文化祭の後編です。
それでは。
爽秋の夕陽が、辺りをオレンジ色に染め上げ始めた頃、お祭りみたいな校内の盛り上がりは一度落ち着きを見せ、各人が割り当てられた片付けに談笑しながら取り組んでいる。
片付けも程々に済ましてもらい、私は想い人との合流場所である屋上へと、疲労で重たい脚を何とか引き上げて、階段を一段一段ゆったりと昇る。幾何もなく、屋上へと出る扉の前に辿り着くと、私は二度か三度、深呼吸を繰り返してから、ドアノブを捻り回す。
屋上へと出れば、公立高校としては珍しく、何脚かのベンチとちょっとした家庭菜園のようなものが配置されている。周りを見渡せば、この場には幸いにも、目的の人物が一人だけ、ベンチに腰を預けて、遠くの住宅街を眺めて座っているのが見えた。
私が意を決してそろりと近づいていくと、あと数メートルといった所で、あなたは唐突にこちらへ振り向き、澄ました表情で見つめてくる。
「来たか、小咲」
「うん、待たせちゃってごめんね」
「待たせたのは、オレの方だろ」
澄ました表情を崩すことなく、樹君は私の視線を捉えてくる。もうその一言だけで、いくら鈍い私でも、この後に樹君から話されることが分かってしまう。
「か、片付けの方は、大丈夫?」
臆病な私はまだもう少し、本題には入りたくなくて、だいぶ逸れたようなことを言いつつ、人一人分空けて、樹君の左隣へ座る。
「大丈夫、他の皆に頼んできた」
「そ、そっか」
ほんの少し口角を上げて、樹君は何でもないように、一言で済ませてしまう。そりゃあそうか、これまでクラスのために頑張ってきた、委員長の樹君の頼みだもん。
「そう言う小咲の方は、大変だったな」
「へ、私?」
「ミスコン、出てたろ」
「あ、うん、そうだね……」
「感慨深かったよ、まさかあの小咲が、あんな人前に出るなんて……」
「そうかな……?」
「そうだよ、頑張ったな」
「いや、それほどでも……」
やめて、私の事、褒めたり、労ったりするの、やめて欲しい。あなたにそんなこと言われると、土壇場で踏み切ることのできなかった、こんなに意気地なしで情けない私が、どうしようもなく嬉しい気持ちになっちゃうから。
結局だんまりしてしまった私が、頭を下へ下へと俯かせていると、樹君がおもむろに口を開く。
「それでさ、小咲。今日呼んだのは――――」
「待って!!!」
いよいよ樹君からの答えが振りかかってくると感じた瞬間、私は自分でも驚くくらいの大きな声を出し、立ち上がって樹君の言葉を制止してしまう。口を挟まれた樹君も、さすがに目を点にしてこちらを見ている。
「ご、ごめんね……。でも、あなたから言われる前に最後……、最後だけでも、私から言わせてほしいことが……」
もうこれ以上引き戻せないところまできた私は、懇願するように樹君へ呼びかける。樹君の方も、こちらの思いを汲んでくれたのか、口を真一文字に閉じたまま、私へ向き合うように席を立つ。
「私ね、小っちゃい頃からずっとね、自分から誰かに、声かけたりとか、出来なかったの。だからかな、幼い頃の約束に、思いを馳せてばっかだったの」
幼少期に家族旅行で出かけた先の場所で、私はある男の子と何か重要な約束を交わし、『あなたは錠を、私は鍵を』と合言葉に、肌身離さずその鍵を持ち歩いた。今思えば、何かあればその事ばかり考えていた。
「そんな私の前に、樹君が現れたの。初めの頃、声をかけてきたあなたに、私は相槌を返すばかりで……。でも、あなたはこんな私と、一緒に話してくれて、色んな所に連れて行ってくれた」
私の脳裏には今でも鮮明に、店内へと一人で入ってきた樹君の姿が思い浮かぶ。
樹君は商品をさっと選び終えて、お手伝いを休憩して座っていた私の隣に腰かける。同年代でまだ小3なのにしっかりしているな、と最初は感心したものだ。それで、つい見つめてしまっているのが樹君にばれて、お互いに話すようになったっけ。
