TIST∀01
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二〇〇八年、十一月。ニューヨーク。
「一〇〇〇ヤード離れたビルの屋上から窓ガラスぶち抜いてこめかみをズドン。しかも強化ガラスでしょ? いったいどんな威力の銃なんスかね」
「そんな問題じゃねえだろ、この車は走行中だったんだ。この街のビルとビルの隙間を通る一瞬にも満たねえ間をたったの一発で打ち抜くなんざまともじゃねえ、奴の仕業だろうさ」
「“ニューヨークの死神” スか? 冗談みたいな名前に聞こえますけどね」
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「続いてのニュースです。八日未明ニューヨークで起きた自動車事故を捜査していた際、事故車両に銃殺体が見つかった事件について、NYPDは事故と死体の関連性はないと発表しました。なお自動車の窓ガラスにあった弾痕らしきものについて弊社の報道陣が問い合わせたところ、当局からの返答はありませんでした」
――ブツッ。
気分の落ち込むニュースがテレビから流れるのを聞いて、私はすぐさま電源を切った。どのみちちょうど大学に行く時間だったから、きっかけとしては都合がいいといえばいいのかもしれない。ただ、あまり見ることのないテレビをたまに点けたと思えばこんなニュースに出くわすのだからため息が出る。外とは違って息は白くならなかった。もうすっかり寒くなって、コートもマフラーも手放せなくなった。暖房の効いた教室に入れば眼鏡が曇るようにもなった。視界が真っ白になって何も見えなくなるのは困るから、あんまり好きじゃないんだけど。
驚くほど古めかしいわけでもぴかぴかに新しいわけでもないアパートのドアを閉めて、手すりのついた階段を降りる。階下につくと大家さんが廊下を箒で掃いていた。
「おや、おはようティスタちゃん、今日はまた冷えるねえ」
私はこういうとき、いつも会釈だけをして急いでその場を離れてしまう。きっと悪い癖なのだと思う。そうするたびに大家さんが眉をひそめるのだろうと思うと、余計に気持ちが逸るのがわかった。申し訳ないとは思うけれど、そうしないわけにはいかないから。
郵便受けはアパートの玄関そばにあって、ものによってはいつ見ても郵便物が溢れてしまっているところもあった。それどころか入らないからということなのか、上に積み重ねられた郵便物がよく目に入る。もうちょっと仕事は丁寧にやればいいのにと思ったところで、何が変わるわけでもない。私がここのアパートに住むようになってからずっとこのままだ。私は他のに比べてひどく閑散とした私の部屋番号が書かれた郵便受けを開けた。それは私にとっては習慣である以上に義務に近い意味を持っている。そこには黒地に短い一文が印字された紙が、一枚だけ入っていた。
“
何度見たか知れない一文に、もうため息さえ出なかった。ただ私はその紙をカバンにしまい込んで、努めて学校に行くことだけを考えようとした。
一歩踏み出せば人種を超えた喧噪があって、でも互いに無関心で、ここはそういう街だ。善人も悪人もどちらとも言えない人も全部がいっしょくたになって大きくうねる。きっとこの街はどんな人でもいることができる街だ。目の前でチェーン店のカップコーヒーを投げ捨てる人を見てそう思う。多少は汚いかもしれないけど、ちょっと路地へ入ればごみ箱があるのだからそこで捨てればいいのに。たまたまそれが目について気になった私はそれを拾った。見てみれば路地の奥のごみ箱はたしかにちょっと遠いところにあった。誰にも見られないように、距離を測るためにすこしだけ目に力を入れてカップを投げる。
カコン、と小気味いい音が立って学校へ足を向けると拍手が聞こえてきて、それが自分に向けられたものだとわかると私はそこから走って逃げた。褒められるほどのことなんて何もしていなかったはずだから。頭にあったのはそそくさとその場からいなくなること。他のことにはちっとも気を配っていなかった。
「おいキミ! 危ない、車来てるよ!」
