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それは麗奈がレッスンルームから拉致をされ、幸子から寮についての説明を受けた翌日のこと。
監獄を思わせる実務性にのみ目を向けた室内には、おびただしい数の資料が詰め込まれたいくつもの棚とシンプルな事務机。ぱっと見たところでは華やかに映る芸能界に関係するところには思えないだろう。机の上にはプリントアウトされた資料が乱雑に散っている。換気が悪いせいですこしほこりっぽいこの部屋の主は、頭痛に襲われたように机に肘をついて額に手をやっていた。
机に伸びた上腕に彼女の編まれた長い髪が這っている。ココアのように暖かい色合いをしているのに加えてあまり丁寧に編まれていないせいで、きちっとした印象よりも穏やかな印象を残すものになっている。よく勘違いされているのだが、彼女の髪の編み方は実は三つ編みではなく厳密にはフィッシュボーンと呼ばれているものである。しかし彼女はいちいちそれを訂正しないことに決めている。別に重要なことだと考えていないからだ。本当に頭痛でもしているのか彼女の顔色はあまり優れないようで、眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。ここは基本的には誰も立ち入らない彼女だけの王国。だから彼女は外を歩いているときどころか社内ですら見せない表情を気兼ねなく披露することができる。ここは彼女だけの王国。する必要がないのだから色合いのことなどまるで考慮されていない資料室にまったくそぐわない若草色の事務服のはずなのに、妙にその女性の姿は風景にぴたりと嵌まり込んでいた。
たん、たん、たん、と不規則なリズムで彼女の指が机を叩く。相変わらず左手は額に当てられたままだ。機嫌の悪そうな表情も変わらない。その姿はある事柄について考えることがあるというよりも、
「なまじっか実現できちゃいそうな気がするのがよくありませんよねぇ……」
彼女はそうひとりごちてスマートフォンを取り出すと手慣れた様子で指を動かし、大きなため息をついた。SNSとは便利なもので、きちんと使えば一対一だけでなく特定の集団にのみ秘密裏に接触を図ることができるものである。彼女はそのグループに “グループ3” などというなんとも素っ気ない名前をつけたが、これは彼女なりの隠蔽工作であった。もちろん自分のスマートフォンを覗かせるつもりなどカケラもないが、それでも漏れてはいけない情報というものの重要性を彼女はしっかりと理解している。ましてやあの男とあの木場真奈美に内緒だと念を押されたのだから、隠さなければならないところは意地でも隠し通さねばなるまい。
もう一度ため息をついて、彼女は自分が頼まれたことを頭の中で繰り返す。それ自体は非常に簡単なことで、二人から話を聞いたときにはむしろ拍子抜けしたほどだった。近いうちに時間をとって計画の詳細を教えるとは言ってもらえたが、逆に考えれば短時間では説明しきれないレベルの話であるということでもあって、そこに不安が残るのは当たり前のことだった。
「……それにしても早矢さんは真奈美さんを引っ張ってきましたか。……なんというかもはやズルと言ってもいいような気もしますが大正解ですね、真奈美さんにあそこまで言わせるなんて興味が湧かないわけがないですし」
ぶつぶつ呟きながらその小関麗奈という少女の資料について考えを巡らせている途中で、はた、と彼女の思考が停止した。ついで、あーあーなるほどなるほど、とやさぐれたように口を開いた。
( 資料の段階でごまかせってことですか。慎重というかこすいというか……。しかしそうなると風除けを誰に、ああいや、他に選択肢がないのか。たぶん今西部長に話は通してると思いますけど、念のため確認は必要ですね。……それにしてもこの行動を読まれてる感じはイラッときます。そのうちご飯でもおごらせましょうか )
彼女はうんざりしたようにスマートフォンを手に取って、手早く早矢と呼ばれる男に確認のためのメッセージを飛ばした。これに対しての返信はおそらく早いのだろうが、それでも即座に動くというわけにはいかない。秘密裏に処理にするにせよ他の業務に紛れさせて処理するにせよ、どのみちそれなりに準備というものが必要だからだ。ついでに言えば二人から頼まれたことというのもタイミングを見計らわなければ悪影響を及ぼしかねないものであるため、実質的に彼女に課せられたミッションというのは今のところないのだった。
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なにかその部屋に対して特別な意識でもあるのか、若草色の事務服を着た彼女は扉の鍵を閉めてから廊下で伸びをし始めた。年齢にそぐわない、ごきごき、という音が彼女の業務の大変さを物語っている。見方を変えればそんな量の仕事をなぜひとりで担当しているのかという疑問にたどり着くが、それは逆に彼女でなければ任せられないということの証左でもあるのだろう。伸びをしていたせいで堪えるかたちになっていた空気が漏れて、甘そうな音を連れた吐息へと変わる。ここが寒い季節の外であったなら、もしかしたら白い息にうっすらと色がついていたかもしれない。
気持ちよさそうに思いきり伸びをしたあとで彼女が目を開くと、いつの間にか二メートルほど離れたところについ最近知り合った少女の姿がそこにあった。彼女は任されている職務上、一般的な社員に比べてはるかにアイドルと接する機会が多い。そして円滑に業務を遂行する上でも彼女自身の性格の上でもアイドルたちと仲良くなるのは自然なことだった。
「ちひろさん、こんなところで何してるんですか?」
「あれ、泰葉ちゃん。実はここに私専用の事務室みたいなのがあって、まあ、ここでの作業が終わったので出てきたんですよ」
「ああ、ちひろさんの姿がたまに見えなくなってたのはそういう訳でしたか」
「ええ、それよりこの階ってアイドルのみなさんが来るようなところじゃなかったと思うんですけど、何かあったんですか?」
「えーっと、フレデリカさんのオススメに従うままに来てしまいまして……」
そこまで聞くとちひろと呼ばれた女性は手を口元にもってきてくつくつと笑う。眉をすこしだけ困らせてはいるが、かえってそれが全体をやさしい笑顔に仕立て上げていた。様子を見るに似たような事例が何度かあったのかもしれない。となると泰葉の口からあがったフレデリカなる人物はなかなか食わせ者であるようだ。
ちひろの言葉と反応からすっかり自分の立ち位置を把握したのだろう、泰葉はわずかにきまり悪そうな笑顔を浮かべた。これからアイドルとして本格的に売り出されようとしている少女だ、表情にかかわらず見る者を惹きつける何かがそこにはあった。
「フレデリカちゃんはなんて言ってたんですか」
「“六階にはね、私たちが知る必要のない知っておくべきことが眠ってるんだよ” と」
それを聞いてちひろと呼ばれた女性は続けていた笑いを、ほんの少しだけ深めた。彼女の認識の上でも、今あった言葉とそれほど変わらない。大雑把すぎる括りとはいえ、事務仕事というものは裏方どころか建物の基礎部分のようなものであって意識される必要すらないものだと思っている。先の言葉と違っているところをひとつ挙げるとするなら、彼女は知っておくべきとは考えていない点だった。もしこの状況のように知ってもらえて感謝までされたとすればそれは嬉しいことだが、恩着せがましく自らアピールしていくようなことではないと彼女は考えている。ちひろと呼ばれた女性は、この考え方の違いを立場の違いと解釈した。
「泰葉ちゃんはフレデリカちゃんにずいぶん期待されているみたいですね」
「どういうことですか?」
「言葉のとおりの意味ですよ。本当にただそれだけです」
泰葉の顔色はあまり納得がいったようには見えなかったが、ちひろはそれに取り合う気はなさそうだった。