そんな始まりから、樹君は私にとって、いなくてはならない存在になっていった。あなたのお陰で、私は約束だけに縛られることなく、内気すぎな自分を少しづつ変えていくことができた。学校でも、それ以前より多くの友達ができたし、何より、樹君と過ごす穏やかな時間をいつだって楽しみにしてた。
「それからなの、少年なあなたに、想いを寄せていったのも。……高校でまた出会えて、一度は一条君に傾いたこの気持ちもいつしか、青年になったあなたに、すっかり奪われちゃった」
樹君から突然に別れを告げられた時は、頭が真っ白になってしまった。樹君が私の前から姿を消した後、もう本当に二度と会えないと悲しみに暮れる中、私は中学校で一条君と出会った。
そのまま一緒の高校に追いかけるように進み、一条君があの約束の男の子かもしれないという証拠が次々に出てきて、周りの女の子もどんどん現れて、今度こそ離さないようにしたいと思った矢先、樹君が再び私の前に現れた。
背が高く、声は低くて、はるかに大人びた雰囲気を醸し出す樹君だったけど、昔とちっとも変わらないところもあって。それが見える度、私はあの頃の気持ちがどんどんと甦って、私は再びあなたに恋をするようになった。
「今ではもう、あなたを考えない日なんて、ない。普段の澄ました表情も、さりげない気遣いも、昔のいたずらな笑顔も……、あなたの全部が、私の心を魔法のように溶かしてくるの」
樹君は本当に、不思議な人だ。まるで私よりも私を分かってるみたいに、いつも私が一番喜ぶこととか、ためになることをしてくれる。そんなことばっかりするから、私はすっかりあなただけを追いかけてしまう。
「……だけど、私は……、明香里さんのように、大人な女性で、あなたを導くような人じゃない……」
けれど、私の知らないずっと前から、樹君にも追いかけている人がいた。
初めてそれを知った時、樹君のフィルム越しにはそれまで、私はまるで助演女優のように映っていたと知って、樹君をそうさせた明香里さんへの激しい怒りと怨みを感じ、それを内に秘めたまま、夜も寝付けなかった。
ただそれは、今の自分ではとても明香里さんに敵わない失望と絶望を、既にいない明香里さんに、どうしようもなく当てつけているだけだった。
「それに……、私は、春のように、可愛らしくて、純粋素直で、真っ直ぐな力強さなんて、ない……!」
樹君を追いかけるのは、私だけに限ったことではない。
私の妹でもある春は、私に追いつけ追い越せといった感じで、ただひたすら純粋真っ直ぐに、樹君へとひた走っていく。明香里さんの話を聞いても、何も言えないままの私を置き去りにして、春は樹君と向き合っていた。
今日のミスコンだって、樹君に対する春の気持ちの強さを、これでもかと強烈に見せつけられた。
「でも、そうであっても……!私は、樹君のことが、大好きなの……!!樹君のことを、隣で、支えたいの……!たとえ私が、あなたにとって、そんな存在になれなくても、樹君には、もう遠くになんて、行ってほしく、ないの……」
樹君の事で、敵わないと思ってしまっている人物が、私には明々白々に二人も存在する。だとすれば、やはりこの場が、自分の我儘な気持ちを、樹君に受け止めてもらえる、最後のチャンス、なのかもしれない。
そう思うと、言葉にも躰にも、火傷しそうなくらい熱がこもって、私の王子様を正面でばっちり捉えているはずなのに、視界が歪みに歪んできて、その輪郭も覚束なくて、ついには零れ落ちてくるものを、必死で拭おうとすることしかできなくなる。
「…………小咲」
嗚咽を漏らし続けていた私がある程度落ち着くまで、どれくらい時間が経ったのだろう。口を閉じたままじっとしていた樹君が、静かな声で私の名前を呼ぶので、私はぐちゃぐちゃな面を上げる。
