それでは。
食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋。様々な形容をされる秋の季節も、間もなく月の変わり目を迎えて、次の季節へとバトンタッチしようとしている。
昨日の夜中から雨が強弱を変えながら降り続け、窓にはたくさんの雨粒がくっついて、重力に身を任せて地面へと向かっていく。そうして地に辿り着いた彼らは、先に土やコンクリートの心地を堪能する仲間に合流し、共に水たまりを作り上げている。
ソファに腰かけて薄いカーテン越しに外の様子を眺めるオレは、昼下がりも過ぎた時間にそんなくだらない事を考えつつ、段々と激しさを増す風雨に一抹の不安を覚える。そこで、最近目を通していない天気予報を確認しようと、テーブルの上にあるリモコンへと手を伸ばしていく。
「樹、すみません。この問題、ちょっと分かんなくて……」
「お兄さん!この漢字の読み方、教えて!」
すると、まるでシンクロでもしてるのかとツッコミたくなるくらい、テーブルにしがみついて背を向けていたはずのお嬢様方二人が、ほとんど同じタイミングでそれぞれの教科書を片手に尋ねてきた。
オレはリモコンに伸ばしかけた腕を引っ込め、オレから見て右手前にいる春を、若干早かったであろうと思い呼び寄せる。春が嬉しそうに右隣へ腰かける一方で、左隣にはブーブーと文句を垂れつつ恨めし気に見つめてくる明日花が左隣に位置取ってくる。
彼此こんな事が逆の場合も交えながら、何時間か繰り返し何度か続いている。同時に聞かれても、順番待ちで不満な顔をされるのも、困るのはこちらなのだが、如何せん彼女達が尋ねる瞬間は被ってしまうのだ。
今日は十月最後の土曜日で、明日からは十一月初めの日曜日が待っている。
近頃はどうもイベントが多かったためか、前回の中間テストで危機感を覚えたらしい、いや実際に点数が中々危なかった春が、勉強しましょうと熱心に誘ってきたことが発端であった。
「へえ、こう解けばいいんですね!ありがとうございます、樹!」
「どういたしまして」
春はうんうんと悩んでいた様子から、霧が晴れたように明るい笑顔をオレに向けてくる。彼女の右手には、この前の修学旅行でお土産として買ってきた、小粒の苺玉付きのいかにも和のテイストなシャープペンシルが握られている。
早速使ってくれているようで、こちらとしてはほっとするし嬉しさが湧いてくるが、途端に逆サイドで待たせている明日花の視線を感じて、すぐさま明日花の方へと身を移す。
すっかりお冠だった明日花も、自分の順番が回ってきたのを受けて、いつものような溌溂な表情を浮かべていく。知佳さんがどうやら土日は地方へ仕事に出かけてしまったので、春と二人の勉強会は明日花も交えて三人で午前中から続いている。
明日花に漢字の読み方を教え終わり、二人がまたテーブルと睨めっこを始めたのを見届けた後に、オレも側に置いていた理科の教科書を手に取る。
理科に関しては、他の科目と比べてみると、出来がさほど良くない。この前の中間でも理科が足を引っ張り、総合で桐崎さんに二点差で負けたがために、ジュースをおごる羽目になった。
特に理科の範囲で挙げるならば、化学の電極を使った実験の話とか、生物の体内環境の話とかが、どうにも理解しづらくて覚えきれない。これでは医者には向いてないだろう。文系志望だから、それほど気にすることでもないかもしれないが。
前回授業でやったページがどこだったか思い返しながら、オレは教科書越しから真剣に机に向かって勉強している春と明日花の二人の姿を眺める。
すると、ふとあの頃の、明香里と明日花と三人で過ごしていた頃の、何でもない休日の風景が思い起こされてくる。
元気にお絵描きをする明日花、スクールの課題に追われるオレ、それを後ろのソファから雑誌片手に眺める明香里。明日花のいる場所は変わらなくて、今の春の位置にオレが、オレの位置には明香里がいた。
