かつん
かつん
かつん
かつん
音がだんだん近づいてくる。その音は規則的だ。かの王の足音と少し似ていた。
この音には揺らぎない自信が宿っている。倫理も、茨も、血の河も踏み越えていきそうな戦士の足音。力と剣と、そして世界を裂くような強い声で道を切り開く戦士が、ここにやってこようとしているのだ。
その戦士には全く似合わないような、この静寂に満ちた始まりの地という空間に。
私は目をふさがれているから、音を頼りにしか物事を判別できない。やがて足音が近くまで来ると、その足音は止まり、代わりとでも言うように女性の声が聞こえてきた。
「失礼する、異界からの来訪者よ。ご機嫌はいかがかな?」
「ご機嫌よう、戦士の方。あなたは強いのですね。」
「そうとも。
いやはやあの男が喚くから来て見れば、思っていたよりも無垢な災いだったようだ。」
「あら?私の事ですか?」
女性の声は落ち着いている。その足音のように、強さへの自負が満ちていて、聞くだけでその女性は強いのだとわかる。
「その通り。
あなたはあまりに人間にとって毒だ。人間と自然そのものが混じり、愛を覚えた獣に近い。その愛が誰かの心を弄んでいることにあなたは気付いているか?」
「愛?私は確かに人間を愛しています。
あまりにも精巧な命という神からの贈り物。複雑な感情と系統だった器官たち。それらが互いに補い合いながら社会を形成する様はあまりに美しい。
けれどあなたの言葉では、私の愛は間違っているという風に聞こえます。…私は、間違っているのですか?」
「いや?私にはわからないな。正しいか間違っているかを判断するのは私の仕事ではないからね。
私はあなたのその微笑みがとある青年を迷わせていることに気付いているのかと聞いているんだ。」
「青年?ウォーゼル卿の事ですか?」
女性は肯定した。
その青年は、確かに迷っていた。私なりに言葉をかけたつもりだったけれどもその言葉が届かなかったのかして、彼の迷いを晴らすことは叶わなかった。
彼は罪人を殺さなければならない立場にありながら、人を裁くことを重荷に感じている。苦しそうだった。楽にしてやりたかった。
だから、あなたは優しい人だといった。その苦しさはあなたが優しい証拠なのだと説いた。
けれど彼の憂いはなくならなかった。彼の苦しみは、もっともっと深いところにあるのだろう。
「彼は……彼は、かわいそうですね」
そういうと、女性は雰囲気を変えたようだった。
今までよりも、ずっと真剣な声で私に問うてくる。
「それは本人に言ったか?」
「いいえ。言うべきでしたか?」
「逆だ。何があっても言うな。
あなたは人間に触れたことがないからどう愛するべきかまだ分からないのかもしれないが、決して我々を哀れんではいけない。
私も、他の人間も生きている。生きているからにはいずれ罪と向かい合うだろう。しかしそれはあなたに手を差し伸べられて解決すべきものではないのだ。私たちが自分の手で調伏すべき悪魔なのだよ。」
人間が、彼ら自身の手で悪魔を調伏する?
そんなことは不可能だ。災害や、奸計や、陰謀といった悪魔の産物は人間に防ぐことのできるものではない。それを防ぎ、それらの悲しみから民を守ることこそが神官である私の仕事だ。
無力な私にそれができなかったから、あの世界で民は怒り狂ったのだ。
「ただ、見ていろというのですか?」
「女神は乗り越えられない試練をお与えにならない。本当にあなたが彼のことを強いと思うのならば、ただ信じて待っていればいい。あれもまだ若いから励ますなり、ほめてやれば喜ぶとは思うが、手を貸されてはきっと面白くないだろう。
その手は弱い人間に差し伸べられるべきもの。力あるものの手でふさがれるべきではない。その声は幼いものに教えを伝えるべきもの。愛に飢えた獣に慈しみをささやくべきものではない。
……あなたは、もっと世俗に染まるべきだな。」
「と、いいますと?」
世俗。何だろうそれは。
芸術であれば少しなら解することができるが、文化に染まれということだろうか?
