小関麗奈が上り詰める話01
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リップで滑らかに光る唇からこぼれる息は、転んでもケガをしないようにと敷き詰められたタイルカーペットに色彩としての遊びが感じられないことから来るものだった。壁がダークブラウンのシックな木材をメインとしているのだからそれに合わせて床材を決めたほうがよかったのではとも思うのだが、なんだかんだともう見慣れてしまっているこの光景が愛おしくもあり、また同時に全的に肯定できない部分を持ってもいるのが彼女には少しだけ面白いようだった。
とくに何の用事もない階の廊下をふらふらと歩いているのは、なにか自身の興味を引くものはないかというわがままな探求心ゆえのことだ。何かが見つかればそれで良し、何も見つからなければそれはそれでまあ良し、という愉快な考えとついでにゴキゲンな鼻歌とともに彼女は歩いていた。しかし本人曰く鋭すぎて未来予知と変わらないかも、などという評価を与えられているセンサーによると、この廊下でじきに面白いものが見つかるのだという。
瞬間、わずかに空気が震えた。彼女以外には動くものも音を発するものもないため、いま彼女は外的な変化に対してこれ以上なく鋭敏だ。もうすぐ目に見える変化が訪れることを察して、作り物のように大きくて綺麗な目がいっそう開かれる。ほとんど同時に曲がり角の先のレッスンルームの扉が勢いよく開いた音がして、直後によくよく見慣れた人物が姿を見せた。しかし様子は見慣れたものとは似ても似つかない。すくなくとも全力ダッシュでエレベータではなく階段を目指すような姿となると想像すらしたことないと言い切っていい。それも女の子を小脇に抱えた上でとなればなおさらだ。
「……わーお、職場で誘拐?」
せっかくだから何をしているのか話を聞いてみたかったが、一瞬のうちに駆け抜けて行ってしまったために彼女はひとりでぽつりと呟くことしかできなかった。それでもどこかに気に入った要素を認めたのか、次の瞬間には機嫌良さそうに顔をほころばせて再び鼻歌を歌い始めていた。
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「木場さんっ! いますか木場さん!」
「……だいぶ混乱しているようだが?」
息は切れ切れ、汗はだくだくの見るに堪えない姿でドアをノックもなしに叩き開けて乗り込んできた男に対して、木場さん、と呼ばれた女性は目を大きくしただけで実に冷静に対応した。彼女がいるのはDルーム、と名付けられた実質的には彼女のための作業ルームである。男が問答無用でドアを叩き開けることができた理由もそこにある。
飲もうとして持ち上げていたカップをもう一度口元まで持っていって傾け、ふう、とひとつ息をつく。その仕草からは余裕がありありと見て取れる。もしかすると人が駆け込んでくるというのが日常化しているのかもしれない。
「そろそろ! 下ろしなさいッ! あとなんでもいいから言及しろッ!」
「だそうだが?」
男に抱えられながらじたばたと暴れていた少女は、ようやくその両足を床に下ろして安堵のため息を零した。下ろされたあとに少女は男から二言三言ほど聞いて、それ以降は口を開かなかった。一方で抱えられながらさんざん暴れたせいか、長い髪は端にいくほどぼさぼさになり、着衣も変な方向によじれている部分が見られる。着てて気持ち悪いのだろう、少女はいそいそと服の乱れを整えていく。
少女が服装を直しているあいだに “木場さん” は男に視線をちらと送ったが、彼は視線を合わせて頷くだけで何も言わない。ただコーヒーの香りだけが、唯一の刺激として部屋の中に残った。
わずかにあって身だしなみを整え終えた少女が腕を組んだ。見たところの年齢からするとあまり縁があるポーズには思えないのだが、妙にその仕草が堂に入っているのが不思議な感じを与える。栗色と呼べるほどには明るくない茶髪は、長いがボリュームがあるというわけではなく、重苦しい印象はない。額を強調するように前髪は短いところで遊んでいる。垂れ目気味で眉ははっきりと薄い。鼻は控えめで、ポーズに合わせるように口角は上がっている。抱えられていたときに暴れていたことは頭から吹き飛んでしまったのかと思えるほどに得意げな態度を取っている。
