう泣き尽くしたはずなのに、もう乗り越えたはずなのに、ここでただの女として生きているとそれがただの強がりだと、思い込みだと分かってしまう。私は、私は、お父様を失った辛さに打ち勝てない……っ!」
「風鳴さん……」
俯いて肩を小さく震わせる風鳴さんを見て、俺は何てか弱い姿だろうと思った。
あのカラオケで見た時とは別人な程に、今の彼女は儚く脆い。それが本来の風鳴翼なのかと思うと胸が締め付けられる思いがした。
考えてみれば、彼女も青春時代を防人として過ごした人だ。望む望まずに関わらず、国を、世界を守るために力を手にさせられた存在だ。
「風鳴さん、いいんだよ泣いて」
「っく……只野さん……」
こちらへ顔を上げる風鳴さんは、もう涙でぐしゃぐしゃになっていた。多分だけどあの時は緊急事態というのもあって本当に泣き尽くす事が出来なかったんだろう。
「気の済むまで泣いてあげるといい。亡くなった人はそれを喜びこそすれ悲しまないさ。今も想ってくれている。そう感じ取って微笑んでくれるよ。平行世界でも見ただろ? 風鳴八紘は血の繋がりなんかじゃなく、心の繋がりで君を、風鳴翼を娘として想っている事を」
「っ! …………はい」
ボロボロと涙を流しながら風鳴さんは笑ってくれた。泣き笑いのそれは、いつかのカラオケで見た笑顔と同じぐらい俺の心を打つ。
「只野さん、その……胸をお借りしても? このままでは近所迷惑になってしまいそうですので」
「こんな貧相な男でよければどうぞ?」
「クスッ……今はその方がいいのです。お父様の胸も、そこまで逞しくありませんでしたから」
そう言って風鳴さんは俺の胸に顔を埋めてしばらく震えた。声を押し殺しながらの慟哭は、俺だけに響いた。
俺はまだ幸いにも両親を失っていない。だけど、もしそうなったとしても彼女のようには泣けないと思う。
それが良いとか悪いとかではないと思うけど、今の風鳴さんを見ていて俺は思うのだ。
風鳴八紘さんはきっと幸せだったのだろうと。こんなにも娘に思われ、慕われていたのだ。不器用な親子だったけど、そこの間にあった絆は本物だろうと思う。
「風鳴さん、これは俺の独り言なんだけど、君のお父さんは例え君がここで暮らすとしてもその決断を尊重すると思うよ。だって、あの人の一番の願いは君がその名の通り翼となって羽ばたける事だ。それが出来るのなら、どんな世界であろうとあの人はそれを後押ししたはずだ」
そっと風鳴さんの背中を擦って告げる。翼という名へ込めた想い。それをGXで知っている俺は、故人の想いを勝手に推測してそう言った。
すると、風鳴さんの手が俺の胸を二回叩いた。視線を下げると、そこには未だに胸へ顔を押し付けるようにしている風鳴さん。
「風鳴さん?」
少しだけこちらを見上げるように顔を上げる風鳴さんだけど、その表情はやや拗ねていた。
「……ズルいです。このタイミングでそんな事を言われたら、もっと泣きたくなるじゃありませんか」
「いいじゃないか。歳を取ると泣きたい時に泣けなくなるんだ。それが出来るって事はまだ若いって証拠さ」
「若いって……ふふっ、只野さんだって若いじゃないですか」
「あれ? 聞いてない? 俺、もうじき三十になるおっさんだよ?」
「十分若いです」
「いやいや、世間的にはもうおっさんだよ」
返ってくる声が少しだけ、ほんの少しだけ明るいものになった事に気付いて俺は安堵していた。
ただ、また胸に顔を埋めて笑われているのでくすぐったさはある。
だけど泣き止んだのなら離れてって今言うのも何だかな。それは風鳴さんを突き放すような気がするので言えない。
結局風鳴さんが自主的に離れてくれるまで俺はそうしていた。そこで見た風鳴さんは真っ赤に腫れた目をしていたけど、どこかとっても可愛く見えた。
「只野さん、今のは誰にも」
「勿論。墓までもってく」
「大袈裟ですね」
「むしろ教えろと言われたって言うものか。あの風鳴翼との二人だけの秘密なんだから」
「そ、そう言われると何だか恥ずかしくなります」
「どちらにせよ、良かったよ。今の風鳴さん、良い表情してる」
憑き物が落ちたと言うか、晴れ晴れとした笑顔だ。
「だとしたら、只野さんのトドメのおかげです。あそこで私の名前の事を出すなんて」
「ごめん。大切な思い出にずかずかと踏み込んで」
「あっ、いえっ! 責めている訳ではないんです! ……おかげで、大事な事を思い出せました。そして、少しだけ嬉しくなったのです」
