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輿水幸子はアイドルである。
同業の中でもひときわ輝く存在で、たとえば彼女の名前ひとつでテレビ番組の視聴率をある程度左右するくらいには売れっ子である。そんな幸子は信頼するプロデューサーに呼び出されて、いま二人だけで話すには広すぎる会議室で待ちぼうけを食っていた。
こんな経験は別に珍しくない。それほど特別でない話、その中にはもちろん仕事の話も含まれる、であるのなら彼が普段から詰めている執務室や、あるいは状況が許せばその辺の廊下で話せばよいことだが、そうでないということはそれなりに特別な話であると判断してよさそうだ。まさか話をする場所が変わったくらいでいまさら緊張するわけもなく、幸子はなんとなく自分の爪をしげしげと眺めていた。
棲んでいる業界の影響もあって、幸子は待つのに慣れていた。約束の時間を過ぎるのはやっぱりよろしくはないと思っているがそれでもどうしようもないことがよく起きるのがこの業界で、いま自分のプロデューサーが遅刻していることに対しても彼女は一言たしなめる程度で済ませるつもりでいた。
「いや、すまん幸子。思ったよりも時間食っちまった」
がちゃり、と控えめな音がして、申し訳なさそうな表情と頭の後ろに手をやりながら入ってきた男が敏腕だとは誰も思わないだろうなあ、と幸子は心の中でこっそりため息をつく。人は見た目によらないとはよく言うが、どこを切り取っても普通以外の形容が見つからない彼は、そもそもその見た目を憶えてもらえないのではないかとすら思える。
「まったく、お仕事とはいえ女の子との約束の時間に遅れるのはいけませんよ? プロデューサーさん。ボクくらい寛容でなければ許してもらえませんからね」
「面目ない。言い訳も思いつかないよ」
「それで、わざわざこっち借りて話をするなんてどうしたんですか」
その理由が半ば以上わかっていると思っているからだろう、幸子の態度には純粋な疑問のなかに得意げな様子がうっすらと滲んでいた。たしかに気質的な部分もあったのかもしれないが、それをかたちづくっているのは年齢のわりに聡いところと年相応の幼さが混じりあったある種のいびつなパーソナリティと言い切ってしまってもよさそうだ。いかに世間に浸透したアイドルとはいっても中学生であることに変わりはない。そこには期待のような光が明滅していた。
「他の誰かに聞かれたらマズいからだな。まあ百歩譲ってフレデリカまでだ」
「……あれ? もしかしてボクの大きなお仕事の話じゃなかったりします?」
「すまん、それは別口で取ってくる」
「じゃあ本当にどうしたって言うんですか、フレデリカさんとボクまでにしか明かせない秘密の話だなんてボクにはちっとも思いつきませんよ」
「そうむくれるな。実はある計画のために幸子の協力が欠かせなくてな、それを頼みにきた」
すこし前にちょっぴり不機嫌になった幸子の顔が訝しげなものに変わった。
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「正気ですか?」
「正気もなにもないさ、考えてることをやり通そうと思ったらこうするしかなかったってだけ」
「……はぁ、そんなんだから上層部の方から煙たがられるんですからね?」
「はっはっは」
行儀よく座っていたはずの幸子は、気が付けば男に引きずられるように脚の短く幅の広い長机に乗り出すような姿勢に変わっていた。他には誰も見ていないし聞いていないとわかっているのに、秘密の話というものにはそういう一風変わった魔力のようなものがあるのかもしれない。
待っている時には綺麗だった姿勢が話を聞く段になって前傾になり、話が終わったと判断するや弾かれるようにその身を革張りのソファの背もたれに預けた。顔を動かさずに目だけを動かして視線を窓のほうに向ける。輿水幸子が物事を考える際のクセだ。男は自分の膝の上に肘を置いたまま体勢を維持している。どうも急ぎの用事は控えていないらしい。
「……協力者はどなたですか」
幸子のその言葉を聞いて男はにっこりと笑った。
「なるべく数は少なくしたいと思ってる。俺と幸子、あと木場さんはもうこっち側だ」
「……言っておいて何ですが犯罪行為みたいに聞こえますね、これ」
「それと絶対に必要なのが千川さんだ。ここは俺と木場さん二人でかかるよ」
「ちひろさんまで抱き込むつもりなら、いっそフレデリカさんも初めから声をかけておいたほうがよくありませんか? やっぱり身近なところに外部を作ってしまうのは上策とは思えませんし」
