「至高の御方だけど浮気は良くないと思う」 作:abc
淡くそれでいて優しい色に彩られた世界が彼の目の前に広がっていた。
今見てるその光景が夢であることはすぐに理解できた。
何故なら幼い自分が目の前にいるからである。
アバターではない人間の頃の、小さな小さな子供の自分がそこにはあった。
最初に映し出されたのは彼の家族たちであった。
彼は現実世界でもそれなりに裕福な家庭に生まれた。五人兄弟の真ん中、次男であった。家族構成は父と母、兄と姉、妹と弟がいて家族関係も良好である。彼は兄と姉の背中を追い、妹と弟の目標になる、そんな風にして成長してきた。
彼にとって家族とは守るべき存在であり、同時に守ってもらう存在でもある。きっと自分が消えたことで、大変な騒ぎになっているであろうことは簡単に予想がつく。だから、帰らねば、帰って自分は生きているということを伝えなければ。
「父さん、母さん、姉ちゃん、兄ちゃん、弟、妹……みんな元気にしてるかな……」
次に映し出されたのは職場の同僚と友人の姿であった。
彼にとって仕事場は決して働くだけの場所ではない。頼れる上司がいて、気軽に話せる同僚がいて、やりがいのある仕事がある。それらを捨てるようにして無碍にすることはどうしても出来なかった。無断欠勤でクビになる運命だとしても一言礼を言ってクビになろうという心構えが彼にはある。
友人に関しては普通に心配を掛けていると思うので一声かけに行かねばならないと思っている。
「次の職場探さないとなあ……」
そして最後に映し出されたのは一人の少女と幼い自分が遊んでいる姿だった。
彼が幼い時に彼女と出会ったことが彼の運命を大きく変えるのだ。
今でも忘れない、初めて彼女と知り合ったのは小学校に入る前だった。偶然知り合いすぐに仲良くなった。それからは近くに住んでいるということもあり、ずっと一緒に成長してきた。そして彼の秘めていた思いは大人になってやっと通じることが出来た。
「…………」
そして夢の世界は消え、色あせた虚構の現実に帰る時が来る。
◆
目を覚ました瞬間、脳に黒いペンキを塗りたくられた様な不快感が襲ってくる。
不快感の理由は一目瞭然。彼が昨日の夜に自身の僕であるユリ・アルファに向けて劣情を催し、あまつさえそのような事を最後までしてしまったからである。思い返せば思い返すほどに罪悪感と嫌悪感が自分を責め立てる。
ユリは言った。悪いのは誘惑した自分の方であると。
彼は思う、だがそれは違うと。
誘惑に負けて手を出した自分が一番情けなく恥ずかしいのだ。
ベッドの横に目をやるとそこには既にユリの姿はなかった。今いるのはベッドに裸で寝ている自分一人だけである。その状況に彼は内心ほっとしていた。と言うのもこれからユリに対して、どう接していいか分からないからだ。
軽視はされていないとは思う。言い訳をするつもりはないが今回誘って来たのは彼の方ではなく、ユリ自身の方であったからだ。更に今回の事に負い目を感じる必要はないとも言っていた。
しかし、だからと言って元の関係に戻れるかと言えば微妙なところである。一度そういうことをしてしまうと、これから先どうしても意識してしまう。
「何やってるんだ……本当はこんなことしちゃいけないのに……あろうことか劣情に駆られてしまうなんて……」
現実世界に残してきた彼女を裏切ってしまった。彼にとってその事実は何よりも耐えがたい悩みとして心を苦しめる。
彼はただひたすらに苦悩する。
ベッドの中で丸まりながら考え込む彼の部屋にノックの音が響き渡る。
「ちょっと待ってて!今出るから」
急いで備え付けのクローゼットから、衣服を取り出し手早く着替える。そして気持ちを切り替えて行くことを決める。いつまでもウジウジはしていられない。着替え終わったところで入室の許可を出す。
「は、入って構わないよ」
「失礼します」
「ユ、ユリだったのか……」
そこには昨日一緒のベッドの上で事に及んだナザリックの戦闘メイドであるユリが立っていた。彼は昨日の情事を思い出してしまい、その白い肌を少しだけ朱に染める。恥ずかしいという気持ちと同時に、酒の勢いで襲ってしまった事を申し訳なく思い合わせる顔がなかった。
だがそれでも自室に招いた以上は会話をしなくてはならない。
先に口を開いたのは意外にも彼の方からであった。
「ユリ……昨日はごめん……その、酔った勢いでユリをあの……お、襲ってしまって……許して貰えるか分からないけど、本当にごめん」
頭を深く下げユリに謝罪の言葉を送る。
それに対してユリはいつも通りの落ち着いた口調で顔を上げるよう進言する。
「顔をお上げください。私はあなた様に対して感謝こそすれど怒ってはいません。昨日も言いましたがあなた様に負い目何てなに一つなく、何も悪くないのです。悪いのは無理やり迫った私であり、全ての罪は私にあります。だから昨日のあなた様は仕方がなく私との情事に及んだのです」
「でも……そんなの詭弁に過ぎないから……だから……」
「私が嫌な思いをしたというのは憶測にすぎません。大丈夫ですからどうか自分を責めないで下さい。ですが、もし、今回の出来事に自責の念を抱いてるというのであるならば…………」
そう言ってユリは後悔に悩む彼の手を握る。
「どうか私の前から……ナザリックからいなくならないでください」
「えっ?」
「私達にとって創造主である至高の御方こそ仕えるべき存在であり、ナザリックこそが全てなのです。どうかお隠れにならないようお願い致します」
「…………」
思わず沈黙してしまった彼の目が大きく見開かれる。
NPCの忠誠心の高さはこれまで嫌と言う程実感させられてきた。たまに不気味さを感じることもあった。だけど今ほどその事実に向き合わされたことはなかった。そしてその忠誠心は同時に危うさを秘めていることも……。
だから至高の一人としてここで言わなければ『イケない』気がした。
「……できる限りは残りたいと思うけど、でもずっといれるわけじゃないから……現実世界には未練が沢山あるし……それにいつかは帰らなければいけない場所だから。ごめん、でも、できるだけいるから、ね?」
「できる限りでは意味がないのです。永久に、永遠にお側にいさせてください」
「それは……ごめんなさい、約束できない、です……」
その言葉にユリは少しの間沈黙した後に一言「分かりました」と答え、それからは普通の業務に戻っていった。
彼は再び自分の為すべきことを心に刻む。
「……もう絶対に自分を見失ったりしない!」
次回「二人目」