「ありがとう。オレの事を、これだけ想ってくれて」
樹君は澄ました表情を少し暗めに浮かべながら、それでも私の眼をしっかりと捉えていて、言葉を淡々と紡いでいく。
「オレにとっても、小咲は、ただの友達では言い表せない、特別な存在の内の一人なんだ。けれど、君の好意を受けて、小咲の存在というのが、引っかかったんだ」
特別な存在、と樹君の口から聞けるだけで、さっきまで泣き腫らしていたのに、初心な私は嬉しさを感じてしまう。目元を拭いながら、私は樹君の言葉に集中し直す。
「小咲が告白したあの夜の日も、オレは判別しきれなかった。友達と言うには、軽すぎるんだ。異性の女性とも……、改めて見えなかった。じゃあ小咲って、一体オレの何なんだと」
確かに友達と言うには、あまりに深くお互いを踏み込んでいる。一方、結果として異性には見られなかったことが分かり、私は中々にショックを受けるけれど、話は続いているので、引き続き耳を傾けていく。
「小学生の頃からの仲だからかな。小咲の事ばかり考えてみても、突き詰めていけば、そこには必ず、安心だとか、落ち着くだとか、そんな言葉に辿り着く」
安心感や落ち着く感じは、私も強く同意できる。樹君と一緒にいたり、見てもらえたりする時間は、常々そんなことを感じてきた。
「……小咲は、家族の中では、お姉ちゃんだよね」
「う、うん、そうだけど……」
突然に樹君から、二人の間では当然の事実として、前から認識しているはずの事が、確認のように尋ねられるので、私も戸惑い気味に答える。
「オレにとっては、導き出した小咲の存在って、妹のような存在なんだ」
「私が、妹、のような存在……?」
樹君の衝撃的に思えるような発言を聞いて、私は反射で首を傾げてしまうが、強ち全く頓珍漢なことでないように、私自身は感ぜざるを得ない。
「そうだ、と言っても、到底受け付けてくれなくていい。けれど、オレは小咲と過ごす、ゆっくりと包まれるような時間が気に入ってるし、君はおっちょこちょいだから、何かと気にかかってしまう」
私はこれまでずっとお姉ちゃんとして育ってきたので、他の誰かから、しかも頼りにする愛しの人から、妹だと言われれば、当惑の気持ちを隠すことはできない。
でも、樹君が私に向ける表情や言葉、樹君との出来事の数々が思い出される内に、樹君が兄で、私が妹という図式を仮定すれば、あらゆる事が説明できてしまう。
「そっか……、樹君にとって、私は妹みたい、なんだ」
「……ああ、これがオレの答えだ」
「そうなんだ……」
当の私自身が、私と樹君の関係性を当てはめるものとして、その答えに納得をしつつある。こうして樹君を想う気持ちの元まで辿れば、それはまるで兄を想う妹の気持ち、だったのかもしれない。
「今後、オレは小咲をそう位置づけるし、それを一切ぶらすつもりはない。小咲の力になれることは、必ず力になる。後はこの先、こんなオレとどう接していくかは、小咲次第だ」
依然として真剣な眼差しを崩さない樹君からは、きっぱりとその決意が私に伝えられる。樹君へあんだけ言っておいて、土壇場になると及び腰になってしまう私は、樹君から拒絶される結末さえ頭に浮かべていた。
だから、樹君が妹のように大切にしてくれるなら、私からすれば望外の結果なのである。
「……妹って言われて、驚いたけど……、こんな私でも、特別な一人として、そう思ってもらえて、遠く離れずにいてくれるなら、私はそれでも、凄く嬉しい」
私はまだ震える唇から、虚飾なんかじゃない、心からの気持ちが伝わるようにと、樹君へ言葉をゆっくり生み出していく。
「だからね、樹君さえ良ければ、これからも仲良くして欲しいの」
「……ああ、心得た」
「うん、またよろしくね、樹君」
「こちらこそ、よろしくな、小咲」
