僕はどこかの家屋の広い部屋に寝ていた。何でか知らないけれど殴られたところにはきれいに薬が塗られ、僕の体からもシーツからも薬の匂いがする。
女が手当てをしたのだろう。
本当に、馬鹿な女だと思った。相手にするだけ時間の無駄だ。
「あ、いや……僕は用事があるから。うん。これで失礼するよ。手当、ありがとう。
でもこんなこと、ただの浮浪児にしない方がいいとおもうよ。……じゃ。」
僕がどうしてそんなことを言おうとしたのか、よくわからない。女神が大好きな善人ってやつを傷つけるためならば、僕は「黒月の奴にこういうことしたら喜ばれるよ」って言うべきだったはずだ。それでミンチにされて川に流されてしまえばいいのに。
たぶん、僕が日和ってしまうのはこの部屋にいるからだろう。下世話じゃないベッドでのんびりと寝ていてもその間手を出されることもなくて、ここが『安全な空間』だとでも思ってしまっているんだろう。
そんなのは、嘘だ。九龍にそんな場所はない。だから僕は出ていこう。
しかし、茶器を両手に持った女が左の靴を履いて出ていこうとする僕を呼び止める。
「お待ちください」
「……何?僕急いでるんだ。」
「お忘れ物ですよ。」
そう言って女は茶器を置いて、ベッドサイドにあるチェストから何かを取り出し、僕に渡してくる。
それは僕が女からくすねた一冊の通帳だった。いつの間に。いや、あの女は僕の靴を脱がせようとしたんじゃなくて、履かせようとしたのか。
……そんなことはどうでもいい。僕は女の手から通帳を奪い取って中身を確かめた。一番新しいページには盗んだ時と同じだけの金額が記されている。僕はそれをもう一度靴に仕込んだ。今度は左の中敷きの下に。
「……正気?」
僕は何を言っているんだろう。ほんとに。さっさとこの部屋を出ていけばいいのに。今更善人ぶったって何になるって言うんだろう。いや、もしかしたら女神さまが僕のことを気にかけて通帳が盗られないようにしてくれるかもしれない。
そんなわけもないのに、そんなことを思ってしまうくらいには僕は気が動転していた。
「あなたには生きる糧が必要です。それが助けになるのならば使ってください。」
そうきっぱりと言った女の顔には、薄布がかかっている。女の顔の造形を見れるくらいの薄い布だ。その薄布は灰色で、真っ黒じゃないからよく分かった。
女の頬には男に殴られた跡があった。この前はそこそこ薄い肉と青白い肌がついていたはずの頬がかなりの面積を赤黒く変色させていた。あの様子だと何か食べるにも痛むだろう。
僕は何も言えなかった。
こんなことを言ってくれる人は、この世にたった一人のはずだった。肉が薄くて、髪が長くて、いつも男に殴られてばかりいた女。行商人にはきつく当たる癖に僕にはやけに優しい女。そんな人は僕が知る限りたった一人しかいないと信じ切っていたのに、それを覆す女が僕の前に現れて、僕は何もわからなくなってしまった。
僕は、この女にこんなこと言ってほしくなかった。
今すぐに引っ叩いて、なに人のものを盗んでいるんだって叱りつけてほしかった。
そうすれば僕には大金がなくたって、もう思い出せないはずの故郷に戻れるような気がしたから。どこにあるかも誰がいたかも思い出せないような優しい場所が、取り戻せるような気がしたから。
けれど目の前の女は、金が盗られそうになっても薄く微笑んでいるだけで、僕のことを思ってこの通帳を渡してくれた。僕はこれをもうすでに靴の中に隠してしまっていて、あとはこの部屋から出て九龍から出るだけだ。
なのに、僕はちっとも動けないでいる。
一瞬だけ、僕はこの女に母親の面影を見た。
けれどやっぱり違うなんて当たり前のことを思って、たったそれだけのことで動けなくなってしまった。
「外は雨が降っていますから、それにもう夜更けで寒いでしょう。どうか、お茶を飲んでいかれてくださいな。」
