原初の火   作:sabisuke

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21 胡蝶之夢

 「黒月貿易公司の者です。」

 

 そう平淡に言った男性たちは、とても商人とは思えないほど逞しい人たちだった。商人さんは三人いたけれどその三人とも首も足も腕も太くて、私の顔くらいある分厚い掌に太い指がくっついていた。

 

 「ええと……はい、ヘイユエ、さん…あの、何か御用でしょうか?」

 

 私はこの時、彼らがなぜ私の借りた部屋を訪ねてきたのかがわからなかった。けれども宿の主人がたいそうおびえた様子で下の階から見上げてきているのが目に入って、何かただ事ではないことが起きているということを察していた。

 宿の主人は奥さんらしき人と一緒に身を寄せ合って今にも体が震えてしまいそうなのを必死にこらえていた。そしてその横には、今私の目の前に立っている商人さんたちと同じ服を着たたくましい男性たちが何人もいた。

 

 「自分たちは会費の徴収に来たものです。」

 「会費…?あの、会費って何ですか?申し訳ないのですけれど、私はこの街に来たばかりで事情に詳しくないのです。良ければご説明いただけませんか?」

 

 「ええ。もちろんです。九龍の店は全て黒月が運営する商工会に加盟しています。この宿も、あの屋台も、店を出すためには黒月の許可が必要です。

 そしてその許可を得るためには、商工会の一員として会費を黒月に納める必要があります。この宿のご主人はまだ会費を払っていらっしゃらないのでその徴収に来たのですが……

 彼らはあなたがそのお金を預かっていると言っていましてね。」

 

 心当たりがない。

 私はつい先ほどこの街についたばかりで、そんなしきたりは知らなかった。

 男性たちが立っている手すりの向こう、吹き抜け構造の一階に立ち尽くしている宿屋の夫婦は、私と目が合うと二人とも目をそらしてしまった。

 

 一体、どういうことなのだろう。

 

 「ごめんなさい。私はお金を預かっていません。心当たりがないのです。でも、ご主人がお部屋の中に置いたのかもしれません。一緒に探していただいてもいいですか?一人だと見落としがあるかもしれませんから。」

 

 何だか、うすら寒かった。

 目の前の商人たちが何を考えているのかも、どうして宿のご主人が私と目を合わせようとしないのかもわからなくて、ただちょっと怖かった。

 宿のご主人は奥さんとすごく怯えているのに、それをまるで何とも思っていないような商人さんたちも、さっきまで生活音が聞こえていたのにすっかり静まり返ってしまった隣の部屋も、言いようのない恐怖を私に与えた。

 

 何が怖いのか自分でも説明できないけれど、なんだか状況そのものが悪いような気がする。この人たちは、私が救おうと思ってきた人たちとは少し違うようだった。別に絶望もしていないみたいだったし、何なら無表情なのに少し楽しそうにすら見える。

 疲れているわけでもなく、許しを求めているわけでもなく、私のことを何とも思っていないのに、商人さんたちの内の一人が私の肩をつかんだ。

 

 「ええ。ではそうしましょう。

 ……さぁ、お部屋の中に。」

 

 私が借りた部屋は狭い。そう何人も入ったら逆に探しづらくなるだろうと思ったけれど、彼らは三人とも部屋に入ってこようとした。

 私の肩をつかんだ一人が私を部屋に入れるように押し込んだとき、三人の隙間からわずかに宿のご主人の顔が見えた。

 

 

 彼は、ほっと一息ついて安心しきった顔をしていた。

 

 (……?)

 

 彼にとって怖いことがなくなったのなら、きっとそれはよいのだろうけれど。とりあえず宿の会費とやらを探さないと。

 そう思って私は商人さんが促すままに部屋に入り、めぼしい場所を探そうとした。

 

 商人さんたちも部屋の中に入って最後の一人が扉を閉めようとしたとき、その扉に手をかけて無理やり開け放った人がいた。扉を閉めようとした商人さんは呆気に取られていたけれど、その人は商人さんに目もくれずに私の目を見て話しかけてきた。

 

 「ちょっといいかしら?」

 「え?」

 「あなた、こんなところで何やってるの?集合場所は伝えたでしょう。」

 