「じゃあ改めて。突然乗り込んで申し訳ありません、木場さん。この子は小関麗奈。次の――」
「アイドル候補、というわけか」
男のセリフを食った彼女は、なるほどねえ、と小関麗奈と呼ばれた少女をしげしげと眺める。顔の造りは見事に整っている。ただ一方で一般的な意味での美少女という言葉のイメージとぴたりと合致するわけではない。近い将来に美人と評されることが確約されていると評したほうが近い。そんな少女の姿を見ても、“木場さん” は特別な反応を見せない。わずかに口の端を上げて微笑むだけだった。その視線に小関麗奈と呼ばれた少女はさっきの得意げな態度とはうってかわってすこし居心地悪そうな表情を浮かべている。
「あ、いや、……いえ、そうです」
「プロデューサーであるキミが連れてるんだから、まあそういうことなんだろうさ」
彼女は右腕を広げて、大げさに二度ほど頷いた。
「ただ気になるのは、どうしてその子をここに連れてきた? まだ資料も回ってきていないぞ」
「資料なんてまだ作ってませんからね、まだ麗奈はこっち来て二日目ですよ」
性別を問わずカッコイイと評判の “木場さん” が呆けたように口を開けている。あるいは貴重なワンシーンなのかもしれないが、そのシーンは長くは続かなかった。悩ましげに目を閉じて、指でこめかみを叩く。彼の言ったことに理解が及んでいないのは誰の目にも明らかだった。
「つまり、まだロクにレッスンも受けていないのにこのレコーディングスタジオに連れてきたということでいいのかい?」
「いえ、木場さんに会わせる必要があると思ったから、です」
「……いまひとつ言いたいことがわからないな。ふつう私に会わせることが最優先の目的にはならないはずだろう。その子の前提条件を聞けばなおさらだ」
お手上げだ、というふうに彼女はかぶりを振った。何をしてもサマになるその姿は、先ほど彼女の口から出た存在を想起させる。あるいはその枠に収まりきらない存在かもしれない。しかし彼女はこのスタジオのスタッフであり、それ以上の存在ではない。そのことを嘆いている関係者の数は相当いるという噂だがこれはまた別の話である。
降参した彼女の仕草を見て取った男はちょっとだけ申し訳なさそうに頬をかいた。どうあっても言葉で説明する気はないらしい。あるいは説明できない類のことなのかもしれないが、それすら言ってくれないのでは判断のしようもない。“木場さん” と男の視線が再びぶつかると、男は先ほど叩き開けたドアを開けて彼女に部屋を出るように目で促した。少女はいつの間にか興味津々といった様子でDルームのあちらこちらに視線を飛ばしていた。腕は組まれたままだ。
男が廊下を先導して進む。礼儀として “木場さん” に先に部屋から出てもらったものの、彼女は彼が何をしたいのかがわからないのだから行き先もわかりようがなく、その構図になるのは自然なことだった。少女は好奇心を抑えきれなかったようで、腕組みなんて忘れていろんなところをしげしげと眺めまわしている。来た時には小脇に抱えられて余裕がなかったことを思えばある意味当然なのかもしれない。
部屋から出てそこまで歩かないうちに男の足が止まり、そこに用があることを態度だけで示した。もちろん彼女はこのスタジオのスタッフなのだからその部屋の用途はわかっている。そもそもレコーディングスタジオにそれほどたくさんの用途があるわけでもない。
「なあ、たしかにここはスタジオだから基本的にできることと言ったらこれだけだ。ただ確認だけはしないとならない。キミは私が考えていることを本当にやろうというのかい?」
ひとつ頷いて男は少女を、ちょうど囚人との面会に使う部屋のように二分された向こう側へとつながる扉へ連れて行く。こちら側とあちら側は扉の要素を除けばきちんと仕切られている。一般的な窓の高さより少し低いくらいの位置から上はすべて防音ガラスになっており、その部屋の壁に埋め込まれた技術と合わせてあちら側の音をこちら側へまったく届けない造りになっている。あちらとこちらを結ぶのは、扉とマイクを通した声だけだ。
ガラスの向こうでは、少女がヘッドホンの引っ掛けられている日常ではあまり見ることのないタイプのマイクと譜面台を怪訝な表情で見つめている。少女がひとりで歌うには明らかに広すぎるスペースもその表情の一因になっているようだった。こちら側には一見しただけでは何がどう作用するのかわからないツマミがいくつもついたデスクとヘッドホン、やはり専門性を伴う機材が整然と並んでいる。