あの時のあなたは一体どんな気持ちで、まだ幼いオレ達を眺めていたんだろう。それは全く異なるかもしれないが、海辺にゆっくりと波が流れ着いてくるような、この穏やかな気持ちは、あなたも少なからず感じていたのだろうか。
今、熱心に問題を解こうとする春をオレが向ける視線と、あの頃、頭を悩ませながら課題に取り組むオレをあなたが向ける視線は、きっと似たようなものに違いないとオレは勝手に推し量ってしまう。
気づけばオレは教科書のページをめくらずに、春の華奢な後ろ姿をまじまじと見つめてしまっている。普段はまだまだ少女であどけない所が垣間見える春だが、時折驚くくらい肝が据わっている事もあったり、こちらがどきりとするくらい可憐な表情を見せたりもする。
春とのこの関係も一か月が過ぎたが、彼女と会って一緒に時を過ごす度に、全く新しいことが見つかったり、これまであまり気にかけなかった事が気になったり、普段の日常の一コマでも愛しさが感じられたり、そういった事が格段に増えてきた。
春の首元の女性らしさを感じさせる、よく整えられたうなじが目に入り込んでくる。衝動からついついそれに触れてしまいたくなる手を、これ以上は歯止めが利かなくなると無理矢理に教科書に強く掴ませる。
流石に熱が入り過ぎだと、一度明日花の方にも目を向けて心を沈めてから、オレは再び教科書中の目的とするページを目指す。ぱらぱらとめくった先でようやく、前回の授業内容だった天候の話に辿り着く。
天候の範囲については、理科の授業の中でも気に入っている箇所だ。雲のでき方とか、季節ごとの気圧配置とかは覚えていても楽しいと思えるし、不思議と頭に入ってくる。
そういえば、彼女達に尋ねられる前に、自分がしようとしていた事をここで思い出し、オレはリモコンを手に取って急いでテレビの電源をつける。今はちょうど時刻の変わり目なので、BS辺りで天気予報をやっているに違いない。
「現在、太平洋沖を北上していた台風22号は、間もなく関東地方に上陸する見込みで……」
非常に落ち着きのある声で情報を伝えていく女性アナウンサーとは異なり、オレは驚きのあまり開いた口が塞がらない。
どうりで雨や風が強くなってきたなと思ったら、そういうことかと頭で理解する一方で、同じくニュースを聞いて驚きの声を上げる二人、特に春に視線を移す。
「春、お家に帰らなくて大丈夫か?」
「そうですね……、まさか台風来てるなんて……」
天気予報見てなかった、と残念そうに呟く春を見て、いきなりこの時間の終わりを告げられた名残惜しさが感じられて、オレも胸にざわつきを覚える。
「春お姉ちゃん、帰っちゃうの?」
「そう、だな。今の内に帰っておくのがいい」
「えぇ~~そんな~……」
乗り気ではないのにそんな言葉を吐く自分に苛立ちを感じる一方で、明日花は心底残念だという表情をして、帰り支度を始めようとする春をどうにか引き留めにかかる。春は春で困ったような笑みを浮かべて、明日花を宥めようとしている。
オレも春に行かないでくれと言えるなら、春はどんな表情を見せてくれるのだろうか。けれど、明日花みたいに自分の我儘を押し付けられるほどもう幼くはないし、それに責任を全て背負えるほどの大人でも残念ながらない自分は、その一言を押しとどめてしまう。
そうやってまだまだ未熟な自分に腹立たしさを抱いると、春のスマートフォンから着信音が、静かになった空間に鳴り響く。春の声の様子から、どうやら電話の送り主は菜々子さんのようだ。春を家まで送るのに、オレは上着を取りに行こうとする。
「え、ちょっ?!そんな、お母さん!!」
すると、春が随分と慌てた様子で声を上ずらせたと思えば、スマホを片耳から外して所在なさげに、頬を赤らめて申し訳なそうな表情で、リビングを出ていこうとするオレに顔を覗かせてくる。
「い、樹、すみません、大変申し上げにくいんですが……」