そう声をかけられて左を見ると、乗用車が速度を落とすどころか逆に上げて私のほうにまっすぐ向かってきているのがわかった。呆気にとられて真っ白な時間があって、すると私の脳がなにかの判断を下す前に別方向から衝撃があった。誰かに突き飛ばされたのだと理解したのは、体が地面に打ちつけられた痛みとその誰かが接触したのだろう肩のあたりの痛みがじんわりと広がってからのことだった。
たぶんその人が乗っていたのだろう自転車が、ホイールをからからと回しながら路上に横倒しになっていた。状況を次第に正確に把握し始めると、心臓が張り裂けそうなほど強く脈打っているのがわかった。私を助けてくれた誰かは目の前で痛みをこらえながら立ち上がろうとしている。
そして突然、叱咤の声が飛んだ。
「どこ見て歩ってんだこのバカ! 死にてーのかこのボケ!」
「え……、あ、あの……、ご、ごめんなさい……」
「あ、オイ!」
眼鏡を拾って走り出す。
逃げてしまうのは、きっと私の悪い癖だ。
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講義を終わらせるチャイムが鳴って、教授が来週までの課題の念押しをする中を学生たちが思い思いに動き始める。次は昼休みだから食事の相談をしている声があちこちから聞こえてきた。
( ……すこしぼやける。また目悪くなったかな )
「おまえはさぁ、あーいうときはさぁ、“ごめん” じゃなくて “ありがとう” じゃねェ?」
段々になっている講義室の机の一段下から、ひとりの男の人が身をずいっと乗り出してきた。急だったということもあったけれど、そもそも話しかけられることそのものに慣れていない私は、飛び上がるほど驚いた。
その人の顔を見たことがあると思ったのは一瞬で、すぐに今朝の事故寸前のところから私を助けてくれた人だと気が付いた。いろいろと衝撃的だったからはっきりと目に焼き付いている。
「はいコレ、忘れもん。おまえんだろ? ウサギくん」
本当なら私のカバンについているはずの、あまり趣味がいいとは言えないウサギくんがそこにはいて、どうやら突き飛ばされたタイミングで外れてしまっていたらしい。気恥ずかしさと驚きとでどうしたものかともごもごしていると、彼はもういちど口を開いた。
「はい、ありがとう、は?」
「あ、……あ、あり……がとう」
よろしい、と納得するや否や、彼は矢継ぎ早に話を展開させる。
「なんかその冴えない顔さ、この授業で見た覚えあんなーって思ったんよね。カンシャしろよ? 一人と一匹の命救ってやったんだぜ?」
突然の事態に私はまだ満足に口がきけないでいた。黒のニット帽から少しだけはみ出た硬そうな質の金髪に幅の広いピアスがよく似合う彼は、またひとりで頷くと明るい調子で次の話を始めた。
「あ、俺ココの芸術学部の三年な。未来の超大物画家アーティー・ドロワー! 覚えておいて損はないよ、……って、あー」
そういうと彼はもう一段階身を乗り出して私に顔を近づけた。私は何が何だかわからなくて咄嗟に身を引いた。ただただ驚きの連続で、なかばパニックを起こしかけているところに今度は手が伸びてきた。
彼は私の眼鏡を手に取って、確かめるように二度三度とつるを動かした。眼鏡を取られてしまったせいでほとんど何も見えない。目の前にある彼の顔でさえはっきりしなくなってしまっている。いま私の目に映るのは細かい模様の消えた、大雑把に色分けされただけの世界だ。
「フレーム、イっちまってんなこれ。……突き飛ばした時か」
「た、たぶん」
「だよなァ、や、悪かった。っと、弁償はカンベンな? 今月かつかつでさ」
「え? う、うん。危ないトコ助けてもらったんだし、そんな、ね?」
もともと私にそんな気はなかったから、これは素直に断れた。それに命の恩人なのは事実だし、これ以上望むというのはやりすぎというものだろう。私は彼が眼鏡のことを必要以上に責任を感じないようになんとか言葉を振り絞った。驚いたのは普段まともに働かない私の口がこの時に限ってスムーズに動いたことだ。
自分でもこんなに円滑にコミュニケーションがとれるとは思っていなかった。何しろいつも修道院の子どもたちが “暗いから” という理由で私をいじめるターゲットに据えているくらいなのだ。もしかしたらこの人には人を安心させるような何かがあるのかもしれない。
「おまえ、笑うと可愛いじゃん」
「は!? え? あ? あの、その……」
私は笑っていたの?