ここまでくると、私もようやく口角を上げて樹君と向かい合うことができて、私と対面する樹君も若干ではあるが、柔らかな表情を浮かべつつある。
辺りはすっかり黄昏時になって、今日という日を照らしていた太陽は、地平線の彼方へと消えかかっている。もう少しすれば、西の空から広がる夕焼けの赤さも失われていく。
「さあ!もうすぐでしょ?」
「そうか、そろそろだな」
「春が待ってるよ、行ってあげて」
「……そうだな、小咲は?」
「私は……もう少しここにいる」
「……分かった」
私が樹君の背中を押し出すように急かすと、樹君はしっかりとした足取りで、一度も振り向く事なく、扉の向こうへと行ってしまう。
立ってばかりの脚をようやく休めるように、私はベンチに再び腰かけ、樹君の座っていた場所を手でなぞりながら、この後の樹君と春の二人にエールを送る。
また太陽が顔を覗かせれば、これまでとは異なる日々が続いていく。十分に暗さが広まるまで、段々と赤から藍へと、空の色が映り変わるのを私は眺め通した。
見上げればそこには、暮色騒然の景色が一面に広がっていて、夜の暗さもあと数刻もすればじきにやってくるだろう。
体操着を着た生徒がぞろぞろと増えてきたグラウンドの中央では、学校祭実行委員の面々が最後の仕上げだと、後夜祭の一端を担うキャンプファイヤーの準備にいそいそと取り組んでいる。
人の高さを超すような井桁型の薪組みは、構造全体が燃え上がり大きな火柱を生み出し、後夜祭のみで扱うとすれば、デメリットである短時間利用すらメリットに変えるほどの魅力を生み出す。
委員の責任者であろう人物が、火のついたマッチを完成したそこへ投げ込むと、忽ち中から炎が現れて、空を目指すように燃え上がっていく。その過程を周りで取り囲む人達の間からは、すぐさま喚声が巻き起こる。
人混みを少し避けた所で眺めていたオレも、すっかり夜の暗さに包まれた中で燦然と映る火柱を見ながら、この後に始まるイベントの約束を取り付けてきた人物をじっと待つ。
「……樹先輩!!」
すると、背後から透き通る声で、目的の人物がオレに呼びかけるのが耳に入ってくる。オレは振り向いてみると、体操着で半袖姿の後ろに手を組んでいる春が、ちょうど教室の窓側から廊下側の間くらい離れた位置にいた。
「結構待たせちゃいました?」
「いや、そんなに待ってない」
「そうですか、良かったです」
ほんのり頬を赤らめながら、後ろに組んだ手をそのまま、春が照れくさそうに歩み寄ってきて、オレと隣立つ場所まで入ってくる。間もなく、向こうにいる委員の子達から、後夜祭の主目的とも言っていい、フォークダンスが始まるとの号令がかかってきた。
「それでは先輩……踊りましょうか」
「……そうだな」
顔を合わせてくる春に、オレは燃え盛る炎を見つめながら相槌を打つ。そして、二人並び歩いて、開始を待つ人だかりの中へ入っていく。周囲の男女からは完全に注目の的になったようで、視線を一身にオレらは集めているが、気にしても仕方ない。
「……また噂になっちゃいますね、これは」
「そうかもな、ミスの誰かさんが、大勢の前で指名したから」
「えへへ……すいません」
「反省する気ないだろ」
「流石にばれてますか」
ミスコンでたくさんの視線に囲まれたばかりだからか、春もオレと同様に視線を意に介することなく、ただ嬉しそうに照れ笑いを浮かべてばかりでいる。
ミスコンを勝ち抜いた春は、大盛り上がりを見せる観客からの惜しみない拍手と、両手で抱えないといけない程のトロフィーとともに、毎年恒例らしい優勝賞品を手にした。
その本賞品こそ、『後夜祭のフォークダンスにて一緒に踊る男性を指名できる券』、というものだった。
いよいよ校内放送を通して、ミュージックがスタートする。踊り始めた周りの人達に遅れを取らないよう、オレは春のすぐ後ろへと回り、差し出してきたその色白で、か細い両の手を握る。一体この手には、どれだけの力が込められているのだろうか。