女性は私の疑問に答えてくれるのかして、さらに足音がして彼女が近づいてくる。
――――次に感じたのは、私の輪郭に這う彼女の熱い指だった。
「……ぁ」
くすぐったい。背筋がはねた。
彼女の指はとても熱くて、私の冷えた頬に熱を分け与えてくれる。それでもまだその指は熱くて私は汗をかいてしまいそうだった。
吐息が耳にかかる。耳に彼女の紅で濡れた唇が触れた。
そして彼女は私にささやいた。
まるで促すように。誘うように。私を惑わせてしまうほどやさしい声で、おぞましい誘惑をもたらしたのだ。
「己の心の中に灯る炎に身を任せるのさ。燃えるような劣情に身を焦がして、愛したいという衝動で脳髄を揺らしながら、その小さな唇で直接愛してやればいい。
そうすれば無償の愛がどれだけ恐ろしいか、あなたにもわかるだろう。」
「……わからない。わかりません。私に恋をしろと言うのですか?私にはできない!」
そうだ。私にはそんな機能が備わっていない。だからできない。
「恋をしない人間などこの世界にはいないさ。」
「炎に身を任せて、傷つけてしまったらどうするのですか!」
そうだ。私は人を守らなくてはいけない。万が一にも傷つけてはいけない。
「そんな狂気も愛の側面の一つだ。あなたが善かれと思って周りに振りまく慈愛は、あなたが思っているよりも過激なのだよ。
君が仕えてきた王はそんなことも教えてくれなかったのか?」
かの人のことを引き合いに出されて、私は何も考えられなくなった。
強い人。導く人。私が誰より尊敬した王が、私に与えなかったものなんてなかった。
「……陛下は…」
陛下は私に神殿の外のことを教えてくれた。私はそのおかげであの世界で誰よりも物知りだった。だから神官を務めることができたのだ。
だがどうだ。陛下の慈悲をもってしてもやはり私は無知であると、彼女は言っている。
そして彼女はなおも囁く。
「かの王がどんな男だったか私は知らないが、
私は、それを否定した。
「可哀そうなんかじゃありません!私は幸せでした!
陛下にお仕えし、国を導くこと。民に手を差し伸べること。困窮と飢えから社会を救うために力を尽くしたこと。すべて、すべて私の幸運でした!
そこに何の不足もなかった!あの日々は、世界が壊れるその時ですら輝いていた!
あなたは世界の終末を知らないかもしれません。ですがあの悲惨な瞬間の中でさえ、私は心から命を愛していた!それで幸せだった!」
思っていたよりも大きな声が出た。
でもそれはすべて真実だった。私は、本当に幸せだった。命を救えなかった時は無念と後悔に晒されたが、しかし私は英雄を見出し、育てることができた。幼い命が日々成長していくのを見守っていた時のあまりに輝かしい安らぎは、今でも心をあたたかく照らしてくれる。
命が社会を作り、それを維持していくことがどれだけ貴いものか。私にはできないことを彼らは時に成し遂げる。
炎のような激情と海のような優しさを併せ持つ命たちは、私にとって何よりもかわいい子供たちだ。いとしくて、かわいくて、ずっとずっと苦しみのないように守ってやりたい。
どんなに罪深くても、彼らの歩む道の上に何の苦労もないようにすべての小石を取り払ってやりたい。そう心が叫ぶままに私は彼らを愛して、慈しんで、彼らが笑ってくれる時、私の心は天にも昇る気持ちだった。
元気に育った命が大地を駆け回り、他の命とかかわって支え合い、社会を作っていくのを神殿で見た時なんて、言葉にできないほどの喜びで満たされた。
私がそんな幸せを得ることができたのも、神官として働く私を陛下が支えてくれたからだ。陛下がいなければ私はたった一つの命も救えなかっただろう。
神殿でいくら考えても民に不安と不満を植え付けてしまっていただろう。だけど私には救えた命があった。私は彼らの助けになれた。
私はかわいそうじゃない。どんな命より、幸せだったのだ!
女性は、一通りの私の言葉を聞いて私から離れていく。
柔らかい彼女の長い髪が、私の体を悪戯に撫でた。
「その怒り、覚えていくといいだろう。共感を伴わない愛はあまりに容易く人の心に火をつけてしまう。誰かに共感して傷つくことを恐れるのなら、人を愛さない方がいい。
君は愛に不向きだ。」
そして女性は踵を返して去っていこうとする。
追いすがりたい。
彼女は私が知らないものを知っている。人間とは何か、人間になるために何をすればいいか、きっと知っているんだ。
けれど私は始まりの地の台座に拘束されていて、床に降り立つことすらできない。
私はもう部屋から出ていこうとしている女性に向かってありったけの大声で叫んだ。
「待ってください!」
「すまんが忙しいんだ!心配しなくてもあとで
しかし女性は私が呼び止めても止まることなく、重厚な扉を開けて出て行ってしまった。
(私は……間違っている?)
