第二十八話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。
予定では、残すところあと四話です。
それでは。
文化祭の週間は過ぎ去り、日曜と振替休日の月曜を挟み、十月へと入った火曜からまた、学校では通常授業が始まる。先週末のお祭り気分から打って変わり、何気ない日常の生活が戻ってくることに、安堵する者よりも気だるげに思う者が多いに違いない。
私もその内の一人となるはずだったが、実際そんなことはなくて、今日の登校には高校入学以来、最もワクワクしてフワフワするような出来事が待っている。
待ち合わせの場所と時間を改めて確認し、私は一人で作ったお弁当を通学鞄に入れ、お母さん達に行ってきますの挨拶をした後、玄関を開けて勢い良く外に出る。
朝の陽気が明るく商店街を照らし出しており、吹いてくる風は涼しさを感じさせるので、カーディガンを羽織ってきて正解だと私は独りでに頷く。
しばらく歩いていくと、商店街の通りの終着点まであと少しの所で、柱に背もたれするようにして、本を片手に読書している想い人が佇んでいた。私は駆け足気味にその人の下へと向かっていく。私の足音が聞こえたんだろうか、あなたは本のページに栞を挟み、こちらに穏やかな笑顔を浮かべて振り向く。
「先輩!おはようございます!」
「ああ、おはよう、春」
「お待たせ、しちゃいました?」
「う~ん、少し?」
「すいません……」
「時間通りだし、謝ることない」
「そうですか……?」
「そう、オレが楽しみで早く来たんだし」
リュックサックに本をしまい込んで、柔らかな表情に微笑みを浮かべる樹を、私はこんな幸せあって良いんだろうかと、頬を抓りながらウットリと見つめてしまう。本当は約束の時間より早く来ようとしたけど、何せ二人待ち合わせて学校に行くなんて初めてなものだから、色々と支度準備に時間がかかり過ぎた。
「そしたら、行こうか」
「え、あ、はい!」
ぼんやりとしていた私の目を覚ますように、樹が学校の方へと歩き出そうとするので、遅れないように私は急いで先輩の右隣に張り付く。
気づけば、樹が左で私が右にいるのが、私達二人の中で暗黙の了解になっている気がする。何だか樹と二人並ぶ時は、あなたの右側にいないと私はもう落ち着かなくなってしまう。
「い、樹は、いつから待ってたんですか?」
「そうだな、30分前、くらいかな」
「なるほど、じゃあ私は明日――――」
「いや、いい、定刻通りでいい」
「そ、そうですか……」
そんなに早くから来ていたんだったら、その分もう少し一緒にいれたと思えば、少し勿体なくて残念だ。けど、これで明日私がさらに早い時間で来たら、樹に小言を言われそうだし、明日は15分前くらいには頑張って準備しよう。
翌日の自分にリマインドするよう頭にメモした私は、背丈が一回り大きくて、綺麗で端正な横顔を見せる樹を、バレないように盗み見る。相変わらず歩く速度は、私のそれにさり気なく合してくれる。すると、樹の所在ない右手が目に映り、私はある衝動に駆られてしまう。
「どうした、春」
「あ、いや、違うんです、これは」
衝動のままに動いてしまった私は、自分の左手で樹の右手に触ってしまい、慌てて弁解を試みようとする。樹は最初不思議そうな顔を浮かべたと思えば、直ぐに少し口角を上げ、その大きな右の手のひらで、私の小さな左手を包み込む。
「学校の近くまで、いいな?」
「は、はい……」
私も随分と大胆な方だと自負してるが、樹だって大概である。学校に着くまでにそんな事され続ければ、私の心臓はオーバーヒートを起こしてしまうかもしれない。
もう一度、空いている右手で自分の頬を抓る。うん、大丈夫、ちゃんと現実世界だ。樹の手のひらは、頼もしく、暖かくて、安心する。
「今日の授業は、どう?」