 そう言ってハイヒールをかつかつと鳴らし、こちらに歩み寄ってくる白いスーツ姿の女性を私は知らない。長いストレートの黒髪を揺らして、屈強な商人たちを押しのけてくる。

 

 「あの、えっと……」

 「謝罪はあとで聞くわ。ほら、荷物を持って。何をもたもたしているの?」

 

 有無を言わせない女性だ。対して語気は強くないのに逆らう気が起きないというか、反抗する気が起きないのだ。

 セルナート様とちょっと感じは違うけれどもこの人も女傑と言えるだろう。女性は一向に戸惑ってしまって動かない私を見かねたのか、左手で私の鞄を持ち、右手で私の手を取るとぽかんとする商人さんたちを置いて部屋を出ていこうとする。

 

 「あ、えっと、す、すみません!鞄は自分で持ちます!」

 「何を当然のこと言ってるのかしら?ほら、早く行くわよ。」

 

 「お、おい待て!」

 「何か?この子はウチの新入りなのだけど、この意味が分からないあなたたちではないはずよ。」

 

 私たちを引き留めようとした商人さんは、しかし黒髪の女性が一睨みすると言葉を失ったかのように黙ってしまう。その逞しい体がわなわなと震えているのを見て、なんだか気の毒にも思えたけれど、部屋の扉を開けて後ろを振り返るように様子をうかがっていた私は黒髪の女性によってその部屋から追い出されたのだった。

 

 

 黒髪の女性はとても歩くのが早くて宿の古い階段のあたりで私を追い越し、けれど私がついてきているかを時々振り返って確かめながら宿から出ていこうとする。

 彼女が宿のご主人とすれ違う時、何か言ったみたいだけれども重たい鞄を持ちながら精いっぱい彼女に追い付こうとしていた私には黒髪の女性が何を言ったのか、わからなかった。

 

 「……持つわ。あなたが私を信用してくれるなら、だけど。」

 「ど、どういうことですか?」

 「あなた分かってる?黒月貿易公司は共和国で有名な犯罪シンジケートで、この街を牛耳ってる。彼らに目を付けられたらボロ雑巾になって人生が終わること間違いなしでしょうね。」

 「そ、そうだったんですか!?」

 「彼らは会費と言ってるけど、あれは上納金の事。あらゆる場所からお金を搾り取ってるの。この街のルールだから、それに関して私は何かを言うつもりもないけど、そのごたごたにあなたみたいな子が巻き込まれたとあってはさすがに見過ごせないのよ。」

 「お手間をおかけしてしまってすみません…」

 

 本当にね、という彼女は私の手から旅行鞄を奪い去っていく。白くて柔らかい手袋に覆われた薄い手が私の冷たい手に触れた。女性にしては少し強い力で彼女は私の鞄を持ち、そのまますたすたと歩いて行こうとする。

 

 「あ……」

 「―――着いてきて。あなたが私を信じてくれるなら、さっきの宿よりは安全な場所に案内するから。」

 

 私は、とりあえず彼女についていくことにした。

 

 

 

 

 

 クーロンの街をしばらく歩き、彼女は一つの平屋に私を案内してくれた。老夫婦が営んでいる質屋の裏手にひっそりとドアがあり、彼女がそこの鍵を開けると中には東方風の内装の書斎が広がっている。

 濃いブラウンの書棚にはたくさんの本が詰まっていて、ここの部屋の持ち主の裕福さがうかがえるようだった。

 

 「ここは私のセーフハウスの一つ。しばらくあなたに貸してあげるから、クーロンに滞在するならここの部屋にしておきなさい。このエリアは比較的治安がいいし、表の老夫婦も話の分かる人だから。旅立つときには老夫婦に鍵を預けて。」

 「ありがとうございます。あの、お名前を伺ってもいいですか?私はニクスと申します。」

 「キリカよ。」

 「キリカ様……本当にありがとうございました。あの、お部屋まで紹介していただいて、いったいどうお礼をすればいいか……」

 「あなたって随分学習しない人なのね。」

 

 「え?」

 「私が黒月とは別の組織の人間だったらどうするつもりなの?これでも九龍には仕事で来てるの。私があなたを監禁して蜜を吸おうとしているとは思わないのかしら。」

 「えっと……それは……」

 