そんな春の様子を見て、菜々子さんが春に伝えた内容と、これから春にお願いされるだろうことに、オレは半ば諦めの念と呆れたような視線を向ける。
けれど、内心では巻き起こり始める喜びを押さえつけて、何とか言葉を紡ぎだそうと一生懸命な春を、オレは微笑ましく見守り始めた。
「おい、明日花。走行中にバナナを捨てるな」
「わーい当たった!春お姉ちゃん今だよ!」
「ごめんなさい!樹!」
「ちょ、春まで、甲羅をぶつけてくるな」
台風が上陸したらしい屋外では、今も激しく雨や風にさらされている一方で、私は子供から大人まで幅広い人気を誇るレースゲームにて、明日花ちゃんとともに樹へ情け容赦のないアイテムの嵐をぶつけている。
レースの結果は明日花ちゃんが一位で、私が四位。私達の攻撃の後もCPUからの被害を受けた樹は、最後も後ろから無敵状態のCPUに撥ね飛ばされながら十位でゴールした。
「いえーい!また一番だ!」
「明日花ちゃん、凄い速いね。樹は……、ドンマイです」
「一体何故だ、どうしてこうも、事故に巻き込まれる」
右隣に座る明日花ちゃんが連戦連勝でご機嫌なのに比べて、困惑したように行き場のない思いを吐露している左隣の樹を、私は何とか宥めようとする。こんなことが何やかんやで夕食を食べた後、小一時間続いている。
台風が来るという天気予報を目にして、私はひどく残念に思いながら樹のお家を後にしようとしていたが、お母さんからの電話の一言で状況は急転してしまった。
――――あんた、今日はそのまま泊っていきなさい。
それだけ伝えたら高笑いを残して、お母さんは電話を切ってしまったものだから、私はやれやれといった感じでこちらを伺う最愛の人に頼らざるを得なくなった。
私は忍びなく思いつつ、けど実際は踊りだしそうな心臓を抑え、樹にお願いしてみると、彼も明日花ちゃんも快く私の頼みを受け入れてくれた。お陰で急遽お泊まり会のような形で、こうして三人でゲームに興じることができている。
「悪い、そろそろ抜ける」
「あ、いつものやつか。了解、お兄さん」
「いつものやつ?」
時刻は21時をもう少しで迎える辺りだろうか。ゲームをやめてここから立ち去ろうとする樹を、明日花ちゃんの言ってたいつものやつが気になる私は呼び止めてしまう。
「バイト。前いた学校にいる留学生の後輩達のメンターみたいな」
「え、凄いじゃないですか!?」
「いや、勉強教えたり、相談事を聞いたりしてるだけだよ」
「へえ~!!ビデオ越しにやるんですか?」
「ああ、今日は一時間と少しで終わるかな。先に寝てていいから」
樹はそれだけ言ってリビングから出ていって、自分の部屋へ向かおうと階段を昇っていく音が遠ざかっていく。私は自分の事だけでなく他の誰かの面倒を見る樹に感心しながら、改めて私と明日花ちゃんに付き合わせてしまった事を申し訳なく感じてしまう。
「大丈夫だよ、春お姉ちゃん。お兄さん、いつもあんな感じだから」
「そ、そうかな?」
「うん!そうなの!」
私の心を読んだかのように、明日花ちゃんはルビーの瞳を輝かせて、花の咲いたような笑顔を私に向けてくれる。樹と普段この時間を共にしている明日花ちゃんが言うのだから、私もその言葉を信じることにする。
「そうだ!そしたら一緒に、お風呂入ろ!春お姉ちゃん」
「うん、そうしよっか」
「行こ行こ!」
この時間でもまだまだ元気満々な明日花ちゃんに手を引かれて、私は普段振り回されているであろう樹の姿を思い浮かべつつ、遅れないようについていく。
そして、私はある重大な一つの事実に気づいてしまう。こんなことになると思ってなかったから、着替えの用意も無いや、どうしよう。
すると、脱衣所まで辿り着くと、書置きの紙切れと一緒に、上下の揃ったパジャマ用のワンピースが置いてある。
――――悪い、こういうのしか無かった。
樹らしい流れるような綺麗な字を見て、いつの間に用意したんだろうと私は不思議に思いながら、愛しの王子様の心遣いに深く感謝の思いを抱く。