「そうですね……、あ、二限に体育があります」
「いいじゃん、何するの?」
「女子は、またサッカーです」
「グラウンドで?」
「はい、グラウンドで」
「春が活躍するの、窓の側から見ておくよ」
「そ、そこまで期待される程じゃないですよ!」
「ははっ、悪い悪い」
「もう、困ります。ふふっ」
こんな日常の何気ない会話で、私達は可笑しくなってつい笑ってしまう。あなたとこうして朝の時間を一緒に過ごせることが、未だに信じられないくらいに、とても素晴らしく、こんなにも喜ばしい。
グラウンドに出たら、樹のいる教室に向けて、また前みたいに大げさに手を振ってみようかな。そしたら、きっと窓際に席を構えるあなたは、微笑んでささやかに手を振り返してくれるのだろう。
また一つ、樹との楽しみが増えたことを嚙み締めながら、ほの暖かな日光が降り注ぐ学校までの道なりを、私達は二人並んでのんびりと隣歩いていった。
授業の終了を告げるチャイム音が、眠りこけた教室を貫くように甲高く鳴り響く。
体育の疲れもあって、ウトウトと机におでこをくっつけそうになっていた私は、おかげでぱっちりと目を覚ます。待ちに待った、お昼の時間がやってきた。
「行ってらっしゃーい、春」
「うん!また後でね、風ちゃん!」
事情をよく知る風ちゃんに一言告げてから、私は急ぐように朝作ってきた自分用のお弁当を持って、先輩との待ち合わせ場所である中庭のベンチまで一目散に向かう。
廊下で屯する人達の間を縫うようにかき分けていき、陽の光が元気よく照らす中庭まで出ると、すかさず樹の姿があるかどうか確認する。
いくつかあるベンチを見ても、まだ樹はここに来ていないようだ。やった、今度は私の方が早い。樹よりも一足先に着いて待つ番になった私は、適当に空いているベンチへと上機嫌に腰掛ける。
まだかな、樹まだかな。次々と往来していく生徒達を眺めながら、私は鼻歌まじりに先輩の到着を待つ。そして、数分経った後、感心したように樹が自分のお弁当箱を持ちながら、私の座るベンチへと歩み寄ってきた。
「早かったな、春」
「チャイム鳴って、すぐ来ました!」
「急ぎ過ぎても良くないぞ、怪我するかもしれないから」
「こけたりしませんよ、もう」
急ぎ過ぎたら私がドジを犯すとでも思っている樹に、私は頬を膨らませながら口を尖らせる。私だって高校生なのだから、余計な心配しなくても、そんなおっちょこちょいなんて犯しません。じとりとした目をして、私は先輩を見上げてみる。
「悪かったよ、お昼食べよう」
「分かればいいんですよ」
少し申し訳ないように言いながら、私の左隣に大人しく座る樹に、私は腕組みをして大げさに胸を張る。樹とのこうしたやり取りも実に楽しくて、私はまた気分を良くした。
樹からの提案で、今日からお昼の時間も二人きりだ。七月の初め辺りからこれまで、学校の昼休みは三人でいたけど、ここにお姉ちゃんの姿はない。お弁当だって、お姉ちゃんの作ってくれるおにぎりもない。
そんな事を思えば、弁当箱を包んでいた袋の結び目を解いた私は、朝からこれまでの全ての幸運を手放しでは喜べなくなって、あとは蓋を開けるだけの弁当箱を持ったまま固まってしまう。
「食べないの、春?」
隣では訝しげにこちらを見ながら、樹が弁当箱を既に開けて箸を持ち、いつでもいただきますをする態勢になっている。先輩のお弁当箱は、私よりもやや大きくて四角く、ご飯とおかずが丁度半分に仕切られていた。
「……何でもないですよ!さあ、食べましょう!」
「……そうだな」
きっと私が少し逡巡してた理由にも、樹なら気づいてしまっているに違いない。けど、その彼がお姉ちゃんの名前を出さないのは、私の事を気遣ってくれているからだろうか。それとも、お姉ちゃんにどこか申し訳ない気持ちがあるからだろうか。