 黒い髪を少し邪魔そうに後ろに払いながら、彼女は書斎の壁にくっつくように置かれたマホガニー材の机に私の旅行鞄を置いた。

 よどみない口調でこの街の危険を私に説くキリカ様は、私に向き直り、私よりもちょっと高い場所からすっと涼しい目線を送ってくる。

 

 「私だって慈善事業をやってるわけじゃない。黒月相手に危ない橋をそう何度もわたりたくないのよ。あなたには正当な報酬を要求するわ。」

 「私は何をすればいいんでしょう?」

 

 キリカ様の仰ることも最もだった。黒月という企業はおそらくフレディ様も仰っていたクーロンを牛耳っている犯罪シンジケートなのだろう。その組織を相手に嘘をついたり、啖呵を切るという大胆な行為をなさってまで安全を確保してくださったキリカ様には、頭が上がらない。

 あのうすら寒い恐怖というのは、自分にとっては少し気味が悪かったのだ。正当な報酬でキリカ様が納得してくださるなら是非とも払うべきだろう。

 

 そして彼女は、私の全身をじっくりと見て、そしてその『報酬』を決めたようだった。

 

 「原稿よ。」

 

 

 「え?」

 

 思わず聞き返してしまう。

 私はお金を彼女に払うか、それか何か彼女のお手伝いのようなことをすることになるのではないかと思っていたのだ、

 

 「だから、原稿。あなた本を書いているんでしょう?今まで出してるのとは世界観が全く違う完全新作……それを私にくれたらそれでいいわ。」

 「そ、そんなものでいいんですか?」

 「ええ。あなたの著作権も保障するわ。出版してくれても結構よ。ただ一番最初に私に見せて、そして生原稿をくれればそれでいいの。」

 「そんなことでよろしければ、喜んで今夜からでも書かせていただきますよ。本当にありがとうございます、キリカ様。」

 

 彼女は私の言葉を聞いて満足気に頷いた後、仕事があるから、と仰って部屋から出ていこうとする。広い書斎の机から、部屋のドアまで十歩くらい。その距離をカツカツと歩んでいく彼女に、私は気になっていたことを聞くことにした。

 なぜなら、もう会えないかもしれないとそう思ってしまったからだ。今を逃すと、彼女にこれについて聞くことは叶わないのではないかと、不思議とそう思っていた。

 

 

 「そういえば、キリカ様はどうして私が物書きだとご存じだったのですか?」

 

 私のペンネームは本名ではない。それに著者近影にはいつだって適当に書いた絵や字を使っていた。性別すら公表していなかったのだ。私が書いた本は世界観が独特だということで嬉しいことに中々評判ではあるけれど、私の本の編集に関わっている人以外は私がその筆者だと知らないはずだった。

 

 そんな私の疑問に対し、彼女はあまりにも思わせぶりな回答を残した。

 

 

 「秘密を暴くのも私の仕事の一つ……だからかしらね」

 

 

 私はこの時の彼女の不敵な笑みを忘れないだろう。

 その笑顔は優しくて、甘やかで、どことなく私の記憶を擽るような笑顔だった。

 

 

 

***

 

 最近、とある質屋の裏手にある部屋にやんごとない身分の方が滞在しているという噂が立っている。俺のようなただの売人にもその人のうわさが届くほど、そのご婦人は九龍で目立っているようだった。

 

 なんでもそのご婦人は、治安のいい西街区の北側でボランティアなるものをやっているらしく、やんごとないという噂のご婦人を一目見ようと野次馬に集まったガキどもにいろんなことを教え込んでいるようだった。

 算術、読み書き、食えるものと食えないものの見分け方……人の殴り方と人間からの逃げ方しか知らないガキどもにとってはそれは決してこの九龍で生きていくために必要な事柄じゃない。そんなものができなくたって、泥水啜って雑草を食べてれば汚くっても生きてはいける。

 けれどそのご婦人は何でも子供たちが九龍の外に行っても生きられるようにいろんなことを教えてやってるんだとさ。

 