「え?」
一旦顔を伏せたかと思うと、風鳴さんは満面の笑みを浮かべてこちらへ顔を向けてくれた。
「この世界にも、お父様の事を覚えていてくれる人がいるんだと、そう思って」
「……うん、忘れないよ。八紘さんの事も、風鳴さんの事も絶対に」
俺がそう返すと風鳴さんは嬉しそうに頷くと、そのまま口を開いて……
「翼と、そう呼んでください」
「え……?」
「お父様は名前なのに私は苗字というのは納得いきません。なので、名前で呼んでくれて構いませんので」
「えっと……いいの?」
「良いも悪いもありません。それに立花は名前で呼んでいるじゃないですか」
「それは、まぁ」
と、そんなこんなで風鳴さん改め翼と呼ぶ許可を頂きました。何というか、響が自分で練習と言ってくれたけど、それでもまだやはり女性を名前で呼ぶのは気恥ずかしいものがある。
ただ、翼って呼ぶのもいずれ慣れるんだろうな。そう思いながらその後俺は翼と一緒に部屋を出て新居へと向かった。
その道中、翼からはあのお店の話を振られた。どこに構えるのがいいかとか、席は何席にするかとか、そんなありもしない与太話を。
だから俺もそれに乗って色々と言った。翼は着物が絶対で、髪も結って上げる感じと告げると割烹着でもいいのではと言われたので迷ってしまった。
「あー、どちらも捨てがたいなぁ」
「ふふっ、只野さんのご希望の格好をしますよ?」
「艶やかな着物か、素朴な割烹着か。どっちも翼には似合そうだからなぁ」
「沢山悩んでください。時間は十分ありますから」
こちらへそう言って微笑みかける翼には、もう影のようなものは一切ないように見えた。
それも嬉しく思いつつ、俺はくだらないありもしない想像で思い悩む。
「翼はちなみにどっちが好み?」
「そうですね……ん?」
そう問いかけて翼の方へ顔を向けると、彼女はそれに答えようとして足を止めた。そして後ろを振り返ると首を傾げる。
「どうかした?」
「いえ、後ろで何か物音がしたような気がしたのですが……」
俺も言われて振り返るも誰もいない。
「気のせいじゃないか?」
「……かもしれません。少々神経質になっているのかも」
「気楽でいいよ。正直俺はまだ半信半疑だ。だって、その気ならすぐにでもノイズでも差し向ければいいんだから」
「そうかもしれませんがあまりそう言わないでください。言霊というのがあるんですよ?」
俺の言葉に苦笑しながら歩き出す翼。こうして俺は彼女と共に色々話しながら響の待つ部屋へと向かうのだった……。
仲良さそうに歩いていく仁志と翼。その後方の曲がり角で、一人の少女が隠れるようにしながら複雑な表情を浮かべていた。
「何であいつ、先輩を名前で呼んでんだよ……」
片手に買い物袋を下げ、クリスは先程見聞きした光景を思い浮かべる。
買い物帰りで前の方に見かけた仁志と翼へこっそりと近付いて驚かせてやろうと思い、彼女は出来る限り気配を殺して近付いて仁志の翼への問いかけを聞いたのだ。
その瞬間動揺し、手にしていた袋が音を立てたので慌てて横の路地へと隠れた。そして今に至っていた。
「……笑ってたな、先輩」
初めて聞いた仁志の翼呼びと、その後の親しげな翼の反応。
響と仁志ならまだ分かる。だが、クリスは知っていた。翼がそう簡単に人へ懐く事はないのを。
(何でだよ? 何で先輩があいつに名前呼びさせてんだ? あいつもあいつだ。慣れ慣れしく先輩を呼び捨てるんじゃねぇ。あたしの立場ってもんはどうなるんだよ? あたしは先輩程親しくないってか? あのバカみたいに可愛げがないってか?)
響は仁志に好意を寄せている事もあって名前呼びは分かる。きっと彼女から仁志へ言い出したのだろうと。
なのに、何故後から来た翼が名前呼びになっているのか。しかも翼はどうしてそれを嬉しそうに受け入れているのか。
二人の間にあった事を知らぬクリスにその過程が分かるはずもない。ただ、先程まで引っ越し祝いをしようと弾んでいた気持ちが沈んでいくのを覚えていた。
尊敬する先輩、あったかい場所へ引っ張ってくれた相手、そして兄や親戚のように思い出した男性。
彼らが少しだけ自分から遠くなったような感覚がして、クリスは無意識に袋の持ち手を握り締める。
――やっと面白く出来そうね……。
そんな彼女を頭上から黒いもやのようなものが静かに見つめていた……。
本当は寂しがり屋なクリスちゃん。その心の隙間を狙う怪しい影。
次回は別の装者も登場予定。