すっかり俯いてしまった僕に、女はもう一度お茶の誘いをかけてきた。
この馬鹿で愚かな女からの誘いは、これでもう三回目になる。
***
彼は本当に何もしゃべらなかった。
私が彼に通帳を渡してからずっと俯いて呆然と立ち尽くすので、私は彼にどんな言葉をかけていいかもわからずに、ただ席に着くことを勧めた。
しとしと、しとしと
外は雨が降っていて、どこか春雷の気配を孕みながらくぐもった音を部屋に運んでくる。部屋はぼんやりとぬるくて、沈黙がちょっと重たく感じられた。
「お名前は?」
彼は答えない。
カップに紅茶を注ぐと彼はぬくもったカップを手に取った。
彼は疲れ切っているようだった。
薄暗い茶髪を伸ばしっぱなしにした痩せている子ども。
くたびれた上着とTシャツに傷のついたズボン。それは以前私が彼を部屋に運んだ時と全く同じ服装のようだった。(私も人のことは言えないけれど)
手当てをするときに彼の身なりは一応整えたけれども、頬の影は消えるものではない。薄い瞼の皮膚は少し腫れていて、濃い隈が目の周りを囲んでいる。榛色の瞳は、今は彼が俯いているためによく見えない。
「私はニクス。旅をしながら本を書いています。」
そう言って私は彼の前に一冊の本を置いた。最近近所の子どもたちに読み書きを教えるときに使っている児童書だ。私が数年前に出版したもので、騎士を主人公に据えた冒険譚である。彼が興味を示して、ドウか少しの間だけでもこの部屋で心と体を休めていってくれればいいと思った。
書斎の上には他にも数冊の本や原稿用紙が載っている。ここ数日、子どもたちの相手をしていない間はずっとキリカ様に差し上げる物語を書いていたからちょっと散らかってしまっている。
客人を迎えるにふさわしい部屋ではないかもしれないと思って、少し片づけるために席を立った。椅子とフローリングがこすれ合う音がする。ちょっと耳触りの悪い音を立ててしまったけれども、向かいに座っている子どもはただぼうっとカップの紅茶を眺めていた。
沈黙。
懐かしい沈黙だ。
私がその昔今にも死にそうだった子どもを拾ったときもその子はただ黙っていた。何をすればいいかわからないとか、何を言えばいいかわからないとかそういう様子でもなかったような気がする。
その時も、私は何を言えばいいかわからないでただ傍にいてやることしかできなかった。私はその子がどんな辛い思いをしてきたか聞くこともできず、察してやることもできなかった。それでその子は失望したかもしれないし、ショックを受けたかもしれないけれど何も言わないでいてくれたのだ。
それは優しさかもしれないし、ある種の無関心かもしれない。
けれど私はこういった子どもたちを救う方法が今も昔も結局わからなくて、ただこうして沈黙を共有することしかできない。
どうすることが正解だというのだろう。
励ましも、祝福の言葉も、慰めも、きっとまだ届かない。だって私は彼の名前すら知らない。
ああ、どうしよう。机の上に散らばったたかだか数十枚程度の原稿用紙を集めているのだってただの苦し紛れで、時間稼ぎなのだ。私は、どうすればいいのだろう。
ただ彼を見ていられなくて、道端に放っておくことができないで部屋にまで連れてきてしまったけれど、私は次に彼に何をしてやれるのだろうか。
彼は昔助けた子供ではない。同じことをすればきっと助けられるなんてことは思えなかった。
「あの、何か欲しいものはありますか?」
彼には通帳を渡したけれども、服とか、食べ物とかそういったものが欲しいかもしれない。何か少年が言ってくれないかな、とそんな思いで机に向けていた顔を彼の方にくるりと向け、問いかけた。
しかし彼は私の問いに答えてはくれなかった。
彼は、私が差し出した本を読んでいたのだ。
(……読める?)