「先輩、踊り上手ですね」
「向こうの学校でも、こんなことあったから」
「そうなんですか……」
オレは、手を握ってから大人しくなり始めた春をリードするように、手足を用いて音楽にしっかりとリズムを合わせていく。初めてらしい春も、上手いことオレについてきてくれる。
「……樹先輩、ありがとうございます」
すると突然に、踊り始めてから前だけ見て顔を隠し通していた春が、真っ赤にした耳元は見せたままお礼を述べてくる。
「決勝の前に、風ちゃんから、聞きました。服、似合ってたって。あれで、頑張って勇気出せました」
「そうか……」
どうやら、春の決勝での思い切りの良さを、関わるつもりでなかったオレは、間接的とはいえアシストしてしまったようだ。
「それに、こちらから指名したとは言え、こうして踊りに付き合ってくれて、私、とても嬉しいです」
ここにきて、春はついぞこちらに顔を振り向かせ、眩しくて花が咲いたような笑みを見せてくれる。オレはその表情に見入ってしまい、危うくリズムを崩しかけた。それを見た春はクスクス笑い、今度は自分でオレをそのまま引っ張っていこうとする。
「……ほんと、よくあんな大勢を前に、公開告白みたいなのできたな」
「……いいじゃないですか。言ってやりたかったんです」
「さすが、ウェディングドレス姿で出てきただけあるな」
「うっ、あれは、ちょっと、今でも恥ずかしいです……」
至らない所を見られてどことなく悔しさを感じていたオレは、勢いに乗っていく春を再び赤面させるのに成功し、その気持ちを沈めて満足した気持ちを得る。春も覚悟してあの服装で来たのだから、一言くらいは感想を言ってあげなければ。
「けれど、あの姿の春は、素晴らしかったよ」
「……本当ですか?」
「ああ、とびきりな」
「そう、ですか、えへへ……」
顔を前に戻してしまったものの、春はまた嬉しそうにして、喜びの声をささやかに上げる。目に映る春の整えられたうなじが、あどけない少女に潜む女性らしさを感じさせて、オレは顔の見えない彼女の浮かべる表情を想像してしまう。
心なしか、春がオレの手を握る強さは、どんどん増してきている気がする。また改めて、春のこの小さな体には、どれだけの想いと力強さが込められているのだろうかと、オレは思案してしまう。
「春、この後少し、時間大丈夫?」
「大丈夫ですけど……、どうしてですか?」
これだけひたむきで真っ直ぐな春に、ここまで色々と示され続けては、いよいよオレも腹をくくるべき時が来たのかもしれない。
「春に、伝えたいことが、あるんだ」
不思議そうに顔を覗かせる春に、珍しく緊張してしまうオレは、その理由を喉の奥から送りだす。
辺りでは陽気なミュージックが絶え間なく流れ続け、仲睦まじそうな男女の組同士がそれぞれのフォークダンスを楽しんでいる。この文化祭の長い一日にも、もう直に終わりが近づいてきていた。
キャンプファイヤーなどで盛り上がった後夜祭にも終わりが告げられ、お祭りみたいな一日を名残惜しむように、校内の生徒達は次々と各々の家路を目指していく。
明かりのついた教室も段々とその数を減らしていく中、私は樹先輩に従い、暗がりに包まれる中庭を突き抜けて、電灯がまばらについた渡り廊下の自動販売機の前まで来ている。樹先輩は100円玉を二枚入れて、同じボタンを二回続けて押す。
「はい、優勝おめでとう、春」
「あ、ありがとうございます!」
樹先輩は取り出した内の一つを、私に遠慮なく差し出してくる。私のお気に入りの、紙パックの抹茶ラテだ。奢ってくれた先輩の厚意に痛み入りながら、私はありがたくそれを受け取る。
「樹先輩も、すっかり気に入ってくれましたか?」
「……ああ、そうだな」
「ふふふ、嬉しいです」