「あ、あの……、ご、ごめんなさい」
「あれ、もう行っちゃうの? 名前くらい教えてもバチ当たんないと思わねェ?」
「え……、な、なまえ……?」
人に名前を聞かれたのはいつぶりだろう。事務的なものを除いたらもう本当に思い出せないほど前のような気がする。
「ティ、ティスタ……。ティスタ・ロウン……」
私はもう一度だけお礼を言って彼と別れることにした。席を立って小走りに講義室から離れる。これ以上はダメだ。地下鉄に飛び乗って部屋に戻ることを私は選んだ。これ以上は、ダメだ。
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見飽きているはずの教会は風の強い夜にぴしりと固く冷たく見えた。私は周囲に気を配って誰もいないことを確認する。ほんとうなら人が立ち入れないはずの時間に私は教会の門をくぐる。頬を突き刺すような鋭い風が吹いた。扉は、ぎい、と重い音を立ててゆっくりと開いた。
燭台に灯った最低限の明かりだけが会堂を照らして、側廊にひっそりと設置された懺悔室を奇妙に浮き上がらせている。ほとんど十年ものあいだ見続けてきたものだけれど、どうしても胸の奥が疼くのを止めることができなかった。
小さく造り込まれた懺悔室に入って扉を閉める。まるで重たい空気がそこに押し込められているみたいだった。
「……今晩は月の綺麗な夜ですね、…………シスター・ミリティア」
その名前で呼ばれると、私の顔はいつも強張った。
「浮かないお顔のようですね……。仕事の話になさいますか? それとも先に懺悔でも?」
「いえ……、大丈夫です、ファザー・ペトルス。お話をお聞かせください」
「わかりました。ではまず、ソーホーのはずれにあるウエスト・ギーノ美術館をご存知ですか? 今月の十六日からそこで近代美術の展覧会が行われます……。そこでイギリスから大量の美術品が輸送されてくるのですが……」
そこでファザー・ペトルスはひとつ息を整えた。ここからが本題ということなのだろう。私にもなんとなくの予想はできていた。何度こういった案件に触れたか覚えていない。
「それは表向き……、カムフラージュされた裏にはもう一つ。末端価格二億ドル相当のヘロイン。彼らはそれを美術品に紛れさせ、この街に運び入れるつもりです」
ため息さえ出ない。何度も何度も何度も何度も彼らはやって来て、たくさんの “カワイソウ” を生み出そうとする。そのたびに私の頭の中の神様が囁くの。
「標的は二人……、運んでくる者と受け取る者。英国文化保護財団会長セイン・ステイリー、そして当の美術館館長ハリス・コーネル。決行はセインの現れる十三日の火曜です……」
悪魔を。
「贖罪の十字を背負わされた彼らに永久なる安らぎを」
殺せ。
「願わくはその魂が主の御許へと導かれん事を」
殺せ。
「シスター・ミリティア、汝には神のご加護のあらん事を」
殺せ。
「エイメン」
「…………エイメン……」
ファザー・ペトルスが懺悔室を先に出て行く。普通なら神父ではなく懺悔する者が先に出て行くのが通例だ。それは懺悔をする者も懺悔を聞く者も、どちらも互いに顔を見ないようにするため。けれど私たちは違っていた。
顔を見せない仕切り板の下、ちょうど肘掛けくらいの高さにある小さな荷物の受け渡しのための隙間に黒いファイルが置かれている。標的に関する情報が仔細に記された資料が挟まれているものだ。それを受け取ればこの小さな部屋の役目は終わり。それがたとえ本来の用途からどれだけ離れていたとしても。
修道院を訪ねると、院長先生はいつものように私を優しく迎えてくれた。迎えられたそばから子どもたちに見つかってボコボコにされたけれど、それもやっぱりいつものことだ。けれど子どもは加減を知らないから、パンチやキックはけっこう痛い。というかもうそろそろ寝る時間のはずなのにどうしてこんなに元気なんだろう。少しうらやましくもあったけど、自分のそんな姿がまるで想像できなくてちょっと笑ってしまった。すると何を勘違いしたのか、子どもたちが攻撃を激化させた。そういう意味じゃないのに。
子どもたちが寝静まるとやっと落ち着いた時間が修道院にやってくる。ニューヨークの夜はまだまだ人の活動する時間だったり、あるいは危険な匂いがし始める時間のイメージがあるけれど、私の夜に対するイメージは修道院のもののほうが近い。ここで長く過ごしてきたからだと思う。そしてそのほうがいいとも思う。