彼は決してその本を眺めていたわけではない。彼は一文、一単語を目で追ってその意味を理解しようとしている。児童書であるから、そこまで難しい言葉を使ってはいないがそれでもこの街にいる彼と同年代の子どもは読むのに少し苦労していた。
合成語や、助動詞が彼らにとっては難しいのだ。彼らは物語のストーリーを面白がっていたけれど一つのシーンにおける会話やモノローグのすべてを理解していたわけではない。
そんな子どもたちとは一線を画す知能を彼は有していた。
もしかしたら彼は、初等教育を受けていたのかもしれない。
―――だとしたら、私にできることはその続きを教えてやることだろう。
私は彼の手元に続きの本を置いた。
もとより児童書というものは成長の早い子どもたちに合わせて、巻を進めるにつれ難しくなっていくようにできている。語彙の量を増やし、ストーリーに伏線を混ぜ込む。手のひらサイズの薄い本一冊にも複雑な人間関係や社会問題の要素を入れ込んで子どもたちの人格形成の一助とするためだ。
少しでも彼をこの部屋で休ませたい私にとって、彼の足を縫い留めるために物語が有効かもしれないという推測はぜひ試したいものだった。自分の書いた本を読んでほしいという文筆家特有の欲求というよりも、私は彼の安全を求める気持ちから、彼に本を差し出した。
そもそも前から思っていたのだが、この世界の本はかなり薄くて小さく、一冊当たりの字数が少ない。
そんな中私はこの世界に超大作という概念を持ち込んでしまった。この世界での流行りを知らないままに一冊のページ数は100ページを超えるような、ゆっくりと時間をかけて読み込む人生の友としての物語を書いたのだ。出版したばかりのころ、私の本は聖典かと批評されたこともあった。
けれども今では朗読を深夜のラジオドラマとして放送しないかというお声をかけていただいている。
要するに私の本は、一冊を完読するために時間がかかるのだ。児童書であっても子どもが手慰みに読むような量ではない。興味の対象が多い子どもにとっては読むことへの疲労を感じやすいだろうし物語に飽きることもあるだろう。しかしそんな大量の情報と向かい合い、活字を愛する心を養うものとして私は児童書を書いていた。
一晩の時間つぶしとして提供するには、重たいものだったかもしれない。けれど私は彼がここにずっといてくれてもいいと思っていた。この幼い痩せた子供が何も考えずにいられるのなら、ここでずっと隠れていればいいとまで思っていた。
彼はそんな私の考えを知ることもなく、まっすぐに私の物語を好きになってくれたようだった。
夜更けに私の部屋で目覚めてから夜が明けるまでの間、彼はずっと本を読みふけっていた。
***
僕は彼女に何も話すつもりがなかった。
それは女に対する失望の表れであったし、一瞬でも女を母と重ねてしまった自分への嫌悪の表れでもあった。
確かに疲れていたし、これからどうしようなんてことを考える気力もなくなっていたけれど、僕がこの部屋を出ていかなかったのは、単にこの女を困らせてやろうという意地だったと思う。
名前すら言わない僕に困った女は、本を差し出して、何の意味もないのに今更掃除なんてものをしていて、いい気味だと思った。
自分の行動に振り回されている女を見て、僕は気持ちいいと思っていたのだ。
けどそうやって女を無闇に振り回すことにも飽きて、僕はしょうがなく女が差し出した本を手に取った。その本は、僕にとっては簡単な言葉で書かれた子ども向けの本だった。
僕に字を教えてくれたのはたぶん母親だ。母親は身分のあった人だったのか、僕には九龍に流れ着く前から読み書きができていたし周りの子どもに比べて多くの言葉を知っていた。
だからカーネリアとか、賭博師ジャックとか、そういう本を転売する前に自分で読んでみたりもした。人気の本は高く売れるから、買わずに読めるなら得だと思って読んでいたのだけれど、こんな僕の考えに賛同してくれる奴なんて九龍にはどこにもいなかった。
僕は女が自分で書いたという本を読んだ。
最初は暇つぶし程度の気持ちだったけれども、思ったよりも女の本が分厚くて、話が長かったので僕は随分この本を読むのに時間を使ったようだった。
というのも、僕は気が付いたら聖典くらい分厚い本の真ん中まで読み進めていて、時計は朝の時間を指し示していたのだ。
女がちっとも何も言わないので、僕は一晩この奇妙な部屋で過ごしたようだった。向かいの椅子に座る女は、紙を手にもってものすごい速さで何かを書き込んでいた。その顔には笑顔はなくて、女の真剣な顔というものを僕はこの時初めて見た。
僕が本から顔を上げても、女はずっと書き物に集中していて、部屋に小さな丸い窓から光が差し込むだけだった。