「……なるほど、お前の言うとおりかもしれないな」
男は顎の先端に手をやって、ほんの短いあいだだけ思案した。身を預ければ簡単には体を起こせなくなるおそろしく懐の深いソファに浅く座って考えている様子は、控えめに言って悪巧みをしているようにしか見えなかった。一方で幸子はソファに深く身を沈めており、彼女の小さな体躯だと見方によってはソファに吸い込まれている途中だと誤解したくなるような姿だった。姿勢こそ違えど同じ方向に頭を働かせているのは確実で、無言の時間にもはっきりとした意味があった。
ほどなくして同年代から見ても小さな少女がふたたび口を開く。
「人数規模がまだわかりませんが情報の共有は徹底したほうがよさそうですね。規模はどうしても膨らむでしょうし、関係者とそれ以外の線引きははっきりしてないと厳しいと思います」
「はっは、幸子もこういう話が得意になったな」
「笑い事じゃありませんよ、ボクはこんなへんてこりんな経験なんて重ねたいわけじゃないんですからね」
ぷりぷり怒るような態度を取るがそれが本心でないことはお互いわかっていた。そしてこの場で詰めておくべきことももう無いと理解していた。輿水幸子は男を信頼していて、聡く、だからこそ油断はなかった。今日この日なんかよりもよほど大変な時が来ることは、幸子にとって一月の次は二月だということくらいに自明だった。
「まあまあ、これも何かの役に立つ日が来るさ。それじゃあ幸子、頼んだよ」
返事の代わりにおどけた顔でため息を返すと男は満足そうに頷いた。絶対にファンの前では見られない顔だった。それこそ本人に言わせれば “カワイくない” と断言するだろう。それはプロデューサーと呼ばれる男のある種の特権なのかもしれないが、いったい何をどうすれば輿水幸子がそういう態度を取るまでになるのかは誰にもわからないことだった。
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「ええと、そうですねえ、あと注意しなきゃいけないのは学校のお友達はここへは呼んではいけないこと、ですか。どれだけ仲の良い方でもルール違反になりますので控えてくださいね」
一見すると書棚や机、デッキなどを除いた家具が暖色系で統一されたマンションの一室に見える空間に、輿水幸子と小関麗奈が向かい合って座っていた。テレビもコンポも置いてあり、それこそ居間に揃っていてほしい品々がシンプルに思いつく限りは揃っているように思える。ただ、そこがどうしても一般的と言えないのは、部屋の広さが一室としては尋常ではないものだったからだ。
さすがに椅子やソファの数が足りるわけではないが、人が入るだけならそれこそ数十人単位で過ごすことが可能な広さは山形から出てきたばかりの少女を圧倒するのにじゅうぶんなものを持っていた。いま二人が陣取っているのは角度的な問題でテレビも見えない部屋の隅の一角で、出入り口が三つほどある部屋自体にはさきほどから人の往来が見られる。
「まあ、大雑把には理解したわ」
「たしかに口で言うだけで理解できるようなものじゃないですからね、生活していくうえで慣れていってください。それでは何か質問はありますか?」
「そうね……、けっこう部屋の数あるみたいだけど、どうして二人一部屋なの?」
「麗奈さんの言うとおり部屋の数は多いんですけどやっぱり限りがあるのがひとつですね。それと大学生みたいな大人の方なら問題ありませんが、ボクたちみたいな、あるいはそれよりもっと小さな世代だと自室にいるときにずっと一人っていうのは精神的に不健康になる可能性もありますし。家族以外がいるっていうのはすこし大変かもしれませんが、一長一短だと思いますよ」
「……アンタのことテレビでよく見るけど、ド丁寧なしゃべり方って素なのね」
「そんなに丁寧ですか? ボクにとってはこれが普通なんですけど」
きょとんとした表情の幸子の言葉を承けてほんの少し間が空くと、麗奈はなにかに納得したように頷いた。いま麗奈は部屋の中央を背にして、壁を向いたソファに座っている。対面に座る幸子が部屋の広いほうを見渡せるかたちだ。麗奈は何の気なしに具合のいいソファに腰かけているが、実態はそれほど単純なものではない。輿水幸子は話を始める前の段階から気を配らなければならなかった。なぜならそんなことを気にしなければならないほどにこの寮が異常だからだ。
「まあいいわ、それでアタシの部屋はどこなのかしら」
「あっちの廊下の真ん中辺りですね、さっきも言いましたけどボクと一緒の部屋です」