暖炉のパチパチという音と院長先生の出してくれた紅茶が私の気分を落ち着かせてくれた。こうやって緊張することなく話ができる人は、片手で数えて平気で余ってしまう。
「学校はどう? もう慣れたかしら?」
「ええ、なんとか……」
「そう、あなたは本当に優秀ね……、あの子たちに爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいわ」
私は紅茶を一口飲んだ。種類はわからないけど、やさしい香りが鼻腔を通り抜ける。院長先生もカップを傾けて、ひとつ息をついた。声の調子が一段沈んだ。
「……でもあなたは、あなたたちは優秀過ぎて当たり前の幸せに手が届かなかった……。ごく普通の暮らしを、ただの女の子でいることを神はお許しくださらなかった……」
院長先生は何かを振り払うように首を横に振って、そしておずおずと口を開いた。
「ねえ、やっぱり
「いえ、私……、大丈夫です。大丈夫……」
院長先生に含むところは何もない。事実として年齢が十に届く前から私はミリティアだったのだから、いまさら言ったところでどうしようもない。それでも純粋に心配してくれている院長先生の顔を正面から見ることはできなかった。
暖炉のほうから、からん、と軽い音がした。きっと燃え崩れたのだろう。
「……あなたはそうやって、人から遠く離れたところで生きてゆくのね……」
院長先生は独り言のように、そうつぶやいた。
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「おっとそこ行く眼鏡のお嬢さん! 似顔絵なんてどうスか、チョー美人に描いてみせますよ?」
ここしばらくずっと変わらない風の冷たい街並みを足早に歩いていると、突然声をかけられた。声は明らかにこちらへ向けられていて、そもそも周囲には人がほとんどいなかった。びっくりして顔を上げると、芯をやけに長く残した削り方をした鉛筆を持った昨日の人がそこにいた。外なのに椅子を置いて、カンヴァスを立てかけるための木で組まれた道具を前に置いている。ちょうど風景画を描こうとしている画家のようだった。
「よっ! おはようティスタちゃん!」
「あ、えっと……、三年の方……」
「……アーティーね、ちゃんと覚えてね……」
命の恩人に対して申し訳ないけど、あのときは突然すぎて頭が混乱していたから名前を覚える余裕はちっともなかった。恩着せがましいかもしれないけれど、よく学年が出てきたものだと思う。
アーティーは口ぶりのわりにはとくに落ち込んだ様子も見せず、陽気に話を続けた。
「これからガッコ?」
「いえ……、二限で終わったので……」
「そら良かった! ハイ、んじゃそこ座って!」
「え……、え!?」
気が付いたら言われるがままに出された椅子に腰かけていた。私からすると放水を始めたダムのように言葉を次々と投げてくるアーティーの勢いに押されたのだと思う。ひとつ気になったんだけど、これまで人と話をする機会が少なかったから意識できなかっただけで、もしかして私は断るのが下手なのだろうか。
状況も何も彼はときおり私に視線を飛ばして目の前でカンヴァスに向かって手を動かしているのだから、私の役目ははっきりしている。言葉を思い浮かべるのも恥ずかしいけど、モデル、というやつだ。経験があるわけもないし憧れを持った覚えもない。どんな顔をすればいいのかさえわからない。
「はいはい笑ってー、引きつってるよー」
「あ、はぁ……」
「いやさ、俺たまにこうやって小銭稼いでんだけどさ、こう寒いと人来なくってよ、もう」
「はぁ……」
「ったく、未来の大物もラクじゃねーよ」
「そうなんですか……」
どうやらアーティーはかなり口数の多い人物であるらしい。絵画を専門にするような人は絵に取り掛かり始めたらそっちに集中するものだと思っていたけど、むしろ私が椅子に座ってからのほうがしゃべるペースが上がっているような気さえする。なんというか、自分とはタイプが違いすぎて、すごいという感想しか出て来ない。
ときおり鉛筆を立てて私に向ける仕草が自然で、それが彼と絵を描くことの距離の近さを思わせた。私も小さい頃に見様見真似で同じ仕草をしてみたことがあるけど、効果はよくわからない。
「あの授業出てたってことは教育学部だろ? やっぱ先生とか目指してんの?」