疑問が蟠りになって心にとどまったまま、時間は流れていく。
私はただ拘束を受けたまま、自らの行いについて考えを巡らせることしかできなかった。
***
あの時から、私はただ受け入れることにしました。
誰が何をしようとも、拒んではならないと思いました。
怒りと憎しみで荒れ狂い、愛情に飢えた命たちが、私に手を伸ばしてきたのは彼らが誰かに受け入れられたかったからでしょう。
誰かに、『あなたに罪はない』と許してほしかったからでしょう。
私は、そうすることで誰かの心を救えると思っていました。微笑んで、笑いかけて、求めている言葉をかけてやれば、それで満足するだろうと思っていました。
ゼムリアに来てから見た人間たちも、苦しんでいました。
真っ白な不毛の大地で人々は貧しい生活と寒さに晒されて、すさんだ心を持て余していました。
殴ったり、傷つけることで自分の気持ちを軽くできる人がいました。怒鳴りつけて、誰かを下に見ることでしか楽になれない人がいました。
私はそうした人たちの下に立って手を広げ、彼らの腕や言葉を受け入れることで彼らを癒してきました。実際彼らはそれで笑顔を取り戻したのです。
これまでその人たちに殴られていた誰かを救い、これまで謗られていた誰かの名誉を取り戻すことができていたと思います。
そして荒んだ心を持つ彼らも、たまにぐちゃぐちゃになった私に笑いかけて、時にやさしくしてくれました。だから私は、自分の行いが正しいものだと思っていました。
神父さん、私は間違っていたのでしょうか?
だとしたら私は、どうやって間違いを正せばいいのでしょう?
「う~ん、そうですねえ……。
あなたが与える優しさが大好きな人もいるでしょうが、普通の人には少し毒なのかもしれません。全部が全部、間違っているわけではないと思いますよ。」
毒、ですか。
「あなたはあなたが傷つくことを何とも思わないかもしれません。
けれど優しい心を持つ人は、あなたが傷つくことが悲しいのです。ガイウス君もとっても優しい青年ですから、あなたが傷つこうとしてまで自分に優しくしてくれることが耐えられなかったのでしょう。」
私は傷ついても痛くありません。
つらくもありませんから、誰かが傷つかなければいけないときは私がその役を担うべきだと思うのです。
「あなたのその心もまた優しさでしょう。しかし誰も傷つかない道を探してほしいと、ガイウス君はそう思っているのかもしれませんね。」
どうしてですか?
それは困難な道のりになるかもしれません。
「それは勿論、ニクスさんとお友達になりたいからですよ~!」
友達?
「彼はきっとあなたのことを尊敬しています。心から人を助けようと思えるあなたのことをすごいと思っているんです。
そして彼なりに、あなたを支援したいと思っているんでしょう。それこそあなたが仕えていた王があなたを支えていたように。」
陛下は、お強かった。
誰よりも強かったのです。ウォーゼル卿よりも、あなたよりも強かった。だから大きすぎる力も正しく使うことができていました。
けれど彼は違います。彼は力に苦しんでいます。であれば、彼はまず彼を助けるべきでしょう。
私が私を許すために人になるように、彼は彼を助ける方法と、そしてそれを支えてくれる人間を見つけるべきではないのですか?
「傍にいるということであればあなたが支えて差し上げればよいのでは?」
私はまだ人間ではありません。
人間として不完全なのです。誰かの苦しみや悲しみに共感することができません。ですので彼の苦しみを理解してくれる誰かが必要なのです。
「きっと今の段階でもできることがありますよ。」
それは?
「信じることです。彼に信じていると伝えて、あとはじっと我慢するのです。ガイウス君は強いですからきっとあなたの優しさに気付いて苦難を乗り越えてくれるでしょう。」
本当ですか?
