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「おーい、何してんだ? はやく来いよ!」
そう呼びかけられるまで私の全神経は目にした文字列に注がれていた。
なにかの冗談だろう、冗談であってほしいという願いに対して美術館は何も答えてはくれなかった。冷めた血が頭の頂点から爪先までずるりと這っていく感触があって、それはこの状況が夢でないことと直結していて、そして決定的なことを私に思い出させた。何秒ほどそこに立ち尽くしていたのかは私にはわからない。ほんの小さな可能性でしかないはずなのに、
朗らかな調子で私を待つアーティーの姿は今日知ることができた彼とまったく変わりのないものだったけど、もう無邪気な目で見ることはできなくなっていた。そしてそのことに自分で気付いた瞬間に、私はひどく傷ついた。
裏口から続く関係者通路には当たり前のように人通りがなくて、人の手で作り上げられたその空洞に靴の音が響く。ともすればまっすぐ歩くのにさえ失敗しそうになる足取りをどうにかして普通の歩き方に戻す。既に薄い吐き気を覚え始めていた。
「もう今は事故でいないんだけどさ、俺の親父がむかしココで管理主任やってたんだよ。そんでそのツテでいろいろ面倒みてもらってんだわ」
荷物置いてくるからちょっと待ってて、という彼の言葉に何も返せなくなるほどに私の頭は否定と肯定を繰り返していた。彼が自分の部屋だという一室の扉が閉まる音を私は心待ちにしていた。今は何よりもひとりの時間がありがたい。いっそのこと今日のことはなかったことにして、ここから逃げてしまおうかと真剣に考えたくらいだ。何も言わずにというのはさすがに失礼だからそうはしなかったけれど。
彼が “カワイソウ” を振りまく存在なのかどうなのかの結論なんて出せるはずもないのに、私はそのことばかり考えていた。私の意識は同じところをずっとぐるぐる回っていた。身を挺してまで命を救ってくれた彼がそんな人間であるはずがないということと、状況がどうしても悪い可能性を否定させないということの間で。
「よう! わりーな、待たせちまったか?」
荷物を置いて上着も置いてきたのだろうアーティーの姿はこざっぱりとしたものになっていた。たしかに気が付いてみれば美術館の中は上着なんか必要ないくらいに過ごしやすい環境で、私の格好だとむしろすこし暑いほどだった。後から考えてみれば笑ってしまうくらい単純だけど、彼の姿を目にすると、さっきまで渦巻いていた疑念は意識に上らなくなっていた。
絵の鑑賞なんてしたこともない私からすると、絵描きになると夢を語っていたアーティーの着眼点や絵に対する感性は感心するほかないものだった。美術館に展示されているからといってすべての作品が優れているわけじゃないとわかったことは大きな収穫になったと思う。私は芸術に対して高尚というイメージを持ち過ぎていたのかもしれない。もっと単純になんとなく好きや嫌いで楽しむことができれば、美術館はもっと身近なものになると学んだ。
俺はもっとすげー絵描きになってやる、なんてまっすぐ前を向いて口にできる彼に、もしかしたら私は見惚れていたのかもしれない。それは私の持っていないもので、とても眩しかった。こんなに純粋なこの人が “カワイソウ” を運んでくるわけがない。我ながら情緒不安定だとは思うけど、それでも安心できた事実にウソはつけない。紆余曲折があってほんの短い時間だったにせよ、ほかに思い出せないくらい楽しめたことは間違いのないところだった。ひとつのものを見て、その素直な感想を誰かと話し合うなんていう体験はあまりにも未体験すぎて、まるで見たことのない国を歩いているみたいだった。
「なんだ、戻っていたのか。アーティー」
「あ、おじさん」
カツコツとひときわ耳に残る革靴の音がして、そしてアーティーを呼ぶ声が聞こえた。彼の隣にいた私もそちらに顔を向けた。彼に声がかけられた時点でイヤな予感はしていた。おじさん、と反応するのを見てその予感はさらに強まった。痩せぎすの、順当に歳を重ねた外見のその男は。
次の標的のハリス・コーネルその人だった。
不意に目に力が入る。知らず知らずのうちに指が銃把を探し求める。前提条件を含めてこの男がここにいるのは当然で、そしてアーティーの話から考えるに “おじさん” が同一人物なのも簡単に導ける。願望の話をするなら別の人物であってほしかったけど、実際に当人を目にしてしまえばもう何も言えない。私がその顔を見間違えるはずがない。あの夜に懺悔室で受け取った資料を何度確認したか知れない。