 ご苦労なことだ。

 娼婦たちは昼間っから夕方まで、何なら夜の間もガキの面倒を見てくれるってんで自分とこの子どもをそのご婦人に預けることもあったし、新しく店を開こうって若造が帳簿の付け方の教えを請いに行くこともあった。

 

 ご婦人は、なぜか黒月の奴等に目を付けられることもなくただこの街にのんびりと居座っていた。路地に座り込んで日向ぼっこだなんて言ってたのを見た時、俺はそのご婦人を女としてどうこうしてやろうなんて気持ちが失せちまった。

 善人なんざムカつくばかりだと思っていたが、それも突き抜けるとどうでもよくなっちまって、結局俺は野次馬の一人からまた東の売人へと戻った。

 

 

 せっかく少ない体力を絞ってまで殴るんだったら、殴りがいのあるやつの方がいい。

 

 

 「っげほ、ぐ、クソが……」

 「誰に向かって口利いてやがる!」

 

 そう、殴るなら、この街に昔っからいるやつの方がいい。

 しみったれた薄汚いこの街で、劣等感をぐじゅぐじゅになるまでため込んでしまったどうしようもない奴。頭が良いほどいい。賢ければ賢いほど、そいつは自分がどれほど惨めかを自覚している。

 力がなくて、やせっぽっちで、食うもんもなく、逃げたいのに街から出ていくこともできず。そして誰かに殴られ、誰かから奪うしかないようなどうしようもない子供。自分が後ろ暗いことをしているとわかっている奴ほど、殴ったときにいい顔をする。

 

 こんなはずじゃなかったなんて泣いて叫ぶ。もういない親や友を懐かしんで涙を流す。

 

 あんな人間離れした笑い方をする不気味な女よりも、こっちを殴った方がよっぽどすっきりするってことを俺は知っている。

 

 「テメー、何ニヤニヤしてんだ?あ?」

 

 そのガキはよく吐くことで知られていた。いつでも腹を空かせていて、どっかから食いモンをパチってきては路地裏で食っているガキ。食っても食っても大人たちに殴られるもんだから全部吐き出して、結局やせっぽちのままのガキ。

 昔はいいとこの出だったらしいが、九龍に来てる以上ゴミくずみたいな命であることに変わりはない。こいつは頭が良い。誰に教わらずとも、殴られることが理不尽だと知っている。

 だから気分がよかった。このガキを殴っていると、自分が頭のいいやつの上に立てたような気がして、胸がスカッとした。

 

 

 「うぜーんだよ……クソじじい……」

 「んだとテメェ!もっかい言ってみろ!」

 

 

 真っ暗な裏路地に唯一差し込む光と言えば、大通りの提灯からの明かりくらいなものだ。やせっぽっちな子供をそんな弱弱しい明りから隠すくらいは、俺の体でも十分で大通りを往く奴らはガキが何を言っても気にせず通り過ぎていく。

 というかそもそもこんなリンチは日常茶飯事なのだから、わざわざこんなことに目をやる奴なんてのはいない。

 

 俺がそのガキの薄っぺらい腹をもう一回蹴ってやると、そのガキは完全に意識を手放した。財布か金目の物を持っていないかと思ったがそのガキはポケットには何も入れていなかった。俺はただ殴って体力を無駄遣いしてしまっただけのようだった。何とはなしに舌打ちの一つも漏れるというものだ。

 

 

 夜になれば、東にはヤク中がうようよと這い出てくる。まるで増える提灯の明かりにおびき出された蛾のように売人に群がって、どっかからくすねてきた金を押し付けるようにしてほんのちょっとの薬を求め、そして手に入れた傍から吸っていく。

 夜は仕事の時間だ。こんなガキにかまう暇もないほど忙しい商売の時間。

 

 日が沈む前に俺は俺の縄張りに戻らないといけない。他の売人に奪われると厄介だからだ。ただでさえ黒月に目を付けられないようにやっているというのにその穴場を奪われちゃたまったもんじゃない。

 

 大通りに出て東へ戻ろうとすると俺は幾人ものゴミみたいな九龍の住人とすれ違う。全員が血か薬か香の匂いをさせている中で、俺はたった一人、『変なにおいの女』とすれ違った。