僕は非常に唐突に、この部屋から出ていかなくてはいけないと思った。
九龍から出ていかなくてはいけないという強迫観念でもなく、女に通帳を奪われないように逃げなくてはという逃走本能でもない。僕はこの時ただこの部屋から出ないといけないと思っていた。
(随分後のことだが、これは僕にとっての巣立ちなのだと言ったやつがいる。)
読みかけの本を閉じて、僕と女の間にある机に置いた僕を、女は引き留めなかった。ただ紙に落としていた目線をこっちにやって、にっこりとほほ笑んだ。
僕はその笑顔を見てももう母親のことを思い出すことがなく、ちょっと安心した。この馬鹿な女を母親みたいだなんて、思いたくなかったからだ。
「……じゃ。」
僕は乾いた喉からようやっと音節をひねり出して、生ぬるい部屋の扉を開けて明け方の九龍に歩き出した。
九龍には朝日すら届かない。密集した建築物が光をさえぎってしまうからだ。九龍の夜明けは寒いだけで、やけに数が多い提灯の明かりを頼りに路地を歩く。
夜明けは一番人通りが少ない。昼に活動してるやつはまだ起きてこないし、夜に活動してるやつは疲れ切っている。だから夜明けは一番平和な時間帯だ。誰かにぶつかってカツアゲされることも少ないことも相俟って、僕はこの時非常に気楽に歩いていた。
ちょっと油断していたのかもしれない。
それかこの非常にムカつく奴が気配を薄めていただけなのかもしれない。
僕は、路地を歩いていると一人の男とぶつかった。
やけに背が高くて、九龍の住人にしては体のしっかりした奴で、僕は黒月の奴にぶつかってしまったかと思って背筋に冷や汗をかいたものだ。
しかしそいつは僕に金銭を要求することもなく、やさしい声で言った。
「すまない。人を探しているのだが、この絵の女性に心当たりはないだろうか?」
九龍の男たちに比べると随分柔らかい物腰だったので思わず驚いて見上げると、そこにはこげ茶の肌ののっぽな男が立っていた。
僕はあとで知ったことなのだが、その男は僕に話を聞くためにわざとぶつかったのだという。僕が以降長い付き合いになるこいつにそう打ち明けられた時、ふざけんな当たり屋みたいなマネしてんじゃねーよこの地黒!と声を荒立ててしまったのは無理もないと思っている。
***
その男の子は、部屋を出て行ってからずいぶん早くに戻ってきた。もしかして忘れ物でもしたのだろうかとも思ったのだが、男の子は意外な人物を引き連れてやってきた。(というよりもその方に男の子がこの部屋に連れてこられたといったほうがいいかもしれない。)
ノック音を聞いて扉を開けた私を待っていたのは、この間までお世話になっていた人物だった。
「あら?ウォーゼル卿?」
ウォーゼル卿は片手を挙げて軽い挨拶をすると、逆の手でさっきの男の子の首を引っ張って部屋に入ってきたのだった。
「いてーんだよ、クソ!放せ!」
「人の荷物を掏ろうとしたのはそちらだろう。随分悪びれないんだな…」
「この街ではそれが当たり前なんだよ!」
先ほどの沈黙は何かと思うくらいに大きな声で抗議をする少年は、どうやらウォーゼル卿から何かを盗もうとして彼に見とがめられたようだった。
確かに武人である彼にとって、痩せて弱り切った彼の挙動を見抜くことくらいは訳ないことだろう。
「この街に法がなくても、奪われた人の気持ちを考えたことはあるだろうか?君が何かを盗んでしまったら盗まれた人は困ってしまう。」
一つ一つ道理を説くウォーゼル卿は別に怒っている様子ではない。ただ彼の未来を思って説教をしているようだった。
確かに倫理に反した行いばかりをしていては少年の未来に暗い影が落ちてしまう。誰か正しさを説く存在がいなくてはならない。けれど私は首根っこをつかまれてウォーゼル卿から精いっぱい顔をそらそうとする幼い子どもがちょっとかわいそうに思えてきてしまって、せめてゆっくりと話しができればと思いウォーゼル卿に話しかけたのだった。
「ウォーゼル卿、今日はどうなさったのですか?どうして九龍にいらっしゃったのです?今お茶を淹れますから、聞かせていただけませんか?」
ウォーゼル卿はにっこりと笑うと少年の腕を引っ張って無理やり席につかせ、彼自身は少年の隣に座った。
ちいさなプラスチックのカップを受け取り、ゆっくりとのどを潤していく彼に対して、少年は少し怯えていたようだった。
そしてウォーゼル卿ははっきりとした声で語りだした。
私はこの朝の少年と、ウォーゼル卿との会話を忘れることはないだろう。
私は誰かを救うために何ができるか、その答えを導くための手掛かりを私はこの朝に得たのだ。
「本当に、ご無事で何よりです。総長がメルカバの甲板からあなたを