思考を続けるもいまだに最終的な目的がつかめずに憮然とした表情になりかけている “木場さん” の隣で、男はデスクから伸びているマイクに向かって小関麗奈と紹介された少女に指示を飛ばしている。少女は言われるがままにヘッドホンを手に取るもどちらが前なのかわからないようで、傍から見ていると微笑ましくなるほど手間取っていた。
やっと準備を整えたようで、少女は奇妙なかたちのマイクの前に立った。その顔に目をやると、抱えられていた時のコミカルな表情でも立ち直ったあとの得意げな顔つきでもない。焦りも緊張もない。そこにあるものに対して
「じゃあ麗奈、このあいだの歌をもういちど頼むよ」
「はいはいわかったわよ、ったく、いったいなんだってのよ……」
USBメモリをデスクに挿して男がキーボードを操作すると、少女のヘッドホンにイントロが流れ始める。いつの間にか男も “木場さん” もヘッドホンを耳に当てていた。男はきちんと装着し、“木場さん” はヘッドホンを手に持って左耳に当てているだけ、という違いはあるが。
イントロが終わって、少女のすっと口が開いた。
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片耳に当てられていただけのヘッドホンは、少女が歌い終わるころにはしっかりと装着されて、さらに上から両手で押さえつけられていた。そこから流れてくるものを一粒も聴き逃したくないと彼女が思っていることが言葉で説明するよりもはるかに伝わってくる。目は見開かれ、口は閉じることを忘れられていた。度肝を抜かれたという言葉がぴたりと嵌まる顔をしていた。
「……なあ、本当なのかい。レッスンを受けていない、のか? これで?」
きれぎれに言葉をつなぐ “木場さん” の様子を知ってか知らずか、歌い終えた少女があちら側の部屋から戻ってきた。特別なことをしたというような様子はなく、どちらかといえばそんなことよりもさっきまでいた部屋にある初めて見たタイプのマイクが気になっているようだった。少女がまだ子供であることを差し引いても、ほとんどの人はその人生でノイズを取り払う機材のついたマイクを見ることはないのだから自然といえば自然だろう。
不意にマイクから意識を切って、少女がまだ呆然としている “木場さん” のほうを向いた。
「さて、これでやっとアイサツができるわね。さっき聞いたと思うけどアタシの名前は小関麗奈。それで、アンタはいったい何者なのかしら」
「あ、ああ、木場真奈美という。このスタジオのスタッフだ、よろしく頼む」
「ふうん、マナミね。覚えたわ」
そう言うと麗奈はにいっと口の端を上げた。種類で言えば、たとえばアイドルが浮かべるような笑みとは似ても似つかない。はっきり言って男や真奈美のような大人から見ると小生意気といった程度で “可愛らしい” の範疇に収まりはするのだが、それでも分類するならかろうじて邪悪な笑みだった。何に納得したのかは本人に聞いてみなければわからないが、真奈美がひとつ頷いた。
しかし直後に彼女の眉根にはしわが寄った。アイドルとして活躍していくために矯正するべき点と強調していくべき点を見定めるのはそれこそプロデューサーの仕事に違いない。扉を叩き開けて入ってきたときの様子を鑑みれば同僚に相談をしていないだろうことも簡単に想像がつく。真奈美が思考の海に沈もうとした矢先に、それを制するように男が声をかけた。
「木場さん、共犯者になるつもりはありませんか?」
「……何やら物騒な単語が耳に入ったが、それはこの子に関係することと判断していいのかな?」
「もちろんです。これは麗奈にしかできませんから」
「……乗った。詳しいことはまた後で聞かせてくれればそれで構わない」
声色と感情がまったく一致しない奇妙な会話だった。どちらも表情ひとつ崩していないが、まず間違いなく何かが含まれている。自己紹介をしたきり蚊帳の外に置かれていた麗奈は二人の会話に出てきた単語を聞いてぎょっとしていた。
「誘った俺が言うのも何ですけど、そんな即決でいいんですか?」
「小関麗奈という才能に興味が湧いた。それで十分だろう?」
厳密には違うのかもしれないが、大筋ではこの瞬間がプロジェクト成立の瞬間だった。