お互いに乾杯をした後、ストローをくわえて抹茶ラテを飲む樹先輩を私は眺めながら、夜の学校に二人きりでこうして、先輩と一緒の時間を過ごせて喜びを感じる。一方で、わざわざここに来た本当の理由を、私は早く教えてほしくなってしまう。
「そしたら、春、もう感づいてるだろうけれど」
「……はい、何となくは」
ストローから口を離し、凛々しく綺麗な顔立ちの樹先輩が、こちらへ振り向いて目を合わせてくる。
「春からの告白、の返事をこれからするんだが」
「はい」
心臓の鼓動がどくどくと体を強く打ちつけ始めるのを感じつつ、私はとうとうこの時が来たと身構えてしまう。
「その前に、聞きたいことがあるんだ」
「……あ、はい、何でしょう?」
そのまま本題へ入っていくと思った矢先、樹先輩から唐突に尋ねられるので、緊張で身を固めてしまった私は肩透かしを食う。けど、このおかげで気持ち少し、体の固さが解れたような気がする。
「春はさ、どうして、明香里の話をし終えた後、堪らなく好きとか言えたの?」
「え?」
「……あんな話したら、小咲みたいに呆気に取られるか、それこそ気味悪がられると思ってた。だから、知りたい、どうしてか」
私が想像もしない質問に素っ頓狂な反応を返す一方で、樹先輩はさも真剣そうに、ブライトグリーンに輝く瞳とともに私へ投げかけてくる。
「だって……、凄い、じゃないですか。ただ一人の人を、ずっと想い続けたなんて」
明香里さんの話をしていた樹先輩が、私の頭の隅々から思い出される。あの時の樹先輩は、悲しそうで辛そうだったけれど、時折嬉しそうに幸せそうな表情も浮かべていた。そんな樹先輩を見ていて、私もひどく胸を痛めた覚えがある。
「確かに、年こそ離れてますが、誠実で、真摯な樹先輩だから、そこまで想えた訳で……。私からすれば、そういう意味で、より信頼できるし、それに……」
明香里さんはバツイチの人で、明日花ちゃんというお子さんもいた。当時の樹先輩は、今の私より年下だ。そんな二人の関係は、世間一般で見れば、歪に見えるかもしれない。
けど、それは偶々、想いあったお互いが少し年の差があっただけで、二人を結んだ絆は、一般の人同士とも変わらない、むしろそれ以上のものであったはずだ。
「可愛い所だなって、素直で一途な人だなと思えて……。ってすみません、男の人に可愛い、とか言っちゃって」
イメージとしては、飼い主の帰りを大人しく待つお犬さんが浮かぶ。失言をしてしまったかもしれないと私は、横に流していた目線を慌てて樹先輩へと戻す。
「いやいい、ありがとう、答えてくれて」
樹先輩は右の手のひらを盾にしながら、視線どころか顔まで横にして、中庭の方へと向いてしまっている。耳元も赤いように感じる。もしかして、先輩の照れる仕草、見つけちゃったかも。
「オレは……、物心ついたその日から、明香里という人を、追いかけ続けてきた」
顔だけでなく体もそちらへ向けた樹先輩は、穏やかな低い声を普段より落として中庭の遠くを見やる。その瞳の見つめる先には一体、誰を探しているんだろうか。
「ずっと、ずっとだ。ふとすれば、明香里の何かが、頭に過ぎる。気づけば、明香里が感じられる何かに、触れている。無意識のうちに、明香里の振りを、している」
言葉を紡いでいく樹先輩に、切なさを覚えた私は何も言えないで、知佳さんのお家で写真越しに見た、明香里さんを頭に思い浮かべる。
「まるで悪夢だと、思うこともある。いくら他人の事がみえても、明香里のいない世界で、明香里の棲んだオレの心は、暗闇に覆われた。あの人になろうと、そればかりに囚われた」
お姉ちゃんの言ってた気の張った感じも、知佳さんの言ってた背伸びした感じも、きっと今の樹先輩の言葉で全て説明がいく。私は一度、明香里さんという人に、会って話をしてみたかった。
「けれど、こっちに戻ってから、一筋の光が差した」