「セルナート様はきっと私を外の世界にお連れ下さったのです。この街でも楽しく過ごさせていただいていますから、あなたがお気になさることではありません。良いご縁が私を導いてくださいました。」
ウォーゼル卿は私のことを心配して帝国での任務を終えた後にクーロンにまで様子を見に来てくださったのだという。私は七耀教会では能力を失った古代遺物とみなされ、然るべき手順で廃棄されたらしかった。
私が異能を使って教会の監視下で何かをしない限りは不干渉を貫くようにする、というのが守護騎士の皆さまの見解であるらしい。彼らは私が生きていることを知っているけれど、お偉方にも口裏を合わせるとのことだった。ありがたい限りだ。
「ねぇ、僕もう帰っていい?」
ウォーゼル卿がさらに状況を説明しようとしてくださったとき、少年が退屈そうに声を上げた。無理もないだろう、古代遺物など彼には縁遠いものだったであろうからきっとこの類の話はつまらないに違いない。
ウォーゼル卿はこの部屋までの案内を彼に頼んだとのことだったけれど、確かに彼の仕事はもう終わったのだし、彼にもやりたいことがあるだろう。そう思って彼を見送ろうとする私を引き留めたのは、ウォーゼル卿の一言だった。
「君が靴に隠しているものを彼女に返したらな。」
「お前…なんでそれ知ってるんだよ!」
「やはりか…」
「あっ」
椅子からすでに立ち上がっていた彼は扉の方に駆けようとするけれどもウォーゼル卿の手足は長い。ただの神父さんとは思えないような速さで彼を捕まえると、もう一度彼を椅子に投げつけるように座らせた。
「まったく……ニクス、まさか気付いていたんですか?」
「この女が僕にくれたんだよ!盗んでないって!」
「嘘をつくものじゃないぞ。―――嘘ですよね?」
ウォーゼル卿が疑わし気な目で見つめてくる。勿論少年のいっていることは本当だ。
「本当の事ですよ。彼には生きていくためにお金が必要でしょう。私にとっては持て余しているものですし、人を助けようと思って貯めていたものですから。」
「ほら!」
「……」
ウォーゼル卿は言葉を失ったようだった。きっと彼は私が生活できなくなるんじゃないかと心配してくださっているのかもしれないが、私は普通の人間とは少し違う。食事は娯楽でしかないし、病気にもめったにかからない。お金を他の人ほど使わずに生活ができるのだ。
私が本を書いているのはちょっとした道楽でもあったけれど、元々どこかへ移動するための交通費と誰かに施しをするためのお金を稼ぐためだから、少年のような子供を助けられるのならばそう使うのが正しいだろう。
ウォーゼル卿にそう説明したのだけれども、彼は納得してくれなかった。
「―――だからと言ってあなたの全財産をこの少年に譲渡しなくてもいいでしょう!これだけの財があればもっと多くの人にパンや薬を分け与えられます。貴方の気持ちは称賛されるべきものですが、求めるままに与えることが正しいわけではないんです。」
「それはそうなのかもしれませんが…」
なんせ私にはわからないのだ。人が一人で生きていくためにどれだけのお金が必要で、誰が何を求めているのか。人に聞いてみるとその人によって言うことが違うから、その人が求めるままに与えることしかできない。
「うるさいなぁ。その人がいいって言ってるからいいじゃん。これは僕の。」
「君はこのお金を稼ぐために彼女がどれだけの本を書いたのかわかっているのか?」
「知らないよそんなの。どうでもいいし、僕は育ちの悪い馬鹿だから。神父さんも早く教会に帰ったら?女神さまが寂しがってるよ。」
少年が自虐的に言うのでそんなことはないと否定しようとしたけれどもそんな口をはさむ暇もないくらいの剣呑さで少年とウォーゼル卿はにらみ合っていた。どうやら彼らは互いのことを何も知らないのにどうやらお互いを良く思っていないようで、この部屋の空気は夜明けのころに比べてちょっと険悪であった。
「そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていなかったように思うのです。どうか教えていただけませんか?」
茶髪の少年は私の問いに対して首を振ってため息をつくことで返し、何も答えたくないようだったけれど、ウォーゼル卿の目線を感じて渋々といった感じで答えた。
「……ジェイだよ。僕はジェイ。満足した?」
「ええ、とても。あなたの名前を知れて私は嬉しいですよ。」
「あっそ」
「ジェイ、おかわりはいかが?」
「……」
「俺はいただこう。」
ジェイと、ウォーゼル卿と、私。
少し広い東方風の書斎に、三人でちょっと剣呑な雰囲気のまま、朝のお茶会は開かれたのだった。
ここからニクスのてんやわんや子育て物語です(嘘です)