明日花ちゃんのちょっかいや水鉄砲遊びに付き合わされつつ、三十分以上浴槽でじっくり身体を火照らせてから、のぼせ上ってしまう前にお風呂を後にする。
そして、バスタオルで念入りに身体を拭き終えてから、樹の用意してくれた服に袖を通してみる。サイズがちょっと大きいように思える。見た感じ着た感じ新品のようなので、樹のお母さんが着ていなかった服なのかな。
こうして女の子用の服を用意してくれて嬉しいのだけれど、もう少しわがままな事を言っていいのなら、男物でも樹の着ていた服が良かったなとも思ってしまう。
私はまだ熱が冷めきってないみたいの頭に、髪の毛を乾かすついでにドライヤーをCOLDにする。
「春お姉ちゃん!私の髪乾かしてー!」
「うん、いいよ」
こちらに勢い良く駆け寄ってくる明日花ちゃんの頼みに応じて、私は自分の前に明日花ちゃんを座らせ、ドライヤーを片手に明日花ちゃんの髪に触れる。
初めて会った時よりは、少し髪が伸びただろうか。こうして明日花ちゃんの世話をしていると、本当にお姉ちゃんになったような気分になる。
「ありがとう、春お姉ちゃん」
不思議にそんな事をうっすら考えていると、こちらに背を向けて表情が分からない明日花ちゃんから、樹みたいに落ち着きのある静かな声が聞こえてくる。
「お兄さん、お母さんと暮らしてた時からね、私の事良くしてくれるんだ」
お母さん、という単語が聞こえてきて、私は思わず明日花ちゃんの髪を手を止めてしまう。明日花ちゃんはそのままの調子で言葉を続けていく。
「お母さんと一緒のお兄さんは、何だかいつも幸せそうにしてた。私もそんな二人といれて幸せだったんだ」
あの一枚の写真越しに加えて樹から聞かされただけの明香里さんの姿と、その傍らに佇む樹がどんな表情を浮かべていたのかを、私は足りない頭で想像してみる。
きっと今だって、これからだって、樹は明香里さんの事を忘れない。その際に私は樹に、何をしてあげられるのだろうか。
「けど、その時以来なの、お兄さんが誰かといてあんなに幸せそうなの。きっと、春お姉ちゃんのおかげだよ」
悩み始めてしまいそうな私に、明日花ちゃんは明るい調子で教えてくれる。自分だけじゃない、明日花ちゃんから見た樹がそう見えるなら、私は樹にとってそういう存在になれているのだと感じられて、私は涙腺が緩むのを頑張ってこらえようとする。
「だからね、これからもお兄さんをよろしくね、春さん」
名前呼びが変わったことを気にも留めないで、私はドライヤーを放り出して明日花ちゃんを後ろから抱きしめてしまう。明日花ちゃんはびくりと驚いていたけれど、回された私の腕にすぐにそっと触れる。
「……任せて。樹も、明日花ちゃんも、一緒に幸せでいてほしいから」
「うん、ありがとう」
抱きしめる強さを増していく私を、包み込むように受け止めてくれる明日花ちゃんは、小学生には似つかわしくない大人の雰囲気を感じさせる。明香里さんはこれ以上もっと大人な女性だったと思えば、私はまだまだ子供だなと勝手に反省してしまう。
抱きしめた腕を解いてから、私と明日花ちゃんは二人で樹を待つことにしようと決めて、二人で隣寄り添ってバラエティー番組を楽しむ。
時刻が23時を迎える前に、ようやく樹がタオルで濡れた髪を拭きながらリビングへと入ってくる。
「あれ、二人とも起きてたんだ」
「はい、樹の事、待ってました。ね、明日花ちゃん」
「そうだよ!ねー春さん」
「……そっか、けどそろそろ寝ないとな」
私達がこれまで以上に仲良くする様子を見て、樹は思うところがある表情を浮かべたと思えば、少し口角を上げてこちらを見つめ、お休みの時間だと伝えてくる。
「お兄さん、その事なんだけど」
「どうした、明日花」
「今日、三人で一緒に寝たいなあ、なんて」
「……何だって?」
「そ、そうだよ!?何言ってんのさ、明日花ちゃん!」