すると、先程までの悲しみの伴った雰囲気から、樹先輩の表情はまさに光が差し込んできたように、前向きなものへと移り変わっていく。
「その光は、昔のオレに似た、一人の少女だった。若く瑞々しく、素直で活発で、色んな感情を目覚めさせて……、まだ芽を出してばかりの、若草のような子だ。……もちろん、春の事だよ」
表情を柔らかくしていく樹先輩は、瞳の奥を微かに揺らしたと思えば、改めてこちらへと向き直る。
先輩の事はいつだってかっこいいと思ってるけど、暗がりの中から自販機や電灯の光で浮かび上がる先輩は、一種の美しさを兼ね備えていて、私はすっかり魅入ってしまう。
「春は、オレの持たない物を持っている。それは、力強さとも言えるし、眩い輝きとも言える。君といれば、新しい自分を、見つけられる気がするんだ」
樹先輩の方こそ、私にはない物を多く持っている。初めて会った時から、先輩は私にとって王子様であり、尊敬と憧れの対象だ。先輩と一緒にいるおかげで、私は私の知らなかった自分自身をたくさん発見できた。
「それに、ころころと表情を変える春は、傍で見て楽しいし飽きない。花が咲く春の笑顔は、太陽みたいに眩しい。春と一緒に飲む抹茶ラテは、こんなにも美味しい」
私の視界は既にぼやけてしまっているけど、温かく愛しそうに語る樹先輩を、何としてもこの目に焼き付けておきたくて、溢れてくるものをこらえきれないながら必死に見つめる。
「……長くなった。待たせてばかりで申し訳ない。告白の返事は、イエスだ、春。こんなオレでも、隣にいて――――」
言葉の続きを待ち切ることができずに、想いを通り越して身体が動き出してしまった私は、そのまま樹先輩の胸元へと飛び込んでしまう。先輩は驚いたようにしながら、頼りがいのある身体で私の事をしっかり抱きとめてくれる。
「うぐっ……うえっ……あり、がとう、ございます、先輩……!!」
伝えたいことは山ほどあるはずなのに、嗚咽の止まらない私は、自分を選んでくれた事への感謝を一言と、樹先輩の背中に回した両腕に目一杯力を込めることしかできない。先輩は左手を私の背中に、右手は私の頭の上に触れて、優しく宥めるように撫でてくれる。
私を覆う体操着からは樹先輩の香りが色濃く漂ってきて、先輩への愛しさを押しとどめることなどできずに、私はさらに先輩を強く強く抱きしめてしまう。先輩はそれを嫌がらずに、むしろ先輩の方も力強く私の事を引き寄せてくれる。
私が泣き止むのをしばらく待ってから、改めて泣き腫らした目で樹先輩を見上げると、先輩は穏やかな表情と微笑みを浮かべて私を見つめ返している。明かりのついた教室も、気づけば既に一つすら残ってない。
「……樹」
「え?」
「これから、そう呼んでほしい」
「……分かりました、い、樹……」
「もう一回」
「……樹」
「うん、よろしい」
先輩は私を抱きとめた両手を離したと思えば、今度はその大きな右手で、私の左手をそっと包んできた。私は先輩をこれから呼び捨てにすることに、喜びと戸惑いを同時に抱えながら、先輩の手のひらの暖かさと頼もしさに身を預ける。
こんなに幸せな気持ちに、なっていいんだろうか。
「遅くなったし、家まで送るよ、春」
「はい!一緒に、帰りましょう、樹」
夜の闇に覆われた中庭の道を、私達は隣並んで歩き出す。樹にとって私が光であるように、私にとっても王子様のあなたは、私を照らし出してくれる光そのものだ。
この夜が明ければ、希望に満ち溢れた新しい日々が始まる。そのことに大きな期待を寄せながら、今はこの手を固く繋いでいる幸せと喜びを嚙み締めて、私は樹に自分の身体をくっつけるように寄り添った。
第二十七話『コクハク』をご一読下さり、ありがとうございます。
感想や評価等、お待ちしております。
もう数話ほど続くかもです。
それでは、また次のお話で。