私達は二人で手を合わせていただきますをし、お互いの弁当にありつく。私と樹はお互いのおかずを何度か交換しながら、その度に味の感想を伝え合う。
私の作ったおかずを樹は理由も込めて褒めてくれるので、私は作ってきた甲斐があったと頬を綻ばせる。樹の作ったおかずも美味しいと感想を伝えれば、樹は「よかった」と安心したように表情を柔らかくするので、私はそんな先輩に口元を綻ばせる。
樹とのこのような時間が、私達の関係の続く限り、この先も何度だってやってくると思えば、今こうしている時間にも満たされていくような気持ちに、さらに温かみと明るさが加わってくるみたいで、私はとても幸せに包まれた気分になる。
でも、新しく得た物と引き換えにして失った物に、後ろ髪を引かれてしまうような、何か心残りが色濃く残っているような気持ちが私にはあって、どこかモヤモヤと霧がかったままな部分も連れてきてしまう。
隣で私の作った自信作の卵焼きを、樹は美味しそうに頬張ってくれる。せっかく二人でいられるこの長閑な時間に、こんな事を尋ねてみてもいいんだろうか。
「小咲の事が、気にかかる?」
「ふえ?」
卵焼きの残りを口に運ぶ前に、樹が表情も何も変えず唐突に言うので、私は驚いて腑抜けたような返事をしてしまう。
「確かに三人の時も、あれはあれで良かったよな」
「そう、ですよね……」
朝に私が台所でおかずの盛り付けをしている所で、お姉ちゃんが真剣そうにおにぎりを握っていた様子が脳裏に浮かぶ。料理が壊滅的なお姉ちゃんが、それでも出来そうな事に頑張って取り組んでいたのを、誰より私は知っている。
「けれど、関係が変わるって、こういう事も含めてだ」
一度箸に持っていた卵焼きを弁当箱の空いたスペースに置いて、樹が表情を普段の凛としたものにしてきっぱりと言う。
「それに、二人で弁当食べるよう言ったの、小咲だし」
「え、お姉ちゃんが、そう言ったんですか?!」
「ああ、わざわざ電話まで寄越して、『二人で食べなよ~』って」
実は今日からの二人でのお昼休みは、お姉ちゃんが提案していた事だと知って、私はたらいを頭にぶつけたような衝撃を受ける。
「だから、有難く、この時間を過ごさないとな。オレらのためにも、小咲のためにも」
そう言った樹は置いてある卵焼きを、再び箸でさっと掴んで口に運び、またモグモグとお昼の続きに入っていく。
もし私が逆の立場であったら、お姉ちゃんのような気遣いを自分から出来たのだろうか。やっぱり、お姉ちゃんはいつだって、お人好しでいながら、尊敬できるお姉ちゃんだ。私は樹の事はもとより、お姉ちゃんの事も大好きなのだと、改めて感じた。
心の中でお姉ちゃんにありがとうと感謝しながら、まだまだ未熟者な私に活を入れるよう、私は自分の両頬をパチンと叩いて樹の目を丸くさせた後、その隙に樹の弁当からプチトマトを奪ってそのまま口に放り込んだ。
文化祭明け初めてだった本日の授業も普段通りに平然と過ぎ去り、飼育係の仕事も済ませた私は、通学鞄を持って昇降口までやって来る。さすがにこの時間ともなると、廊下や下駄箱にもあまり人の姿が見えない。
そんな事を思いながら靴を履き替えていると、階段の方から聞き馴染んだ声が私の名前を呼ぶのを耳にして、咄嗟に私はその方向へ振り向く。その人物はほっとした表情を浮かべて、小走りでこちらに近づいてくる。
「……お姉ちゃんも、これから帰り?」
「そうだよ、一緒に帰ろう」
「……うん」
そういえば、お姉ちゃんも委員の仕事があったんだっけ。よりにもよって今日、お姉ちゃんと二人きりでお家に帰るとは思ってもみなかった。面食らった私は戸惑いながら、何だか気まずいような気持ちも出てきて、控えめな返事をしてしまう。
やがて急いで靴を履き替え終えたお姉ちゃんと、並ぶようにして校門の方へと向かっていく。グラウンドや体育館からは、文化祭期間の休みを挟んで再開した部活動が、いつも以上に張り切って声を出し合っている。