「えーー、二人は一緒に寝たくないの?ね、春さん?」
明日花ちゃんがとんでもない発言をしたと思えば、今度は悪戯っ子のような笑みを浮かべて私に詰め寄ってくる。あたふたと手をあれこれ動かす私の視界に、こちらの返答を気にしている樹が飛び込んできてしまう。
「そ、そう、だね、もし、樹さえ、よろしければ……」
「だってさ、お兄さん?」
私は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなる一方で、樹に判断を任せてしまうようなズルいことをしてしまい、申し訳ない気持ちも湧き上がってくる。けれど、どこか期待を寄せるように、樹の返答を心待ちにしてしまう。
「……分かったよ、一緒でいい」
「わーーい!じゃあ歯磨きしよーっと」
明日花ちゃんは元気よく洗面台へと向かい、私と樹を二人きりにして置いていってしまう。私と樹は一言も言葉を発せないまま、お互いに明日花ちゃんと同じように就寝準備をしてから、樹の部屋まで明日花ちゃんに手を引かれてしまう。
樹の部屋に入るのはこれが初めてではないけれど、これまでとは全く違う状況で樹の存在を強く意識しちゃって、自然と緊張感が出てきてしまい、身体はどうしてか固まったままだ。
私は右で樹が左で明日花ちゃんを挟むようにして、三人で川の字になってベッドに寝そべる。すると、さっきまで溌溂としていたはずの明日花ちゃんが、途端にあくびをしたかと思えば、そのまま目を瞑り、あっという間に寝息を立て始めてしまうではないか。この間、僅か3分である。
どうすんの、どうしよう、どうしてくれんのさ。
三人で話している内に、この異常なまでの鼓動の速さとか、固まった身体を解そうと思っていたのに。ついつい私は、明日花ちゃんに恨めし気な視線を向けてしまう。
「自由気ままだろ、この子。困らせて悪いな」
すると、反対側で横になっている樹先輩が、明日花ちゃんの頬をツンツンと突き、穏やかな口調で声をかけてくれる。不思議だ、樹のそんな声を聞いただけで、雲が流れていくようにあれだけの緊張がどこかへ消えていく。
「そんなことも、ないですよ。私の方こそ、今日は樹を、たくさん困らせちゃいました」
「ああ、困ったよ。でも、こんな日もいいんじゃないかな」
「そう、ですね……」
すっかり深い眠りについてしまった明日花ちゃんの頭を優しく撫でると、樹は微笑みをたたえて、そのブライトグリーンの瞳を私に合してくる。
ああ、やっぱり、そうやって樹に見つめられるのが、私は大変気に入っているようだ。ドーパミンがどっと溢れ出してくるようで、私はあなたへの愛しさを押しとどめられなくなりそうになる。
気づけば、私は知らず知らずの内に、樹へ自分の左手を差し出していたようで、樹は何も言わずにただ私の手を、大きくて頼りになる右手で包み込んでくれる。
「樹は……、明香里さんとも、こんなことありました?」
「……ああ、何度かはな」
「私とも、こんなこと、これからも出来ますかね?」
「出来るよ、何度だって」
そうやって樹は私の大好きな表情を浮かべたまま、私との繋がりを離さないようにしっかりと固く結んでくれる。きっと笑顔を返しているだろう私も、どこかへ行ってしまわないように樹の手のひらを強く握り返す。
雨風の音も段々と静かになっていく中、横になり目を瞑る樹の向こうには、マホガニー材のアコースティックギターが壁に立てかけてある。
まだまだ至らないところばかりで、樹を困らせてばかりの私ですが、それでもあなたがいつも、前を向いてられるよう、幸せにいてくれるよう、あなたの隣に寄り添って生きていきます。
そう決意を左手の先の先まで強く込めながら、私は意識を夢の世界へと手放していった。
第三十話『オトマリ』をご一読下さり、ありがとうございます。
感想や評価等、お待ちしております。
次回で最終回です。
それでは、また次のお話で。