「ええ。本当です。彼が強いことはあなたもよく知っているでしょう?」
彼は……ええ、はい。強いのですよね。
それでも、やはり心配です。彼が傷つかないか…孤独に苦しまないか……
「あなたの王のように?」
………。
「大丈夫ですよ。それにあなたたちの世界ではどうか知りませんが、私たちの世界では少しの傷は困難に直面しながらもそれを乗り越えたという勲章なのですよ。
きっと彼も彼自身の手で乗り越えられた暁にはそれを誇ることでしょう。」
勲章?
では私の体にある傷跡も、こちらの世界では勲章なのですか?
「……ええ、勿論。あなたが人として生きた証です。
さ、それよりもこちらの本の解読をお願いしますよ。ニクスさんに読んでもらうと、と~っても早くて助かるんです。」
ええ、お約束しましたものね。懺悔を聞いてくださってありがとうございます。
―――――??あの、今誰かいらっしゃいましたか?
「いいえ?ここには私たちだけですよ?」
あら……ごめんなさい、勘違いだったみたいですね。
えっと、では読みますから目隠しを取ってくださいます?
「はい~喜んで~!」
***
ある日のある時、私の目隠しは突然外された。
それを外したのはいつかここを訪れた女性でも、最近古書の解読を頼みに来るライサンダー卿でもなく、穏やかな顔をしたウォーゼル卿だった。
「ウォーゼル卿、ごきげんよう。」
「こんにちは。今は午後1時34分です。不便を強いてしまってすみません。」
「あら、こんにちはの時間だったのですね。お気になさらないでください。見た目は変わっているかもしれませんが、不便などありませんよ。」
食べなくても眠らなくてもいい体だ。長期間拘束されたからと言って何が問題になるわけでもない。こうして拘束されていても体がしびれないところは普通の人間と違うらしく、ライサンダー卿に羨ましがられた。
彼は最近筋肉痛に悩んでいるらしい。
「それならよいのですが。
ニクス、今日俺はある任務を与えられました。あなたにまた同行していただきたい。」
「ご迷惑でありませんか?私、前回あなたに失礼なことを言ってしまいました。」
ウォーゼル卿は穏やかな顔をしていた。
青みを帯びたグレーの瞳はこの間より深みを増した気がする。いや、あれから少し時間がたっているから正確にはどうであるかわからないが。
「いいえ。気にしていません。あなたがあなたなりに気を遣ってくださったのだとわかっています。俺の罪は俺が向き合うべきものです。俺は誰に許されずとも、師父から受け継いだ道を歩んでいきたいと思っていますから役目はしっかりと果さないと。」
神父の言葉を思い出す。信じること。人の強さを信じ、ただ目的地を示してやること。女神から試練を賜った強い人間は、それを必ず乗り越えるのだという。
「ウォーゼル卿、私にはあなたを信じることしかできないのです。あなたは強い人だと理解していることくらいしかできないのだそうです。
それ以外はあなたにとって失礼に当たることなのだと教わりました。この間は失礼なことを言ってしまってごめんなさい。
私はあなたに困難を乗り越えてほしい。苦しい罪の意識からどうか解放されてほしいと思っています。それは本当です。
けれどあなたが罪を背負うと決めたのならば、どうか私がそれを信じられるくらい強くあってください。これは私からのただのわがままなので……その、」
ウォーゼル卿は穏やかな顔をほんの少しくしゃっとさせた。彼の浅黒い肌にいくつかしわが寄って、ただでさえ近い眉と目がもっと近くなる。非対称に吊り上がった横に広い口が開かれてやがて笑みを作った。
「ええ、俺は強くなります。仲間にも約束しましたがあなたにも約束しましょう。」
「……ありがとう。」
それでは行きましょう、と彼はそう言って私の体にまとわりつく拘束を外していく。たくさんの鍵を使って戒める鎖を解き、手錠を解き、そして私の手を取って床に降り立たせた。
「今回はどちらですか?」
「オレド自治州です。少し遠いですからメルカバで向かいましょう。実は従騎士がサポートにつくことになったので紹介しますよ。」
「あら、では今回は私は不要ではないのですか?」
「俺が強くなったか確かめていただかないと困ります。」
「――それもそうですね。では、修練の結果を拝見いたします。」
「ええ、よろしくお願いします。」
私はウォーゼル卿に導かれて、また始まりの地を後にした。メルカバ、というものを使うらしいけれどそれは何だろう?
転移装置か、列車か、それとも車の名前だろうか?
適切な行間がわからない
アインお姉さまに誘惑されたい