「……あ、わた……、私!?」
質問が私に飛んでくるとは考えていなくて思わず動いてしまってそれをたしなめられる。
「え、う……、うん。小さい子どもたちに勉強とか教えてあげられたらな、って」
ほんの一瞬だけ間が空いた。あれだけしゃべりながらも手を動かし続けていたアーティーが、すっかり手を止めて口を開けたままこっちを見ている。何か変なことを言ってしまったのだろうか。
「なんだ、ちゃんと自分のこと言えるんじゃん」
「え……?」
「ごめんー、とか暗い顔ばっかだったから大丈夫かよって思ったけどさ」
「…………」
「いいね! 夢は語るもんじゃないとか言うやつもいるけどよ、まずは語んなきゃな! それが叶える力にもつながるんだぜ、きっと!」
大げさに両腕を動かして、屈託なく笑う彼の姿はきっとあるべき姿だった。こんなにまっすぐ励まされたのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。言っていることも合わせて、私はなんだかちょっと照れくさくなってしまった。
「それにさ、独りで叶えてもちょっと寂しいじゃん。周りの力が必要なときもあるじゃん?」
アーティーはいつの間にか再び手を動かしている。
「つーワケで、この大作家アーティー様が心強い味方になってしんぜよう。そして夢見るおまえの顔を、ここに証拠として描き記しておこうではないか」
はっはっは、と彼はおどけてみせた。絵のモデルなんていうのは似合わないしもう一度やりたいとは思わないけど、なんだかこういうのは新鮮で、楽しかった。
修道院とはまた違う安らぎみたいなものを感じていたのかもしれない。
「おまえもう午後はヒマなの?」
「え、あ……、うん、まあ……」
「よっし! じゃあ今日はデートな!」
「…………は!?」
ずるずる引きずられて、気が付けば私は眼鏡屋さんでつるに花をあしらったかわいらしいフレームの眼鏡をプレゼントされていた。男の人というのはみんなこういうものなのか、それともアーティーがこういうのに手慣れているのかは私にはわからなかった。あまりの展開の早さに店員さんの声はほとんど私には届いていない。眼鏡の度を確認してフレームを決めたらあっという間だった。
現金なもので、私は買ってもらった新しい眼鏡をつけて街を歩いている。
「いやぁ今日ひとりだけ来た客にさ、体も財布も恰幅のいいババアがいてな、そりゃもうベースを無視した美人に描いてやったら大喜びでガッポリよ」
「で、でもやっぱり悪い……」
「いいのいいの、どうせあぶく銭だよ」
カンヴァスを脇に抱えて、折り畳み式の椅子とカンヴァスを立てかけるためのあの道具をはみ出た状態のままカバンに突っ込んで、アーティーはなんでもなさそうに答えた。けれどやっぱり気が引けるものはあった。プレゼントを受け取った身の上で人のお金の稼ぎ方に口なんか出せる立場ではないけれど。
というかあらためて考えると、自分が描かれたカンヴァスを持ち歩かれているというのは誰が何と言おうと恥ずかしいことに気が付いた。
「あ、あの……、それ……」
「ん? ああせっかくだから着彩して今度わたすよ」
言われて意識が向いたのか、やけに重そうな絵を描くための道具の入ったカバンを揺さぶった。普段から持ち運びしてるのかもしれないし、違うのかもしれない。芸術系の人とはまったく接点を持ったことがなかったから、私はただ不思議に思うことしかできなかった。
「そうだな……、イーゼル重てえし道具邪魔だし置いてくるか」
なるほど木で組み立てるあれはイーゼルというらしい。
「よーし、じゃあ次は美術館ね! しかもタダ! タダ見だぜ!」
道中いろんな話を投げかけてもらって、それでどうにか私も話をすることができた。私は相変わらず言葉に詰まったり、ろくな返しができなかったけど、やっとちょっとだけ打ち解けることができたと思う。明るくてジョークもこなせる彼に、私は素直に感心していた。
地下鉄を乗り継いで少し歩くと、アーティーがうれしそうに手で前のほうを指した。
「じゃーん! 到着~! あ、裏から入るからついてきてな」
私はそのとき目に入った文字列を信じることができずに、立ち止まって瞬きを繰り返した。平日ということもあってか人はまばらな出入り口の上に、シンプルな字体ながら見せつけるようにその文字は踊っていた。
ウエスト・ギーノ美術館、と。