それだけ言うと幸子は立ち上がり、ではそろそろ行きましょうか、と向かいのソファに座っていた麗奈に手を差し伸べた。何も言わずに麗奈もその手をとって立ち上がった。普段からぱっちりしているとは言い難い目をさらに緩ませて、幸子はこれから向かう先を手で示した。
振り返って確認する前から広間に人の往来のあることくらいは麗奈にもわかっていた。幸子との話の途中に別の話し声が聞こえてきていたからだ。深く考えることもなくここは寮の広間なのだからそれは当然で、ある限定的な事実を除けばこの場にはとくにおかしいところはどこにもない。幸子と話をする中でちょっとだけ緊張状態がほぐれたのか、麗奈は適当に周囲を見渡すと、あっ、と目を丸くした。
「どうかしましたか」
「……あれって、塩見周子に速水奏よね? よく見れば他にもテレビで見たのが……」
「それはそうですよ、ここはアイドルの寮なんですから」
もちろん広間には麗奈と幸子が座っていたソファの他にもソファやテーブルが置いてあって、そこではテレビや雑誌でよく見かけるアイドルが気ままに過ごしている。冷静になれば麗奈も一度も見たことがないと気付ける人物もいるのだが、知っている存在に優先的に目がいってしまうことと見たことがなくてもアイドルと言われれば納得してしまう外見をしている女性や少女ばかりであることが些細な違いに彼女の目を向けさせなかった。
急に動きがぎこちなくなった麗奈と周囲のアイドルたちに会釈をしながら歩く幸子の姿はどうにも不釣り合いな感じが否めなかった。身長で言えば麗奈のほうが大きいのだが、立ち居振舞いを通すとそんなふうには決して見えなかった。
「麗奈さんも今日からここの住人なんですし、気後れしなくても大丈夫ですよ」
「じょ、上等じゃない。何日かあれば十分よ」
ホテルをイメージしたくなるような長さの廊下を歩いているあいだ、幸子だけでなく初めて見る顔に興味を持ったアイドルたちも麗奈に声をかけていったのだが、そのほとんどを彼女は覚えていなかった。いくつか返事をしたような記憶がぼんやりとあるだけで、誰に何を言ったかは見事に頭から抜け落ちている。足取りがしっかりしていたことが数少ない救いだっただろう。
廊下の壁と各部屋につながるドアは一直線上にあるわけではなく、部屋の構造の関係もあって、ドアは廊下をすこしへこませたところにあった。ちょうどホテルの部屋のようにドアには部屋番号が書かれたプレートがくっついている。
ドアを開けて気にも留めないほどの長さの廊下を抜けるとまず目につくのは二段ベッドだ。知識はあってもなかなか見ることのない梯子で上に上がるタイプのもので、上にも下にも寝返りでの落下防止用の柵が備え付けられている。やさしい色合いの木の素材に質の良さそうな薄手の掛け布団とタオルケットが丁寧に畳まれているのが見える。入ってすぐ左手には本棚、そこにくっつくように二段ベッドが置かれている。枕の位置を本棚よりにすればベッドから手を伸ばしてそのまま本を取ることもできるだろう。入って右手にはクローゼットがふたつ並んでいる。当然ながらそれぞれ片方を使うのだろう。他にもざっと見て姿見やあまり大きくはないタンスなどが目に入る。中央には脚の短い丸テーブルがあって、パステルな色合いのクッションが明らかに二人ぶんよりは多く転がっている。アイドル仲間が訪ねてきたときのためのものなのだろう。食事やら何やらを共同スペースで済ませると考えれば二人ぶんのルームシェアとして納得できるワンルームである。
丸テーブルの近くのクッションをひとつ取って麗奈に手渡すと、幸子もクッションの上に座り込んだ。さすがに自室ということである程度油断しているのか、正座から両足を左に崩したような格好で座っている。
「さて、じゃあここからが本題なんですけど、ってどうぞどうぞ、座ってください」
「本題?」
「まず大前提としてボクは麗奈さんの味方です。そのうえで聞きますけど、プロデューサーさんからどこまで聞いてますか」
「アタシはアンタと同じ部屋になるからいろいろ頼れって言われただけなんだけど」
「ん? えーと、えー、もしかしてですけど、デビューに関わる話とか聞いてない感じですか」
「なんか “伝説作るぞ” とか言われてそれっきりだけど」
応援しているサッカーチームのエースがペナルティキックを思いきり外したときのように、幸子は額に手をやってこれ以上ないというほどのため息をついた。もちろんのことただ事実を話しただけの麗奈に罪はないが、それでもなんだか気の毒になってくるほど深いリアクションだった。