 まるで水のような、何の匂いもしない女。不審に思って振り返ってみるけれども、その女はすでに雑踏の中に紛れていた。

 ま、どんな女であれ、すぐに汚れていくだろう。ここはそういう街だから。淫靡でむせ返るような悪人たちの街だから。どんなガキであってもきっとすぐに染まるだろう。

 

 俺は東に向かって歩き始めた。

 空は家屋の庇に覆い隠されて見えない。だからこっちが東なんて確証はない。俺がいた場所が東。決まった場所に陣取る商人たちを決まった順番で見送れば俺は元の場所へ戻れる。

 だから俺は東へ戻っているんだろう。

 

 誰も彼も自分の居場所から動かない。動こうとしない。

 どいつもこいつもどうしようもなく停滞した街。誰も流れていくことなんてできやしない。

 

 街の全員で足を引っ張り合ってるみたいに、誰もこの沼からは抜け出せないんだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 僕は何をやっているんだろう。

 

 そう。

 九龍に流れてくる奴なんて、ろくでなしばっかりなんだって僕が一番よく知っていたはずなのに。平和ボケしてるからって、お茶を出すよなんて言われて、疑うのをやめたとでもいうのか。馬鹿だな。僕は馬鹿だ。

 

 馬鹿だから、知らない女のトランクから取り出したクッキーを食べてゲーゲー吐き戻す羽目になったんだ。

 ああくそ、痛い。とんでもなく痛い。口も、胃も、全部しびれてしまって、僕は今最高に女神を恨んでる。ずっと恨んでるけど今日が一番恨んでる。

 

 

 せっかく、大金を手にしてさ。

 ありもしない『あったかい家』ってやつに行けると思った。『帰れる』って思ったんだ。簡単にこの街から抜け出せるなんて思っちゃいなかったけれど、それでも女神さん、クッキーに毒を混ぜなくたっていいじゃないか。

 とんでもない劇物のくせに、一発で死ねないところが性質悪いよ。アンタ本当に性格が悪い。きっと黒月のボスなんかより、ずっと腹黒いだろうさ。

 

 でも、誰も僕の靴なんて触らなかったのは、よかった。

 僕の衣服の中で、一番汚いんだ。だから僕は通帳をこの中に隠した。裏路地の吐しゃ物とか、糞尿とか、よくわからないものを踏んでしまって変なにおいがする靴。

 ああ、僕の夢を守ってくれるのは、こんなに汚いボロ靴一足なんだ。考えてみればすごい惨めだな。でも、この靴だけは、何としても守っていこう。僕が帝国に――いやこの際クロスベルでもなんとかなるはずだ――行ってどうにかこの金を引き出して、もう惨めな生活をしなくても済むように。

 

 夢見心地でそんなことを思ってた。クッキーを食べちゃってとんでもなく気分が悪くなった後に吐いて蹲ってたら東にいるはずの売人に何でかリンチされちゃって、また意識を失ってたんだ。

 どうせクッキーを吐いた後に意識は失ってただろうし、殴られるかそのままかの違いだ。通帳さえ盗られなきゃどうだっていいさ。

 

 

 そんな風にぼんやり微睡んでいたら、ふと誰かの手が足にかかった気がした。冷たい手だ。

 僕の意識は急激に浮上した。冗談じゃない。これは、この通帳だけは…

 

 

 「やめろッ!これは僕のものだ!!」

 

 起き抜けとは思えないほど大きな声が出た。

 そんな僕の叫び声を聞いてびっくりした顔をしていたのは、あの日僕が殴って昏倒させた女―――すなわちこの通帳の、本来の持ち主だった。

 

 僕は焦った。この女が通帳を取り戻しに来たんだとそう思って、僕の靴はまだ左足しか脱がされていないことに気が付いた。

 僕は上質な柔らかいベッドに寝かされていて、おそらくこの女が通帳を取り戻すために自分の部屋に連れてきたのだと思うけど、まだ実物は見られてない。シラを切って逃げれば何とかなるんじゃないかと、そう思った。

 

 

 女は僕がそんなことを考えている間に驚きから落ち着いたのか、にっこり笑って

 

 「おはようございます。お茶を今淹れますから、飲んでいかれませんか?」

 

 なんて、聞き覚えのある事を言ってのけたのだった。

 

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