学校からも出て、行く人の数もまばらになった住宅街の道を歩いていく内に、だんまりとしていたお姉ちゃんがようやく口を開く。
「春、朝はちゃんと樹君と待ち合わせた?」
「う、うん、先輩待たせちゃったけど……」
「ふふふ、樹君、待ち合わせとか早いから」
面白そうにニコニコと笑みを浮かべるお姉ちゃんに対して、私はどんな表情をして返せばよいのか分からず、しどろもどろになってしまう。
「お昼はどうだった?一緒に食べれた?」
「うん、お昼も、二人で食べれた」
「楽しかった?」
「そう、だね、楽しかったよ」
「よかった」
質問攻めにしてくるお姉ちゃんに、私は顔をなるべく見られないように俯きながら答えてしまう。よかったとは、何がよかったのだろうか。私はこのままではいけないと思い立ち、今度は自分からお姉ちゃんに尋ねてみる。
「お姉ちゃん!お昼の事、なんだけど」
「どうしたの?」
「今日、先輩と二人きりで食べるよう、お姉ちゃんが提案したんだって、聞いたよ。どうして、そんな提案できたの?」
「そうだなぁ……、せっかく二人がそういう仲になったんだし、二人でいられた方がいいでしょ?」
お姉ちゃんに目を合わせて尋ねてみると、お姉ちゃんは少しだけ困ったような笑みを貼り付けて、優しいお姉ちゃんらしいもっともな理由で返してくる。
「それに、私は春と違って、樹君とはクラスも同じだし、一緒の教室にいるのだから、それでいいんだよ」
今度はまたにっこりとした柔和な表情をして、お姉ちゃんがしっとりとそう述べる。私はそんなお姉ちゃんを見て、二の句が告げられなくなってしまう。
「もしかして、春。私の事、心配してくれてる?」
「え」
すると、顔を若干俯かせて地面ばかり見ていた私に、いつの間にやらお姉ちゃんが近づいてきていて、ずいっと私にその整った可愛い顔を覗かせてくる。
「大丈夫だよ、私は。そりゃあ、自分の描いてた通りじゃないけど……」
お姉ちゃんは柔らかな表情を崩さないまま視線を落として、驚き固まる私につらつらと語りだしてくれる。
「樹君や春の姿や、これまでの私を改めて振り返ると、納得してきちゃってね。今、というか、これから、二人とはそんな関係でもいいかなあって」
「そ、そうなの……?」
「そう、心配なんてしなくていいんだよ、春」
文化祭を終えて家に帰ってからすぐ一緒にお風呂に入った、あの夜のお姉ちゃんを私は思い出す。私の前に屋上で話したという樹とのやり取りを、たびたび笑いながら、でも目元が腫れた跡が残ったまま話すお姉ちゃんが、私にはぼんやりと映った。
「私の心配するより、樹君を見てあげて。樹君に一番近いのは、春なんだから」
瞳を潤ませてばかりな私が、途切れ途切れになりながら樹との話をし終えた後の、嬉しそうに喜んでくれたお姉ちゃんの姿が脳裏に過ぎる。お姉ちゃんは、いつだって私のお姉ちゃんでいてくれる。
「……分かった、先輩の事、しっかり支える……」
「うん、ちゃんとしてないと、私がまた樹君に迫っちゃうよ」
「え、えぇえぇえ?!」
樹みたいな悪戯な笑みを浮かべて、お姉ちゃんは決意を新たにする私を脅かすような事を口走るので、私は泡を食ったように驚きの声を上げてしまう。
「ふふふ、冗談。頑張りなよ、春」
呆気にとられた私を置いて、お姉ちゃんは楽しそうに笑いながら、道の先へと行ってしまう。やがて、お姉ちゃんはくるりと振り向き、放心したままの私に急かすような事を言って呼びかけてくる。
そんなお姉ちゃんは、仲秋の夕景に流れ込んでくる鮮やかな茜色で染め上げられ、より一段とその美しさを増したような気がした。
第二十八話『オフタリ』をご一読下さり、ありがとうございます。
感想や評価等、お待ちしております。
それでは、また次のお話で。